ステファン・ヨハンソン

スウェーデン人の元F1ドライバーでレーシングドライバー

ステファン・ニルス・エドウィン・ヨハンソンStefan Nils Edwin Johansson, 1956年9月8日 - )は、スウェーデン人の元F1ドライバーでレーシングドライバー1997年ル・マン24時間レースの優勝者。

ステファン・ヨハンソン
ステファン・ヨハンソン (2011年)
基本情報
フルネーム ステファン・ニルス・エドウィン・ヨハンソン
国籍  スウェーデン
出身地 同・ベクショー
生年月日 (1956-09-08) 1956年9月8日(68歳)
F1での経歴
活動時期 1980,1983-1991
所属チーム '80 シャドウ
'83 スピリット
'84,'85 ティレル
'84 トールマン
'85-'86 フェラーリ
'87 マクラーレン
'88 リジェ
'89-'90 オニクス
'91 AGS
'91 フットワーク (アロウズ)
出走回数 103 (79スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 12
通算獲得ポイント 88
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1980年アルゼンチンGP
最終戦 1991年イギリスGP
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プロフィール

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スウェーデンからロンドンへ

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父もサルーンカーレースなどに出場するモータースポーツ愛好家で、「リーフ(葉っぱ)」という愛称を持っていた父とカート場でよく一緒にいたことから「リトル・リーフ」とのニックネームを名付けられた。11歳から本格的にレーシングカート開始、ケケ・ロズベルグとはこの時期からの知り合いである。なお4歳年下の妹がいるが、その妹もカートレーサーで地元の女性部門チャンピオンを取っている。地元の工業高校に学び、卒業後に空調機器の設計部門を持つ会社に就職し、レース資金を貯めていた[1]

1975年からフォーミュラ・フォードで四輪レース開始、1976年からF3に乗り始め、1977年に初の国際格式レースへの参加となったモナコグランプリ前座のF3で4位の結果を残す。

1978年1979年イギリス・フォーミュラ3選手権へ参戦するが、資金面では夕食をチョコレートで我慢してレース用のガソリンを買い、サーキットからサーキットへと移動する車中で寝袋に入って寝泊まりというような非常に苦しい時期を過ごす[1]

しかし1979年途中から、イギリスF3で表彰台に立てるようになり初優勝も記録、マールボロからのパーソナルスポンサードを受け始めるなど状況が好転し始める。マールボロとは、所属チーム内のスポンサー事情による中断はあれど1990年代以降も続く良好な関係となった。三つの葉が重なって描かれたヘルメットのデザインは愛称の「リトル・リーフ」に由来するものである。

F3チャンピオン獲得とF1デビュー

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1980年春、突如F1シャドウチームから声が掛かり[注釈 1]、開幕から2戦(アルゼンチンブラジル)にエントリーしたが、シャドウF1活動末期の全くポテンシャルの無い状態で、この時は何れも予選不通過に終わる。後年のインタビューで「この時シャドウからのオファーを受けたのは失敗だった。F1マシンも全く未経験で、さらに悪いことにチームメイトのデビット・ケネディに予選タイムで負けてしまったことでこれ以後僕へのオファーを躊躇したというチームマネージャーも1人や2人では無かったと聞いている。事前の準備が皆無だったのにF1と言うだけで飛びついてしまった。」と述べている[1]

この年本来の参戦カテゴリーはイギリスF3であり、そこでは6勝を挙げてチャンピオンを獲得。所属チームは後にF1マクラーレンチームを運営することになる、ロン・デニス率いる「プロジェクト4」であった。同年のイギリスF3はランキング9位にナイジェル・マンセル、同10位にエディ・ジョーダンも参戦していた。

なお、マカオグランプリのF3レースには1984年に初参戦し2位を獲得している。さらにF1参戦後の1988年にも出場し8位になった。なおマカオではF3だけでなくツーリングカーによるギアレース、2013年にはマカオグランプリ60周年記念のマスターズレースにも出場した。

ホンダとの交錯

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1981年からヨーロッパF2選手権へステップアップ、トールマンチームから参戦し2勝を挙げ、ランキング4位に入る。翌1982年は、ホンダの出資により立ち上げられた新チームであるマールボロ・スピリット・レーシングに移籍。シーズンを通し決勝での安定感はチームメイトのティエリー・ブーツェンに分があったが、予選ではヨハンソンがシーズン最多となる13戦中5回のポールポジションを獲得し、リタイヤも多いがハマれば優勝するドライバーとの評価を得る[2]。全日本F2最終戦のJAFグランプリ鈴鹿にはブーツェンとともに参戦し、ホンダのお膝元である鈴鹿でコースレコード(1分48秒100)でポールポジションを奪取。それまでのレコード[注釈 2]を2秒以上縮めたタイムに日本の関係者は衝撃を受けた[3]。チームメイトのブーツェンとは常に比較対象とされ、翌年ホンダエンジンと共にスピリットがF1へとデビューする際、事前テストは2人で行われていたが、レースには1カー体制でのエントリー申請だったため、正ドライバーにどちらが選ばれるのかが注目された。結局ヨハンソンが選ばれブーツェンは違う形でF1へたどり着くことになる。後々までこの2人はライバルと呼ばれることが多かった[4]

 
ヨハンソンがドライブしたスピリット・201C

1983年ホンダがスピリットと共に第2期F1活動を開始。チームと共にヨハンソンもF1の決勝レースへ正式記録上のデビューを果たすが、ホンダにとってスピリットは実戦テスト担当の役割であり[5]、勝つ為のチームとしてホンダが同年最終戦からウィリアムズと組むようになると、スピリットはエンジンを失い、ヨハンソンもシートを失った。この時点でヨハンソンは初期から開発に携わったホンダV6ターボのハイパワーを一番知っている人物であり、翌1984年のウィリアムズ・ホンダのNo.2シート獲得を望んでいたが[1]それはジャック・ラフィットの物となった。

F1シートは確保できなかったが1984年は多忙で、3月にIMSAのセブリング12時間レースでポルシェ・935をドライブし優勝を収める。そして日本からオファーがあり、ヨコハマタイヤADVANチーム(運営はノバエンジニアリング森脇基恭チーフメカとコンビを組む)と契約、主戦場を日本へと移し当時日本のトップカテゴリーであった全日本F2選手権にフルエントリー、またもホンダエンジン搭載マシンをドライブする事になり、中嶋悟星野一義高橋国光と戦った。後に1987年からF1で戦うことになる中嶋とは最終戦までチャンピオン争いを展開し、ランキング2位(3勝)となった。

再びF1へ

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その一方、F1の中盤戦に差し掛かる頃に、正ドライバーだったマーティン・ブランドルが骨折し代役を探していたケン・ティレルからオファーが届き、日本でF2に参戦しつつティレルからF1にも参戦、更にはポルシェ・956を駆りグループC世界耐久選手権(WEC)にも参戦しており、ヨーロッパと日本を度々往復する多忙な身となる。

しかしティレルが「水タンク事件」(ティレル#水タンク事件の頁を参照)の余波でこの年のシーズン全体からの失格・出場停止処分となり、またもやF1シートを失うも、イタリアGPからはジョニー・チェコットの骨折で代役が必要になった(イタリアGPのみ契約トラブルで出場停止になったアイルトン・セナの代役)トールマンのシートを獲得、いきなり4位入賞を果たし、トールマンチームとは翌1985年から2年間のNo.1ドライバー契約も交わすこととなった。

低迷期のフェラーリへ

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フェラーリ時代のヨハンソン(1985年イギリスGP)

こうして1985年シーズンを迎え、新車TG185の発表会にも出席していたが、開幕直前になってもトールマンチームがどのタイヤメーカーとも契約出来ない問題が発生し、チーム自体が参戦を一時断念。またもシートを失いかけたところ、ティレルが契約していたステファン・ベロフとの間で契約上の問題が発生したため[6]、前年に続きケン・ティレルがトールマンから出走する予定が流れていたヨハンソンに急遽オファー。開幕戦はマーティン・ブランドルと共にティレル・フォードで参戦し7位となった。

開幕戦終了後、フェラーリが突如ルネ・アルヌーを解雇した[注釈 3]。すると、ヨハンソンはイタリアのフェラーリ本拠地のマラネッロに呼ばれエンツォ・フェラーリと直々に話をする事になった。「君はファイターか?」と総帥から質問をされ、それに「イエス」と答えると、次戦から名門フェラーリへと加入することが決定したという。エンツォ・フェラーリは前年の最終戦の序盤に、トールマンに乗るヨハンソンがチャンピオン争い中のニキ・ラウダを数周にわたって押さえる走りを見せたことと、1983年ヨーロッパグランプリでスピリット・ホンダのヨハンソンがフェラーリのアルヌーと、既にエンツォのお気に入りだったティレルのミケーレ・アルボレートの2人を数周押さえたことがあって以来、動向を注視していたのだという[7]。また、交渉マネージメントを依頼していたケケ・ロズベルグからのプッシュもあった[注釈 4]。この移籍に際して複数年契約を結んでいたトールマンのチーフだったアレックス・ホークリッジは、違約金などフェラーリに請求することも無く栄転を喜んで契約解除に応じた。

同年のフェラーリは完全新設計のマシンである156/85が夏までは好調で、ヨハンソンは2位表彰台を2回獲得し、特にフェラーリでの2レース目だったサンマリノGPでは終盤トップに浮上。イモラの観客席を埋めていたティフォージ達を熱狂させ「"イル スヴェデーゼ ボランテ"(カッ飛びスウェーデン野郎)」とのチャントが場内に響いたが、残り2周で燃料不足となり勝利を逃した。このトップ走行時は「移籍後いきなり(フェラーリの地元で)勝てるかも」と自身でも思ったという[8]カナダGPではチームメイトでイタリア人であるミケーレ・アルボレートがランキングリーダーであり、完全No.1扱いであった。レース終盤1位走行のアルボレートの真後ろに迫り、ペースも残りの燃料状況もヨハンソンの方が良好だったが、ピットボードにて「STEF SLOW」というチームオーダーサインが出され、1-2フィニッシュを優先しチームプレーを守ったヨハンソンは再び目前の勝利を逃した。シーズン後半はエンツォの指示によるターボシステムの変更により156/85の戦闘力が低下しフェラーリは大失速した[9]。このためアルボレートと共に優勝はおろか表彰台に立つことも叶わなくなったが、フェラーリ初年度をランキング7位で終えた。

1986年F186の空力バランスの悪さとエンジンパワーの非力さに悩まされ[注釈 5]ウィリアムズ・ホンダやマクラーレン・TAGポルシェが展開する優勝争いにはチームの2人ともに加わることができず、ベルギーGPでは一時トップを走行したが、決勝最高位は3位であった。初優勝が叶わなかったばかりか、チーム自体も1980年以来の年間0勝に終わった。ヨハンソンは終盤戦コンスタントにポイントを稼ぎドライバーズ・ランキング5位とキャリアベストを更新したが、チームはシーズン終盤にベネトンでF1初優勝を挙げ台頭したゲルハルト・ベルガーへ正式オファーを出すことを決定しており[10]、ヨハンソンはチームを去ることになった。

2年間名門に在籍したが、戦闘力不足に苦しむチームの低迷期にあたり勝ちに恵まれず、2年間で2回の2位を含む6回の表彰台と言う結果に終わった。またエンツォ・フェラーリが女性をピットに入れるのを好まなかったため、それまではレースに同行していたフィアンセをサーキットに連れて来なくなった[11]

プロストのNo.2

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マクラーレンMP4/3

1987年にはマクラーレンチームへ移籍、アラン・プロストのNo.2として1年間在籍。開幕戦ブラジルGPで3位、第3戦ベルギーでは優勝したプロストに次ぐ2位でフィニッシュし1-2フィニッシュと幸先の良いシーズンスタートを切る。しかしこの年はホンダエンジンを搭載するウィリアムズとロータス、フェラーリが高い戦闘力を持っていた上に、チームメイトのプロストに予選・決勝とも遅れを取ったが、2位表彰台を2回獲得するなどトータル30ポイントでランキング6位(プロストは3勝、46ポイント、ランキング4位)を獲得した。また、第10戦オーストリアGPの予選日、山間部にあるエステルライヒリンクのコース上に、森の中から突如野生のシカが入って来たため、240km/hで走行していたヨハンソンは避けきれず左フロント部から衝突、反動でコース脇にはじき出されマシンが大破するクラッシュが発生しトピックとして各国に報道された[12]。幸いMP4/3コクピット脇のカーボンモノコックが割れた際に衝撃を吸収したため、負傷は首・肩の打撲と肋骨の骨折で収まったが、そのレースキャリアでもっと大きいクラッシュとなった。

プロストとは非常に仲良くなり、35年以上経た2020年代でも互いのSNS上で交流するほどであるが[注釈 6]、チームとして苦戦の年で、翌年へ向けチームは強力なホンダエンジンを獲得[13]、そのホンダからのプッシュもあり翌年のシートはアイルトン・セナに奪われてしまった。セナがマクラーレンに来る話が表面化してからは、ヨハンソンがウィリアムズへ移籍するとの報道もあったが、実際にウィリアムズのシートを射止めたのはリカルド・パトレーゼであった。なお、ロン・デニスはヨハンソンの能力自体はF3時代からの付き合いでもあり認めていた[注釈 7]

ヨハンソンは、チームメイトとなった事でプロストのドライバーとしての能力に非常に感銘を受け、雑誌『Racing On』のインタビューにて「プロストは凄いよ、どの部分がどう凄いのか聞かれても困る。全部凄いんだから。」と答えており[8]、1993年のプロスト引退時にも「マシンをセッティングする時、エンジニアはアランの言っていることを聞いてその通りにセットするだけでいいんだ。そしてすべて彼の言ったとおりのラップタイムになる。その光景はそばで見ていてショックを受けたし、とても学ぶことが多かった。僕のあとで加入したセナも同じようにアランから学んだだろうと確信している」と証言している[14]。それまでは「レーサーという職業である以上、僕の最終的な仕事はワールド・チャンピオンを取ることだろうね(1984年)[1]」「今年はグランプリをいくつか獲りたいと思っている(1986年)[15]」など強気の発言も多かったが、F2時代から得意としていたリスクを冒してまでの猛烈な予選タイムアタックは以後影を潜めた。

リジェでの苦闘

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1988年はフランスのリジェに移籍。チームメイトは皮肉にもかつてフェラーリのシートを「奪う」形になったアルヌーであったが、リジェでの二人の関係は悪いものではなく情報の共有もされた。チームはジタンたばこと国営くじのスポンサーからの潤沢な予算を持つ上に、ノンターボエンジンとしてはそれなりの性能を持つジャッドエンジンを搭載するものの、ミッシェル・テツがデザインしたJS31は、V8エンジンの前後をはさむように燃料タンクを2分割配置するという特殊な燃料タンクの位置からバランスを決定的に欠いており、チームボスであるギ・リジェがテツに対し「こんなクソ車つくりやがって」と公に非難する出来であった[16]。シーズン途中で数度の大幅改修が施されたものの、最終戦までJS31に戦闘力は全く無く、「元フェラーリコンビ」2人共にノーポイントに終わったばかりか、しばしば予選落ちを喫するなど精彩を欠いた。

この年を境にヨハンソンはF1では十分な体制のチーム・マシンを得る事は無くなり、F1関係者からも「F1優勝経験が無い割にギャラが高い」と言う意見もあるなど[17]「下り坂」を転げていくこととなる。

下位チームからのエントリー

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1989年は、F3000からF1へステップアップしてきた新規参入チーム、オニクスへ移籍。アラン・ジェンキンスがデザインしたORE-1はDFRエンジンながらシャシー素性は良く、第7戦フランスGPで決勝5位に食い込みチームのF1初ポイントを獲得。第13戦ポルトガルGPでは予備予選組としては驚異的な3位表彰台を獲得し、これがF1最後の表彰台となった。この年は予備予選さえ通過できれば予選・決勝とも中堅としてまずまずの速さを持ったチームだったが、その予備予選を通過するのが狭き門であり、たびたび予選不通過があった。

1990年、2月に第一子が誕生しオニクスのNo.1として期するものがあったが[18]、前年のメインスポンサーはポルシェエンジン獲得に失敗したことでスポンサーから撤退してしまい、予算を失う。チームオーナーがモンテヴェルディを代表とするスイス人グループに変わり[19]、開発予算がないためにマシンの相対的性能が落ちたこともあり開幕2戦で予選落ちを喫するなど、ORE1は前年時折り見せた速さを失っていた。チームはスイス人で前年ユーロブルンで走っており、さらにスポンサーを持ちこむことのできるグレガー・フォイテクをF1に乗せるためにヨハンソンとの契約を解除、シートを失う[20]

 
フットワークFA12

1991年には全日本F3000選手権に参戦する方向で内定していたが、開幕直前になってフランスの小規模チームであるAGSのシートを得る[注釈 8]が、JH25の戦闘力も低く開幕2レース予選落ちでシートを失い、第5戦カナダGPからアレックス・カフィ負傷の代役としてアロウズ(フットワーク)のシートを獲得。5年ぶりにアルボレートとコンビを組んだが、FA12はシーズン中にエンジンがポルシェV12からコスワースV8に変更されるなど重量バランスが欠如していたこともあり4戦中3戦で予選不通過となり、イギリスGPでの予選不通過を最後にカフィが戦列復帰するとヨハンソンの代役参戦は終了した。その後、ベルトラン・ガショー解雇で空いたジョーダンの候補に名前が挙がるも、シートはテストを受けた新人ミハエル・シューマッハのものとなり、これ以後F1でのシートを得ることは無く、1992年からはアメリカ・CARTシリーズへと活動の舞台を移した。

F3からF2時代は一発の速さが魅力だがレース振りの荒いドライバーと評され、モナコF3では主催者から厳重注意を受けたこともあったが、F1にステップアップ後は逆にレースでの安定感はあるものの、予選で一発の速さに欠ける場面が見受けられるようになった。エンツォ・フェラーリもこの予選順位が悪い点が不満だったと述べ、ヨハンソンに替えてゲルハルト・ベルガーを獲得する一因になった[21]。また人柄が気さくな好漢である事からパドックの人気者ではあったが、その反面、勝利を追求するエゴイスティックな部分が無かったこと、そしていずれのチームも低迷期に当たったことが災いし、惜しいところで優勝を逃す事数回、結局優勝を経験できずF1では大成できなかった。

F1以後

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ヨースト・ポルシェWSC95

F1以後は、1992年途中からアメリカのインディ/CARTシリーズにベッテンハウゼン・モータースポーツより参戦。デビュレースで3位表彰台に立つ[22]などしてルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。1993年にインディ500に出走したことにより、ヨハンソンはモナコグランプリル・マン24時間レース・インディ500のいわゆる『世界3大レース』への出走を果たした。CARTには約5年参戦し、1996年を最後にフォーミュラカーから引退した。

1997年にはミケーレ・アルボレート、トム・クリステンセンと共にヨースト・ポルシェをドライブしル・マン24時間耐久レースで優勝するなど、耐久レースの世界で活躍した。なお、このル・マン24時間には1983年以後の大半の年に参戦(フェラーリ、マクラーレンと契約時はF1以外のレースは契約上不可)、ポルシェやアウディ、1990年と1991年にはマツダスピードからも参戦、1992年にはトヨタ・92C-Vを駆り上位完走している。

絵画やデザインへの関心が高く、1992年に自らデザインも担当する時計ブランド「H III」を立ち上げた。当時本人が「最初に僕の時計を買ってくれたお客さんはマリオ・アンドレッティなんだよ!」と喜んで語っていたエピソードがある[23]

1990年代後半からアメリカ・インディアナポリスを拠点に自らレーシングチームを組織し、インディ・ライツ選手権で若手にシートを与えて育成を始め、後に6度チャンピオンを獲得するスコット・ディクソンを見出し、フェリックス・ローゼンクビストのマネージメントも務めている[24]。また、自らのドライブでALMSやルマン24時間レースに、かつてF1に同時期参戦し親交のあったジョニー・ハーバートJ.J.レートをパートナーに参戦するなど50代になって以後もレースへの参戦を続けた。

現在

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2005年より開催されていた元F1ドライバーが参戦するグランプリマスターズに参戦した他、様々なカテゴリーのレースにも参戦している。現在は高級時計ブランド「ステファン・ヨハンソン・ベクショー」を経営する。

2013年8月4日、スーパーフォーミュラ第4戦もてぎに来場し、エンジン始動コールと優勝者への「ステファン・ヨハンソン賞」のプレゼンターを務めた。2014年は久々にWECに参戦することが発表された。

日本との関係

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日本でのレースにも多数参戦経験があり、全日本F2には1981年より毎年スポット参戦し、1984年はフルエントリー(前述)、その他にも富士インターTECWEC-JAPANなど日本で行われた国際レースの常連であり、日本人F1ドライバーの中嶋悟が誕生するまでの数年、ヨハンソンは日本のレースとF1との距離をはかる物差し的な存在として日本のレースファンから注目されていた。1985年のオートテクニック誌にはコラム(日記)が連載されていた。また、F1のシートを失っていた1988年と1990年のオフには全日本F3000からの誘いが来たこともあった。

F1時代の1988年から1993年まで、ヨコハマタイヤのイメージキャラクターとして雑誌広告やテレビCMに出演した。ADVANの特集誌が発売された際にもインタビューに応じ「ADVANカラーのマシンに乗るのはとても名誉なことだった」と述べており[25]、ADVANタイヤの開発をしていた高橋健二(2005年死去)への信頼も語っている。

その他1988年にはトヨタと日本国内のグループCカー(JSPC)でのレース契約を結び、アパレルブランド「taka-Q」カラーのマシンをドライブした。「taka-Q」は1984年5月からヨハンソンをパーソナルスポンサーとしても支援した。

トヨタとの契約は日本国内で開催されるレースに関してのみで、ヨーロッパ開催のグループCカーレース(WSPC)では同年、1988年の終盤戦にザウバーメルセデスC9を駆り参戦、第9戦のスパ・フランコルシャンではマウロ・バルディとのコンビで優勝している。さらにF1引退後も上記の様に度々日本を訪れている。

エピソード

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  • 今宮純著の「F1大百科」によると、オニクス移籍時、ヨハンソン自ら日本のダンパーメーカーに仕事を依頼したと言うエピソードがあるという。結局、実現はしなかった。
  • F1ドライバーとしては珍しくタバコ好き。当時は他にアレッサンドロ・ナニーニネルソン・ピケ、ケケ・ロズベルグが喫煙者として知られていた。日本で参戦していた1984年にはオートスポーツ誌の企画で星野一義との対談があり、互いにスモーカー同士であり吸いながら談笑している様子が掲載されたこともあったが、その銘柄は星野が「ラーク」、ヨハンソンが「マールボロ」であった。
  • 1986年スペイングランプリではヘルメットが行方不明となり、ナイジェル・マンセルのスペアのヘルメットを貸りてレースに出た。また急遽復帰が決まった1991年カナダグランプリでは初日に自身のヘルメット到着が間に合わず、同じSHOEIユーザーだったジョニー・ハーバートの物を貸り、トレードマークの葉っぱを手書きステッカーでサイド部に貼付けて予選を走った[26]
  • 風貌がアーノルド・シュワルツェネッガーに似ているとされ、日本人女性のファンも多かった。1988年にはファッション誌「POPEYE」にモデルとして起用され表紙モデルも担当した。
  • 1987年には、「スウェーデンの交通遺児に3億円寄付した」と報じられる。その当時はモナコのプール付きの豪邸に住み、愛車はベンツとフェラーリであった。この家では1991年に自身が出演するヨコハマタイヤのCM撮影も行われた。引退後はロサンゼルス郊外にアトリエ兼住居を構えて拠点としている。
  • フェラーリとマクラーレンに乗った3年で勝てなかったことで、Sports Graphic NumberのF1特集号においては「ミスター・ハードラック」「不運の男」と表現されたり、レース専門誌Racing Onでの取材時も「よく、運が無いと言われますね」との質問も受けていたが、ヨハンソン自身は「確かに言われるけど、フェラーリとマクラーレンに乗れるなんてそんなに無いでしょ?(その当時ではまだプロスト、マンセル、ベルガーとも両方への在籍歴は無かった)、だから充分に運はあるんじゃないかな」と述べている[8]
    • 同インタビューにて、F1で勝てると思ったレースとして1985年のサンマリノGPとカナダGP(前述)、加えて1987年サンマリノグランプリを挙げている。このレースでは序盤にフロントウイング交換のためピットインを強いられたが、MP4/3のセッティングが決まっており「すごく気分良く走れたいいレースだった。」と述懐している[8]
  • 名前を短縮すると、女優のスカーレット・ヨハンソンと同じく「S・ヨハンソン」と表記されることが多い。その為に「Yahoo!ニュース」のコメント欄などで度々ネタにされている。
  • アーティストのキース・ヘリング(1990年死去)からヨハンソン自身をモチーフとした絵画をプレゼントされたことがあり、この画を非常に大切にしている[27]
  • 年齢は3つ違うが、80年代のレース活動期が重なっていたアイルトン・セナとは1984年の世界耐久選手権(NEWMAN ポルシェ・956)でチームメイトであったり、F1トールマンでもチームメイトとなった。ヨハンソンはセナの死去後、ロサンゼルスのアトリエに自身の現役時のヘルメットと並べてセナのヘルメットを並べて飾っており、例年5月1日の命日近くには若き日に一緒に撮ったスナップ写真と共に哀悼の意を表している[28]

カーナンバー(F1)

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  • 17 (1980年第1.2戦)
  • 40 (1983年第9〜14戦)
  • 3 (1984年第10〜13戦)
  • 19 (1984年第14戦)
  • 20 (1984年第15.16戦)
  • 4 (1985年第1戦)
  • 28 (1985年第2戦〜1986年)
  • 2 (1987年)
  • 26 (1988年)
  • 36 (1989年)
  • 35 (1990年第1.2戦)
  • 18 (1991年第1.2戦)
  • 10 (1991年第5〜8戦)

レース戦績

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ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 Pos. Pts
1976年 Hans Wangstre Racing GRD・375 トヨタ・2T-G NÜR
ZAN MAN
11
AVU
PER MNZ CET NC 0
Kenitex GRD・375 KAS
12
KNU
VLL
1977年 Stefan Johansson Modus M1 LEC
8
NÜR
24
ZAN
ZOL
NC 0
Anglia Cars アルゴ・JM1 ÖST
9
IMO PER MNZ CET KNU
8
KAS
DON
11
JAR VLL
1978年 ZAN NÜR ÖST ZOL IMO NÜR DIJ MNZ PER MAG KNU
Ret
KAR
23
DON
16
KAS JAR VLL NC 0
1979年 デレック・マクマホン・レーシング マーチ・793 DON
Ret
NC 0

イギリス・フォーミュラ3選手権

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チーム マシン エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
1979年 デレック・マクマホン・レーシング シェブロン・B47
マーチ・793
トヨタ・2T-G SIL
13
THR
6
SIL
Ret
SNE
3
DON
3
THR
6
BRH
7
DON
Ret
SIL
4
BRH
3
CAD
Ret
SIL
2
SIL
DNQ
SNE
5
MAL
2
SIL
2
OUL
5
THR
4
SIL
1
THR
6
4位 54
1980年 マールボロプロジェクト4・レーシング マーチ・803
ラルト・RT3
トヨタ・2TG ノバモーター SIL
1
THR
3
BRH
3
THR
Ret
SIL
5
THR
3
SNE
Ret
SIL
1
CAD
2
SIL
3
BRH
5
SIL
Ret
BRH
2
OUL
2
SIL
Ret
SIL
Ret
MAL
1
SIL
1
OUL
1
THR
1
1位 97

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

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チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1979年 Polifac BMW Junior Team マーチ・792 BMW・M12/7 SIL HOC THR NÜR VLL MUG PAU HOC ZAN PER MIS DON
Ret
NC 0
1980年 ICI ロリー・レーシング・チーム マーチ・802 THR
DNS
HOC NÜR VLL PAU SIL ZOL MUG ZAN PER MIS HOC NC 0
1981年 ドッキング・スピリチャリー チーム・トールマン ローラ・T850 ハート SIL
9
HOC
1
THR
7
NÜR
4
VLL
2
MUG
Ret
PAU
8
PER
Ret
SPA
14
DON
4
MIS
9
MAN
1
4位 30
1982年 マルボーロ・チーム・スピリット スピリット・201 ホンダ SIL
Ret
HOC
Ret
THR
14
NÜR
6
MUG
3
VLL
4
PAU
7
SPA
Ret
HOC
4
DON
11
MAN
Ret
PER
11
MIS
7
8位 11

全日本F2選手権

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チーム マシン エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1981年 ルマン商会 マーチ・802 BMW・M12/7 SUZ SUZ
5
SUZ
4
SUZ SUZ
3
5位 30
1982年 Marlboro Spirit Honda スピリット・201 ホンダ・RA262E B SUZ FSW SUZ SUZ SUZ
2
SUZ
3
7位 27
1983年 RACING MATE ウチダレーシング マーチ・832 BMW・M12/7 D SUZ FSW NIS SUZ SUZ FSW SUZ SUZ
7
17位 4
1984年 ADVAN SPORTS NOVA マーチ・842 ホンダ・RA264E Y SUZ
14
FSW
1
NIS
2
SUZ
1
SUZ
6
FSW
1
SUZ
3
SUZ
2
2位 95 (108)

マカオグランプリ

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チーム シャーシー/エンジン 予選 レース1 レース2 総合順位
1984年  Marlboro セオドール・レーシング ラルトトヨタ 1位 1 2 2位
1988年   ANGLE E.J.R レイナードVW 25位 10 9 8位
所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1980年 シャドウ DN11 ARG
DNQ
BRA
DNQ
RSA USW BEL MON FRA GBR GER AUT NED ITA CAN USA NC
(36位)
0
1983年 スピリット 201C BRA USW FRA SMR MON BEL DET CAN GBR
Ret
GER
Ret
AUT
12
NED
7
ITA
Ret
EUR
14
RSA NC
(25位)
0
1984年 ティレル 012 BRA
RSA BEL SMR FRA MON CAN DET DAL GBR
DSQ
GER
DSQ
AUT
DNQ
NED
DSQ
17位 3
トールマン TG184 ITA
4
EUR
Ret
POR
11
1985年 ティレル 012 BRA
7
7位 26
フェラーリ 156/85 POR
8
SMR
6
MON
Ret
CAN
2
DET
2
FRA
4
GBR
Ret
GER
9
AUT
4
NED
Ret
ITA
5
BEL
Ret
EUR
Ret
RSA
4
AUS
5
1986年 F1/86 BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
4
MON
10
BEL
3
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
11
HUN
4
AUT
3
ITA
3
POR
6
MEX
12
AUS
3
5位 23
1987年 マクラーレン MP4/3 BRA
3
SMR
4
BEL
2
MON
Ret
DET
7
FRA
8
GBR
Ret
GER
2
HUN
Ret
AUT
7
ITA
6
POR
5
ESP
3
MEX
Ret
JPN
3
AUS
Ret
6位 30
1988年 リジェ JS31 BRA
9
SMR
DNQ
MON
Ret
MEX
10
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER
DNQ
HUN
Ret
BEL
11
ITA
DNQ
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
DNQ
AUS
9
NC
(25位)
0
1989年 オニクス ORE-1 BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
MEX
Ret
USA
Ret
CAN
DSQ
FRA
5
GBR
DNPQ
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
DNPQ
POR
3
ESP
DNPQ
JPN
DNPQ
AUS
DNPQ
12位 6
1990年 USA
DNQ
BRA
DNQ
SMR MON CAN MEX FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS NC
(36位)
0
1991年 AGS JH25B USA
DNQ
BRA
DNQ
NC
(37位)
0
フットワーク (アロウズ) FA12 SMR MON CAN
Ret
MEX
DNQ
FA12C FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS

(key)

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1992年 ベッテンハウゼン・レーシング ペンスキー・PC-20 シボレー SRF PHX LBH INDY DET
3
POR MIL NHA
10
TOR
11
MCH CLE
9
ROA
19
VAN
3
MDO
6
NAZ
21
LAG
11
14位 47
1993年 ペンスキー・PC-22 SRF
12
PHX
21
LBH
26
INDY
11
MIL
25
DET
20
POR
26
CLE
4
TOR
24
MCH
23
NHA
14
ROA
21
VAN
3
MDO
26
NAZ
7
LAG
6
13位 43
1994年 イルモア SRF
5
PHX
4
LBH
10
INDY
15
MIL
26
DET
22
POR
8
CLE
5
TOR
14
MCH
14
MDO
12
NHA
23
VAN
26
ROA
8
NAZ
5
LAG
12
11位 57
1995年 ペンスキー・PC-23 メルセデス MIA
22
SRF
17
PHX
24
LBH
6
NAZ
3
MIL
21
DET
11
POR
6
ROA
10
TOR
14
CLE
8
MCH
6
MDO
23
NHA
25
VAN
4
LAG
14
13位 60
レイナード・94i コスワース INDY
16
1996年 レイナード・96i メルセデス MIA
19
RIO
23
SRF
6
LBH
19
NAZ
19
500
16
MIL
27
DET
7
POR
9
CLE
12
TOR
17
MCH
5
MDO
11
ROA
4
VAN
17
LAG
21
15位 43

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1983年   Sorga S.A. / ヨースト・レーシング   クラウス・ルートヴィッヒ
  ボブ・ウォレク
ポルシェ・956 C 354 6位 6位
1984年   ニューマン・ヨースト・レーシング   ジャン=ルイ・シュレッサー
  マウリシオ・デ・ナルバエツ
C1 170 DNF DNF
1990年   マツダスピード   デビット・ケネディ
  ピエール・デュドネ
マツダ・787 GTP 147 DNF DNF
1991年   マツダスピード
  オレカ
  デビット・ケネディ
  マウリツィオ・サンドロ・サーラ
マツダ・787B C1 355 6位 6位
1992年   トラスト・レーシング   ジョージ・フーシェ
  スティーブン・アンドスカー
トヨタ・92C-V C2 336 5位 1位
1997年   ヨースト・レーシング   ミケーレ・アルボレート
  トム・クリステンセン
ポルシェ・WSC95 LMP 361 1位 1位
1998年   ポルシェ AG   ミケーレ・アルボレート
  ヤニック・ダルマス
ポルシェ・911 GT1-98 GT1 107 DNF DNF
1999年   アウディ・スポーツ UK   ステファン・オルテリ
  クリスチャン・アプト
アウディ・R8C LMGTP 55 DNF DNF
2000年   ヨハンソン-マシューズ・レーシング   ガイ・スミス
  ジム・マシューズ
レイナード・2KQ-LM-ジャッド LMP900 35 DNF DNF
2001年   ヨハンソン・モータースポーツ   トム・コロネル
  パトリック・レマリエ
アウディ・R8 LMP900 35 DNF DNF
2003年   チャンピオン・レーシング   エマニュエル・ピロ
  J.J.レート
LMP900 372 3位 1位
2006年   レーシング・フォー・ホランド   ヤン・ラマース
  アレックス・ユーン
童夢・S101Hb-ジャッド LMP1 182 DNF DNF
2007年   アリーナ・モータースポーツ   下田隼成
  トム・チルトン
ザイテック・07S LMP1 - DNQ DNQ
  クラージュ・コンペティション   ジャン=マルク・グーノン
  ギョーム・モロー
クラージュ・LC70-AER LMP1 175 DNF DNF
2008年   エプシロン・ユースカディ   ジャン=マルク・グーノン
  中野信治
エプシロン・ユースカディ・EE1-ジャッド LMP1 158 DNF DNF
2012年   ガルフ・レーシング・ミドルイースト   ファビエン・ジロイ
  ルドヴィク・バディ
ローラ・B12/80-ニッサン LMP2 92 DNF DNF

全日本ツーリングカー選手権

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所属チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1989年 LEVOC EVOLUTION   スティグ・ブロンクビスト
  ロブ・グラヴェット
フォード・シエラ JTC-1 NIS SEN TSU SUG SUZ FSW
5
1990年 Napolex Racing Team   パオロ・バリッラ
  ロブ・グラヴェット
JTC-1 NIS SUG SUZ TSU SEN FSW
Ret
1991年   パオロ・バリッラ 日産・スカイラインGT-R JTC-1 SUG SUZ TSU SEN AUT FSW
6
11位 12

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ マールボロからの推薦もあった。
  2. ^ それまでのレコードは松本恵二の出した1分50秒58(1981年全日本F2開幕戦全日本BIG2&4レース)。
  3. ^ アルヌーの解雇は、当時フェラーリ・チームマネージャーであったマルコ・ピッチニーニ英語版の妻と不倫問題を起こしたとされるが、アルヌーはこの件について話した事が無いため詳細は不明。理由を口外しないことを条件に、その年の給料をフェラーリから受け取っていたという説もある。『F1全史 1981 - 1985』 96頁 ニューズ出版 1992年
  4. ^ 「母国語に次いでスウェーデン語が得意なケケは、創設したユーロ・プロモーションでヨハンソンをサポートしている。彼がフェラーリ初年度から50万ドル以上の契約金を得ているのはユーロ社の交渉のおかげだ」人物インタビュー・ステファン・ヨハンソン by Mike Doodson オートスポーツ No.445 1986年5月1日号 127頁
  5. ^ F186の戦闘力の低さは、チームメイトのアルボレートがシーズン序盤にしてモチベーションを失い、6月からウィリアムズとの移籍交渉を始めてしまうほどだった。 '89注目ドライバーインタビュー ミケーレ・アルボレート F1GPX '88年NA回帰元年記念号 27頁 山海堂 1989年2月8日発行
  6. ^ これはヨハンソンがプロストの脅威とならなかったからと言う見方もされる。
  7. ^ デニスは専任のテストドライバー(ジョナサン・パーマーアラン・マクニッシュ)を雇っていた1991年にもヨハンソンにMP4/5Bの鈴鹿でのテストを依頼している。 F1速報 1991年カナダGP号 1991年6月発行
  8. ^ AGSに内定していたが急遽ジョーダンに鞍替えしたアンドレア・デ・チェザリスの代役。なおヨハンソンも前年からジョーダンのシート獲得候補に名前が報じられていた。

出典

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  1. ^ a b c d e ASインタビュー 新人物物語・ステファン・ヨハンソン「F1への限りなきチャレンジャー」 オートスポーツ 三栄書房 1984年6月15日発行
  2. ^ A DAY IN A SINSE スパF2グランプリ1982 Racing On 1988年1月号 132頁 武集書房 1988年1月1日発行
  3. ^ 1982JAF鈴鹿グランプリ リザルト JAFモータースポーツ
  4. ^ 中村良夫のグランプリ老兵見参 第十一回 ティエリー・ブーツェン GPX 1989スペイン 18-19頁 山海堂 1989年10月21日発行
  5. ^ 名車列伝 スピリット201C F1速報
  6. ^ Hamilton, Maurice (ed.) (1985). AUTOCOURSE 1985-86. Hazleton Publishing. pp. p.87. ISBN 0-905138-38-4 
  7. ^ INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック双葉社
  8. ^ a b c d R'onインタビュー ステファン・ヨハンソン Racing On 1987年11月号 武集書房
  9. ^ ロングインタビュー ミケーレ・アルボレート To The Next Win「敗れざる夢」by Leo Turrini / Sports Graphic Number 297 F1クライマックス'92 50-54頁 1992年8月20日発行 文芸春秋
  10. ^ R'on INTERVIEW ゲルハルト・ベルガー「フェラーリへの道」 by James Daly Racing On 2月号 60-65頁 武集書房 1987年2月1日発行
  11. ^ 人物インタビュー ステファン・ヨハンソン モナコに返り咲いた男(Mike Doodson) オートスポーツ No.445 130頁 三栄書房 1986年5月1日発行
  12. ^ ヨハンソンが鹿をはねた!? Racing On 1987年10月号 武集書房
  13. ^ ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のチーム」桜井監督記者の質問に答える GPX '87イタリアGP 31頁 山海堂
  14. ^ アラン・プロストに捧げる言葉 F1速報 1993年日本GP 44頁 ニューズ出版
  15. ^ 人物インタビュー・ステファン・ヨハンソン by Mike Doodson オートスポーツ No.445 1986年5月1日号 127頁
  16. ^ シーズンオフテスト現地リポート グランプリ・エクスプレス 特別編集'88カレンダー号 3-5頁 1988年1月10日発行
  17. ^ 今宮純「F1大百科 1989」ケイブンシャブックス
  18. ^ VOICE ヘレステスト入りが一日遅れたヨハンソン、ベビー誕生だった GPX '90開幕直前号 5頁 1990年3月10日発行
  19. ^ シーズン・オフを賑わしたオニクス、スイスの財団グループによる買収が完了 Racing On No.073 1990年5月15号
  20. ^ ヨハンソンのシート喪失に見え隠れする、フォイテクの「カネとコネ」 Racing On No.075 1990年6月15号
  21. ^ Racing On 1986年11月号
  22. ^ ヨハンソン インディカーに衝撃3位デビュー Racing On No.124 1992年8月1日号
  23. ^ F1 PRIX 双葉社 1993年
  24. ^ フェリックス・ローゼンクヴィスト「F1?ノーサンキュー」 F1-gate 2020年1月24日
  25. ^ ADVAN 前へ 挑み続ける者たち Racing On No.473 30頁,42頁 三栄 2014年10月1日
  26. ^ 急遽代役ヨハンソン メットが遅刻でハーバートから借用。でも葉っぱはちゃんと付いてまっせ GPX 1991カナダ 28頁 1991年6月22日発行
  27. ^ Here is the painting that Keith painted for me, fantastic memories! Instagram 2023年5月12日
  28. ^ Ayrton Senna,1960 - 1994 Instagram 2023年5月2日

外部リンク

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タイトル
先代
チコ・セラ
イギリスF3選手権
1980年
次代
ジョナサン・パーマー
先代
アレクサンダー・ヴルツ
デイビー・ジョーンズ
マヌエル・ロイター
ル・マン24時間優勝者
1997 with:
ミケーレ・アルボレート
トム・クリステンセン
次代
アラン・マクニッシュ
ローレン・アイエロ
ステファン・オルテリ