近代以前の日本の都市人口統計

近代以前の日本の都市人口統計(きんだいいぜんのにほんのとしじんこうとうけい)は、西南戦争前の日本の都市人口調査および推定人口をまとめたものである。

それぞれ参照。

有史以前

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古代・中世

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推定人口

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日本においては律令国家成立期に戸籍が作成されたものの、今日までその詳細がほとんど残っていない。よって推定人口は、戸数・人口の記録と伝聞、都市域の面積、支配地域の推定総人口などをもとに研究されてきた。

以下にターシャス・チャンドラー英語版による16世紀までの主要都市の推定人口をまとめる。[3] ただし後述するように、チャンドラーによる鎌倉の推定人口は一般の推定よりも過多で、鎌倉時代末の最盛期に6万~10万人とみられる。[4] また博多鎌倉時代から室町時代にかけても数万人規模の都市であったと考えられる。

古代・中世の主要都市推定人口 (Tertius Chandler, 1987年)[3]
西暦 飛鳥 平城京

/奈良

平安京

/京都

平泉 博多 鎌倉 山口 鹿児島 千代/

仙台

天王寺 山田 柏崎 本願寺

/大坂

安濃津 府中

(駿府)

江戸 金沢
622年 50,000~
60,000
750年 100,000
800年 200,000
900年 200,000
925年 200,000
1000年 175,000
1100年 175,000
1150年 150,000 50,000 9,000
1200年 100,000 175,000
1250年 70,000 200,000
1300年 40,000 200,000
1350年 150,000
1400年 150,000 40,000 21,000
1450年 8,000 150,000 (1471)
50,000
1500年 40,000 30,000 35,000 25,000 35,000~
36,000
35,000 30,000 30,000 28,000 25,000~
26,000
25,000
1550年 10,000 100,000 (1570)
17,000
60,000 60,000 (1580)
30,000~
60,000
1575年 300,000 (1579)
35,000
90,000 75,000 (1583)
100,000
1600年 300,000 50,000 80,000 45,000 (1582)
80,000
[注 1]
280,000
100,000 60,000 50,000

近年のその他の研究者による藤原京、平城京、鎌倉、京都の推定人口は以下の通りである。

藤原京、平城京、鎌倉の推定人口
都市 推定人口 研究者
藤原京 10,000~30,000 岸俊男(1983年)[5]
(京内のみ) 40,000
(京内外計) 50,000~60,000
鬼頭清明(1994年)[6]
30,000~50,000 木下正史(2003年)[7]
平城京 67,000~100,000 村井康彦(1973年)[8]
74,000~100,000 岸俊男(1983年)[5]
62,000~100,000 田中琢(1984年)[9]
95,000~174,000
114,494~197,361
鬼頭清明(1988年)[6]
50,000~60,000 寺崎保広(2013年)[10]
鎌倉 64,100~100,900 石井進, 河野真一郎(1989年)[4]
平安京・京都の推定人口変遷
西暦 推定人口 研究者
800年 88,000 井上満郎(1992年)[11]
120,000 鬼頭宏(1996年)[12]
9世紀 100,000~150,000 村井康彦(1979年)[13]
120,000~130,000 井上満郎(1992年)[11]
90,000~110,000 山田邦和(1994年)[14]
900年 120,000 鬼頭宏(1996年)[12]
10~11世紀 170,000~200,000 村井康彦(1982年)[15]
150,000~180,000 村井康彦(1990年)[16]
1027年 140,000~170,000 桑原雅夫, 井料美帆(2017年)[17]
1150年 120,000 鬼頭宏(1996年)[12]
平安時代末期 150,000~180,000 山田邦和(1994年)[14]
14世紀初期 80,000~100,000 中島圭一(1992年)[18]
14世紀後半~15世紀前半 100,000 高尾一彦, 林屋辰三郎, 松浦玲(1968年)[19]
15世紀末 150,000~180,000 高尾一彦, 林屋辰三郎, 松浦玲(1968年)[19]
1571年 200,000~300,000 高尾一彦, 林屋辰三郎, 松浦玲(1968年)[19]

原田伴彦による室町時代の主要都市の推定人口は以下の通りである。[20]

室町時代の主要都市推定人口 (原田伴彦, 1942年)[20]
都市 旧国 推定人口 元号 西暦
京都 山城 100,000 明応9年 1500年
天王寺 摂津 35,000 明応8年 1499年
博多 筑前 35,000 天正7年 1579年
柏崎 越後 30,000 長享2年 1488年
和泉 30,000 天文元年 1532年
山田 伊勢 30,000 天文13年 1544年
春日山 (直江津) 越後 30,000 中世末 1570年代
安濃津 伊勢 25,000 大永2年 1522年
野津 豊後 20,000 天正7年 1579年
坂本 近江 15,000 文亀元年 1501年
桑名 伊勢 15,000 大永6年 1526年
瑞泉寺 越中 15,000 天正以前 1560年以前
石寺 近江 15,000 永禄6年 1563年
府中 駿河 10,000 享禄3年 1530年
山口 周防 10,000 弘治3年 1557年
本願寺 摂津 10,000 永禄5年 1562年
岐阜 美濃 10,000 永禄12年 1569年
蓮沼 越中 10,000 天正12年 1584年
雪ノ湊 阿波 8,500 康安元年 1361年
奈良 大和 8,000 中世中期 14世紀
清洲 尾張 7,500 天正年中 1580年代
尾道 備後 5,000 元応2年 1320年
引間 (浜松) 遠江 5,000 文明17年 1485年
山城 5,000 延徳2年 1490年
大湊 伊勢 5,000 明応7年 1498年
吉田 甲斐 5,000 天文23年 1554年
府内 (大分) 豊後 5,000 元亀2年 1571年
蒲江津 豊後 5,000 中世末 16世紀

推定の根拠

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藤原京
慶雲元年(704年)に藤原京に住む百姓1505烟へ布を賜ったとの記述が『続日本紀』にあるが、岸俊男は藤原京を12条8坊384町と考え、1505烟という数字は在地住民と京内に新たに宅地班給を受けた官人戸数(大宝元年(701年)の五位以上の官人119名、六位以下の官人推定676名)の合計であると仮定し、1家6.2人または1郷戸16.4人(天平5年(733年)の平城京の『右京計帳』断簡による数字)として、藤原京の人口を1万~3万人と推定した。[5]
最近の研究で藤原京は岸俊男が想定したより広いことが指摘されている。鬼頭清明は、宮、市、寺院を除いた藤原京の面積(300坪)を平城京(1132坪)と比較し、後述する平城京の推定人口を14万人とすることで4万人弱、更に藤原京外となった飛鳥故宮の地を含めて、藤原京の総人口を5万~6万人と推定した。
木下正史は慶雲元年の記述は藤原京の拡張に伴う移転補償に相当すると考え、核となる300町の人口を、平城京の推定人口に関する田中琢説[9] に従って1万6000人と概算した。また外郭の1505烟の人口を岸俊男説の1万~3万人として合計2万6000~4万6000人、さらに京内の人口を加えて、藤原京の人口を3万~5万人と推定した。[7]
平城京・奈良
澤田吾一は、平城京の京城の面積は道路を含めて約20.1 km2)、道路を除いて約16.3 km2と見積もり、明治4年(1871年)の金沢の人口密度(12万3363人/140万平方丈)との比較から、京城の人口を17万5000人、これに2万人以上とみられる郊外の寺院等人口を合算して平城京の人口を20万人と見積もった。[21]
この推定人口には異論があり、例えば村井康彦は最盛期でも20万人の1/3から半分程度という推定値を出している。[8]
岸俊男は、平城京の面積が藤原京のほぼ3倍であることから総戸数を約4500戸と見積もり、平城京の郷戸平均16.4人から平城京の人口を7万4000~10万人と見積もった。[5] 鬼頭宏も725年の平城京の推定人口として岸俊男の下限推定人口(7万4000人)を採用している。[12]
田中琢は『日本書紀』が記載する持統5年(691年)の藤原京の宅地支給基準(上戸1町、中戸半町、下戸1/4町、または成人男性8人以上が大戸、4人以上が中戸、2人以上が下戸)に着目し、1町平均成人男性8人、1成人当たりの平均家族6.7人(『右京計帳』断簡による数字)として、平城京1368町の内の居住地約1150町の人口を6万2000~10万人と試算した。[9]
鬼頭清明は、最近の発掘調査による居宅の規模と居住人口から推定人口9万5000~17万4000人、階層構造から推定人口11万4494~19万7361人を導いている。[6]
平城京の推定人口構成 (鬼頭清明, 1988)[6]
階層 人口
五位以上 1,200
六位以下の長上官 6,000
番上官 30,000
庶民 41,362~112,531
仕丁・衛士等 20,630
奴婢 16,028~27,630
合計 114,494~197,361
寺崎保人は、近年主流となりつつある10万人説を前提として、居住可能な土地内に隈なく人が連続して住んでいるはずはなく、また下級官人の多くは単身赴任して平城京内に住んでいたと考えらることから、平城京の人口を5万~6万人程度と推定している。この内下級官人は1万~2万人で、そのほか役所で雑用にあたる人、官人予備軍といった人数を考えると、都市住民の内多くは何等かの形で役所に関わりを持っており、商人や職人などの庶民がきわめて少ないとしている。[10]
平安京遷都以後、奈良は南都と呼ばれるようになり、門前町として栄えた。
『尋尊大僧正記』によると、正長元年(1428年)の大乗院領・元興寺領の地口(道路に面した建物の長さ)の総計が937間2尺5寸ある。一方『田楽頭役方御領内元興寺領地口銭帳』によると、大永5年(1525年)の大乗院領・元興寺の地口総計1324間5尺に対して670軒とある。これらの地口表から畠地を除くことにより、大乗院領・元興寺領の家屋数は15世紀に400軒、16世紀に600軒と推定される。これらの院領が奈良の門前地域の1/4を占め、1戸4人と仮定し、更に門前以外の地域人口を加算することにより、14世紀の奈良の人口は7000~8000人、15世紀初頭の奈良の人口は1万人以上と推定される。[20][22]
難波宮
神亀3年(726年)に聖武天皇は後期難波宮を造営し、平城京との複都制を実施した。ウィリアム・ウェイン・ファリス(William Wayne Farris)は難波の人口を平城京の半分程度の3万5000人と推定している。[23]
大宰府
奈良時代の大宰府は東西24坊、南北22条の広さを持ち、平城京の面積の1/4程度の大きさで、九国二嶋を管轄する軍団が置かれた。[24] ファリスは奈良時代の総都市人口を20万人、大宰府の人口を1万5000人と推定している。[23]
平安時代に入ると次第に兵制が縮小し、弘仁4年(813年)には大宰府管区全域(九国二嶋)の兵数は律令時代の約半数の9000人に、天長3年(826年)には1920人にまで減らされる。この時大宰府には統領8人、選士400人、衛兵200人が置かれた。その後大宰府は、遣唐使の廃止と藤原純友の乱で衰退するが、平安時代末には再び復興する。1471年の『海東諸国紀』によると、大宰府は民居2200余戸、正兵500余で、推定人口1万人以上。
長岡京
続日本紀によると延歴5年(786年)7月に太政官院が完成し、百官が出勤したとある。福山敏男らは平城京の推定人口約20万人の半数が長岡京に移動したとして長岡京の人口を約10万人と推定し、百官の総数推定7000人~8000人の家族や召使などにより構成されたと考えても矛盾はないとしている。[25]ただしこれは平城京の推定人口として澤田吾一説の20万人が主流だった頃のものである。
『向日市史 上』では、長岡京の発掘調査において1町内に占める建物群の割合から、人口を約5万人と推定する考え方が紹介されている。[26]
平安京
平安時代初期・前期
天長5年(828年)の大政官符によると平安京には580余町あったとされる。阪本敦は、1町32戸、1戸平均20人として、9世紀の初期王朝時代の平安京の人口を37万人とし、遷都直後の初期平安京の人口はこれと同等かそれ以下であろうと推定した。[27] また大正4年(1915年)に『京都坊目誌』を完成させた碓井小三郎は、遷都当初の延暦13年(794年)の戸数・人口を8万戸40万人、ほぼ平安京が完成した弘仁9年(818年)の戸数・人口を10万戸50万人と推定している。[28]
しかしながらこれらの推定値は一般に過多と考えられており、原田伴彦は澤田吾一の平城京推定人口(20万人)が平安京人口の上限と考えた。[20] 社会工学研究所も900年、1100年、1300年、1400年の平安京の推定人口として澤田吾一の平城京推定人口(20万人)を採用している。[29] チャンドラーは洛中面積(20 km2)に当時の長安の推定人口密度(100 人/km2)を乗じた値である20万人を、800年頃の平安京の推定人口としている。[3]
一方村井康彦は天長5年(828年)の大政官符記載の580余町、1町平均32戸、『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口5~6人から、9世紀の平安京の人口の最低値を9万人とし、実際は1戸1家族以上と考えられることから、初期王朝時代の平安京の人口を10万~15万人と推定した。[13]これは平安京の総面積が推定人口100万人とされる長安の1/3程度、かつ実際に市街化された地域はさらにその半分程度であることと矛盾しないとしている。[8]
井上満郎は、鎌田元一の推定する人口増加率を参考に、[30] 岸俊男の推定する平城京人口(7万4000人)[5] の20%増の8万8000人を初期平安京の人口と推定した。また大政官符の記載する580町とは左京のみの数字であると前後の文章から判断し、初期王朝時代もまだ9条72坊300保1216町の構造を保っていたと考えた。貴族の官位別人数より平安京を内裏80.0町、東西両寺などの特別区42.5町、貴族・官人居住区600町、諸国から上京してきた職人たちが住む諸司厨町41町、一般市民居住区452.5町と概算し、貴族・官人の人口を延暦4年(785年)の貴族の官位分布などから863戸、諸司厨町の1町当たり戸数を22戸、一般市民居住区の1町当たり戸数を32戸、1戸当たり平均人口を6.22人として11万7372人という数字を得た。これに内裏(天皇・皇族や後宮)と東西両寺などの特別区に住む人々や、奴婢を加え、初期王朝時代の平安京の人口を12~13万人と推定した。[11]
平安京の居住区分別推定人口構成 (井上満郎, 1992年)[11]
居住区分 町数 人口
天皇・皇族居住区
(内裏)
80.0町
特別区
(僧侶・神官)
42.5町
貴族・官人居住区
(一位~初位)
600.0町 12,273
諸司厨町 41.0町 15,033
一般市民居住区 452.5町 90,066
合計 1216町 117,372
山田邦和は、井上満郎の推定人口(12万~13万人)を参照しつつ、実際は右京は当初から未開発地区が多く、京内に点在した湿地や川、宅地化されない荒地の存在を割り引く必要があり、この歩止まりを一般市民居住区の2~3割程度に仮定することで、9万~11万人、すなわち10万人前後という推定人口を出している。[14]
鬼頭宏は、天長5年(828年)の大政官符の町数から推計した戸数(1万5600戸)と『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(6.22~6.58人)[31] より、西暦800年及び900年頃の平安京の人口を12万人と推定した。[12]
近年の考古学調査により平安京の北西、南西、南東の端では、そもそも整備されたのは条坊制のための道路だけで、遷都当初から市街地化していなかったことが判明している。また相国寺境内の遺跡調査から、平安時代前期には平安京北郊への拡大が既に始まっていた可能性が高い。天長5年(828年)の大政官符に登場する580町は左京の町数と考えられ、理論上の608町との差28町は、市街化されていなかった左京の南東端(鴨川)であると解釈される。[32]
平安時代中期・後期
一般には平安時代中期の10世紀頃より平安京の北、東への膨張が始まったと考えられている。慶滋保胤の『池亭記』には、右京が衰退し、左京の北半分には上級貴族の大邸宅が林立している10世紀末の平安京が描かれており、チャンドラーは10世紀後半より平安京は人口減少局面に入ったとして1000年頃の人口を17万5000人と推定している。[3][28] しかしながら考古学的調査では、元々右京は開発困難な湿地帯が未開発のまま残されており、右京の幹線道路沿いに町屋が島状・帯状に立ち並ぶような、田園と町通りが混在した状況が平安遷都当初から続いていたと推定され、むしろ市街は洛外へ膨張していた。やがて鴨川の東に白河が造営された。平安時代後期に入ると、南側には鳥羽離宮が造営され、その結果左京南部に初めて市街が形成される。また平安時代中期まで維持・管理が続けられた条坊制は11世紀半ばに終焉する。[32]
村井康彦は、『日本略記』にみられる寛弘8年(1011年)と万寿元年(1024年)に起こった火災の記録から、1町当たりの平均戸数を30~70家と推定した。当時の町数を天長5年(828年)の大政官符の町数(580余町)より若干増えた600余町と仮定し、また『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(左京3.9人, 右京6.3人)とより、少ない場合で4人×30家×600町=72,000人、大井場合で7人×70家×600町=294,00人、平均して183,000人と算出した上で、王朝時代の平安京の人口を17、18万~20万人[15]、または15万~17、18万人[16]と推定した。
一方桑原雅夫, 井料美帆らは、井上満郎の推定方法と山田邦和の修正を参考にして、万寿4年(1027年)の平安京の人口を14万~17万人と推定している。[17]
平安京の居住区分別推定人口構成 (桑原雅夫, 井料美帆, 2017年)[17]
居住区分 町数 夜間人口密度(人/町) 夜間人口 昼間人口密度(人/町) 昼間人口 備考・仮定
内裏,後院 69 72 4,968 72 4,968 4町貴族街と人口密度同一
4町貴族(含太政大臣,摂政,関白) 16 72 1,152 16 1,152 貴族4人,家族6人/貴族,資人280人/貴族
2町貴族 44 46 2,024 46 2,024 貴族22人,家族6人/貴族;資人は貴族4人が各160人,貴族6人が各90人,貴族2人が各8人,貴族8人が各60人,貴族2人が各40人
1町貴族 230 28 6,440 28 6,440 貴族230人,家族6人/貴族;資人は貴族81人が各25人/貴族,貴族149人が各20人
大内裏(内裏除く),大学寮,奨学院,延命院など 95 5 475 100 9,500 夜間は少数の管理人,警護人のみ(5人/町);
元文献では昼間人口密度50~200人/町のケースまで考察
神泉苑,東西寺,堂,神社など 31 5 155 100 3,100 夜間は少数の管理人,警護人のみ(5人/町);
元文献では昼間人口密度50~200人/町のケースまで考察
諸司厨町 80 360 28,800 500 40,000 夜間人口密度は井上推計の人口密度を流用;
元文献では昼間人口密度360~720人/町のケースまで考察
東市 4 5 20 5,865~7,066 23,462~28,262 夜間は少数の管理人,警護人のみ(5人/町);
昼間は全世帯から1人集中
西市 4 5 20 5 20 人口密度希薄(5人/町)
役人,庶民 500 192~250 96,000~124,800 99~147 49,389~73,389 夜間人口の下位推計:30世帯/町(庶民),2世帯/町(役人),各世帯6人;
夜間人口の上位推計:下位推計の1.3倍
荘園・所領,荒廃地 143 5 715 5 715 人口密度希薄(5人/町)
合計 1,216 116
139
140,769~169,569 116
139
140,769~169,569
平安時代後期になると武士階級が京都に進出し、源氏は六条堀川と室町に、平家は洛東の六波羅に本拠地を構えた。『平家物語』によると平家一族の最盛期には六波羅一帯に一族郎党の家屋が5200戸に達した。
百練抄』や『玉葉』、『方丈記』によると安元3年(1177年)の大火(太郎焼亡)では京都の1/3に相当する180余町2万家が焼失し、治承2年(1178年)の次郎焼亡では七条界隈の30数町が焼失した。
坂本敦はこの時焼け残った町数を天長5年(828年)の平安京の町数580余町から400町と推定し、1町当たり55.5家、1家10人として平安末期の平安京の人口を42万2000人と推定した。[27] ただしこの推定値は一般には過多と考えられている。
太郎焼亡では大極殿が焼け落ち、以降再建されることはなく、治承4年(1180年)には一時的に福原京へ遷都される。またその後の養和の飢饉の影響で、養和2年(1182年)には左京の死体の数が旧暦4月~5月の2ヶ月間で4万2300余を数えたという記述が『方丈記』にある。チャンドラーはこの時期京都の人口が10万人にまで減少したと推定している。[3]
鬼頭宏は平安時代を通じてそれほど平安京の人口に変動はなく、初期王朝時代の推定人口(12万人)を平安時代末期の西暦1150年の平安京の人口としている。[12]
一方山田邦和は、京都の発掘調査の状況から400年間の人口増加を見込んでおり、少なくとも15万~18万人程度の人口規模を推定している。[14]
鎌倉時代
鎌倉時代の京都の町並みの変遷については資料が限られており衰退の程度には諸説あるが、13世紀中ごろには右京の3/4が田園化していたと考えられる。碓井小三郎は、鎌倉時代の京都の人口を、9万~10万人と推定している。[28]
チャンドラーは、元弘3年(1333年)の京都の人口を2万人と推定し、そこから1200年、1250年、1300年の推定人口を10万人、7万人、4万人と補完して求めている。[3]
中島圭一は、河野真一郎らによる鎌倉時代の鎌倉の推定人口6万4千~10万人との比較から、14世紀初期の京都の人口を8万~10万人と推定している。[18]
室町時代前期
『師守記』によると貞治4年(1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民は1万戸約5万人と推定される。高尾一彦、林屋辰三郎松浦玲らは公家、武家、寺社の関係者人口をそれぞれ3万~4万人、1万人、1万人と推定し、14世紀後半から15世紀前半の京都の人口を10万人と推定している。[19]
また『東寺王代記』によると応安5年(1372年)の火災では382町2万余家が焼失したとある。
応仁の乱~戦国時代前期
応仁の乱に先立つ長禄・寛正の飢饉では、『碧山日録』によると寛正2年(1461年)の2ヶ月間で京中にて8万2千人の死体が数えられ、鴨川の水流が死体で堰き止められるだったという。
応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では、『応仁記』によると上京だけで二条から霊辻、大舎人から室町までの100町、3万余宇が灰燼に帰したとあり、チャンドラーは乱直前の京都の人口を15万人と推定している。[3] なお1471年の『海東諸国紀』は京都の戸数を20万6千余と伝えているが、戸数としては多過ぎるため、人口の間違いかもしれない。
碓井小三郎やチャンドラーは応仁の乱が終結した文明9年(1477年)の京都の人口を、4万人と推定する。[3][28]
戦国時代の京都の町並みは、上京下京室町通1本で繋がる状態にまで衰退しているが、15世紀後半の京都の人口については、チャンドラーのように4万人と低く見積もる説[3] から、高尾一彦らのように20万人近くと高く見積もる説まである。[19]
『後慈眼院殿記』によると、明応3年(1494年)の火災では下京30余町1万戸が焼失したという。また明和9年(1500年)には上京が被災し、焼失した家屋は1万5000軒から4万軒と、文献によって数字が異なるが、原田伴彦はこの時期の京都の人口を2万戸10万人と推定する。[20] 一方高尾一彦らは15世紀末の京都は、上京6000~7000戸、下京1万~1万数千戸の合計2万戸10万人の商工民人口がおり、これに公家、武士、寺社関係人口と、数万人に及ぶ散所、河原人口を加えれば、上下京の人口は合計15万~18万人に達したと推定している。[19]
戦国時代後期~安土桃山時代
天文20年(1551年)に京都を訪れたザビエルは書簡の中で、京都はリスボンよりも大きく、9万6000戸の戸数があると伝えているが、この数字は山城国全域の戸数と思われる。豊田武は寛永11年(1634年)の京都の人口との比較から、せいぜい5万~6万人と推定している。[33]
織田信長の保護のもと京都は繁栄を取り戻し、元亀2年(1571年)に京都を訪れたイエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラは、かつて京都は30万戸を誇ったが現在は6万戸のみであると『イエズス会日本通信』に記述しており、安土桃山時代の京都の人口をチャンドラーは30万人、[3] 高尾一彦らは控えめに20万人以上と推定している。[19]
江戸時代以降の京都の町並みは、豊臣秀吉により復興されたものである。碓井小三郎は、慶長3年(1598年)の京都の人口を50万人と推定している。[28]
多賀城
『日本後紀』によると、延暦17年(798年)に陸奥国府に居住する上級官人は国守、介、大掾、小掾、大目、少目2人(以上国司)、博士、医師、史生5人、守慊仗の16名で、他に国衙徭丁が700人程度いた。平城京の役人(6500人)と推定京内人口(10万人)の比を適用することにより、多賀城の人口は1万人程度と推定される.[34]
日本三代実録』によると貞観11年旧暦5月26日(西暦869年7月13日)に発生した貞観地震の津波が多賀城城下に至り、溺死者が1000人に達した。
胆沢
『日本後期』によると延暦21年(802年)に坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、鎮守府が多賀城より移設され、浪人4000人が配備された。最盛期の弘仁元年(810年)には鎮守軍卒が3800人を数えた。[34]
博多
博多は古代より大宰府の外港として栄えた。『石清水文書』によると、仁平元年(1151年)に1600家とあり、推定人口は8000人。[20]
その後、鎌倉室町時代における人口の詳細は不明であるが、町は度重なる戦火(文永11年(1274年)の元寇や元弘3年(1333年)の後醍醐天皇綸旨に対する菊池武時挙兵)を受けながらも、貿易の拠点として栄え続けた。当時鎮西探題九州探題は、室見川の西側の鷲尾愛宕神社付近に設置されていたと推測される。『李朝成宗実録』によると15世紀末の博多は李氏朝鮮の都城のように人家が稠密していた。1471年の『海東諸国紀』によると、博多は少弐氏大友氏に分治されており、それぞれ少弐領が西南の4000余戸、大友領が東北の6000余戸、民居合計1万戸で推定人口5万人。[3]
『籌海図編』によると16世紀の博多は数千家の富者がおり、天文19年(1550年)に博多を訪れたザビエルは、博多は1万戸の大都会(推定人口5万人)と伝えている。その後永禄12年(1569年)の大友宗麟毛利元就戦火で博多の大半が焼失し、3500戸(推定人口1万7000人)まで戸数が減少するが、[3]『イエズス会日本通信』によると天正7年(1579年)の博多は7000戸以上にまで復興し、推定人口は3万5000人以上。[20]
その後博多は天正8年(1580年)には龍造寺隆信によって、永禄14年(1586年)には島津義久によってほぼ全焼させられるが、豊臣秀吉の保護により復興する。
大津・坂本
大津は物資の水上運送で繁栄した。『源平盛衰記』によると以仁王の挙兵に対する報復として治承4年(1180年)に平重衡三井寺を焼き討ちにした際、大津の在家2853軒が焼失しており、推定人口1万5000人。[20]
坂本は延暦寺の門前町として栄えた。『後法興院記』によると、文亀元年(1501年)に数千軒焼失とあり、推定人口は1万5000人以上。[20]
平泉
吾妻鏡』によると鎌倉軍と奥州軍の総勢はそれぞれ28万4千騎、17万騎であったとされるが、これは実数とは認められない。『薩藩旧記雑録』収録の文治5年(1189年)旧暦8月20日の源頼朝から島津忠久への書状には鎌倉方の主力軍が総勢2万人であることが書かれており、『吾妻鏡』の数字は最低でも5倍程度の誇張があると考えられる。[35] チャンドラーは、平安時代末の鎌倉の都市人口を10万人とし、軍隊の人口比から平泉の都市人口を5万人と推定した。[3][36]
なお古来より『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往年の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人とする説が流布しているが[37]、具体的な数字の根拠が示された例がなく, 実際の都市規模はもっと小さかったと考えられる。[38]
鎌倉
中世の鎌倉の人口を明記した文献は存在しないが、『鎌倉年代記裏書』によると永仁元年(1293年)の地震で2万3024人が死亡していることから、最低2万3000人の人口が鎌倉にはいたことになる。[20]ただし周辺地域を合算した数字である可能性があり、『鎌倉大日記』では打殺さるる者1700余人とある。関東大震災における死亡率との比較から、呉文炳は10万~15、16万人と推定した。[39]
また『吾妻鏡』によると建長4年(1252年)に3万7274口の酒壺が町屋民家に存在したことから、吉田東伍は鎌倉には1万戸はあったと推定している。石井進はこの記述を武士以外の庶民の人口として5万人と見積もっている。[4]
一方鎌倉の僧侶人口に関しては、元亨3年(1323年)の北条貞時の13年忌に参列した禅宗の僧侶は、建長寺388人、円覚寺350人、寿福寺260人、浄智寺224人以下38ヵ寺合計2000人余との記録が残っているが、円覚寺の例で僧侶のほぼ1.7倍に相当する下級僧・役人・従者が禅宗寺院で暮らしていたことから、鎌倉の禅宗寺だけで5400人が暮らしていたと推定される。さらに禅律僧(推定4300人)、浄土宗法華宗などを加え、石井進は鎌倉寺社地の人口を1万5000人と推定している。[4]
河野真一郎は、近年の発掘成果による武家屋敷(131.25 ha, 1万7500~2万9000人)と町屋(94.8 ha, 3万1600~5万6900人)の推定面積と、石井進による寺社地の推定人口(1万5000人)から、鎌倉の人口を6万4100~10万0900人と推定している。[4]
鎌倉の推定人口構成 (石井進, 河野真一朗, 1989年)[4]
地区分 面積 人口
武家屋敷 131.25 ha 17,500~29,000
寺社地 15,000
町屋 94.8 ha 31,600~56,900
合計 64,100~100,900
なおチャンドラーが採用している全盛期の鎌倉の推定人口20万人は、元文献が示されていない旅行ガイドに採用されている数字を引用しており、根拠が希薄である。[3][40]
雪ノ湊
『太平記』によると、康安元年(1361年)の康安南海地震により在家1700余宇が海中に没したとあり、推定人口8500人。[20] 雪ノ浦(湊)は『平家物語』にも登場し、土佐、九州への航路の拠点として栄えたとされる。[41]
『応永記』、『堺記』によると、応永6年(1399年)の応永の乱大内義弘が堺に籠城した際、1万軒焼失したという。また『二水記』と『尋尊大僧正記』によると、天文元年(1532年)に堺の2/3に当たる4000軒を焼失したとあり、推定戸数6000戸、推定人口3万人。[20]
鹿児島
『入来文書』によると鹿児島に本拠地を置いた島津伊久が応永8年(1401年)に率いた軍勢は3500人であり、推定人口2万1000人。[3][42]
柏崎
『梅花無尽蔵』によると、長享2年(1488年)の柏崎の様を5000~6000戸と伝えており、推定人口3万人。[20]
伊勢山田
『内宮古良館記』によると、延徳3年(1491年)に1000家焼失、『子良館日記』によると、永正14年(1517年)に5000軒焼失、『厳助往年記』によると天文13年(1544年)に6000軒が炎上したとあり、推定人口は3万人以上。[20]
天王寺・大坂本願寺
『尋尊大僧正記』によると明応8年(1499年)の天王寺は7000軒と伝えており、推定人口は3万5000人。[20]
『厳助往来記』によると永禄5年(1562年)に本願寺の寺内町2000軒焼失と伝えており、推定人口は1万人以上。[20]
天正8年(1580年)に寺内町は焼失し、本願寺が大坂を退去する。その後豊臣秀吉によって大坂の町の建設が進められ、秀吉の死の直前には北は天満から、南は天王寺に接する平野町まで広がる大坂城下町が完成した。
安濃津 (津)
『宗長手記』によると、安濃津は10余年前の津波により荒野となり、大永2年(1522年)には4000~5000軒の家堂塔の跡が残っているのみと記している。よって最盛期の推定人口は2万5000人以上。[20]
なおこの津波が明応7年旧暦8月25日(西暦1498年9月20日)の明応の大地震によるものだとすると、1498年には安濃津は既に廃墟と化していたことになる。ただし『細々要記』によると明応6年旧暦9月2日(西暦1497年7月26日)の津波で数百軒消失とあり、別の原因かも知れない。
桑名
『宗長手記』によると、大永6年(1526年)に5,6町の長さの港に寺々家数千間とあり、仮に3000間として推定人口は1万5000人。[20]
府中 (駿河)
『実隆公記』によると享禄3年(1530年)に駿河府中は2000余軒とあり、推定人口1万人以上。[20]
山口
天文19年(1550年)に山口を訪れたザビエルは、山口の戸数を1万戸以上、コスメ・デ・トーレスは2万戸と記述しており、推定人口は6万人。[3]
大寧寺の変で町並みは被害を受けており、弘治3年(1557年)に山口を訪れたイエズス会の宣教師は、山口を1万人と伝えている。
近江石寺・安土
『長享年後畿内兵乱記』によると、永禄6年(1563年)に石場寺3000家屋焼失とあり、推定人口1万5000人。[20]
『イエズス会日本通信』によると、天正9年(1581年)の安土城下町は5000~6000人の住民がおり、その後も町は拡大を続けた。
岐阜
『イエズス会日本通信』のルイス・フロイスの書によると、織田信長入城以来の町の繁栄をバビロン城の繁栄に喩え、永禄12年(1569年)の人口を1万人と記載している。[20]
長崎
長崎大村純忠によって永禄13年(1570年)に開港され、『イエズス会日本通信』によるとガスパル・ビレラはこの頃の長崎の人口を1500人と伝えている。フランシスコ・カリヤンは天正7年(1579年)に400戸以上、ルイス・フロイスは天正18年(1590年)に5000人、アビラ・ヒロンは『日本王国記』の中で文禄3年(1594年)に3000人、ルイス・デ・グスマンは『グスマン東方伝道史』の中で文禄4年(1595年)に8000人、フェルナン・ゲレイロは慶長5年(1600年)に4000~5000人、フランシスコ・カリヤンは慶長16年(1611年)に1万5000人、アビラ・ヒロンは慶長19年(1614年)に2万5000人以上と伝えている。またライエル・ハイスベルツは『日本大王国志』の中で寛永3年(1626年)の長崎のキリシタン人口を4万人と記述している。
春日町・府中 (直江津)
直江津は越後国府が置かれ、今町の湊として知られて来た。上杉謙信春日山城を本拠地とした時、侍屋敷のある春日町、門前町の浜善光寺、港町の直江津(狭義の府中)の三つの中心街が形成され、やがて謙信治世末期には浜善行寺地区が府中に組み込まれた。
『景勝一代略記』によると天正6年(1578年)の御館の乱の際、旧暦5月16日に春日町3000軒、旧暦6月11日に府中6000軒が焼失したとあり、推定人口は春日町1万5000人、府中3万人。但し原田伴彦は春日町・直江津全体を含めて広義の府中6000軒と解釈し、総人口3万人と推定している。[20]
野津
『イエズス会日本通信』によると、天正7年(1579年)に2万人を収容。[20]
越中瑞泉寺
『瑞泉寺記録帳』によると、天正9年(1581年)に佐々成政が焼き討ちする前、寺27、町屋3000余とあり、推定人口1万5000人。[20]
蓮池
蓮沼城は佐々成政の居城として栄え、「蓮沼三千軒」と称された。『  昔日北華録』によると、天正12年(1584年)に家数2000軒とあり、推定人口1万人。[20]
清洲
『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)に古くから居住している町屋は約1500軒とあり、天正年間(1580年代)の推定人口は7500人以上。[20]

江戸時代

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推定人口

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江戸時代に入ると各藩において武士城下町陣屋町への定住化が促進され、数千、数万人規模の地方都市が日本全国各地に成立する。また政治の安定化により港町宿場町門前町、鉱山町、在郷町なども発達する。

17世紀中ごろにはキリシタン取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた宗門人別改帳制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。しかしながら調査方法が不統一であり、それぞれの奉行所に方法が任されたため、武家人口、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが奉行所・藩によって異なっていた。更にこれらの調査結果も幕府が中央で収集しなかったため、各地に過去の人別改帳が散逸してしまい、地域によって調査史料の質・量が異なる結果となってしまっている。特に城下町の人口の半分前後を占めていた武家人口の記録がほとんど現存せず、多くの場合正確な都市人口は不明である。

1609年(慶長14年)に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロは、京の人口を30万~40万人(本人の目算では80万人以上)、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人、駿府の人口を12万人、堺の人口を8万人、大多喜の人口を1万2千人と伝えている。また駿府と京の間で人口3万人、4万人の町を通過したとしており、それぞれ浜松、名古屋(または清州)のことと思われる。寛永年間まで京は日本最大の都市であったが、参勤交代で人口が急増した江戸が代わって日本最大の都市となる。一方、大坂は大坂の陣で荒廃するものの、元禄年間に京の人口を追い抜いたと考えられる。江戸時代中頃より江戸、大坂、京は三都と呼ばれるようになる。江戸時代の人口規模としては、三都のほかに金沢と名古屋は最盛期に武家人口を含めて10万人以上居住していたと考えられる。また駿府と山口は江戸時代初期に限り10万人規模の人口を有していた。

江戸の住区別面積の変遷と諸都市の住区別面積(面積の単位:km2[43][44][45]
都市名 年代 総面積 公家地 武家地 町人地 寺社地 空地・その他 復元史料
江戸 正保年間
1647年頃)
43.95 34.06
(77.4%)
4.29
(9.8%)
4.50
(10.3%)
1.10
(2.5%)
『正保年間江戸絵図』
寛文10~13年
1670年1673年
63.42 43.66
(68.9%)
6.75
(10.6%)
7.90
(12.4%)
5.11
(8.1%)
『新板江戸大絵図』
『新板江戸外絵図』
享保10年
1725年
69.93 46.47
(66.4%)
8.72
(12.5%)
10.74
(15.4%)
4.00
(5.7%)
『分間江戸大絵図』
慶応元年
1865年
79.8 50.7
(63.5%)
14.2
(17.8%)
10.1
(12.7%)
4.8
(6.0%)
『慶応江戸切絵図』
明治2年
1869年
56.36 38.65
(68.6%)
8.92
(15.8%)
8.80
(15.6%)
後藤新平 『江戸の自治制』
(洛中) 正保年間
1647年頃)
20.87 0.68
(3.3%)
1.05
(5.0%)
8.37
(40.1%)
2.92
(14.0%)
7.85
(37.6%)
『寛永後万治前京都全図』
大坂 明暦年間
1655年頃)
15.05 3.36
(22.3%)
8.68
(57.7%)
1.18 km2
(7.8%)
1.83
(12.2%)
『大坂三郷町絵図』
仙台 正保年間
1647年頃)
10.37 7.56
(72.9%)
1.15
(11.1%)
1.66
(16.0%)
『陸前国仙台城絵図』
名古屋 万治年間
1660年頃)
9.20 5.69
(61.8%)
2.18
(23.7%)
1.14
(12.4%)
0.19
(2.1%)
『名古屋御城下絵図』
金沢 正保年間
1647年頃)
7.46 4.91
(65.8%)
1.58
(21.2%)
0.79
(10.6%)
0.18
(2.4%)
『加賀国金沢之絵図』
和歌山[44] 安政2年
1855年
5.51 2.48
(45.0%)
1.64
(29.8%)
0.39
(7.0%)
1.00
(18.2%)
『安政二年和歌山城下町図』
熊本[45] 安永6年
1777年
3.73 2.68
(72.0%)
0.59
(15.9%)
0.36
(9.6%)
0.10
(2.6%)
『熊本城下惣坪数の覚』
津山(中都市) 正保年間
1647年頃)
1.88 1.24
(66.0%)
0.45
(23.9%)
0.13
(6.9%)
0.06
(3.2%)
『美作国津山城絵図』
日出(小都市) 正保年間
(1647年頃)
0.29 0.16
(55.2%)
0.11
(37.9%)
0.02
(6.9%)
『豊後国日出城絵図』

以下の表に斎藤誠治による江戸時代の主要都市の計外人口を含めた推定人口の推移を、『日本地誌提要』による明治6年1月1日調の人口と共に示す[46]。これらの推定人口には町続きの人口は加算されていない。広島、和歌山、徳島高松及び琉球の首里なども江戸時代に十分な人口を有していたと推定されるが、人口推移は推定されていない。一方、開港前の横浜は半農半漁の郷村であった。

江戸時代の主要都市推定人口[46]
主要都市 1650年 1750年 1850年 1873年 江戸時代の都市形態
江戸 430,000 1,220,000 1,150,000 595,905 三都
大坂 220,000 410,000 330,000 271,992 三都
430,000 370,000 290,000 238,663 三都
名古屋 87,000 106,000 116,000 125,193 城下町
金沢 114,000 128,000 118,000 109,685 城下町
広島 n.a. n.a. n.a. 74,305 城下町
横浜 n.a. n.a. n.a. 64,602 漁村(1860年開港)
和歌山 n.a. n.a. n.a. 61,124 城下町
仙台 57,000 60,000 48,000 51,998 城下町
徳島 n.a. n.a. n.a. 48,861 城下町
n.a. n.a. n.a. 45,318 城下町
首里 n.a. n.a. n.a. 44,984 城下町
富山 8,000 17,000 33,000 44,682 城下町
熊本 17,000 29,000 41,000 44,620 城下町
福岡・博多 53,000 43,000 32,000 41,635 城下町
兵庫神戸 20,000 25,000 22,000 40,900 港町(1868年開港)
福井 48,000 43,000 39,000 39,784 城下町
高知 20,000 24,000 28,000 39,757 城下町
69,000 47,000 41,000 38,838 港町
久保田(秋田 18,000 22,000 27,000 38,118 城下町
松江 18,000 28,000 36,000 37,808 城下町
新潟 4,000 14,000 27,000 33,152 港町(1869年開港)
弘前 11,000 31,000 37,000 32,886 城下町
高松 n.a. n.a. n.a. 32,736 城下町
岡山 29,000 26,000 20,000 32,372 城下町
加世田 n.a. n.a. n.a. 31,595 在郷町
府中(駿府、静岡) n.a. n.a. n.a. 31,555 城下町
(明治8年『共武政表』では37,724人)
長崎 37,000 45,000 31,000 29,656 港町
箱館 0 3,000 10,000 28,825 港町(1859年開港)
高田(越後高田) 21,000 16,000 18,000 27,460 城下町
鹿児島 50,000 58,000 42,000 27,240 城下町
(明治8年『共武政表』では89,374人)
松山 23,000 16,000 16,000 26,141 城下町
鶴岡 15,000 18,000 16,000 24,964 城下町
米沢 35,000 32,000 29,000 24,945 城下町
(明治8年『共武政表』では34,911人)
鹿籠(枕崎、東南方) n.a. n.a. n.a. 24,902 在郷町
姫路 21,000 22,000 24,000 24,521 城下町
彦根 38,000 33,000 29,000 24,368 城下町
長岡 n.a. n.a. n.a. 24,067 城下町
高岡(越中高岡) 12,000 11,000 14,000 23,724 在郷町
山田(伊勢山田) 30,000 23,000 16,000 22,473 門前町
伏見 16,000 33,000 46,000 22,334 宿場・港町
安濃津(津) 12,000 18,000 16,000 22,080 城下町
佐賀 n.a. n.a. n.a. 21,660 城下町
盛岡 17,000 27,000 30,000 21,306 城下町
(明治8年『共武政表』では25,457人)
奈良 35,000 35,000 27,000 21,158 門前町
谷山 n.a. n.a. n.a. 21,082 在郷町
鳥取 32,000 35,000 35,000 20,782 城下町
(明治8年『共武政表』では37,796人)
若松(会津若松 27,000 26,000 25,000 20,588 城下町
久留米 n.a. n.a. n.a. 20,381 城下町
放生津新湊 4,000 8,000 14,000 18,904 港町
酒田 8,000 14,000 18,000 18,619 港町
新発田 6,000 10,000 12,000 18,312 城下町
桑名 22,000 19,000 16,000 18,064 城下町
大津 22,000 19,000 17,000 17,924 宿場・港町
福山(備後福山) 16,000 15,000 17,000 17,643 城下町
山形 25,000 23,000 21,000 17,631 城下町
福山(蝦夷福山、松前 5,000 7,000 11,000 16,092 城下町
甲府 26,000 24,000 22,000 15,529 城下町
熱田 14,000 13,000 17,000 15,211 門前町
前橋 9,000 12,000 14,000 15,063 城下町
宇都宮 18,000 15,000 12,000 15,061 城下町
郡山(大和郡山 13,000 14,000 14,000 14,988 城下町
松本 14,000 14,000 15,000 14,275 城下町
高山(飛騨高山) 8,000 11,000 13,000 13,081 城下町
小田原 7,000 10,000 13,000 12,710 城下町
敦賀 21,000 15,000 13,000 11,476 陣屋町
高崎 13,000 14,000 14,000 11,285 城下町
青森 8,000 9,000 12,000 10,965 港町
岐阜 9,000 11,000 12,000 10,800 宿場町
大垣 22,000 20,000 18,000 10,158 城下町
魚津 3,000 7,000 11,000 10,098 港町
小松(加賀小松) 6,000 10,000 9,000 9,970 在郷町
府中(武生 8,000 10,000 12,000 9,416 在郷町
大聖寺 6,000 8,000 9,000 9,416 陣屋町
川越 10,000 11,000 13,000 9,357 城下町
能代 5,000 8,000 10,000 9,174 港町
桐生 5,000 6,000 10,000 3,894 在郷町
足利 2,000 6,000 10,000 2,124 陣屋町

人別改などに記載された都市人口

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宗門人別改帳による集計結果は、人数改帳などの形で各藩・各奉行所で報告書が作成されており、江戸時代の都市規模を推定する上で重要な史料となる。

江戸時代の江戸の町方・寺社人口、京の町方・寺社人口、大坂三郷の町方人口については江戸三都の項目にまとめてある。本項目ではその他の地方都市の人口を紹介する。明治6年(1873年)の人口は原則『日本地誌提要』による。また諸大概帳による天保14年(1843年)の街道筋の宿内町人口については、別個項目をたててまとめる。弘前や鹿児島などのように人口統計として城下町に暮らす武家人口が判明しているものもあるが、ほとんどは町方人口しか記録が残っていない。武家人口とその他の人口の比率は城下町によって異なり、仙台、鹿児島などは武家人口の方が多い。

京 (京都, 平安京)

三都の項を参照。

伏見 (伏水)

伏見には伏見奉行所が置かれていた時期もあり、幕末には4万人以上の人口を有する宿場町として栄えた。天保14年(1843年)の宿内のみの人口は2万4227人(『東海道宿村大概帳』)。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで市街の大部分が焼失する。

元号 西暦 町方人口
元禄3年 1690年 25,249
元禄13年 1700年 28,743
正徳4年 1714年 30,055
明和年中 1770年頃 27,450
天明年中 1786年頃 33,385
天保年中 1843年頃 40,980
明治6年 (総数) 1873年 22,334

(典拠は『京都の歴史』)

宇治
元号 西暦 町方人口
元禄3年 1690年 5,627
元禄13年 1700年 4,505
正徳5年 1715年 4,101
享保19年 1734年 4,049
延享元年 1744年 3,117
宝暦6年 1756年 2,764
文化10年 1813年 2,088
文化13年 1816年 1,632
明治6年 (総数) 1873年 2,550

(典拠は『宇治市史』)

元号 西暦 町方人口
元禄13年 1700年 3,740
正徳5年 1715年 5,143
天保14年 1843年 2,847
明治6年 (総数) 1873年 5,933

(典拠は『京都の歴史』、『東海道宿村大概帳』)

奈良
元号 西暦 合計 町方 寺社方
寛永8年 1631年 34,985 25,054 9,931
延宝8年 1680年 28,243
元禄11年 1698年 35,369 26,420 8,949
正徳4年 1714年 23,500
享保11年 1726年 22,538
享保14年 1729年 22,146
元文5年 1740年 20,081
延享元年 1744年 19,210
安政4年 1857年 20,661 16,004 4,657
明治6年 (総数) 1873年 21,158

(典拠は『奈良市史』、『奈良県史』、梅村佳代(2003年)[47])

郡山 (大和郡山)

延宝年中(1675年頃)の武家人口は家族を除いて2,757人。町屋家数は延宝7年(1679年)の4693軒から享保8年(1723年)の3850軒、安永6年(1777年)の3837軒と減少しており、延宝年中の郡山の武家を含めた推定総人口は2万5000人。

元号 西暦 町方人口
享保8年 1723年 12,869
享保年中 1725年頃 13,258
寛政4年 1792年 7,718
寛政10年 1798年 7,750
明治6年 (総数) 1873年 14,988

(典拠は『郡山町史』、『奈良県史』)

八尾

大和川の付け替えの行われた宝永年中の八尾は戸数820余軒、人口3千余人。

元号 西暦 町方人口
明和6年 1769年 2,821
文政6年 1823年 2,251
明治6年 (総数) 1873年 3,471

(典拠は『八尾市史』)

岸和田

明治6年(1873年)を除き岸和田浜町のみの人口で、岸和田本町、岸和田北町、岸和田南町の人口は加算されていない。

元号 西暦 岸和田浜町
宝暦5年 1755年 2,692
文久年 1863年 2,718
明治3年 1870年 3,057
明治6年 (総数) 1873年 8,852

(典拠は『岸和田市史』)

貝塚
元号 西暦 町方人口
元禄9年 1696年 7,110
宝永7年 1710年 7,536
享保6年 1721年 6,807
元文4年 1739年 6,852
延享元年 1744年 6,691
延享2年 1745年 6,747
寛政10年 1798年 5,735
文化2年 1805年 5,811
文化7年 1810年 5,714
天保12年 1841年 4,617
嘉永3年 1850年 4,677
嘉永5年 1852年 4,865
元治元年 1865年 4,075
明治2年 1869年 3,958
明治6年 (総数) 1873年 4,270

(典拠は『貝塚市史』)

元号 西暦 町方人口 南本郷 南端郷 北本郷 北端郷
寛文5年 1663年 69,368 28,916 7,822 19,628 13,002
延宝3年 1675年 61,481 26,226 6,937 17,415 10,903
天和元年 1681年 59,551 25,773 7,080 16,584 10,114
元禄元年 1688年 62,860

江戸初期には、泉摂国境による南北二分に本郷・端郷の区分を加えて、4つの行政区(四辻)に分かれていた。元禄6年(1693年)に本郷と端郷の区分を廃し、南組・北組に再編された。

元号 西暦 町方人口 南組 北組 南北寺庵

同境内借屋下人

南北惣代職事

並垣外妻子下人

新地 北之端

並松

非人
元禄8年 1695年 63,706 34,873 28,655 178 350
元禄16年 1703年 56,997 31,066 24,753 1,009 169 402
宝永元年 1704年 56,046 29,301 24,058 2,525 162
宝永4年 1707年 58,726 29,744 26,293 2,522 167
宝永6年 1709年 55,461 28,467 23,747 2,658 589
享保2年 1717年 51,138 26,244 22,427 2,326 141 366
享保4年 1719年 51,315 26,464 22,412 2,301 138
享保16年 1731年 52,446
延享3年 1746年 47,928 24,620 20,690 2,480 138 312
宝暦6年 1756年 46,662 23,576 20,478 2,451 157 308
安永6年 1777年 45,570
文化10年 1813年 44,496 308
文化13年 1816年 44,796
天保11年 1840年 44,068
弘化4年 1847年 40,616
嘉永元年 1848年 40,977 18,389 18,817 2,257 122 1,069 323
安政6年 1859年 37,153
明治6年 (総数) 1873年 38,838

(典拠は『堺市史』)

  • 摂津
大坂

三都の項を参照。

平野町

ここでいう平野町とは、今日の大阪市中央区船場の一角の南北平野町のことである。豊臣時代に大坂城下町の一部として、平野郷からの移住者が中心となって建設されたが、徳川時代に設定された大坂三郷には含まれなかった。天王寺、難波と共に、大坂三郷の郊外型の在郷町として発達した。

元号 西暦 合計 在方 穢多 元号 西暦 合計 在方 穢多 元号 西暦 合計 在方 穢多
元禄元年 1688年 10,851 安永8年 1779年 8,709 8,597 112 天保5年 1834年 7,916 7,695 221
元禄3年 1690年 10,991 天明3年 1783年 8,503 8,385 118 天保7年 1836年 7,901 7,674 227
宝永元年 1704年 9,272 天明4年 1784年 8,249 8,139 110 天保9年 1838年 7,161 6,976 185
宝永3年 1706年 10,686 天明6年 1786年 7,820 7,701 119 天保10年 1839年 7,088 6,904 184
宝永5年 1708年 10,702 10,626 76 天明8年 1788年 7,694 7,578 116 天保12年 1841年 7,217 7,027 190
享保6年 1721年 10,623 10,534 89 寛政元年 1789年 7,487 7,373 114 弘化元年 1844年 7,494 7,289 205
享保11年 1726年 10,711 10,623 88 寛政6年 1794年 7,980 7,866 114 弘化2年 1846年 7,866 7,648 218
享保17年 1732年 10,484 寛政9年 1797年 8,260 8,138 122 嘉永2年 1849年 7,863
延享4年 1747年 9,150 寛政11年 1799年 8,266 8,142 124 嘉永3年 1850年 8,204 7,958 246
寛延元年 1748年 9,251 文化元年 1804年 7,982 7,848 134 嘉永5年 1852年 8,230 7,984 246
宝暦6年 1756年 9,439 9,339 100 文化6年 1809年 7,900 7,741 159 嘉永6年 1853年 8,146 7,894 252
宝暦9年 1759年 9,401 9,298 103 文化11年 1814年 7,833 7,657 176 安政2年 1855年 8,006
宝暦11年 1761年 9,432 9,334 98 文政2年 1819年 7,802 7,621 181 文久2年 1862年 8,352 8,103 249
明和元年 1764年 9,390 9,285 105 文政7年 1824年 7,746 7,545 201 文久3年 1863年 8,201 7,948 253
明和4年 1767年 9,464 9,357 107 文政9年 1826年 7,689 7,476 213 元治元年 1864年 7,899
明和5年 1768年 9,208 天保3年 1832年 7,839 7,621 218 明治6年 (総数) 1873年 6,796
安永3年 1774年 8,936 8,838 98 天保4年 1833年 7,927 7,706 221

(典拠は『新修大阪市史』)

尼崎
元号 西暦 町方人口
寛文9年 1669年 14,890
貞享年中 1685年頃 15,113
享保元年 1716年 16,439
享保19年 1734年 16,494
天明8年 1788年 12,008
天保9年 1838年 9,671
明治6年 (総数) 1873年 12,404

(典拠は『尼崎市史』)

伊丹

享和元年(1801年)の伊丹郷の人口は8237人。天保7年(1836年)の伊丹郷の竈数は2500で推定人口1万人(典拠は『伊丹市史』)。明治6年(1873年)の人口は3508人。

西宮

天保14年(1843年)の宿人別と町奉行支配場の合計は8268人(『山崎通宿村大概帳』)。

元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
明和6年 1769年 9,778 寛政11年 1799年 8,504 文政12年 1829年 8,225
明和7年 1770年 9,520 寛政12年 1800年 8,567 天保元年 1830年 8,399
明和8年 1771年 9,489 享和元年 1801年 8,588 天保2年 1831年 8,281
安永元年 1772年 9,266 享和2年 1802年 8,591 天保3年 1832年 8,348
安永2年 1773年 9,141 享和3年 1803年 8,488 天保4年 1833年 8,297
安永3年 1774年 9,297 文化元年 1804年 8,557 天保5年 1834年 8,173
安永4年 1775年 9,255 文化2年 1805年 8,668 天保6年 1835年 8,146
安永5年 1776年 9,317 文化3年 1806年 8,675 天保7年 1836年 8,196
安永6年 1777年 9,326 文化4年 1807年 8,643 天保8年 1837年 7,789
安永7年 1778年 9,364 文化5年 1808年 8,634 天保9年 1838年 7,518
安永8年 1779年 9,404 文化6年 1809年 8,619 天保10年 1839年 7,360
安永9年 1780年 9,380 文化7年 1810年 8,499 天保11年 1840年 7,557
天明元年 1781年 9,363 文化8年 1811年 8,441 天保12年 1841年 7,641
天明2年 1782年 9,217 文化9年 1812年 8,459 天保13年 1842年 7,847
天明3年 1783年 8,955 文化10年 1813年 8,434 天保14年 1843年 8,075
天明4年 1784年 8,419 文化11年 1814年 8,470 弘化元年 1844年 8,129
天明5年 1785年 8,235 文化12年 1815年 8,414 弘化2年 1845年 8,195
天明6年 1786年 8,226 文化13年 1816年 8,430 弘化3年 1846年 8,024
天明7年 1787年 8,142 文化14年 1817年 8,465 弘化4年 1847年 8,006
天明8年 1788年 8,041 文政元年 1818年 8,365 嘉永元年 1848年 8,002
寛政元年 1789年 7,954 文政2年 1819年 8,337 嘉永2年 1849年 7,773
寛政2年 1790年 8,087 文政3年 1820年 8,363 嘉永3年 1850年 7,669
寛政3年 1791年 8,154 文政4年 1821年 8,356 嘉永4年 1851年 7,843
寛政4年 1792年 8,187 文政5年 1822年 8,323 嘉永5年 1852年 7,869
寛政5年 1793年 8,249 文政6年 1823年 8,329 嘉永6年 1853年 7,820
寛政6年 1794年 8,359 文政7年 1824年 8,364 安政元年 1854年 7,616
寛政7年 1795年 8,414 文政8年 1825年 8,279 安政2年 1855年 7,682
寛政8年 1796年 8,496 文政9年 1826年 8,261 安政3年 1856年 7,656
寛政9年 1797年 8,537 文政10年 1827年 8,342 明治6年 (総数) 1858年 8,699
寛政10年 1798年 8,619 文政11年 1828年 8,336

(典拠は西山松之助(1952年)[48])

兵庫・神戸

慶応3年旧暦12月7日(1868年1月1日)に兵庫津の東に位置する神戸村が幕末五港の一つとなる兵庫港として開港する。後に神戸港と改名し、明治に入って兵庫港・神戸港から成る神戸区が成立する。1829年以前の神戸村の人口は、元禄3年(1690年)に1391人、宝暦10年(1760年)に1985人。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の総人口は兵庫67町神戸30町で4万0900人(現住人口か?)、外国人寄留人口は350人。

元号 西暦 兵庫町方 元号 西暦 兵庫町方 元号 西暦 兵庫町方 神戸村
享保年中 1725年頃 19,766 寛政10年 1798年 20,678 天保元年 1830年 20,920 2,637
元文4年 1739年 20,546 寛政11年 1799年 20,880 天保2年 1831年 20,710
宝暦9年 1759年 21,030 寛政12年 1800年 20,853 天保3年 1832年 20,942 2,640
明和6年 1769年 22,774 享和元年 1801年 20,740 天保4年 1833年 20,896 2,666
明和7年 1770年 22,146 享和2年 1802年 20,835 天保5年 1834年 20,626 2,670
明和8年 1771年 22,007 享和3年 1803年 20,741 天保6年 1835年 20,729
安永元年 1772年 21,702 文化元年 1804年 20,590 天保7年 1836年 20,676
安永2年 1773年 22,072 文化2年 1805年 20,642 天保8年 1837年 20,003 2,624
安永3年 1774年 22,133 文化3年 1806年 20,751 天保9年 1838年 19,591
安永4年 1775年 22,031 文化4年 1807年 20,675 天保10年 1839年 19,535 2,541
安永5年 1776年 21,829 文化5年 1808年 20,645 天保11年 1840年 19,847 2,442
安永6年 1777年 21,693 文化6年 1809年 20,517 天保12年 1841年 20,326
安永7年 1778年 21,468 文化7年 1810年 20,431 天保13年 1842年 20,614
安永8年 1779年 21,549 文化8年 1811年 20,375 天保14年 1843年 21,060
安永9年 1780年 21,448 文化9年 1812年 20,355 弘化元年 1844年 22,374
天明元年 1781年 21,552 文化10年 1813年 20,185 弘化2年 1845年 22,311 2,558
天明2年 1782年 21,531 文化11年 1814年 20,251 弘化3年 1846年 22,074
天明3年 1783年 21,412 文化12年 1815年 20,158 弘化4年 1847年 21,966
天明4年 1784年 20,279 文化13年 1816年 20,146 嘉永元年 1848年 21,965
天明5年 1785年 19,906 文化14年 1817年 20,182 嘉永2年 1849年 22,011
天明6年 1786年 19,987 文政元年 1818年 20,215 嘉永3年 1850年 21,861 2,547
天明7年 1787年 19,934 文政2年 1819年 20,401 嘉永4年 1851年 21,362
天明8年 1788年 19,858 文政3年 1820年 20,511 嘉永5年 1852年 21,097 2,522
寛政元年 1789年 19,909 文政4年 1821年 20,590 嘉永6年 1853年 20,960 2,533
寛政2年 1790年 20,162 文政5年 1822年 20,643 安政元年 1854年 20,887
寛政3年 1791年 20,057 文政6年 1823年 20,973 安政2年 1855年 20,998
寛政4年 1792年 20,321 文政7年 1824年 20,961 安政3年 1856年 21,120
寛政5年 1793年 20,467 文政8年 1825年 20,916 安政5年 1858年 2,605
寛政6年 1794年 20,559 文政9年 1826年 20,859 文久元年 1861年 20,061
寛政7年 1795年 20,529 文政10年 1827年 20,935 明治元年 (総数) 1868年 19,556
寛政8年 1796年 20,736 文政11年 1828年 20,998 明治6年 (総数) 1873年 27,476 8,554
寛政9年 1797年 20,681 文政12年 1829年 21,105

(典拠は西山松之助(1952年)[48]、『神戸市史』)

上野 (伊賀上野)
元号 西暦 町方人口
享保12年 1727年 11,195
寛延・宝暦年中 1750年頃 8,342
享和3年 1803年 8,459
明治5年 (総数) 1872年 12,019
明治6年 (総数) 1873年 12,385

(典拠は『上野市史』)

桑名

延宝7年(1679年)の桑名藩家中人口は9648人であり、武家人口を含む桑名の総人口は約2万2000人と推定される。

元号 西暦 町方人口
延宝7年 1679年 12,520
元禄・宝永年中 1700年頃 13,160
宝永7年 1710年 11,902
寛延3年 1750年 10,857
文政6年 1822年 8,527
天保14年 1843年 8,848
明治6年 (総数) 1873年 18,064

(典拠は『桑名市史』、『東海道宿村大概帳』)

神戸 (鈴鹿)

天明8年(1788年)の町方人口は2173人(典拠は『角川地名辞典』)。明治6年(1873年)の人口は2694人。

四日市
元号 西暦 町方人口
天和3年 1683年 4,612
享保9年 1724年 5,868
寛政4年 1792年 5,912
享和元年 1801年 6,444
文化8年 1811年 6,293
天保9年 1838年 6,722
天保14年 1843年 7,114
弘化4年 1847年 7,461
慶応4年 1868年 7,225
明治6年 (総数) 1873年 9,722

(典拠は『四日市市史』、『東海道宿村大概帳』)

亀山
元号 西暦 町方人口
寛文9年頃 1669年頃 1,887
寛政7年 1795年 1,743
明治6年 (総数) 1873年 5,245

(典拠は『亀山地方郷土史』)

安濃津 (津)

町支配ではない町続きの戸数は天和元年(1881年)に580軒。藩士戸数は宝暦元年(1751年)に313軒。

元号 西暦 町方人口
寛文5年 1665年 12,205
寛文6年 1666年 12,261
寛文9年 1669年 11,942
貞享2年 1685年 11,190
貞享5年 1688年 11,848
元禄14年 1701年 11,648
宝永元年 1704年 10,752
享保2年 1717年 10,077
享保14年 1727年 11,305
享保16年 1731年 11,262
宝暦9年 (男15歳以上, 女13歳以上) 1759年 7,170
明治6年 (総数) 1873年 22,080

(典拠は『津市史』)

松坂
元号 西暦 町方人口
元禄12年 (8歳以上) 1699年 8,197
安政2年 (8歳以上) 1855年 4,948
明治2年 (8歳以上) 1869年 4,356
明治6年 (総数) 1873年 8,781

(典拠は『松阪市史』、『南紀徳川史』)

宇治・山田

鎌倉時代までには伊勢神宮の門前町が形成され、室町時代後半には外宮に山田三方、内宮に宇治六郷という自治組織が成立した。江戸時代度々流行したお蔭参りの参拝者数で驚くべき数字が伝わっているものの信頼性は低い。

元号 西暦 合計 外宮町方

(山田)

内宮町方

(宇治)

その他
寛永12年 (15歳以上) 1635年 23,622
寛永14年 1637年 34,701 30,929 3,592 180
正徳6年 1716年 39,621
明治6年 (総数) 1873年 22,473

(典拠は『宇治山田市史』、『近世山田町方資料』)

鳥羽 (志摩鳥羽)

寛永3年(1850年)の町方屋敷は816軒、安政4年(1857年)の武家屋敷は396軒。寛政6年(1794年)の町方人口は鳥羽町2961人、他所組下女196人、外(欠落)119人を含む。

元号 西暦 町方人口
正徳3年 1713年 4,380
延享2年 1745年 3,873
寛政6年 1794年 3,276
明治6年 (総数) 1873年 4,746

(典拠は『鳥羽市史』)

名古屋

明治初年の調査では名古屋藩の武家人口は約5万人であり、最盛期の総人口は10万人を越えたと推定される。寛文9年(1669年)の人口は寺社門前地を含む。

元号 西暦 町方 本町以西 七間町以東
承応3年 1654年 54,932 29,744 25,188
万治2年 1659年 55,127 30,121 25,006
寛文4年 1664年 54,998 29,769 25,229
寛文9年 1669年 55,849
延宝2年 1674年 56,636
貞亭元年 1684年 54,118
元禄2年 1689年 57,843
元禄5年 1692年 63,734
元禄7年 1694年 55,665
享保6年 1721年 42,135
享保11年 1726年 50,375

享保13年(1728年)、愛知郡広井村、名古屋村、押切村、栄村、日置村、古渡村、春日井郡前津小林村、枇杷島村、杉村、大曽根村に拡大していた町続が全て町方支配地となった。宝暦3年(1753年)には町中1753軒に対し、町続5592軒、寺社門前1072軒、合計1万2623軒と、町中戸数と町続戸数がほぼ同数になっている。慶応元年(1865年)の人口は町中3万4300人、寺社門前6743人、町続之分3万2060人、医師等757人、浪人103人を含む。明治4年(1871年)の人口は町中・寺社門前・町続6万9618人、医師・僧尼・祢宜2080人を含む。

元号 西暦 町方人口
寛延3年 1750年 72,583
天保11年 1840年 75,779
慶応元年 1865年 73,963
明治4年 1871年 71,698
明治6年 (総数) 1873年 125,193

(典拠は『名古屋市史』、『名古屋史要』、『新修名古屋市史』)

宮 (熱田)

元禄12年(1699年)の人口1万3999人は、熱田町8734人、三ヶ浦3762人、社人1101人、社人支配町人402人の合計。その後の熱田の人口は、三ヶ浦や神宮支配場人口が加算されていないと思われる。明治4年(1871年)の人口は医師・僧尼・祢宜27人を含む。

元号 西暦 町方人口
元禄12年 (総数) 1699年 13,999
享保6年 1721年 7,892
享保11年 1726年 7,858
天保11年 1840年 11,957
天保14年 1843年 10,342
明治4年 1871年 12,864
明治6年 (総数) 1873年 15,211

(典拠は『新修名古屋市史』、『東海道宿村大概帳』)

犬山
元号 西暦 町方人口
文化元年 1804年 1,971
天保13年頃 1842年頃 3,480
明治6年 (総数) 1873年 6,159

(典拠は『犬山市史』、『犬山市資料』)

一宮
元号 西暦 町方人口
万治2年 1659年 2,935
安政4年 1857年 5,727
安政5年 1858年 5,777
明治4年 (総数) 1871年 6,846
明治6年 (総数) 1873年 7,399

(典拠は『一宮市史』)

津島
元号 西暦 在方人口

(津島五ヶ村)

寛文年中 1665年頃 5,539
寛政~文政年中 1800年頃 5,722
天保年中 1843年頃 7,468
明治6年 (総数) 1873年 7,387

(典拠は『津島町史』)

大浜
元号 西暦 在方人口
貞亭元年 1684年 2,306
正徳元年 1711年 3,603
延享3年 1746年 4,570
宝暦10年 1760年 5,047
宝暦11年 1761年 5,011
明和5年 1768年 5,656
明和7年 1770年 5,554
天保12年 1841年 7,463
明治6年 (総数) 1873年 8,885

(典拠は『碧南市史』)

棚尾
元号 西暦 在方人口
寛保2年 1742年 907
弘化3年 1846年 4,993
嘉永5年 1852年 5,197
文久3年 1863年 5,632
慶応2年 1866年 5,744

(典拠は『碧南市史』)

岡崎
元号 西暦 町方人口
享和元年 1801年 6,137
天保4年 1833年 6,566
天保14年 1843年 6,494
明治6年 (総数) 1873年 12,969

(典拠は『岡崎市史』、『東海道宿村大概帳』)

挙母 (豊田)

町方戸数は延宝年中(1675年頃)に442戸、寛延2年(1749年)は616戸(典拠は『豊田市史』)。明治6年(1873年)の人口は3352人。

西尾
元号 西暦 町方人口
延享2年 1745年 2,870
安永5年 1776年 3,033
文政6年 1822年 2,825
弘化3年 1846年 3,002
明治6年 (総数) 1873年 7,095

(典拠は『西尾町史』)

吉田 (豊橋)
元号 西暦 町方人口
正徳2年 1712年 7,219
寛延3年 1750年 5,530
享和2年 1802年 4,897
天保14年 1843年 5,277
明治6年 (総数) 1873年 7,506

(典拠は『豊橋市史』)

浜松
元号 西暦 合計人口
元禄16年 1703年 4,336
天保14年 1843年 5,964
明治6年 (総数) 1873年 11,103

(典拠は『浜松市史』)

横須賀 (遠江横須賀)

寛文年中(1670年頃)の町方人口は2959人(典拠は『横須賀町史』)。明治6年(1873年)の人口は5516人。

府中 (駿府, 静岡)

徳川家康在城当時は約10万人と伝えられているが、城主が居ない時代は人口約2万人の地方都市となった。慶応4年(1868年)に徳川家達が静岡藩(同年駿府は静岡に改名)に封じられると、幕臣の移住とともに人口が増加した。

元号 西暦 町方人口
元禄5年 1692年 17,067
正徳5年 1715年 15,527
享保7年 1722年 17,090
宝暦12年 1762年 16,163
天保14年 1843年 14,071
嘉永3年 1850年 15,724
明治6年 (総数) 1873年 31,555

(典拠は『静岡市史』、『東海道駿府城下町』、『東海道宿村大概帳』)

甲府

明治5年の人口は士族684人、卒族515人、僧尼208人、神官46人、平民1万4173人を含む。

元号 西暦 町方合計 下府中

(23町)

上府中

(26町)

寛文10年 1670年 12,772 10,442 2,352
元禄2年 1689年 14,334
元禄10年 1697年 13,539 11,005 2,534
宝永2年 1705年 12,699 10,348 2,351
宝永7年 1710年 13,306
享保9年 1724年 9,290
文化3年 1806年 9,566 7,304 2,262
元治元年 1864年 11,071 9,153 1,918
明治5年 (総数) 1872年 15,626 11,789 3,837
明治6年 (総数) 1873年 15,529

(典拠は『甲府略志』)

三島
元号 西暦 町方人口
延宝8年 1680年 3,814
貞享5年 1688年 4,370
宝暦9年 1759年 4,228
文化8年 1811年 4,232
文化9年 1812年 4,320
天保14年 1843年 4,048
慶応3年 1867年 4,514
明治6年 (総数) 1873年 4,813

(典拠は『三島市誌』)

小田原
元号 西暦 総数 武家(士族) 町方合計 家持 店借
元禄16年 1703年 9,922
寛保3年 1743年 7,355 5,333 2,022
享和3年 1803年 5,573
天保14年 1843年 5,404
安政6年 1859年 5,898
明治5年 1872年 13,306 5,619 7,687
明治6年 1873年 12,710

(典拠は『小田原市史』、『明治小田原町誌』、『神奈川県史』、内田哲夫 『小田原藩の研究』)

浦賀三崎

享保年中(1725年頃)の西浦賀は600軒余、東浦賀は390軒余、三崎町は580軒余。慶応4年(1868年)の西浦賀家数は897軒(寺院4ヶ寺、庵2軒、堂2軒、役人8軒を含む)、東浦賀家数は551軒(寺院8ヶ寺、役人6軒を含む)。明治6年(1873年)の三崎の人口は3417人。

元号 西暦 総人口 西浦賀 東浦賀
合計 町方・僧尼 奉公人等
嘉永4年 1851年 4,185 3,762 423
嘉永5年 1852年 4,285 3,864 421
安政元年 1854年 3,585 3,180 405
安政2年 1855年 3,715 3,314 401
安政3年 1856年 3,697 3,321 376
安政4年 1857年 3,821 3,422 399
安政5年 1858年 3,853 3,460 393
安政6年 1859年 3,778 3,386 392
安政7年 1860年 3,696 3,324 372
文久元年 1861年 3,822 3,448 374
明治元年 1868年 3,838 3,576 262
明治2年 1869年 4,824 4,463 361
明治3年 1870年 6,922 4,638 2,284
明治6年 1873年 6,490 4,110 2,380

(典拠は『新横須賀市史』)

江戸

江戸の人口の項を参照。

忍 (行田)

享保6年(1721年)の忍の町方人口は3049人(典拠は『行田市史』)。明治6年(1873年)の成田町、行田町の人口は合算して7224人。

岩槻
元号 西暦 町方人口
宝永6年 1709年 4,186
延享3年 1746年 3,687
安永3年 1774年 3,666
天保14年 1843年 3,378
弘化4年 1847年 3,676
明治6年 (総数) 1873年 5,077

(典拠は『岩槻市史』、『日光御成道宿村大概帳』)

品川
元号 西暦 町方合計 南品川宿 漁師町 北品川宿 歩行新宿
享和2年 1802年 6,120
文政11年 1828年 6,290 2,005 525 1,996 1,764
天保14年 1843年 6,890 2,176 469 2,650 1,595
慶応2年 1866年 7,554 2,293 655 2,513 2,093
明治6年 (総数) 1873年 10,293

(典拠は『品川区史』)

川越

明治2年(1869年)の川越在中家中人口は3885人。

元号 西暦 町方合計 川越十ヵ町 郷分町
元禄11年 1698年 5,946 2,824 3,122
慶応3年 1867年 4,486
明治6年 (総数) 1873年 9,357

(典拠は『川越市史』)

熊谷
元号 西暦 町方人口
寛文12年 1800年 3,276
天保13年 1842年 3,193
天保14年 1843年 3,263
明治2年 (総数) 1869年 5,552
明治4年 (総数) 1871年 4,477
明治6年 (総数) 1873年 4,171

(典拠は『熊谷市史』、『中山道宿村大概帳』)

八王子
元号 西暦 合計 横山・八日市 八王子十三組
元禄15年 1702年 3,448 1,377 2,071
正徳5年 1715年 3,880
享保5年 1720年 3,849 1,417 2,432
元文5年 1740年 1,512
寛保3年 1743年 2,587
延享4年 1747年 2,576
宝暦6年 1756年 3,954 1,408 2,546
宝暦12年 1762年 3,872
天保8年 1837年 5,457 2,323 3,134
天保14年 1843年 6,026
嘉永5年 1852年 6,376 3,037 3,339
文久2年 1862年 7,506 3,045 4,461
明治6年 (総数) 1873年 7,675

(典拠は『八王子市史』、光石知恵子 『江戸時代の八王子の人口』)

神奈川
元号 西暦 町方人口
享保年中 1725年頃 4,817
天保14年 1843年 5,793
慶応3年 1867年 4,279
明治3年 (総数) 1870年 4,631
明治5年 (総数) 1872年 8,891
明治6年 (総数) 1873年 10,660

(典拠は『横浜市史』)

横浜

文禄4年(1595年)の戸数は13戸、天保11年(1840年)の戸数は88戸で推定人口約450人(典拠は『横浜市史』)。神奈川の代替として安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港してから急速に発達し、明治6年(1873年)の人口は6万4602人。

真倉 (館山)

館山三町、四ヶ浦、四村から成る。

元号 西暦 真倉村

合計

館山三町 四ヶ浦 四村
享保9年 1724年 1,759 847 912
寛政5年 1793年 2,211 670 820 721
天保9年 1838年 3,015 845 1,365 805
明治6年 1873年 2,588

(典拠は『千葉県史料』)

大多喜

ロドリゴ・デ・ビベロの手記によると1609年頃の大多喜の人口は1万2000人。享保年中(1725年頃)の大多喜城下七カ町の町屋屋敷は、柳原町を除いて335軒。寛政5年(1793年)の町屋屋敷は442軒(典拠は『大多喜町史』)。明治6年(1873年)の大多喜駅の人口は2882人(『共武政表』)。

古河
元号 西暦 町方人口
宝暦8年 1758年 5,583
宝暦13年 1763年 5,121
天保14年 1843年 3,865
明治6年 (総数) 1873年 9,343

(典拠は『古河市史』、『日光道中宿村大概帳』)

船橋
元号 西暦 合計 九日市町 五日市町 海神村
寛政5年 1793年 2,120
寛政12年 1800年 5,074 2,381 1,765 928
明治6年 (総数) 1873年 9,494

(典拠は『船橋町誌』)

結城
元号 西暦 町方人口
元禄7年 1694年 4,878
元禄13年 1703年 4,485
宝暦元年 1751年 4,518
宝暦2年 1752年 4,532
宝暦3年 1753年 4,662
宝暦4年 1754年 4,787
宝暦5年 1755年 4,807
宝暦6年 1756年 4,856
宝暦7年 1757年 4,859
宝暦8年 1758年 4,805
宝暦9年 1759年 4,751
宝暦10年 1760年 4,766
宝暦11年 1761年 4,812
宝暦12年 1762年 4,807
宝暦13年 1763年 4,776
明和元年 1764年 4,771
明和2年 1765年 4,814
明和3年 1766年 4,843
明和4年 1767年 4,913
明和5年 1768年 4,796
明和6年 1769年 4,858
明和7年 1770年 4,883
明和8年 1771年 4,905
安永元年 1772年 4,968
安永2年 1773年 4,807
安永3年 1774年 4,770
安永4年 1775年 4,803
安永5年 1776年 4,829
安永6年 1777年 4,784
安永7年 1778年 4,792
安永8年 1779年 4,774
安永9年 1780年 4,760
天明元年 1781年 4,735
天明2年 1782年 4,657
文政6年 1823年 3,247
文政7年 1824年 3,290
天保13年 1842年 3,715
明治6年 (総数) 1873年 5,654

(典拠は『結城市史』)

佐倉

家中人口は安永8年(1779年)に426人、文久3年(1863年)に860人。

元号 西暦 町方人口
寛延4年 1751年 3,046
宝暦5年 1755年 3,111
元治元年 1864年 3,521
明治6年 (総数) 1873年 6,681

(典拠は『佐倉市史』)

飯沼 (本銚子)

明治6年(1873年)の人口は飯沼(後の本銚子町)と新生、荒野、今宮の3村(後の銚子町)を含む。

元号 西暦 在方人口
享保5年 1720年 5,849
延享4年 1747年 6,291
宝暦2年 1752年 7,409
宝暦5年 1755年 7,193
明治6年 (総数) 1873年 17,688

(典拠は『銚子市史』)

土浦
元号 西暦 町方人口
享保6年 1721年 2,286
元文5年 1740年 2,401
天明6年 1786年 3,988
天保10年 1839年 5,098
天保14年 1843年 4,765
明治元年 1868年 5,759
明治6年 (総数) 1873年 7,788

(典拠は『土浦市史』)

水戸

延宝8年(1680年)の町屋戸数は1777戸、武家戸数は1499戸。

元号 西暦 町方人口
元禄15年 1702年 12,964
享保11年 1726年 10,991
明和5年 1768年 8,385
天明3年 1783年 7,834
寛政6年 1794年 7,364
寛政10年 1798年 7,200
明治6年 (総数) 1873年 19,010

(典拠は『水戸市史』)

那珂湊 (ひたちなか)
元号 西暦 湊村町方
元禄10年 1697年 6,120
正徳3年 1713年 6,931
享保4年 1719年 6,309
宝暦13年 1763年 5,339
明和6年 1769年 4,833
安永3年 1774年 4,817
寛政2年 1790年 4,456
寛政9年 1797年 3,934
享和2年 1802年 4,030
文政年中 1825年頃 4,030
文政10年 1827年 4,559
文政12年 1829年 4,400
天保9年 1838年 4,694
安政元年 1854年 5,734
明治6年 (総数) 1873年 8,254

(典拠は『那珂湊市史』)

大津

明治6年(1873年)の人口は五別所村を含む。

元号 西暦 町方人口
元禄4年 1691年 18,774
元禄12年 1699年 17,810
正徳4年 1714年 17,568
享保4年 1719年 17,481
明和3年 1766年 16,072
天明3年 1783年 14,950
天保14年 1843年 14,892
明治6年 (総数) 1873年 17,924

(典拠は『新修大津市史』、『大津市志』)

坂本

明治6年(1873年)の上坂本村の人口は『共武政表』による。

元号 西暦 合計 上坂本 下坂本
享保17年 1732年 4,543 2,492 2,040
天保5年 1834年 1,608
天保11年 1840年 1,907
明治6年 (総数) 1873年 2,838

(典拠は『新修大津市史』)

膳所

貞享2年(1685年)の膳所は侍屋敷499戸、町屋409戸、寺22戸の合計930戸。元禄14年(1701年)は侍屋敷461戸、町屋502戸、出屋敷180戸、寺23戸の合計1166戸。

元号 西暦 町方人口
貞享2年 1685年 3,092
正徳4年 1714年 3,284
明治6年 (総数) 1873年 6,371

(典拠は『新修大津市史』)

八幡 (近江八幡)
元号 西暦 町方人口
延宝8年 1680年 7,180
宝永7年 1710年 7,774
享保6年 1721年 7,568
享和3年 1803年 7,501
文政13年 1830年 7,080
天保9年 1839年 6,755
慶応4年 1868年 5,629
明治6年 (総数) 1873年 5,893

(典拠は『滋賀県八幡町史』)

彦根

元禄8年(1695年)の推定武家人口は1万9000人、寺社人口を含む推定総人口は3万6000人。

元号 西暦 町方人口
元禄8年 1695年 15,505
享和年中 1802年頃 15,675
明治2年 1869年 13,162
明治6年 (総数) 1873年 24,368

(典拠は『彦根市史』)

大垣

享保6年(1721年)の社人・僧侶は合計240人。天保8年(1837年)の宿役人、町役人、人足は合計112人。『美濃路宿村大概帳』による宿内の人口は5136人。

元号 西暦 町方人口
享保6年 1721年 5,543
天明5年 1785年 5,343
天保8年 1837年 5,522
天保14年 1843年 5,097
明治6年 (総数) 1873年 10,158

(典拠は『大垣市史』)

岐阜

明治6年(1873年)の人口は今泉村を含む。

元号 西暦 町方人口
明暦年中 1655年頃 5,299
享保6年 1721年 5,884
明治6年 (総数) 1873年 10,800

(典拠は『岐阜市史』)

高山 (飛騨高山)

一之町村、二之町村、三之町村の合計。

元号 西暦 総数 三ヵ町合計
元禄8年 1695年 3,757
正徳5年 1715年 6,942
享保18年 1733年 7,434
延享元年 1744年 7,212
天保13年 1842年 9,237
明治6年 1873年 13,081 11,180

(典拠は『岐阜県史』)

松本

享保10年(1725年)の武家・給人人口は6292人、他に江戸藩邸在府の者1300人、元治元年(1864年)の武家・給人人口は5284人であり、推定総人口は約1万5000人。

元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
延宝2年 1674年 8,620 寛政10年 1798年 8,967 天保3年 1832年 9,805
享保5年 1720年 8,206 享和2年 1802年 9,174 天保6年 1835年 9,923
享保7年 1722年 8,273 文化元年 1804年 9,117 天保8年 1837年 9,786
享保8年 1723年 8,073 文化6年 1809年 9,929 天保11年 1840年 9,081
享保10年 1725年 8,206 文化13年 1816年 10,006 天保13年 1842年 9,077
享保17年 1732年 9,578 文化14年 1817年 10,047 弘化2年 1845年 9,535
宝暦5年 1755年 9,173 文政2年 1819年 9,919 嘉永3年 1850年 9,891
安永3年 1774年 8,508 文政7年 1824年 9,990 嘉永7年 1854年 9,800
天明8年 1788年 8,541 文政9年 1826年 9,770 安政2年 1855年 9,052
寛政7年 1795年 8,709 文政11年 1828年 9,892 元治元年 1864年 9,440
寛政8年 1796年 8,774 文政12年 1829年 9,821 明治6年 (総数) 1873年 14,275

(典拠は『松本市史』、『信府統記』)

飯田

明治6年(1873年)の人口は今泉村を含む。

元号 西暦 町方人口
天和2年 1682年 4,082
宝永2年 1705年 4,483
宝暦4年 1754年 5,282
安永10年 1781年 5,830
寛政10年 1798年 5,816
文政10年 1827年 6,145
明治6年 (総数) 1873年 8,944

(典拠は『長野県史』)

善光寺町 (長野)
元号 西暦 善光寺領

(総人口)

被官・町年寄・

僧・神官

寺社方

(俗)

八町 三ヵ村 穢多・非人
享保6年 1721年 5,049
享保17年 1732年 5,693
延享元年 1744年 5,562
宝暦12年 1762年 6,285
明和元年 1764年 7,009 405 1,082 4,204 929 85
明和5年 1768年 6,504
安永3年 1774年 6,382
安永9年 1780年 6,574
文化5年 1808年 7,567 388 1,136 5,105 958 67
文化7年 1810年 7,567
文政5年 1822年 7,838 5,289
文政11年 1828年 8,048
天保11年 1840年 7,108
安政5年 1858年 7,639 342 1,242 4,972 1,083
元治元年 1864年 7,725 373 1,149 4,990 1,077 136
明治6年 1873年 6,928

(典拠は『長野県史』、『長野市史』)

松代

寛文11年(1671年)の松代町方は389軒。

元号 西暦 町方人口
明和4年 1767年 2,319
安政7年 1860年 2,786
明治6年 (総数) 1873年 7,976

(典拠は『長野県史』)

上田
元号 西暦 町方人口
寛文3年 1663年 2,610
宝永3年 1706年 3,068
宝永7年 1710年 2,424
享保11年 1726年 2,714
宝暦5年 1755年 2,609
天明5年 1785年 2,180
文政5年 1822年 2,090
弘化2年 1845年 2,257
安政5年 1858年 2,610
明治元年 1868年 2,583
明治6年 (総数) 1873年 6,019

(典拠は『上田市史』、『長野県史』)

小諸

宝暦10年(1725年)の町方人口は3849人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は6152人。

高崎

天保14年(1843年)の宿内のみの人口は3235人(『中山道宿村大概帳』)。明治2年(1869年)の東京在勤藩士は618人。

元号 西暦 合計

(総数)

藩士 町方人口 その他
貞享4年 1687年 5,734
享保5年 1720年 5,735
明和年中 1770年頃 7,830
天明4年 1784年 6,458
享和元年 1801年 6,516
明治2年 1869年 10,632 2,183 8,306 143
明治6年 1873年 11,285

(典拠は『高崎市史』)

前橋 (厩橋)

文化10年(1813年)から文政6年(1823年)の間は向町外四町が町分を脱退している。天保9年(1838年)の扶持遣候者は1200軒であることより、藩主在城中の推定総人口は1万1000人(町方5000人、武家6000人)。

元号 西暦 合計 町方 寺社 元号 西暦 合計 町方 寺社
寛政元年 1789年 4,388 4,280 108 文政12年 1829年 3,914
寛政2年 1790年 4,308 4,207 101 文政13年 1830年 3,952
寛政3年 1791年 4,386 4,288 98 天保2年 1831年 3,926
寛政4年 1792年 4,429 4,332 97 天保3年 1832年 3,964 3,907 57
寛政7年 1795年 4,395 天保5年 1834年 3,931
寛政8年 1796年 4,404 天保6年 1835年 3,912 3,855 57
寛政9年 1797年 4,489 天保7年 1836年 3,880 3,826 54
寛政10年 1798年 4,613 4,502 111 天保8年 1837年 3,723 3,671 52
文化5年 1808年 4,424 天保10年 1839年 3,675 3,621 54
文化6年 1809年 4,532 4,444 88 天保11年 1840年 3,628 3,581 47
文化7年 1810年 4,518 4,430 88 天保12年 1841年 3,601
文化8年 1811年 4,464 4,376 88 天保13年 1842年 3,709 3,667 42
文化9年 1812年 4,494 4,407 87 天保14年 1843年 3,718 3,680 38
文化10年 1813年 4,422 天保15年 1844年 3,967 3,925 42
3,262 嘉永元年 1848年 4,787
文化11年 1814年 3,325 3,261 64 嘉永2年 1849年 4,975 4,900 75
文化12年 1815年 3,275 3,210 65 嘉永6年 1853年 4,938
文化13年 1816年 3,304 嘉永7年 1854年 5,037 4,980 57
文化14年 1817年 3,317 3,261 56 明治6年 (総数) 1873年 15,063

(典拠は『前橋市史』)

沼田
元号 西暦 町方人口
寛保2年 1742年 3,503
寛延元年 1748年 3,076
明治6年 (総数) 1873年 3,828

(典拠は『沼田市史』)

桐生
元号 西暦 桐生新町

町方

明暦3年 1657年 508
寛文13年 1673年 750
寛保2年 1742年 1,279
宝暦7年 1757年 1,482
寛政3年 1791年 2,256
文政2年 1819年 3,353
安政2年 1855年 4,092
明治6年 (総数) 1873年 3,894

(典拠は『桐生市史』)

館林
元号 西暦 町方人口
延宝2年 1674年 3,739
享保13年 1728年 4,945
文政2年 1819年 3,355
天保7年 1836年 3,259
弘化3年 1846年 3,205
安政6年 1859年 4,161
明治2年 1869年 4,432
明治6年 (総数) 1873年 9,007

(典拠は『桐生市史』)

足利

足利町は、本町、新田上町、新田下町、横町を含む。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の足利の人口は2124人で、足利本町のみの人口と思われる。

元号 西暦 合計 足利町方 学校領 鑁阿寺 五箇村
享保19年 1734年 4,438 2,702 231 563 942
安政2年 1855年 5,875 3,373 285 831 1,386
明治4年 1870年 6,766 4,161 826 1,779

(典拠は『足利市史』)

押原 (鹿沼)

元和8年(1622年)の戸数は、東田町67軒、東内町86軒、西田町47軒、西内町53軒の合計253軒。延宝元年(1675年)は538軒。明治6年(1873年)の人口は『共武政表』による。

元号 西暦 町方合計 押原西町 押原東町
享保10年 1725年 1,491
享保14年 1729年 1,175
延享元年 1744年 1,674
宝暦7年 1757年 1,530
安永5年 1776年 2,412
享和2年 1802年 2,762 1,506 1,256
文化2年 1805年 2,676
文政11年 1828年 2,676
天保9年 1838年 2,851
天保14年 1843年 2,844
嘉永4年 1851年 3,362
明治6年 (総数) 1873年 4,202

(典拠は『栃木県史』、『壬生通宿村大概帳』)

宇都宮

天保14年(1843年)の宿内のみの人口は6457人(『日光道中宿村大概帳』)。

元号 西暦 町方人口
元禄8年 1695年 9,744
明和8年 1771年 8,254
天保7年 1836年 9,569
明治6年 (総数) 1873年 15,061

(典拠は『栃木県史』、『宇都宮史勢概要』)

烏山
元号 西暦 町方人口
元禄16年 1703年 2,322
享保元年 1716年 2,500
享保11年 1726年 2,087
享保16年 1731年 1,784
安永9年 1780年 2,400
安政3年 1856年 1,510
元治元年 1864年 1,533
慶応元年 1865年 1,512
明治6年 (総数) 1873年 2,435

(典拠は『烏山町史』)。

白河

元禄5年(1692年)の城下町の構成は、家中1237軒、寺社315軒。

元号 西暦 町方人口
寛文5年 1665年 7,544
寛文7年 1667年 6,823
元禄7年 1694年 7,424
元禄11年 1698年 6,911
元禄14年 1701年 6,486
元禄15年 1702年 6,521
文政元年 1818年 6,293
文政5年 1822年 8.727
文政6年 1823年 6,458
天保14年 1843年 5,959
明治6年 (総数) 1873年 7,250

(典拠は『白河市史』、『奥州道中宿村大概帳』、『福島県史』)。

元号 西暦 合計 家中 町方 寺社門前
正徳元年 1711年 8,279 4,456 3,325 498
享保16年 1731年 2,746
明治6年 1873年 4241

(典拠は『いわき市史』)

小名浜

小名浜は米野、中島、中町、西町の4町を含む。

元号 西暦 町方人口
正徳元年 1711年 6,086
享保16年頃 1731年頃 6,147
明治6年 (総数) 1873年 3,079

(典拠は『いわき市史』)

中村
元号 西暦 合計 城下士 小人座掃

常府歩卒

寺社 諸匠人 商人
天和元年 1681年 15,387 10,857 560 801 3,169
宝永6年 1709年 12,749 5,780 2,821 979 2,361
享保2年 1717年 11,691 5,674 700 2,168 894 2,255
延享3年 1746年 7,243 4,282 653 1,786 798 2,130
宝暦11年 1761年 7,688 3,820 496 1,130 648 1,594
明治6年 1873年 1,890

(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

若松 (会津若松)

町屋戸口は寛文6年(1666年)に3256軒、寛文9年(1669年)に3515戸、享保20年(1735年)に3380戸、文化4年(1807年)に3028戸。また侍屋敷は会津騒動以前には443軒だった。

元号 西暦 町方人口
慶安2年 1649年 22,582
寛文6年 1666年 18,435
延宝5年 1677年 20,832
元禄10年 1697年 20,700
延享3年 1746年 16,700
宝暦元年 1751年 16,078
天明7年 1787年 11,700
天明8年 1788年 11,670
文化9年 1812年 10,610
明治6年 (総数) 1873年 20,588

(典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『町名の由来:おらが街のミニ歴史』)

郡山 (岩代郡山)

人口は定有人口で、出稼ぎの下男、下女を除く。

元号 西暦 郡山町
合計
郡山上町 郡山下町
貞享4年 1687年 802
元禄2年 1689年 799
元禄7年 1694年 844
元禄8年 1695年 832
宝永6年 1709年 799
宝永7年 1710年 831
享保4年 1719年 797
享保9年 1724年 778
享保14年 1729年 791
享保15年 1730年 789
享保16年 1731年 785
享保17年 1732年 810
享保18年 1733年 792
享保19年 1734年 783
享保20年 1735年 807
元文元年 135年 816
元文3年 1738年 859
元文5年 1740年 868
延享2年 1745年 884
延享5年 1748年 921
天明2年 1782年 2,656
寛政12年 1800年 1,025
享和元年 1801年 1,710
慶応3年 1867年 5,205
明治3年 1870年 2,614
明治6年 (総数) 1873年 4,782

(典拠は高橋美由紀 『在郷町の歴史人口学』、『郡山市史』)

二本松
元号 西暦 町方人口
宝永2年 1705年 4,543
天明8年 1788年 3,118
明治6年 (総数) 1873年 10,435

(典拠は『二本松市史』)

福島 (岩代福島)
元号 西暦 町方人口
元禄16年 1703年 4,261
延享3年 1746年 3,726
天明8年 1788年 3,360
明治6年 (総数) 1873年 5,813

(典拠は『福島県史』)

仙台

最盛期の仙台の総人口は6万人以上と推定されている。

元号 西暦 合計 町方 寺院方 寺院方出家 寺院方俗
寛文8年 1668年 27,702 18,493 9,209
延宝2年 1674年 29,297 20,073 9,224
貞享3年 1686年 25,055 22,501 2,554
元禄8年 1695年 25,590 22,706 2,884 631 2,253
寛保2年 1742年 26,623 20,374 6,249 863 5,386
明和9年 1772年 23,098 20,479 2,619 2,619
天明6年 1786年 15,617 11,610 4,007 594 3,413
享和2年 1802年 17,798 13,302 4,496 652 3,840
文政8年 1825年 18,444 13,749 4,695 710 3,985
嘉永5年 1852年 15,408
明治2年 1869年 22,411
明治6年 (総数) 1873年 51,998

(典拠は『封内風土記』、『宮城県史』、『岩手県史』、『仙台市史』)

塩竈
元号 西暦 町方人口
宝暦12年 1762年 1,952
安永3年 1774年 1,986
明治6年 (総数) 1873年 3,225

(典拠は『塩竈市史』)

石巻

虻田村の人口は、元禄12年(1699年)に1494人、明和3年(1766年)に1632人、安永2年(1773年)に713人(高屋敷を除く)、明治6年(1873年)に2065人。安永2年(1773年)は、石巻村住吉と湊村の統計を欠く。

元号 西暦 合計 石巻村 門脇村 湊村
元禄12年 1699年 7,334 3,713 1,947 1,674
明和3年 1766年 9,799 4,162 2,708 2,929
安永2年 1773年 5,796 2,969 2,827
明治6年 (総数) 1873年 10,325 5,121 2,605 2,599

(典拠は『石巻市史』)

花巻
元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
天和3年 1683年 4,654 元文3年 1738年 6,364 宝暦12年 1762年 4,987 天明4年 1784年 4,517
貞享元年 1684年 4,611 元文4年 1739年 6,365 宝暦13年 1763年 4,035 天明5年 1785年 4,565
元禄3年 1690年 4,842 元文5年 1740年 6,268 明和元年 1764年 4,079 天明6年 1786年 4,548
元禄4年 1691年 4,821 寛保元年 1741年 6,193 明和2年 1765年 4,091 天明7年 1787年 4,585
元禄6年 1693年 5,025 寛保2年 1742年 5,881 明和4年 1767年 4,353 天明8年 1788年 4,568
元禄7年 1694年 5,339 寛保3年 1743年 4,757 明和5年 1768年 4,216 寛政元年 1789年 4,598
元禄8年 1695年 5,417 延享2年 1745年 4,894 明和6年 1769年 4,126 寛政2年 1790年 4,586
元禄9年 1696年 4,960 延享3年 1746年 4,890 明和7年 1770年 4,119 寛政3年 1791年 4,595
元禄12年 1699年 5,188 延享4年 1747年 4,780 明和8年 1771年 4,126 寛政4年 1792年 5,406
元禄13年 1700年 5,187 寛延2年 1749年 4,592 安永元年 1772年 4,152 寛政5年 1793年 5,422
元禄14年 1701年 5,278 寛延3年 1750年 4,547 安永2年 1773年 4,138 寛政6年 1794年 5,383
正徳元年 1711年 5,199 宝暦元年 1751年 4,438 安永3年 1774年 4,637 寛政7年 1795年 5,399
正徳2年 1712年 5,261 宝暦2年 1752年 4,513 安永4年 1775年 4,539 寛政8年 1796年 5,376
正徳3年 1713年 5,399 宝暦3年 1753年 4,544 安永5年 1776年 4,538 寛政10年 1798年 5,393
享保3年 1718年 4,974 宝暦5年 1755年 4,563 安永6年 1777年 4,548 享和3年 1803年 5,431
享保5年 1720年 5,055 宝暦6年 1756年 4,753 安永7年 1778年 4,523 天保10年 1839年 5,415
享保12年 1727年 4,866 宝暦7年 1757年 4,453 安永8年 1779年 4,552 天保11年 1840年 5,401
享保18年 1733年 4,857 宝暦8年 1758年 3,691 安永9年 1780年 4,544 明治6年 (総数) 1873年 4,426
享保19年 1734年 4,928 宝暦9年 1759年 3,751 天明元年 1781年 4,550
元文元年 1736年 4,921 宝暦10年 1760年 3,811 天明2年 1782年 4,561
元文2年 1737年 4,327 宝暦11年 1761年 3,863 天明3年 1783年 4,569

(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

盛岡

武家人口は盛岡藩全体で2万8000人以上で推移しており、武家・寺社人口を含めた盛岡城下町の最盛期の人口は約4万人以上と推定される。

元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
天和3年 1683年 12,324 享保5年 1720年 15,362 宝暦8年 1758年 13,498 天明2年 1782年 16,240
貞享元年 1684年 12,272 享保12年 1727年 16,008 宝暦9年 1759年 14,411 天明3年 1783年 16,258
貞享2年 1685年 12,988 享保18年 1733年 15,368 宝暦10年 1760年 14,661 天明4年 1784年 16,206
貞享4年 1687年 13,167 享保19年 1734年 20,597 宝暦11年 1761年 14,371 天明5年 1785年 16,308
元禄2年 1689年 13,293 元文元年 1736年 16,423 宝暦12年 1762年 12,759 天明6年 1786年 16,289
元禄3年 1690年 13,132 元文2年 1737年 18,059 宝暦13年 1763年 15,133 天明7年 1787年 16,330
元禄4年 1691年 13,200 元文3年 1738年 16,101 明和元年 1764年 15,374 天明8年 1788年 16,292
元禄5年 1692年 13,691 元文4年 1739年 16,125 明和2年 1765年 15,392 寛政元年 1789年 16,338
元禄6年 1693年 13,662 元文5年 1740年 16,191 明和4年 1767年 15,744 寛政2年 1790年 16,416
元禄7年 1694年 14,628 寛保元年 1741年 15,992 明和5年 1768年 15,338 寛政3年 1791年 16,436
元禄8年 1695年 13,678 寛保2年 1742年 16,244 明和6年 1769年 15,258 寛政4年 1792年 17,963
元禄9年 1696年 13,689 寛保3年 1743年 16,234 明和7年 1770年 15,372 寛政5年 1793年 17,987
元禄11年 1698年 13,736 延享2年 1745年 15,907 明和8年 1771年 15,415 寛政6年 1794年 17,886
元禄12年 1699年 14,266 延享3年 1746年 15,897 安永元年 1772年 15,421 寛政7年 1795年 17,917
元禄13年 1700年 14,209 延享4年 1747年 15,967 安永2年 1773年 15,438 寛政8年 1796年 17,887
元禄14年 1701年 14,120 寛延2年 1749年 14,154 安永3年 1774年 16,326 寛政10年 1798年 17,941
宝永元年 1704年 13,676 寛延3年 1750年 15,726 安永4年 1775年 16,237 享和3年 1803年 18,024
宝永2年 1705年 13,857 宝暦元年 1751年 15,838 安永5年 1776年 16,243 天保10年 1839年 17,995
宝永3年 1706年 13,905 宝暦2年 1752年 16,221 安永6年 1777年 16,248 天保11年 1840年 17,966
正徳元年 1711年 15,218 宝暦3年 1753年 16,444 安永7年 1778年 16,226 明治6年 (総数) 1873年 21,306
正徳2年 1712年 14,820 宝暦5年 1755年 16,909 安永8年 1779年 16,253
正徳3年 1713年 15,225 宝暦6年 1756年 15,887 安永9年 1780年 16,238
享保3年 1718年 15,228 宝暦7年 1757年 15,787 天明元年 1781年 16,251

(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

郡山 (陸中郡山, 紫波)
元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
天和3年 1683年 2,167 元文3年 1738年 2,507 宝暦12年 1762年 2,317 天明4年 1784年 2,213
貞享元年 1684年 2,113 元文4年 1739年 2,516 宝暦13年 1763年 2,118 天明5年 1785年 2,231
元禄3年 1690年 2,110 元文5年 1740年 2,458 明和元年 1764年 2,167 天明6年 1786年 2,219
元禄4年 1691年 2,073 寛保元年 1741年 2,461 明和2年 1765年 2,157 天明7年 1787年 2,236
元禄6年 1693年 2,161 寛保2年 1742年 2,447 明和4年 1767年 2,275 天明8年 1788年 2,220
元禄7年 1694年 2,234 寛保3年 1743年 2,442 明和5年 1768年 2,129 寛政元年 1789年 2,235
元禄8年 1695年 2,169 延享2年 1745年 2,436 明和6年 1769年 2,169 寛政2年 1790年 2,229
元禄9年 1696年 2,116 延享3年 1746年 2,436 明和7年 1770年 2,173 寛政3年 1791年 2,235
元禄12年 1699年 2,240 延享4年 1747年 2,424 明和8年 1771年 2,157 寛政4年 1792年 2,640
元禄13年 1700年 2,226 寛延2年 1749年 2,361 安永元年 1772年 2,151 寛政5年 1793年 2,648
元禄14年 1701年 2,231 寛延3年 1750年 2,396 安永2年 1773年 2,132 寛政6年 1794年 2,616
正徳元年 1711年 2,164 宝暦元年 1751年 2,394 安永3年 1774年 2,289 寛政7年 1795年 2,627
正徳2年 1712年 2,189 宝暦2年 1752年 2,404 安永4年 1775年 2,252 寛政8年 1796年 2,610
正徳3年 1713年 2,223 宝暦3年 1753年 2,415 安永5年 1776年 2,243 寛政10年 1798年 2,623
享保3年 1718年 2,158 宝暦5年 1755年 2,438 安永6年 1777年 2,245 享和3年 1803年 2,652
享保5年 1720年 2,272 宝暦6年 1756年 2,520 安永7年 1778年 2,227 天保10年 1839年 2,632
享保12年 1727年 2,332 宝暦7年 1757年 2,334 安永8年 1779年 2,254 天保11年 1840年 2,623
享保18年 1733年 2,386 宝暦8年 1758年 1,992 安永9年 1780年 2,248 明治6年 (総数) 1873年 2,522
享保19年 1734年 2,386 宝暦9年 1759年 2,029 天明元年 1781年 2,252
元文元年 1736年 2,446 宝暦10年 1760年 2,026 天明2年 1782年 2,249
元文2年 1737年 2,659 宝暦11年 1761年 2,007 天明3年 1783年 2,255

(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

青森
元号 西暦 町方人口
享保12年 1727年 6,381
延享元年 1744年 5,904
寛延3年 1750年 5,163
明和元年 1764年 8,950
安永2年 1773年 9,039
安永3年 1774年 9,031
寛政11年 1799年 6,137
文化2年 1805年 6,491
天保14年 1843年 6,033
嘉永5年 1852年 7,779
明治6年 (総数) 1873年 10,965

(典拠は『青森市沿革史』,『青森市史』)

弘前

武士階級(家中)を含めた弘前の総人口が記録として残っている。

元号 西暦 合計

(総数)

家中 町方 寺社等
元禄3年 1690年 15,890
元禄7年 1694年 17,362
正徳5年頃 1715年頃 13,788
明和元年/2年 1764年/1765年 31,200 14,600 16,600
天明元年 1781年 33,821 16,974 16,847
寛政年中 1795年頃 24,521 12,923 10,814 784
寛政12年 1800年 26,730
文化元年 1804年 14,505
文化7年頃 1810年頃 25,426 14,928 10,498
天保5年 1834年 21,048
天保7年 1836年 35,488 20,480 14,535 473
天保8年 1837年 36,036 21,004 14,540 492
嘉永6年 1853年 37,517 23,431 14,086
安政5年 1858年 14,850
安政6年 1859年 38,595 23,964 14,631
慶応2年 1866年 38,848 21,926 16,061 861
明治3年 1869年 39,568
明治6年 1873年 32,886

(典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)

八戸

寛延2年(1749年)の家中人口は2833人。天明4年(1784年)の家中人口は3015人。

元号 西暦 町方人口
寛延2年 1749年 4,075
天明4年 1784年 4,122
明治6年 (総数) 1873年 9,518

(典拠は『八戸市史』)

三戸
元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
天和3年 1683年 1,491 元文3年 1738年 1,746 宝暦12年 1762年 1,825 天明4年 1784年 2,022
貞享元年 1684年 1,454 元文4年 1739年 1,745 宝暦13年 1763年 1,451 天明5年 1785年 2,036
元禄3年 1690年 1,474 元文5年 1740年 1,643 明和元年 1764年 1,459 天明6年 1786年 2,018
元禄4年 1691年 1,480 寛保元年 1741年 1,632 明和2年 1765年 1,453 天明7年 1787年 2,031
元禄6年 1693年 1,491 寛保2年 1742年 1,639 明和4年 1767年 1,519 天明8年 1788年 2,014
元禄7年 1694年 1,485 寛保3年 1743年 1,636 明和5年 1768年 1,864 寛政元年 1789年 2,037
元禄8年 1695年 1,517 延享2年 1745年 1,656 明和6年 1769年 1,876 寛政2年 1790年 2,029
元禄9年 1696年 1,566 延享3年 1746年 1,660 明和7年 1770年 1,891 寛政3年 1791年 2,034
元禄12年 1699年 1,676 延享4年 1747年 1,671 明和8年 1771年 1,911 寛政4年 1792年 2,439
元禄13年 1700年 1,652 寛延2年 1749年 1,597 安永元年 1772年 1,917 寛政5年 1793年 2,446
元禄14年 1701年 1,650 寛延3年 1750年 1,595 安永2年 1773年 1,957 寛政6年 1794年 2,426
正徳元年 1711年 1,654 宝暦元年 1751年 1,568 安永3年 1774年 2,035 寛政7年 1795年 2,435
正徳2年 1712年 1,652 宝暦2年 1752年 1,632 安永4年 1775年 2,016 寛政8年 1796年 2,420
正徳3年 1713年 1,702 宝暦3年 1753年 1,646 安永5年 1776年 2,023 寛政10年 1798年 2,443
享保3年 1718年 1,629 宝暦5年 1755年 1,632 安永6年 1777年 2,031 享和3年 1803年 2,469
享保5年 1720年 1,671 宝暦6年 1756年 1,557 安永7年 1778年 2,043 天保10年 1839年 2,423
享保12年 1727年 1,760 宝暦7年 1757年 1,396 安永8年 1779年 2,071 天保11年 1840年 2,412
享保18年 1733年 1,673 宝暦8年 1758年 1,348 安永9年 1780年 2,062 明治6年 (総数) 1873年 2,986
享保19年 1734年 1,705 宝暦9年 1759年 1,369 天明元年 1781年 2,067
元文元年 1736年 1,771 宝暦10年 1760年 1,432 天明2年 1782年 2,067
元文2年 1737年 1,708 宝暦11年 1761年 1,398 天明3年 1783年 2,071

(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

米沢

武家人口は、元禄5年(1692年)に3万1173人(武家を含めた推定総人口は約4万人)、元禄14年(1701年)に2万9960人、安永5年(1776年)に2万4061人、天保11年(1840年)に2万5608人、文久2年(1862年)に3万2036人。

元号 西暦 町方人口
文禄4年 1595年 6,027
元禄5年 1692年 12,129
元禄6年 1693年 12,078
元禄14年 1701年 11,481
安永5年 1776年 16,099
天保11年 1840年 6,667
天保12年 1841年 6,678
天保13年 1842年 6,696
天保14年 1843年 6,717
天保15年 1844年 6,728
弘化2年 1845年 6,761
弘化3年 1846年 6,773
弘化4年 1847年 6,802
嘉永元年 1848年 6,840
嘉永2年 1849年 6,809
嘉永3年 1850年 6,920
嘉永4年 1851年 6,962
嘉永5年 1852年 6,972
嘉永6年 1853年 6,947
嘉永7年 1854年 6,973
安政2年 1855年 6,998
安政3年 1856年 6,871
安政4年 1857年 6,896
安政5年 1858年 6,881
安政6年 1859年 6,888
万延元年 1860年 6,969
文久元年 1861年 6,979
文久2年 1862年 6,943
明治6年 (総数) 1873年 24,945

(典拠は『山形県史』、吉田義信 『置賜民衆生活史』)

山形

最上騒動の時期の元和8年の町方人口は『義俊家中並寺社方在町分限帳』により、合計の不一致は原文ママ。正保元年(1644年)の城下町の戸数は町方・寺社方2411軒、家中597軒であり、家中1戸当たり7人と仮定すると推定総人口は1万8160人。

元号 西暦 合計 町方 寺社方
元和8年 1622年 19,796 16,055 3,641
正保元年 1644年 13,981 12,092 1,889
元禄10年 1697年 13,507 13,032 475
元文3年 1738年 17,508
延享3年 1746年 12,586
宝暦3年 1753年 15,214
明治6年 (総数) 1873年 17,631

(典拠は『山形の歴史』、『山形市史』、『山形県史』)

新庄

宝永6年(1709年)の町方人口は3439人、家中人口は1,525人(内江戸詰めは50人)(典拠は『最上郡史』)。明治6年(1873年)の人口は8361人。

鶴岡

明和7年(1770年)の庄内藩家中1万0676人中、鶴ヶ岡城城下に9206人、酒田の亀ヶ崎城城下に892人、江戸に578人、それぞれ在住した。

元号 西暦 合計

(総数)

家中・給人 町方
寛文7年 1667年 7,837
天和2年 1682年 8,497
元禄7年 1694年 10,197
元禄13年 1700年 10,951
享保10年 1725年 8,102
明和7年 1770年 17,705 9,206 8,499
天保11年 1840年 8,406
明治6年 1873年 24,964

(典拠は『鶴岡市史』)

酒田
元号 西暦 町方人口
慶長17年 1612年 2,182
元和8年 1622年 4,105
天和3年 1683年 12,604
享保10年 1725年 14,580
享保12年 1727年 10,193
明和7年 1770年 14,845
明治6年 (総数) 1873年 18,619

(典拠は『酒田市史』、『鶴岡市史』)

本荘

慶長末(1615年頃)の本荘城下町は武家屋敷約850軒(陪臣50軒、士100軒、足軽小人700軒)、町屋敷約600軒、寺社約20軒、合計約1470軒。元禄6年(1693年)の本荘城下町は武家2363人(給人中小姓721人、歩行並322人、諸奉公人1320人)、町方4560人(出戸町3651人、古雪町909人)、寺水呑門前322人、合計7245人。享保2年(1717年)の本荘城下町は武家奉公人520戸、町家699戸、寺社32戸、合計1251戸(以上典拠は『本荘市史』)。明治6年(1873年)の人口は6423人。

横手

享保7年(1722年)の町方戸数は約4500戸[49]。明治6年(1873年)の人口は8169人。

久保田 (秋田)・湊 (土崎港)

嘉永3年(1850年)の武家人口は3万5621人。内訳は久保田諸給人(1万5662人)、在々給人(1万1784人)、職人足軽等(8175人)。また久保田・湊諸寺院は973人、久保田在々の僧侶・社人等は6369人。久保田分の穢多・乞食は325人。最盛期の城下町人口は久保田・湊を併せ4万人以上と推定される。明治4年(1871年)に久保田から秋田へ改名する。

元号 西暦 町方合計 久保田町方 湊町方
享保15年 1730年 20,833 15,262 5,571
延享4年 1747年 21,313
宝暦年中 1755年頃 5,935
天保15年 1844年 16,387 11,450 4,937
嘉永3年 1850年 16,990
安政2年 1855年 17,636
安政4年 1857年 17,693
安政6年 1859年 18,082
明治6年 (秋田・土崎湊総数) 1873年 46,677 38,118 8,559

(典拠は『秋田沿革史大成』、『綜合郷土研究』、『土崎港町史』、『秋田県史』)

大館

宝永3年(1706年)の大館は武家442軒、町家409軒で、武家を含めた推定総人口は3700人。

元号 西暦 総数 町方
文化8年 1811年 2,142
文政年中 1825年頃 3,700
安政4年 1857年 3,144
安政6年 1859年 2,832
明治5年 1872年 4,882
明治6年 1873年 7,687

(典拠は『大館市史』)

能代

町方戸数は、元禄7年(1694年)に1032軒、宝永元年(1704年)に1093軒、享保15年(1730年)に1249軒、寛保3年(1743年)に1546軒。

元号 西暦 合計 町方 寺社方
文化年中 1810年頃 8,269 7,998 271
文政13年 1830年 7,042
明治6年 (総数) 1873年 9,174

(典拠は『能代市史稿』)

小浜
元号 西暦 合計

(総数)

家中 町方
寛永17年 1640年 9,712
寛文6年 1666年 8,514
延宝元年 1673年 11,167
延宝7年 1679年 9,197
天和3年 1683年 10,491
元禄6年 1693年 11,094
宝永4年 1707年 10,844
享保20年 1735年 10,146
寛保元年 1741年 10,027
寛保2年 1742年 9,933
宝暦4年 1754年 14,430 4,829 9,601
宝暦6年 1756年 9,692
天明8年 1788年 9,448
文化3年 1806年 10,117
文化5年 1808年 10,156
天保4年 1833年 9,394
天保9年 1838年 10,410
安政5年 1858年 9,394
明治6年 1873年 19,271

(典拠は『福井県史』、『小浜市史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

敦賀
元号 西暦 町方人口
寛文3年 1663年 15,101
延宝7年 1679年 11,345
天和元年 1681年 13,568
享保11年 1726年 10,600
享保14年 1729年 11,506
天保11年 1840年 8,900
嘉永7年 1854年 12,296
明治6年 (総数) 1873年 11,476

(典拠は『福井県史』、『敦賀市史』、『敦賀郡誌』)

府中 (武生)
元号 西暦 町方合計 本町十八町 町外十二町
延享元年 1744年 9,464 5,866 3,598
天保8年 1837年 9,299
天保9年 1838年 7,316
明治6年 (総数) 1873年 9,416

(典拠は『福井県史』、『武生市史』)

福井
元号 西暦 合計

(総数)

家中 町方
慶長年中 1610年頃 25,331
正徳2年 1712年 21,393
享保2年 1717年 20,813
享保10年 1725年 21,622
寛延3年 1750年 20,533
天明5年 1785年 21,589
寛政4年 1792年 18,364
弘化2年 1845年 20,269
弘化4年 1847年 32,613 12,832 19,781
明治6年 1873年 39,784

(典拠は『福井県史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

丸岡

元禄8年頃(1695年頃)の町方人口は2579人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は4798人。

三国 (坂井)
元号 西暦 町方人口
享保10年 1725年 5,300
元治元年 1864年 6,437
明治6年 (総数) 1873年 9,044

(典拠は『三国町史』)

大野
元号 西暦 町方人口
宝暦6年 1756年 5,081
安政2年 1855年 6,085
明治6年 (総数) 1873年 9,052

(典拠は『福井県史』)

勝山
元号 西暦 町方人口
元文3年 1738年 3,144
宝暦6年 1756年 3,286
天明3年 1783年 2,999
寛政元年 1789年 2,645
享和元年 1801年 3,020
文化7年 1810年 3,182
文政11年 1828年 3,796
天保2年 1831年 3,723
天保11年 1840年 3,092
嘉永2年 1849年 3,680
安政5年 1858年 4,031
明治6年 (総数) 1873年 6,388

(典拠は『勝山市史』)

大聖寺 (加賀)

天明6年(1786年)の町方家数は865軒(典拠は田中善男『大聖寺城下町と町人社会』)、文化元年(1804年)の町方人口は3611人(典拠は『加賀市史』)、明治5年(1872年)の総家数は2058軒(典拠は田中善男『大聖寺城下町と町人社会』)。明治6年(1873年)の戸数・人口は2418戸9416人。

小松 (加賀小松)
元号 西暦 町方人口
享保18年 1733年 10,554
天明5年 1785年 8,971
明治6年 (総数) 1873年 9,970

(典拠は『小松市史』)

金沢

金沢藩は武家人口が城下町に集中しており、最盛期の総人口は11万~12万人と推定される。明治4年(1871年)の人口は士族2万6028人、卒2万6888人、平民6万8810人、元神官139人、寺院1032人、御預人466人を含む。

元号 西暦 町方人口 本町 地子町 旧門前町
寛文4年 1664年 55,106 19,845 35,261
寛文7年 1667年 59,101 19,840 39,261
元禄10年 1697年 68,636 18,949 47,057 2,630
宝永7年 1710年 64,987
文化7年 1810年 56,355
天保9年 (15歳以上) 1838年 35,841
安政4年 1857年 58,506
明治2年 1869年 60,789
明治3年 1870年 56,295
明治4年 (総数) 1871年 123,363
明治6年 (総数) 1873年 109,685

(典拠は土屋敦夫(1979年)[50]、『金沢市史』)

宮腰 (金石)

寛文3年(1663年)の人口は乞食56人、藤内48人を含む。

元号 西暦 町方人口
寛文3年 (15歳以上) 1663年 4,215
安政5年 (15歳以上) 1858年 5,008
元治元年 (15歳以上) 1864年 5,088
明治6年 (総数) 1873年 9,353

(典拠は『金石町誌』)

所口 (七尾)

所口の戸数・人口は、寛文6年(1666年)に1428軒7473人、安政3年(1856年)に1883軒(典拠は『七尾市史』)。明治6年(1873年)の人口は8216人。

輪島

輪島の戸数・人口は、享保21年(1736年)に614戸、天明2年(1782年)に795戸、安政4年(1857年)に1806戸6175人(典拠は『輪島町史』)。明治6年(1873年)の人口は7106人。

富山

延宝4年(1676年)の町方人口の内訳は、富山本町の7670人と田地方・船橋町の8540人。明治6年(1873年)の人口は新川郡富山(4万0538人)と婦負郡富山町(4144人)の合計。

元号 西暦 総数 家中 町方
寛文元年 1661年 16,000
延宝4年 1676年 23,903 7,693 16,210
延宝・宝永年間 1700年頃 17,600
宝暦11年 1761年 20,000
文化7年 1810年 34,228 6,840 27,388
天保12年 1841年 26,936
明治6年 1873年 44,682

(典拠は『富山市史』、『富山県史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

魚津
元号 西暦 町方人口
享保14年 (15歳以上) 1729年 4,690
天明元年 (15歳以上) 1781年 5,573
天保9年 1838年 8,330
明治6年 (総数) 1873年 10,098

(典拠は『魚津市史』)

高岡 (越中高岡)
元号 西暦 町方人口
元禄10年 1699年 13,085
宝永3年 1706年 13,174
元文3年 1738年 10,038
宝暦12年 1761年 10,681
明和8年 1771年 15,582
天明5年 1785年 15,465
文化13年 1816年 12,037
明治6年 (総数) 1873年 23,724

(典拠は『高岡史料』)

放生津 (新湊)

放生津の家数は元禄3年(1690年)に945軒、安永7年(1778年)に1310軒、文政元年(1818年)に1504軒、文政12年(1829年)に1616軒と増え続けた。江戸末期には近隣の町村まで町並みが広がり、明治2年(1869年)に新湊と改名する。

元号 西暦 合計 放生津町方 新町・三日曽根・
長徳寺村・荒屋村
・四日曽根村
天保8年 1837年 12,392 8,058 4,334
安政5年 1858年 7,555
明治6年 (総数) 1873年 18,904

(典拠は『新湊市史』)

氷見
元号 西暦 町方人口
天保8年 1837年 6,708
安政5年 1858年 6,119
明治6年 (総数) 1873年 8,175

(典拠は『富山県史』)

村上

町方人口は神社仏閣と神官・僧侶の数を除く。

元号 西暦 町方人口
天和2年 1682年 8,692
元禄16年 1703年 9,223
宝永7年 1710年 8,758
享保3年 1718年 7,786
享保7年 1722年 6,984
延享3年 1746年 6,646
宝暦5年 1755年 6,511
安永8年 1779年 6,244
天明2年 1782年 6,235
寛政3年 1791年 5,866
寛政7年 1795年 6,207
天保9年 1838年 6,219
弘化3年 1846年 6,563
明治2年 1869年 6,630
明治6年 (総数) 1873年 17,647

(典拠は『新潟県史』、『村上市史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

新潟

延宝8年(1680年)、元禄10年(1697年)に家数2500戸と伝えられている。江戸時代後期に北前貿易で発達し、開港五港の1つとして明治元年旧暦11月19日(1869年1月1日)に開港する。

元号 西暦 町方人口
文政元年 1818年 20,800~20,900
天保14年 1843年 24,431
弘化元年 1844年 22,674
弘化2年 1845年 23,579
弘化3年 1846年 23,758
弘化4年 1847年 24,022
嘉永元年 1848年 24,580
嘉永2年 1849年 25,228
嘉永3年 1850年 25,467
嘉永4年 1851年 25,945
嘉永5年 1852年 26,271
明治6年 (総数) 1873年 33,152

(典拠は『新潟市史』、『新潟県史』)

三条

町方人口は穢多・渡守を含む。

元号 西暦 町方人口
天保8年 1837年 4,340
天保14年 1843年 4,302
天保15年 1844年 4,459
安政6年 1859年 5,428
万延元年 1860年 5,359
明治6年 (総数) 1873年 7,689

(典拠は『三条市史』)

村松

元禄年中(1700年)の村松町は藩士340戸、町方208戸(寺社17軒)、合計548戸。宝暦7年(1757年)の村松町は藩士459戸、町方303戸(寺社17軒)、合計762戸。寛政年中(1795年頃)の村松町は藩士581戸、町方349戸(寺社17軒)、合計930戸(典拠は『村松町史』)。明治6年(1873年)の人口は7182人。

新発田

正徳2年(1712年)は町屋1287戸に対して家中1351戸であり、推定総人口は約1万3200人。文政元年(1818年)は町屋1347戸に対して家中1600戸であり、推定総人口は約1万5000人。

元号 西暦 家中 町方
宝永3年 1706年 3,847
享保元年 1716年 6,121
宝暦11年 1761年 4,088
天宝6年 1835年 7,625
嘉永3年 1850年 6,614
明治3年 1870年 10,468
明治6年 (総数) 1873年 18,312

(典拠は『新発田市史』、『新潟県史』)

出雲崎・尼瀬

寛永2年(1625年)の尼瀬町方は143軒、万治3年(1660年)の尼瀬町方は212軒、元禄10年(1697年)の出雲崎町方は388軒、元禄14年の尼瀬町方は288軒。町方人口は寺社人口を含む。明治6年(1873年)の人口は、尼瀬町・井ノ鼻村を合算。

元号 西暦 両町合計 出雲崎町方 尼瀬町方
正徳5年 1715年 4,152
安永6年以前 1770年頃 4,409 2,601 1,808
寛政元年 1789年 3,114
天保9年 1838年 4,734
安政4年 1857年 4,893
明治6年 1873年 8,850

(典拠は『出雲崎町史』)

長岡

正徳2年(1712年)は町屋1287戸に対して家中1351戸であり、推定総人口は約1万3200人。文政元年(1818年)は町屋1347戸に対して家中1600戸であり、推定総人口は約1万5000人。

元号 西暦 町方人口
元禄7年 1694年 5,781
明治2年 (総数) 1869年 16,460
明治6年 (総数) 1873年 24,067

(典拠は『長岡市史』)

柏崎

宝永2年(1705年)の町方人口は5758人(典拠は『新潟県史』)、明治6年(1873年)の人口は1万4081人。

直江津
元号 西暦 町方人口
寛保2年 1742年 3,581
寛政元年 1789年 4,353
天保9年 1838年 5,874
明治6年 (総数) 1873年 5,813

(典拠は『越後頸城郡誌稿』)

高田 (越後高田)
元号 西暦 町方人口
天和元年 1681年 21,567
元禄11年 1698年 17,303
元禄12年 1699年 17,264
元禄13年 1700年 17,118
元禄14年 1701年 17,429
元禄15年 1702年 17,523
元禄16年 1703年 16,376
享保7年 1722年 17,000
寛保元年 1741年 15,832
天保9年 1838年 18,383
天保11年 1840年 18,434
天保14年 1843年 17,906
明治2年 1869年 19,060
明治6年 (総数) 1873年 27,460

(典拠は『高田市史』、『中頸城郡志』)

相川

『佐渡風土記』や『古実略記』などには相川の人口は、慶長18年(1613年)に約10万人、慶長・元和年間または寛永2年(1625年)に21万0572人、元和・寛永年間に約20万人、寛永6年(1629年)に20万0500人などと記載されているものの、これらは佐渡国全域の人口としても多過ぎ信用できない。米消費量や戸数の比較から、最盛期の寛永年間の相川の人口は約3万人と推定される。

元号 西暦 合計

(総数)

役人・寺社 町方
天和元年 1681年 8,238
元禄7年 1694年 14,812 2,363 12,049
明治6年 1873年 12,632

(典拠は『新潟県史』、長谷川利平次 『佐渡金銀山史の研究』)

亀山 (亀岡)

天保14年(1843年)完成の『桑下漫録』によると亀山周辺の町村方戸数は1245軒推定6225人、内城下町分は推定4500人。城下の士族推定3000人(典拠は『亀岡市史』)。明治6年(1873年)の人口は7029人。

篠山

宝暦10年(1760年)の町方人口は2672人(典拠は『丹波多紀郡明細記』)。明治6年(1873年)の人口は5931人。

福知山

慶安2年(1649年)の町方人口は3157人(典拠は『福知山市史』)。明治6年(1873年)の人口は4893人。

田辺 (丹後田辺, 舞鶴)

天保9年(1838年)の町方人口は6510人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])、明治6年(1873年)の人口は9073人。

宮津

明治2年(1869年)の宮津の寺社人口は92人、家中は3,346人、穢多・非人は109人で、総人口は9715人。

元号 西暦 町方人口
享保3年 1718年 7,231
延享元年 1744年 7,193
明治2年 1869年 6,168
明治6年 (総数) 1873年 9,398

(典拠は『丹後宮津志』)

豊岡

天明8年(1789年)の豊岡町町方人口は3497人(典拠は『豊岡市史』)、明治6年(1873年)の人口は4926人。

出石
元号 西暦 町方人口
明和8年 1771年 5,713
天保11年 1840年 4,383
明治6年 (総数) 1873年 6,796

(典拠は『出石町史』、近松鴻二(1999年)[49])

鳥取

武家人口を含めた推定総人口は約3万5000人。

元号 西暦 町方人口
寛延2年 1749年 13,125
文化7年 1810年 10,228
弘化3年 1846年 11,440
明治6年 (総数) 1873年 20,782

(典拠は『新修鳥取市史』)

米子
元号 西暦 町方人口
寛延2年 1749年 5,677
文化7年 1810年 7,540
弘化3年 1846年 7,675
明治2年 (総数) 1869年 11,574
明治6年 (総数) 1873年 10,237

(典拠は『新修鳥取市史』)

倉吉
元号 西暦 町方人口
寛延2年 1749年 2,928
文化7年 1810年 3,699
弘化3年 1846年 4,424
明治6年 (総数) 1873年 4,809

(典拠は『新修鳥取市史』)

松江

明和4年(1767年)の家中人口は、松江藩の武家人口1万6484人より江戸定詰1325人を除いたもの。

元号 西暦 合計

(総数)

家中 町方
宝暦11年 1761年 28,564 15,019 13,545
宝暦13年 1763年 29,263 15,268 13,995
明和4年 1767年 29,067 15,159 13,908
天明7年 1787年 31,161 15,635 15,526
天保9年 1838年 36,073 15,567 20,506
明治6年 1873年 37,808

(典拠は『松江市誌』、『節山史料』)

杵築(出雲杵築)・今市・平田 (出雲)

寛延年中(1750年頃)の杵築社中(出雲大社境内)の家数は175軒、杵築6ヶ村の家臼は1028軒、合計1203軒。同年の今市の家数は合計769軒(典拠は『出雲市史』)。明治6年(1873年)の杵築の人口は7674人、今市の人口は1703人、平田の人口は3125人。

大森銀山

17世紀初めの『銀山日記』によると、慶長の頃より寛永年中にかけて(17世紀初期)大森の人口は20万人、家数2万6000軒余とあるが、これらは石見国全域の人口としても多過ぎ信用できない。17世紀中頃には、鉱山柵内の「銀山町」と、代官所の置かれた陣屋町の「大森町」という2地区からなる鉱山町が形成される。寛政12年(1800年)の大森町の家数は385軒(武家69軒、社家4軒、寺院13軒、町屋299軒)。

元号 西暦 合計 大森町 銀山町
延宝6年 1678年 1,564
元禄5年 1692年 1,871
元禄15年 1702年 2,307 686 1,621
元文5年 1740年 1,467
延享4年 1747年 1,173
文化12年 1815年 1,657
天保9年 1838年 1,242
文久2年 1862年 1,061
明治6年 (総数) 1873年 2,124 1,475 659

(典拠は山陰宗門改帳研究会 『宗門改帳からみる山陰の近世社会 その2』)

浜田

浜田八町町方戸数は享保20年(1735年)に622戸、寛保2年(1742年)に565戸、明和6年(1769年)に569戸、天保7年(1836年)に544戸、嘉永元年(1848年)に597戸(典拠は浜田市誌)。明治6年(1873年)の人口は3943人。

津和野

文化2年(1805年)の津和野藩家中人口5464人中、江戸在中は272人、廿日市在中は92人、大坂在中は22人。嘉永4年(1869年)の津和野藩家中人口5296人中、江戸在中は179人、廿日市在中は80人、大坂在中は25人。

元号 西暦 総数 家中 町方
文化2年 1805年 7,618 5,078 2,540
弘化2年 1845年 6,782 4,859 1,923
弘化3年 1846年 6,851 4,902 1,949
嘉永3年 1850年 7,069 5,021 2,048
嘉永4年 1851年 7,050 5,012 2,038
明治6年 1873年 7,088

(典拠は亀井茲建(1932年)[51])

明石
元号 西暦 町方人口
天和3年 1683年 8,415
享保6年 1721年 8,923
明治6年 (総数) 1873年 14,410

(典拠は『兵庫県史』)

姫路
元号 西暦 町方人口
慶安元年 1648年 22,125
慶安2年~寛文7年 1660年頃 22,426
寛文7年 1667年 24,140
天和4年 1684年 21,362
天和2年~宝暦元年 1700年頃 21,526
元禄17年 1704年 22,309
宝永6年 1709年 22,158
享保18年 1733年 22,499
元文5年 1740年 22,256
寛保2年 1742年 20,949
寛延2年 1749年 18,769
宝暦年中 1755年頃 22,390
宝暦10年 1760年 17,034
明和2年 1765年 17,064
明和8年 1771年 16,329
文化6年 1809年 14,725
弘化2年 1845年 13,872
明治6年 (総数) 1873年 24,521

(典拠は『姫陽秘鑑』、三浦俊明 『譜代藩城下町姫路の研究』)

龍野
元号 西暦 町方人口
享保8年 1723年 4,120
天明8年 1788年 4,125
寛政10年 1798年 3,999
天保4年 1833年 3,568
天保13年 1842年 3,383
弘化3年 1846年 3,466
安政3年 1856年 3,475
元治元年 1864年 3,491
明治6年 (総数) 1873年 5,170

(典拠は『龍野市史』)

加里屋 (赤穂)
元号 西暦 町方人口
宝永3年 1706年 4,744
文政8年 1825年 3,195
天保年中 1840年頃 3,080
明治6年 (総数) 1873年 7,134

(典拠は『赤穂市史』)

津山

享保10年(1725年)編纂の『作州記』によると、寛文年中(1665年頃)の武家人口は1万3321人。元禄の頃の推定人口は約3万人。

元号 西暦 町方人口
寛文年中 1665年頃 14,349
元禄11年 1697年 16,445
元禄12年 1698年 16,579
宝永4年 1707年 11,499
享保11年 1726年 9,991
元文3年 1738年 8,878
宝暦6年 1756年 7,940
明和5年 1768年 7,511
安永7年 1778年 7,281
寛政4年 1792年 6,775
寛政5年 1793年 6,924
文化元年 1804年 6,600
文化13年 1816年 6,861
天保3年 1832年 6,833
天保11年 1840年 6,404
嘉永5年 1852年 7,418
元治元年 1864年 7,881
明治2年 1869年 8,111
明治6年 (総数) 1873年 15,411

(典拠は『岡山県史』)

岡山

宝永4年(1707年)の岡山町中乞食は346人、家中人口は1万0027人(町方・在方帳面記載分1万2170人、他国者431人を加えると2万2628人)、御城女中は70人、寺社方人口は7,932人であり、岡山の推定総人口は約4万5000人。

元号 西暦 合計 町方人口 奉公人等
寛文7年3月 1667年 28,669
寛文7年8月 28,432
寛文8年 1668年 31,850
寛文9年 1669年 28,459
延宝8年 1680年 30,033
天和年中 1682年頃 30,133
宝永4年 1707年 30,635 28,298 2,337
享保2年 1717年 27,950
享保6年 1721年 30,296
享保17年 1732年 27,789
元文3年 1738年 26,349
宝暦3年 1753年 24,556 23,496 1,060
宝暦12年 1762年 24,190
明和3年 1766年 23,512
明和4年 1767年 23,537
明和5年 1768年 24,347 23,574 773
安永元年 1772年 23,096
安永2年 1773年 23,579 22,915 665
安永6年 1777年 23,342 22,728 614
天明3年 1783年 22,811 22,402 409
寛政10年 1798年 21,357 21,218 139
享和2年 1802年 21,212 21,084 128
文化9年 1812年 21,103 21,092 11
天保9年 1838年 20,173
嘉永7年 1854年 20,086
安政5年 1858年 20,101 20,092 9
明治2年 1869年 20,670
明治6年 (総数) 1873年 32,372

(典拠は『岡山市史』、『岡山県史』、金井圓(1953年)[52]、谷口澄夫 『岡山藩政史の研究』)

倉敷

倉敷は天領の「村」として扱われた。

元号 西暦 在方人口 元号 西暦 在方人口
寛文12年 1672年 2,536 寛政4年 1792年 6,897
延宝7年 1679年 2,788 寛政5年 1793年 6,984
延宝8年 1680年 2,746 寛政9年 1797年 6,997
延宝9年 1681年 2,779 文化3年 1806年 7,200
元禄7年 1694年 3,841 文化4年 1807年 7,227
宝永3年 1706年 4,487 文化13年 1816年 7,392
宝永7年 1710年 4,569 文化14年 1817年 7,380
正徳元年 1711年 1,077 文政8年 1825年 7,226
享保11年 1726年 4,816 文政9年 1826年 7,188
享保18年 1733年 5,392 文政13年 1830年 7,124
延享元年 1744年 5,774 天保6年 1835年 7,191
寛延2年 1749年 5,724 天保7年 1836年 7,211
宝暦2年 1752年 5,924 天保9年 1838年 7,987
宝暦4年 1754年 5,850 天保13年 1842年 7,067
宝暦6年 1756年 6,371 弘化2年 1845年 6,788
宝暦12年 1762年 6,617 弘化3年 1846年 6,838
明和元年 1764年 6,696 安政6年 1859年 6,678
明和2年 1765年 6,737 文久2年 1862年 6,477
明和5年 1768年 6,864 元治元年 1864年 6,250
明和7年 1770年 6,910 元治2年 1865年 6,218
安永4年 1775年 6,762 明治3年 1870年 6,446
安永6年 1777年 6,590 明治4年 1871年 6,440
寛政元年 1789年 6,715 明治6年 (総数) 1873年 6,357

(典拠は『倉敷市史』)

松山 (備中松山、高梁)

元禄7年(1694年)の町方1807軒5603人に対し、武家1974軒推定6048人。

元号 西暦 町方人口
元禄7年 1694年 5,603
延享元年 1744年 3,597
明治6年 (総数) 1873年 5,501

(典拠は『高梁市史』)

福山 (備後福山)

町方人口は寺社を含み、元禄10年、11年頃(1697年、1698年頃)の総人口は2万4786人。

元号 西暦 家中 町方
天和元年 1681年 12,942
元禄10年 1697年 12,989
元禄11年 1698年 11,797
宝永2年 1705年 12,523
安永元年 1772年 12,678
文化7年 1810年 7,900
明治6年 (総数) 1873年 17,643

(典拠は『広島県史』)

鞆町
元号 西暦 町方人口
正徳元年 1711年 7,204
宝暦11年 1761年 5,864
文化年中 1810年頃 4,634
文化13年 1816年 4,794
明治5年 (総数) 1872年 6,003

(典拠は『広島県史』、『福山志料』)

尾道
元号 西暦 町方人口
享保5年 1720年 7,031
享保12年 1727年 6,969
宝暦11年 1761年 8,277
天明6年 1786年 9,331
寛政元年 1789年 8,474
寛政4年 1792年 9,751
文化12年 1815年 9,488
明治6年 (総数) 1873年 9,722

(典拠は『広島県史』)

三原
元号 西暦 町方合計 東町 東地方 西町 西地方 茅町 寺院
寛文11年 1671年 4,139 1,848 2,291
元禄16年 1703年 6,609
正徳2年 1712年 1,890 179 70
正徳5年 1715年 7,104
延享3年
(合計は東西町分のみ)
1746年 4,127 146
宝暦11年
(合計は東西町分のみ)
1761年 4,265 1,706 58
安永元年 1772年 6,067 1,685 118 2,000 1,875 249 140
安永2年 1773年 5,723 1,636 109 1,903 1,723 219 133
安永3年 1774年 1,965 1,431 219
安永9年 1780年 1,722 103
天明5年 1785年 1,916
寛政元年 1789年 1,782
寛政3年 1791年 1,947
享和2年 1802年 1,887
文化6年 1809年 2,052 144
文化12年 1815年 158 104
文政2年 1819年 6,378 2,031 2,112 2,235
文政4年 1821年 2,090
文政10年 1827年 2,110
天保4年 1833年 2,035
天保9年 1838年 4,044 2,326
天保10年 1839年 1,944 143 131
天保12年 1841年 6,353 1,902 1,851 2,326
弘化2年 1845年 2,076
嘉永4年 1851年 1,939
文久3年 1863年 2,060
明治6年 (総数)年 1873年 8,565

(典拠は『三原市史』)

御手洗 (大長村)

大長村は、御手洗・大長・沖友の三地区からなる。明治6年(1873年)の人口は御手洗港のみ。

元号 西暦 大長村
合計
御手洗
町方
宝永5年 1708年 638
寛保2年 1742年 929
寛延元年 1748年 957
宝暦5年 1755年 1,032
明和5年 1768年 1,543 537
天明3年 1783年 2,523 1,190
享和元年 1801年 2,982 1,570
文政2年 1819年 3,418
嘉永6年 1853年 4,047
明治6年 (総数) 1873年 1,553

(典拠は『広島県史』)

広島

正徳5年(1715年)の町組3958軒、新開組893軒、革組77軒に対して侍屋敷609軒、歩行以下拝領家354軒、小人多長屋等1万1690坪とあり、武家人口を含めた推定総人口は約6万8000人。幕末の推定総人口は約7万~8万人。

元号 西暦 合計 町組 新開地 僧侶 革田・

定非人

寛文3年 1663年 37,212 36,142 1,070
延宝5年 1677年 38,491 31,205 6,201 1,085
正徳5年 1715年 48,351 37,155 10,855 341
延享2年 1745年 33,411
延享3年 1746年 33,191
宝暦10年 1760年 27,987
明和5年 1768年 28,693
安永6年 1777年 27,577
天明5年 1785年 27,230
寛政4年 1792年 48,790 27,695 21,095
寛政10年 1798年 29,116
寛政11年 1799年 29,211
寛政12年 1800年 29,247
文化6年 1809年 29,574
文化7年 1810年 29,631
文化12年 1815年 29,536
文化13年 1816年 28,940
文政5年 1822年 50,092 24,776 23,884 1,432
明治6年 (総数) 1873年 74,305

(典拠は『芸備国郡志』、『新修広島市史』、『広島県史』)

宮島 (安芸宮島、厳島)
元号 西暦 町方人口
正徳5年 1715年 3,590
延享3年 1746年 3,728
寛政6年 1794年 3,513
文政2年 1819年 3,734
明治2年 1869年 3,712
明治6年 (総数) 1873年 3,594

(典拠は『広島県史』)

竹原下市
元号 西暦 町方人口
享保17年 1732年 4,697
宝暦6年 1756年 4,913
明和4年 1767年 4,614
安永2年 1773年 4,332
天明6年 1786年 4,541
寛政8年 1796年 5,108
享和4年 1804年 4,695
文化7年 1810年 5,148
文政年中 1825年頃 5,172
天保5年 1834年 5,930
嘉永2年 1849年 5,951
慶応2年 1866年 5,772
明治4年 1871年 5,659
明治6年 (総数) 1873年 6,103

(典拠は『広島県史』)

山口

複数の宣教師の記録により山口は室町時代から安土桃山時代にかけて5万~9万人前後の人口を有していたと推定されているが、江戸時代に入ると萩に城下町が移り、都市規模が大幅に縮小する。寛政4年(1791年)の山口町は町屋敷1685軒に対し侍屋敷数3軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は185軒(諸士51軒、足軽以下88軒、陪臣46軒)で、推定総人口は6500人。文久3年(1863年)以降再び山口藩の藩庁が置かれる。

元号 西暦 町方人口
寛文7年 1667年 5,300
寛政2年 1790年 5,409
寛政3年 1791年 5,402
寛政4年 1792年 5,337
文政6年 1823年 5,268
文政7年 1824年 5,146
文政8年 1825年 5,311
文政9年 1826年 5,257
天保2年 1831年 5,341
天保3年 1832年 5,220
天保4年 1833年 5,187
天保5年 1834年 5,110
天保6年 1835年 5,176
天保年中 1840年頃 5,710
安政2年 1855年 5,784
安政3年 1856年 5,879
安政4年 1857年 5,908
安政5年 1858年 5,913
文久元年 1861年 5,983
文久2年 1862年 5,952
慶応3年 1867年 5,825
慶応4年 1868年 5,963
明治2年 1869年 6,160
明治6年 (総数) 1873年 9,279

(典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)

三田尻 (防府)

三田尻・宮市両町の町方人口。寛政4年(1791年)の三田尻・宮市両町は町屋敷497軒に対し侍屋敷数313軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は6軒(諸士2軒、陪臣4軒)。

元号 西暦 町方・寺社方
合計
町方 寺社方 旅人
寛政2年 1790年 3,739 3,516 223 224
寛政3年 1791年 3,709 3,478 231 253
寛政4年 1792年 3,778 3,553 225 213
文政6年 1823年 3,586 3,360 226 154
文政7年 1824年 3,551 3,330 221 135
文政8年 1825年 3,651 3,455 196 6
文政9年 1826年 3,590 3,429 161 2
天保2年 1831年 3,589 3,332 257
天保3年 1832年 3,603 3,370 233
天保4年 1833年 3,574 3,340 234
天保5年 1834年 3,725 3,464 261
天保6年 1835年 3,494 3,229 265
天保年中 1840年頃 2,995
安政2年 1855年 3,181 2,966 215
安政3年 1856年 3,167 2,949 218
安政4年 1857年 3,205 2,998 207
安政5年 1858年 3,354 3,096 258
文久元年 1861年 3,254 3,030 224
文久2年 1862年 3,264 3,038 226
文久3年 1863年 3,264 3,037 227
元治元年 1864年 3,181 2,966 215
慶応3年 1867年 3,093 2,900 193
慶応4年 1868年 3,264 3,065 199
明治2年 1869年 3,420 3,202 218
明治6年 (総数) 1873年 4,442

(典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)

岩国

享保11年(1726年)の町方人口は、錦見町(2969人)、横山の川原町(136人)、川西町(461人)を合わせて3566人(典拠は『岩国市史』)。明治6年(1873年)の岩国の人口は1万1684人(錦見、横山、川原、および武家地区の岩国町の合計)。

元禄7年(1694年)の萩町屋敷3199軒1万3284人、浜崎町屋敷492軒802人に対し侍屋敷1324軒。享保2年(1717年)の萩町屋敷3090軒、浜崎町屋敷490軒合計1万6424人に対し侍屋敷1390軒。宝暦元年(1751年)の萩町方竈数3660軒に対し、18世紀半ばの屋敷方の把握する屋敷数は、諸士中抱居候936ヶ所、足軽以下抱居候269ヶ所、寺社屋敷112ヶ所、御用屋敷45ヶ所。寛政4年(1792年)の萩町屋敷2129軒1万1107人、浜崎町屋敷396軒923人に対し侍屋敷1251軒。明治6年(1873年)の『日本地誌提要』による人口4万5318人は椿郷東分村、椿郷西分村、山田村などの郊外を含んでいると考えられ、萩本町と浜崎から成る萩デルタ地帯の人口は3万0092人(『共武政表』)。

元号 西暦 萩町寺社方・
浜崎町町方合計
萩・浜崎
町方合計
萩町方 浜崎町方 萩寺社方 萩旅人
万治元年 1658年 8,278
寛文3年 1663年 9,110 8,710 400
元禄7年 1694年 14,086 13,284 802
享保2年 1717年 16,424
延宝3年 1746年 13,177
宝暦6年 1756年 13,114
天明6年 1786年 12,392
寛政2年 1790年 1,702
寛政3年 1791年 12,609 10,848 1,761 869
寛政4年 1792年 12,891 11,107 1,784 923
文政6年 1823年 1,930
文政7年 1824年 13,087 11,183 1,904 963
文政8年 1825年 12,936 11,046 1,890 834
文政9年 1826年 13,839 12,946 10,923 2,023 893 850
天保2年 1831年 2,171 865
天保3年 1832年 13,481 11,316 2,165 654
天保4年 1833年 14,245 13,391 11,196 2,195 854 667
天保5年 1834年 13,727 11,555 2,172 726
天保6年 1835年 13,236 11,051 2,185 724
安政2年 1855年 14,278 13,202 10,832 2,370 1,076 651
安政3年 1856年 14,322 13,231 10,801 2,430 1,091 669
安政4年 1857年 14,330 13,236 10,788 2,448 1,094 703
安政5年 1858年 14,534 13,417 10,972 2,445 1,117 712
文久元年 1861年 13,778 12,718 10,318 2,400 1,060 684
文久2年 1862年 13,441 12,372 10,024 2,348 1,069 695
元治元年 1864年 9,811 87 525
慶応3年 1867年 12,713 11,795 9,397 2,398 918 553
慶応4年 1868年 12,561 11,666 9,270 2,396 895 600
明治2年 1869年 12,699 11,827 9,429 2,398 872 639
明治6年 (総数) 1873年 45,318

(典拠は『山口県史』、『萩市誌』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)

赤間関 (下関)

ケンペルの『日本誌』によると元禄4年(1691年)の戸口は400~500軒、長久保赤水の『長崎行役日記』によると明和4年(1767年)の戸口は数千軒。江戸時代の赤間関の人口は長府(後の豊浦)藩領の赤間関12町のみであり、萩(長州)藩領の今浦・新地、清末藩領の竹崎・伊崎を除く。また天保9年の人口は阿弥陀寺町分の人口を欠く。

元号 西暦 町方人口
元禄7年 1694年 5,229
寛政4年 1792年 8,299
天保9年 1838年 6,644
明治6年 (総数) 1873年 18,500

(典拠は『下關二千年史』、『下関市史』、『天保九年赤間関人別帳』)

和歌山

享保13年(1728年)の数字は、和歌山藩の総人口(33万6119人)が元禄12年(1699年)と同一であり、元禄13年(1700年)の誤記である可能性が高い。武家人口を含めた推定総人口は約7万~8万人。宝暦3年(1753年)の町湊家数は4940軒。弘化3年(1846年)の竈数は7910。

元号 西暦 若山町中
元禄12年 (8歳以上) 1699年 42,314
享保13年 (全年齢?) 1728年 57,005
弘化3年 (8歳以上) 1846年 25,469
明治6年 (総数) 1873年 61,124

(典拠は『南紀徳川史』、『和歌山県史』、『和歌山市史』)

田辺 (紀伊田辺)

江戸時代の田辺の人口統計は、特に記載がないものも全て8歳以上対象と推定される。延享3年(1746年)の城下町は756軒で、家中27軒、与力36軒、足軽60人、寺14ヵ寺を含む。

元号 西暦 合計 田辺城下 江川 水主
寛文7年 1667年 4,049 2,516 1,483 50
享保10年 1725年 3,534 2,720 814
延享3年 (8歳以上) 1746年 3,084 2,413 671
寛政12年 1800年 3,177
享和元年 1801年 3,230
文政3年 (8歳以上) 1820年 3,644
天保9年 (8歳以上) 1838年 3,786
明治元年 1868年 3,258
明治6年 (総数) 1873年 7,485

(典拠は『田辺市史』、『和歌山県史』)

洲本

宝暦年中(1755年頃)の町方人口は4171人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は7267人。

徳島
元号 西暦 町方人口
寛文10年 1670年 18,826
貞享2年 1685年 20,590
明治6年 (総数) 1873年 48,861

(典拠は『阿波藩民政資料』、『阿波誌』)

高松
元号 西暦 合計

(総数)

家中 町方合計 町中 東浜・西浜

・西通町・
田町・松島

寛永19年 1642年 12,943
寛文7年 1667年 24,243 19,726 4,517
天保9年 1838年 30,195 5,273 24,922
明治6年 1873年 32,736

(典拠は『高松市史』)

丸亀

寛文末年の丸亀町の人口は5158人、三浦の人口は2027人。

元号 西暦 合計

(総数)

家中 町・三浦

合計

寛文末年 1670年頃 7,185
貞享4年 1687年 8,567
天保9年 1838年 8,457
安政5年 1858年 8,749
文久2年 1862年 15,610 7,002 8,608
明治6年 1873年 13,875

(典拠は『香川県史』、『新編丸亀市史』)

今治
元号 西暦 町方人口
寛永13年 1636年 3,892
延宝8年 1680年 3,702
享保6年 1722年 4,800
天保9年 1838年 6,032
天保13年 1842年 5,046
明治6年 (総数) 1873年 12,000

(典拠は『愛媛県史』、『新今治市誌』)

松山 (伊予松山)
元号 西暦 町方人口
元禄4年 1691年 16,604
寛政元年 1789年 11,528
文政3年 1820年 11,598
明治6年 (総数) 1873年 26,141

(典拠は『愛媛県史』)

宇和島

武家人口は4300~4900人、幕末には5400~6300人の範囲で推移し、武家を含めた人口は9000~1万2000人(幕末)。

元号 西暦 合計 町方 町方寺中
・山伏
元号 西暦 合計 町方 町方寺中
・山伏
元禄3年 1690年 4,850 4,397 453 寛政4年 1792年 3,663 3,311 352
元禄4年 1691年 4,728 4,254 474 寛政5年 1793年 3,741 3,358 383
宝暦11年 1761年 3,802 3,407 395 寛政6年 1794年 3,869 3,464 405
宝暦12年 1762年 3,877 3,473 404 寛政7年 1795年 3,820 3,403 417
明和8年 1771年 4,016 3,614 402 寛政8年 1796年 3,899 3,447 452
安永元年 1772年 4,045 3,636 409 寛政9年 1797年 3,909 3,462 447
安永2年 1773年 3,978 3,579 399 寛政10年 1798年 3,909 3,447 462
安永3年 1774年 3,794 3,372 422 寛政11年 1799年 3,882 3,425 457
安永4年 1775年 3,842 3,431 411 寛政12年 1800年 3,879 3,435 444
安永5年 1776年 3,873 3,464 409 享和元年 1801年 3,906 3,447 459
安永6年 1777年 3,832 3,443 389 享和2年 1802年 3,882 3,424 458
安永7年 1778年 3,873 3,490 383 享和3年 1803年 3,888 3,428 460
安永8年 1779年 3,912 3,532 380 文化元年 1804年 3,839 3,385 454
安永9年 1780年 3,846 3,466 380 嘉永2年 1849年 5,195 4,726 469
天明元年 1781年 3,863 3,499 364 嘉永6年 1853年 5,307 4,833 474
天明2年 1782年 3,836 3,458 378 安政6年 1859年 5,548 5,060 488
天明3年 1783年 3,831 3,449 382 万延元年 1860年 5,581 5,083 498
天明4年 1784年 3,809 3,430 379 文久元年 1861年 5,570 5,070 500
天明5年 1785年 3,699 3,342 357 文久2年 1862年 5,610 5,104 506
天明6年 1786年 3,678 3,319 359 文久3年 1863年 5,465 4,957 508
天明7年 1787年 3,656 3,287 369 元治元年 1864年 5,435 4,923 512
天明8年 1788年 3,631 3,278 353 慶応元年 1865年 5,516 4,982 534
寛政元年 1789年 3,620 3,296 324 慶応2年 1866年 5,624 5,073 551
寛政2年 1790年 3,637 3,295 342 慶応3年 1867年 5,676 5,119 557
寛政3年 1791年 3,693 3,342 351 明治6年 (総数) 1873年 12,209

(典拠は安澤秀一(1980年)[53]。)

高知

家中は侍、郷士、諸奉公人を含む。

元号 西暦 合計

(総数)

家中 町方
寛文5年 1665年 17,054
宝暦12年 1762年 21,351 5,693 14,658
文政2年 1819年 13,985
文政12年 1829年 14,442
天保14年 1843年 15,292
弘化元年 1844年 15,680
弘化2年 1845年 15,846
嘉永6年 1852年 15,895
明治6年 1873年 39,757

(典拠は『高知藩財政史』、『高知市史』)

福岡・博多

福岡藩のもと、那珂川を挟んで城下町の福岡町と町人町の博多町が整備された。

元号 西暦 博多町方 福岡町方
寛文9年 1669年 17,948
寛文10年 1670年 18,340
寛文11年 1671年 18,608
寛文12年 1672年 18,691
寛文13年 1673年 19,228
元禄3年 1690年 19,468 15,009
宝永7年 1710年 18,777
享保3年 1718年 17,842 13,675
元文2年 1737年 13,469
延享3年 1746年 15,293
延享5年 1748年 15,363
寛延3年 1750年 15,448
宝暦2年 1752年 15,548
宝暦4年 1754年 15,341
文化3年 1806年 7,470
文化9年 1812年 14,619
明治6年 (総数) 1873年 20,985 20,650

(典拠は『福岡県史』)

久留米

宝永3年(1706年)の武家人口は1万2250人、諸寺僧俗人口は268人であり、推定総人口は約2万人。

元号 西暦 町方人口
元禄12年 1699年 8,764
宝永3年 1706年 8,888
安永9年 1780年 7,631
文政5年 1822年 8,632
安政5年 1858年 11,208
明治6年 (総数) 1873年 20,381

(典拠は『久留米市史』)

柳川

柳川藩の武家人口は、宝暦2年(1752年)に1万1918人、文化14年(1817年)に1万5133人、元治元年(1864年)に1万5623人。

元号 西暦 町方・寺社方人口
宝暦2年 1752年 6,643
文化7年 1810年 5,485
文化14年 1817年 7,577
天保11年 1840年 6,595
弘化3年 1846年 6,634
嘉永5年 1852年 6,714
安政5年 1858年 6,805
元治元年 1864年 6,377
明治6年 (総数) 1873年 8,865

(典拠は『福岡県史』)

小倉

宝永5年(1708年)の東西町人口は侍屋敷、組屋舗、寺社町家の人口を含むと思われる。弘化3年(1846年)の家中人口は3099人で、寺社を含む推定総人口は1万4000人。

元号 西暦 町方合計 小倉東町 小倉西町
宝永5年 (総数) 1708年 18,065 13,565 4,500
延享元年 1744年 9,621
文化13年 1816年 9,575
文政8年 1825年 7,443 4,688 2,755
天保9年 1838年 7,700
弘化3年 1846年 10,391 6,777 3,614
慶応2年 1866年 8,931
明治6年 (総数) 1873年 7,459

(典拠は『福岡県史』)

中津
元号 西暦 町方合計
享保6年 1722年 5,166
安政5年 1858年 4,156
慶応3年 1867年 4,186
明治6年 (総数) 1873年 11,538

(典拠は『中津市史』)

杵築 (豊後杵築)

宝暦11年(1761年)の町方280軒1220人、寛政元年(1789年)の町方310軒1127人、天保9年(1838年)の町方480軒1688人に対し、家中屋敷数はどの時期も100余軒。

元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口 元号 西暦 町方人口
享保6年 1721年 1,293 文化11年 1814年 1,436 天保10年 1839年 1,659
享保16年 1731年 1,280 文化12年 1816年 1,458 天保11年 1840年 1,663
宝暦11年 1761年 1,220 文化14年 1817年 1,494 天保12年 1841年 1,650
天明6年 1786年 1,153 文政元年 1818年 1,513 天保13年 1842年 1,643
寛政元年 1789年 1,127 文政2年 1819年 1,538 天保14年 1843年 1,681
寛政7年 1795年 1,206 文政3年 1820年 1,563 弘化元年 1844年 1,671
寛政8年 1796年 1,210 文政4年 1821年 1,574 弘化2年 1845年 1,694
寛政9年 1797年 1,186 文政5年 1822年 1,587 弘化3年 1846年 1,716
寛政10年 1798年 1,238 文政6年 1823年 1,609 弘化4年 1847年 1,724
寛政11年 1799年 1,243 文政7年 1824年 1,614 嘉永元年 1848年 1,698
寛政12年 1800年 1,263 文政8年 1825年 1,640 嘉永2年 1849年 1,724
享和元年 1801年 1,274 文政9年 1826年 1,704 嘉永3年 1850年 1,698
享和2年 1802年 1,292 文政10年 1827年 1,714 嘉永4年 1851年 1,725
享和3年 1803年 1,301 文政11年 1828年 1,742 嘉永5年 1852年 1,745
文化元年 1804年 1,290 文政12年 1829年 1,753 嘉永6年 1853年 1,722
文化2年 1805年 1,291 天保元年 1830年 1,714 安政元年 1854年 1,719
文化3年 1806年 1,354 天保2年 1831年 1,721 安政2年 1855年 1,723
文化4年 1807年 1,350 天保3年 1832年 1,723 安政3年 1856年 1,714
文化5年 1808年 1,387 天保4年 1833年 1,718 安政4年 1857年 1,738
文化6年 1809年 1,413 天保5年 1834年 1,700 安政5年 1858年 1,724
文化7年 1810年 1,430 天保6年 1835年 1,710 万延元年 1860年 1,722
文化8年 1811年 1,437 天保7年 1836年 1,719 文久元年 1861年 1,729
文化9年 1812年 1,439 天保8年 1837年 1,690 明治6年 (総数) 1873年 4,416
文化10年 1813年 1,440 天保9年 1838年 1,688

(典拠は『大分県史』)

府内 (大分)

僧山伏社人と牢人を含む。武家人口は宝永元年(1704年)に1840人、正徳2年(1712年)に1998人(内、山里200人)

元号 西暦 町組合計 城下四町 西三カ村 東五カ村 僧山伏社人・

牢人合計

宝永4年 1707年 3,486
正徳2年 1712年 14,096 5,501 4,733 3,404 368
延享3年 1746年 3,856
安永9年 1780年 12,132 3,931 4,431 3,556 214
寛政10年 1798年 11,621 3,613 3,591 4,219 198
文化2年 1805年 11,458 3,535 4,089 3,620 214
文化8年 1811年 11,544
嘉永5年 1852年 11,093
明治元年 1868年 11,478 3,377 4,085 4,016
明治6年 (総数) 1873年 6,821

(典拠は『大分県史』、『大分市史』)

臼杵
元号 西暦 町方人口
寛文10年 1670年 2,380
元禄9年 1696年 2,273
元禄16年 1703年 2,373
宝暦2年 1752年 1.878
文化14年 1817年 2,517
明治6年 (総数) 1873年 10,738

(典拠は『臼杵市史』)

佐賀
元号 西暦 合計

(総数)

城下 町屋
貞享4年 1687年 31,450 13,451 17,999
安政元年 1854年 20,084 6,373 13,711
明治6年 1873年 21,660

(典拠は城島正祥(1973年)[54])

島原
元号 西暦 町方人口
寛永15年 1638年 4,851
延宝3年 1675年 6,347
文政6年 1823年 4,436
明治6年 (総数) 1873年 18,682

(典拠は『島原の歴史』)

長崎

江戸時代を通じて出島で対オランダ貿易が行われた。幕末五港として開港する。なお元禄9年(1696年)の長崎町方人口を6万4523人とする引用が多いが、おそらく内町の人口(1万1597人)を誤って2度加算した結果であり、実際の人口は5万2926人(元文献は『長崎根元記』)と思われる。

元号 西暦 長崎奉行

管轄地合計

市中人口

(内町・外町)

郷三ヵ村
元和2年 1616年 24,693
万治2年 1659年 40,700
寛文9年 1669年 40,588
寛文12年 1672年 40,025
天和元年 1681年 52,702
元禄2年 1689年 56,336 51,359 4,977
元禄7年 1694年 53,522
元禄9年 1696年 52,926
元禄16年 1703年 50,148
元禄17年 1704年 50,122
正徳5年 1715年 41,553
明和8年 1771年 29,897
安永元年 1772年 30,006
天明8年 1788年 32,364
寛政元年 1789年 31,893
寛政13年 1801年 10,292
文政5年 1822年 29,681
天保9年 1838年 40,019 27,166 12,853
天保12年 1841年 29,962
嘉永6年 1853年 27,343
安政元年 1854年 27,339
安政2年 1855年 27,376
安政3年 1856年 27,381
明治6年 (長崎町総数) 1873年 29,656

旅人の人数は文化14年(1817年)6月に1654人、天保12年(1841年)正月に921人。天明4年(1784年)7月24日の唐人屋敷全焼時に滞在していた唐人は892人。来航外国人延人数は以下の通りである。

元号 西暦 合計 唐人 和蘭人
延人数 船舶 延人数 船舶
延宝7年 1679年 3,379 2,965 (32艘) 414 (4艘)
延宝8年 1680年 2,899 2,483 (31艘) 416 (4艘)

(典拠は『長崎県史』、若松正志(1992年)[55])

大村

文久2年(1862年)の大村城下の給人戸数は2569軒、町方戸数は671軒(典拠は『大村市史』)。明治6年(1873年)の人口は9284人。

唐津
元号 西暦 町方人口
元禄5年 1692年 3,972
寛政元年 1789年 2,807
寛政11年 1799年 2,958
文政元年 1818年 3,000
天保4年 1833年 2,957
天保9年 1838年 3,039
明治3年 1870年 3,246
明治6年 (総数) 1873年 7,987

(典拠は『佐賀県史』)

平戸

寛政4年(1792年)の町方人口は2678人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は1万0558人。

福江富江 (福江島)

文政4年(1821年)の福江掛分町方人口は647人。慶応4年(1868年)の富江掛分人口は7216人、内富江村は687人(以上典拠は『長崎県史』)。明治6年(1873年)の旧富江掛分人口は8669人、内富江港は4097人(『共武政表』)。明治6年(1873年)の旧福江掛分人口は1万7787人。

熊本

天保元年(1830年)の武家人口を含めた推定総人口は約6万人。

元号 西暦 町方人口
慶長16年 (家中を含む) 1611年 12,841
延宝・天和年中 1680年頃 24,735
享保19年 1734年 19,939
延享元年 1744年 19,740
寛延3年 1750年 19,331
宝暦4年 1754年 20,881
宝暦6年 1756年 19,459
宝暦12年 1762年 19,781
明和5年 1768年 20,049
安永3年 1774年 19,019
安永9年 1780年 18,296
天明6年 1786年 16,736
寛政4年 1792年 18,864
寛政10年 1798年 18,470
文化元年 1804年 18,358
文化7年 1810年 18,263
文化9年 1812年 16,491
文化13年 1816年 19,504
文政5年 1822年 19,096
文政11年 1828年 19,054
天保元年 1830年 21,300
天保5年 1834年 18,829
天保11年 1840年 19,388
弘化3年 1846年 20,001
安政5年 1858年 22,637
明治6年 (総数) 1873年 44,620

(典拠は『熊本市誌』、『新熊本市史』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』)

八代

文化元年(1804年)の城下町屋14箇町の町方戸数は1414軒(典拠は『八代市史』)、安政5年||(1858年)の町方人口は4819人(典拠は鎌田浩『熊本藩の法と政治』)、明治6年(1873年)の人口は9021人。

人吉

延享3年(1746年)の町方人口は3202人(典拠は『人吉市史』)、明治6年(1873年)の人口は3740人。

延岡
元号 西暦 延岡七町
町方
延享4年 1747年頃 2,438
文政11年 1828年 2,436
弘化4年 1847年 2,447
安政6年 1859年 2,345
万延元年 1860年 2,393
文久元年 1861年 2,411
文久3年 1863年 2,384
元治元年 1864年 2,368
慶応元年 1865年 2,314
慶応2年 1866年 2,306
明治6年 (総数) 1873年 6,861

(典拠は八木敏夫 『譜代藩の研究』)

都城

寛永13年(1636年)の都城郷の人口は1万5968人(荘内郷を含む)。明治4年(1871年)の都城郷は、士族5386人、卒族238人、平民7296人で合計1万2920人、荘内郷は、士族5307人、平民6367人で合計1万1674人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。明治6年(1873年)の都城駅の人口は7390人。

飫肥
元号 西暦 町方人口
文政11年 1828年 1,894
天保5年 (総数?) 1834年 6,676
明治2年 1869年 768
明治6年 (総数) 1873年 2,746

(典拠は近松鴻二(1999年)[49]、『宮崎県史』)

加治木

寛永13年(1636年)の加治木郷の人口は1万1038人。明治4年(1871年)の国分郷は、士族3686人、卒族375人、平民5325人で合計9386人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

国分 (大隅国分, 国府)

寛永13年(1636年)の国分郷の人口は9186人。明治4年(1871年)の国分郷は、士族4538人、卒族129人、旧神官28人、平民1万2441人で合計1万7144人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

鹿児島

以下の数字は武家人口を含む鹿児島(城下町及び近在)全域の人口であり、実際の城下町の人口は最盛期で諸士・家来人口と三町の町方人口を含む5万~6万人程度と推定される。明治4年の人口は士族2万6992人、卒族2571人、平民5万5872人を含む。明治6年(1873年)の鹿児島郡(鹿児島及び吉田郷)の人口は8万9374人(『共武政表』)。

元号 西暦 総数[注 2] 諸士 諸士家来等 出家 三町 横井野町 荒田浜 在郷 穢多・慶賀
貞享元年 1684年 49,096 10,001
享保年中 1725年頃 6,408
明和9年 1772年 59,816 15,176 27,725 318 5,737 104 123 10,382 89
寛政12年 1800年 61,497 15,728 28,113 289 5,185 115 98 11,954 115
文政9年 1826年 72,455 16,794 35,774 315 4,941 153 88 14,285 105
嘉永5年 1852年 76,998 18,171 39,922 303 4,040 129 66 14,281 86
明治4年 1871年 85,435
明治6年 (城下のみ) 1873年 27,240

(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56]、『鹿児島県史』)

谷山

寛永13年(1636年)の谷山郷の人口は5417人。明治4年(1871年)の谷山郷は、士族3422人、卒族1301人、平民1万6364人で合計2万1087人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

揖宿 (指宿)

寛永13年(1636年)の揖宿郷の人口は6244人。明治4年(1871年)の揖宿郷は、士族1074人、平民1万0514人で合計1万1588人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

鹿籠 (枕崎, 東南方)

寛永13年(1636年)の泊郷の人口は668人、秋目郷の人口は1228人。明治4年(1871年)の南方郷の人口は士族4952人、平民7203人で合計1万2155人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。明治6年(1873年)の鹿籠の人口は2万4902人。

加世田

寛永13年(1636年)の加世田郷の人口は6787人。明治4年(1871年)の加世田郷は、士族5783人、卒族31人、平民2万5781人で合計3万1595人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

川内 (薩摩川内)

寛永13年(1636年)の隅之城郷の人口は2693人。明治4年(1871年)の隅之城郷は、士族2018人、卒族75人、平民4049人で合計6142人、水引郷は、士族4267人、卒族56人、平民6399人で合計8307人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。川内の人口は隅之城郷と水引郷を合わせて1万4449人。

宮之城

寛永13年(1636年)の宮之城郷の人口は4483人。明治4年(1871年)の宮之城郷は、士族545人、卒族1982人、平民5050人で合計8608人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

出水

寛永13年(1636年)の出水郷の人口は1万3981人。明治4年(1871年)の加世田郷は、士族5806人、卒族30人、平民1万2755人で合計1万8591人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

阿久根

寛永13年(1636年)の阿久根郷の人口は4401人。明治4年(1871年)の阿久根郷は、士族1268人、卒族54人、平民9496人で合計1万0910人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

勝本

享保6年(1722年)の町方人口は4828人(典拠は『壹岐郷土史』)。明治6年(1873年)の人口は4857人。

府中 (厳原)

以下の府中の人口は武家を含む総人口。

元号 西暦 総数 元号 西暦 総数
延宝5年 1677年 13,737 元禄9年 1696年 15,902
延宝7年 1679年 14,316 元禄10年 1697年 16,019
延宝8年 1680年 14,772 元禄11年 1698年 16,093
天和元年 1681年 15,060 元禄12年 1699年 16,138
天和2年 1682年 15,279 元禄13年 1700年 16,047
天和3年 1683年 15,251 元禄14年 1701年 15,935
貞享元年 1684年 15,021 元禄15年 1702年 15,447
貞享2年 1685年 14,912 元禄16年 1703年 15,127
貞享3年 1686年 14,978 宝永元年 1704年 14,926
貞享4年 1687年 14,961 宝永2年 1705年 14,695
元禄元年 1688年 14,927 宝永3年 1706年 14,580
元禄2年 1689年 14,855 宝永4年 1707年 14,019
元禄3年 1690年 14,682 宝永5年 1708年 13,261
元禄4年 1691年 14,877 宝永6年 1709年 12,515
元禄5年 1692年 15,041 宝永7年 1710年 12,091
元禄6年 1693年 15,289 正徳元年 1711年 11,936
元禄7年 1694年 15,320 正徳2年 1712年 11,839
元禄8年 1695年 15,566
元号 西暦 総数 武家 町方 寺社方 漁戸
安永元年 1772年 3,000
明治2年 1869年 9,231 6,150 2,684 156 241
明治6年 1873年 8,806

(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』、『新対馬島誌』、『長崎県史』)

箱館 (函館)

天明6年(1786年)の箱館村は450弱戸2500余人。嘉永3年(1850年)の人口は諸士・徒士・足軽637人、町々8682人、寺・社家161人を含む。江戸時代後期には蝦夷地への本州からの移住の増加により人口が増え、幕末には五港の一つとして安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港する。明治2年に箱館から函館に改名する。『日本地誌提要』による明治6年の函館の人口は2万8825人。

元号 西暦 現住人口 本籍人口
享和元年 1801年 2,595
享保3年 1803年 2,886
文化元年 1804年 2,937
文化2年 1805年 3,084
文化3年 1806年 3,121
文化4年 1807年 3,122
文化5年 1808年 3,125
文化6年 1809年 3,205
文化7年 1810年 3,246
文化8年 1811年 3,304
文化9年 1812年 3,356
文化10年 1813年 3,372
文化11年 1814年 3,457
文化13年 1816年 3,566
文政元年 1818年 3,968
文政2年 1819年 4,162
文政3年 1820年 4,367
天保12年 1841年 7,181
嘉永3年 1850年 9,480
嘉永6年 1853年 9,419
安政3年 1856年 9,790
安政4年 1857年 10,179
元治元年 1864年 15,669 12,206
慶応元年 1865年 17,109 13,524
慶応2年 1866年 17,785 13,924
慶応3年 1867年 18,609 14,660
明治元年 1868年 14,633
明治2年 1869年 15,030
明治3年 1870年 15,836
明治4年 1871年 15,045
明治5年 1872年 25,403 19,533
明治6年 1873年 25,082 19,678

(典拠は『函館市史』)

福山 (蝦夷福山、松前)

『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の人口は1万6092人。

元号 西暦 現住人口 本籍人口 備考
元禄14年 1701年 5,000 家中寺社共
宝永4年 1707年 4,079
享保元年 1716年 3,775 家中寺社共
享保2年 1717年 3,775
延享2年 1745年 4,833 家中寺社共
宝暦2年 1752年 4,947
宝暦4年 1754年 5,058
宝暦10年 1760年 5,456 家中寺社共
明和元年 1764年 5,542
明和2年 1765年 5,526
明和7年 1770年 5,883
安永6年 1777年 6,004 家中寺社共 (諸士1526人、
町方4308人、寺社方170人)
天明7年 1787年 6,385 家中寺社共
寛政9年 1797年 6,020
文化3年 1806年 8,119 家中寺社共
文化4年 1807年 7,081 寺社を除く
文化5年 1808年 7,084 寺社を除く
文化6年 1809年 7,107 寺社を除く
文化7年 1810年 7,223 寺社を除く
文化8年 1811年 7,254 寺社を除く
文化9年 1812年 7,232 寺社を除く
文化10年 1813年 7,276 寺社を除く
文化11年 1814年 7,276 寺社を除く
文化12年 1815年 7,276 寺社を除く
文化14年 1817年 7,276 寺社を除く
文政元年 1818年 7,276 寺社を除く
文政5年 1822年 8,935 家中含み寺社領を除く
文政11年 1828年 7,586 家中含み寺社領を除く
文政12年 1829年 8,016 家中含み寺社領を除く
天保4年 1833年   8,292 家中含み寺社領を除く
10,795 家中寺社共
嘉永3年 1850年 14,133 家中寺社共
安政6年 1859年 11,831
万延元年 1860年 11,979
文久元年 1861年 12,108
文久2年 1862年 12,255
明治元年 1868年 17,722 16,883
明治2年 1869年 17,396 16,868
明治3年 1870年 17,030 16,343
明治4年 1871年 16,154 15,415
明治5年 1872年 15,839 15,082
明治6年 1873年 17,280 16,754

(典拠は『松前町史』、関根達人(2010年)[57])

江差 (江刺)

宝暦8年(1758年)の江差村は家数600軒余、問屋13~14軒。天明6年(1786年)の江差村は1000余戸3500人余、五勝手村は100余戸350人余。寛永3年(1850年)の江差村は1569戸(典拠は『北海道史』)。明治6年(1873年)の江差の人口は9158人。

首里・那覇・久米・泊

琉球国では王府の置かれた首里三平等、那覇四町、久米村、泊村に人口が集中し、諸士身分も集中して居住した。またこれらの地域に居住する百姓(平民)を「町百姓」と呼び、他地域に暮らす「田舎百姓」と区別した。

元号 時憲暦 西暦 総数 首里三平等 那覇四町 久米村 泊村 寺院方・
御城女姓家
・出家
合計 諸士 百姓 出家 合計 諸士 百姓 合計 諸士 百姓 合計 諸士 百姓 合計 諸士 百姓 合計 諸士 百姓 出家
承応3年 順治11年 1654年 13,689 3,594 10,095 8,455 2,322 6,133 3,442 761 2,681 995 305 690 797 206 591
元禄4年 康熙30年 1691年 24,032 6,381 17,651 16,210 4,492 11,718 5,280 1,094 4,186 1,632 558 1,074 910 237 673
享保14年 雍正7年 1729年 33,245 14,453 18,614 178 20,861 9,612 11,249 7,819 2,794 5,025 2,838 1,507 1,331 1,305 469 836 422 71 173 178
明治6年 1873年 75,231 44,984 14,610 9,800 5,837

(典拠は崎浜秀明 『沖縄旧法制史料集成』、『名護市史』)

主要街道の宿場町

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以下『近世交通史料集』収録の諸大概帳による天保14年(1843年)の主要街道の宿場町人口をまとめる。

一般には江戸日本橋から京三条大橋までを海側で結ぶ街道を東海道と呼ぶが、幕府公式の『東海道宿村大概帳』では、江戸日本橋から大坂高麗橋までを結ぶ街道を東海道としてまとめている。この場合、大津宿と伏見宿を結ぶ大津街道、京から伏見宿経由で大坂までを結ぶ大坂街道が東海道に組み込まれる。統計は『東海道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




宿場町 旧国 人口 家数




品川宿 武蔵 6,890 1,561 1 2 93 舞坂宿 遠江 2,475 541 2 1 28
川崎宿 武蔵 2,433 541 2 0 72 新居宿 遠江 3,474 797 3 0 26
神奈川宿 武蔵 5,793 1,341 2 0 58 白須賀宿 遠江 2,704 613 1 1 27
程ヶ谷宿 武蔵 2,928 558 1 3 67 二川宿 遠江 1,468 328 1 1 38
戸塚宿 相模 2,906 613 2 3 75 吉田宿 (豊橋) 三河 5,277 1,293 2 1 65
藤沢宿 相模 4,089 919 1 1 45 御油宿 三河 1,298 316 4 0 62
平塚宿 相模 2,114 443 1 1 54 赤坂宿 三河 1,304 349 3 1 62
大磯宿 相模 3,056 676 3 0 66 藤川宿 三河 1,231 302 1 1 36
小田原宿 相模 5,404 1,542 4 4 95 岡崎宿 三河 6,494 1,565 3 3 112
箱根宿 相模 844 197 6 1 36 池鯉鮒宿 三河 1,620 292 1 1 35
三島宿 伊豆 4,048 1,025 2 3 74 鳴海宿 尾張 3,643 847 1 2 68
沼津宿 駿河 5,346 1,234 3 1 55 宮宿 (熱田) 尾張 10,342 2,924 2 1 248
原宿 駿河 1,939 398 1 1 25 桑名宿 伊勢 8,848 2,544 2 4 120
吉原宿 (富士) 駿河 2,832 653 2 3 60 四日市宿 伊勢 7,114 1,811 2 1 98
蒲原宿 駿河 2,480 509 1 3 42 石薬師宿 伊勢 991 241 3 0 15
由比宿 駿河 713 160 1 1 32 庄野宿 伊勢 855 211 1 1 15
興津宿 駿河 1,668 316 2 2 34 亀山宿 伊勢 1,549 567 1 1 21
江尻宿 (清水) 駿河 6,498 1,340 2 3 50 関宿 伊勢 1,942 632 2 2 42
府中宿 (静岡) 駿河 14,071 3,673 2 2 43 坂下宿 伊勢 564 153 3 1 48
鞠子宿 駿河 795 211 1 2 24 土山宿 近江 1,505 351 2 0 44
岡部宿 駿河 5,322 487 2 2 27 水口宿 近江 2,692 692 1 1 41
藤枝宿 駿河 4,425 1,061 2 0 37 石部宿 近江 1,606 458 2 0 32
島田宿 駿河 6,727 1,461 3 0 48 草津宿 近江 2,351 586 2 2 72
金谷宿 遠江 4,271 1,004 3 1 51 大津宿 近江 14,892 3,650 2 1 71
日坂宿 遠江 750 168 1 1 33 伏見宿 山城 24,227 6,245 4 2 39
掛川宿 遠江 3,443 960 2 0 30 淀宿 山城 2,847 836 0 0 16
袋井宿 遠江 843 195 3 0 50 枚方宿 河内 1,549 378 1 0 69
見付宿 遠江 3,935 1,029 2 1 56 守口宿 河内 764 177 1 0 27
浜松宿 遠江 5,946 1,622 6 0 94

江戸日本橋から京三条大橋までを山側で結ぶ街道で、草津宿から大津宿までは東海道と合流する。統計は『中山道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




宿場町 旧国 人口 家数




板橋宿 武蔵 2,448 573 1 3 54 藪原宿 信濃 1,493 266 1 1 10
蕨宿 武蔵 2,223 430 2 1 23 宮ノ越宿 信濃 585 137 1 1 21
浦和宿 武蔵 1,230 273 1 3 15 福島宿 信濃 972 158 1 1 14
大宮宿 武蔵 1,508 319 1 9 25 上松宿 信濃 2,482 362 1 1 35
上尾宿 武蔵 793 182 1 3 41 須原宿 信濃 748 104 1 1 24
桶川宿 武蔵 1,444 347 1 2 36 野尻宿 信濃 986 108 1 1 19
鴻巣宿 武蔵 2,274 566 1 1 58 三留野宿 信濃 594 77 1 1 32
熊谷宿 武蔵 3,263 1,705 2 1 19 妻籠宿 信濃 418 83 1 1 31
深谷宿 武蔵 1,928 524 1 4 80 馬籠宿 信濃 717 69 1 1 18
本庄宿 武蔵 4,554 1,212 2 2 70 落合宿 美濃 370 75 1 1 14
新町宿 上野 1,437 407 2 1 43 中津川宿 美濃 928 228 1 1 29
倉賀野宿 上野 2,032 297 1 2 32 大井宿 美濃 466 110 1 1 41
高崎宿 上野 3,235 837 0 0 15 大湫宿 美濃 338 66 1 1 30
板鼻宿 上野 1,422 312 1 1 54 細久手宿 美濃 256 65 1 1 24
安中宿 上野 348 64 1 2 17 御嶽宿 美濃 600 66 1 1 28
松井田宿 上野 1,009 252 2 2 14 伏見宿 美濃 485 82 1 1 29
坂本宿 上野 732 162 2 2 40 太田宿 美濃 505 118 1 1 20
軽井沢宿 信濃 451 119 1 4 21 鵜沼宿 美濃 246 68 1 1 25
沓掛宿 信濃 502 166 1 3 17 加納宿 美濃 2,728 805 1 1 35
追分宿 信濃 712 103 1 2 35 河渡宿 美濃 272 64 1 0 24
小田井宿 信濃 319 107 1 1 5 美江寺宿 美濃 582 136 1 0 11
岩村田宿 信濃 1,637 350 0 0 8 赤坂宿 美濃 1,129 292 1 1 17
塩名田宿 信濃 574 116 2 1 7 垂井宿 美濃 1,719 315 1 1 27
八幡宿 信濃 719 143 1 4 3 関ヶ原宿 美濃 1,389 269 1 1 33
望月宿 信濃 360 82 1 1 9 今須宿 美濃 1,784 464 1 2 13
芦田宿 信濃 326 80 1 2 6 柏原宿 近江 1,468 344 1 1 22
長久保宿 信濃 721 187 1 1 43 醒井宿 近江 539 138 1 1 11
和田宿 信濃 522 126 1 2 28 番場宿 近江 808 178 1 1 10
下諏訪宿 信濃 1,345 315 1 1 40 鳥居本宿 近江 1,448 293 1 2 35
塩尻宿 信濃 794 166 1 1 75 高宮宿 近江 3,560 835 1 2 23
洗馬宿 信濃 661 163 1 1 29 愛知川宿 近江 929 199 1 1 28
本山宿 信濃 592 117 1 1 34 武佐宿 近江 537 183 1 1 23
贄川宿 信濃 545 124 1 1 25 守山宿 近江 1,700 415 2 1 30
奈良井宿 信濃 2,155 409 1 1 5

江戸日本橋から中山道下諏訪宿までを結ぶ街道。統計は『甲州道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。横山宿の人口は、八日市宿、八王子十三ヶ宿を含む。甲府宿の人口は、甲府城下町全体ではなく、柳町(905人)外九ヶ町(城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金ノ手町、工町、八日町、方羽町、西青沼町、3018人)の合計。

宿場町 旧国 人口 家数




宿場町 旧国 人口 家数




内藤新宿 武蔵 2,377 698 1 0 24 猿橋宿 甲斐 542 138 1 2 10
下高井戸宿 武蔵 890 183 1 0 3 駒橋宿 甲斐 267 85 0 0 4
上高井戸宿 武蔵 787 168 1 0 2 大月宿 甲斐 273 92 1 2 2
国領宿 武蔵 308 61 0 0 1 下花咲宿 甲斐 373 77 1 2 22
下布田宿 武蔵 429 95 0 0 3 上花咲宿 甲斐 304 71 1 2 13
上布田宿 武蔵 314 68 0 0 1 下初狩宿 甲斐 616 156 2 2 12
下石原宿 武蔵 448 91 0 0 0 中初狩宿 甲斐 459 108 1 1 25
上石原宿 武蔵 411 73 0 0 4 白野宿 甲斐 318 84 1 1 4
府中宿 武蔵 2,762 430 1 2 29 阿弥陀海道宿 甲斐 272 65 1 1 4
日野宿 武蔵 1,556 423 1 1 20 黒野田宿 甲斐 334 79 1 1 14
横山宿 (八王子) 武蔵 6,026 1,548 2 3 34 駒飼宿 甲斐 274 64 1 1 6
駒木野宿 武蔵 355 73 1 1 12 鶴瀬宿 甲斐 242 58 1 2 4
小仏宿 武蔵 252 58 0 0 11 勝沼宿 甲斐 786 192 1 2 23
小原宿 相模 275 61 1 1 7 栗原宿 甲斐 1,057 240 1 1 20
与瀬宿 相模 566 114 1 0 6 石和宿 甲斐 1,143 166 1 2 18
吉野宿 相模 527 104 1 1 3 甲府宿 (十町) 甲斐 3,923 618 1 1 21
関野宿 相模 635 130 1 1 3 韮崎宿 甲斐 1,142 237 1 0 17
上野原宿 甲斐 784 159 1 2 20 台ヶ原宿 甲斐 670 153 1 1 14
鶴川宿 甲斐 295 57 1 2 8 教来石宿 甲斐 684 144 1 1 7
野田尻宿 甲斐 607 118 1 1 9 蔦木宿 信濃 508 105 1 0 15
犬目宿 甲斐 255 56 2 0 15 金沢宿 信濃 622 161 1 0 17
下鳥沢宿 甲斐 699 144 1 2 11 上諏訪宿 信濃 973 232 1 0 14
上鳥沢宿 甲斐 650 151 1 2 13

江戸日本橋から日光坊中までを結ぶ街道。統計は『日光道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。徳次郎宿の人口は、下徳次郎宿、中徳次郎宿、上徳次郎宿、門前村、田中村、西根村の徳次郎六郷を含む。

宿場町 旧国 人口 家数




宿場町 旧国 人口 家数




千住宿 武蔵 9,956 2,370 1 1 55 小山宿 下野 1,392 423 1 2 74
草加宿 武蔵 3,619 723 1 1 67 新田宿 下野 244 59 1 1 11
越ヶ谷宿 武蔵 4,603 1,005 1 4 52 小金井宿 下野 767 165 1 1 43
粕壁宿 武蔵 3,701 773 1 1 45 石橋宿 下野 414 79 1 1 30
杉戸宿 武蔵 1,663 365 1 2 46 雀宮宿 下野 268 72 1 1 38
幸手宿 武蔵 3,937 962 1 0 27 宇都宮宿 下野 6,457 1,219 2 1 42
栗橋宿 武蔵 1,741 404 1 1 25 徳次郎宿 (六郷) 下野 653 168 3 4 72
中田宿 下総 403 69 1 1 6 大沢宿 下野 278 43 1 1 41
古河宿 下総 3,865 1,105 1 1 31 今市宿 下野 1,122 236 1 1 21
野木宿 下野 527 126 1 1 25 鉢石宿 下野 985 227 2 0 19
間々田宿 下野 947 165 1 1 50

江戸日本橋から陸奥白河宿までを結ぶ街道。江戸日本橋から宇都宮宿までは、日光街道と共通である。統計は『奥州道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




白沢宿 下野 369 71 1 1 13
氏家宿 下野 879 235 1 1 35
喜連川宿 下野 1,198 290 1 1 29
佐久山宿 下野 473 121 1 1 27
大田原宿 下野 1,428 245 2 1 42
鍋掛宿 下野 346 68 1 1 23
越堀宿 下野 569 113 1 1 11
芦野宿 下野 350 168 1 1 25
白坂宿 陸奥 289 71 1 1 27
白河宿 (白河) 陸奥 5,959 1,285 1 2 35

見付宿と御油宿を結ぶ東海道の脇往還姫街道と呼ぶ。一方浜松宿から北上し、気賀宿で姫街道と合流し、御油宿までを結ぶ東海道の脇往還を本坂街道と呼ぶ。統計は『本坂通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




気賀宿 遠江 466 111 1 0 8
三ヶ日宿 遠江 467 93 1 0 4
嵩山宿 三河 580 130 1 0 0

東海道の七里の渡しの陸側の迂回路として、宮宿と桑名宿とを結ぶ脇往還。佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。統計は『佐屋路宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




岩塚宿 尾張 1,038 212 1 0 7
万場宿 尾張 672 160 1 0 10
神守宿 尾張 812 184 1 0 12
佐屋宿 尾張 1,260 290 2 2 31

東海道宮宿と中山道垂井宿とを結ぶ脇往還。統計は『美濃路宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。名古屋宿の人口は、名古屋城下町全体ではなく、伝馬町・宮町・駿河町・富沢町の四町のみ。

宿場町 旧国 人口 家数




名古屋宿 (四町) 尾張 4,188 1,157 0 0 0
清須宿 尾張 2,545 521 1 3 21
稲葉宿 尾張 1,572 336 1 1 8
萩原宿 尾張 1,002 236 1 1 17
起宿 尾張 4,094 887 1 1 22
墨俣宿 美濃 1,317 338 1 1 10
大垣宿 美濃 5,136 903 1 1 11

西国街道とは京東寺から下関までを結ぶ街道だが、特に京から西宮宿を結ぶ区間を山崎通と呼ぶ。統計は『山崎通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




山崎宿 山城 1,412 261 1 1 8
芥川宿 摂津 1,150 253 1 0 33
郡山宿 摂津 469 110 1 0 29
瀬川宿 摂津 690 141 2 0 11
昆陽宿 摂津 913 174 1 0 7
西宮宿 摂津 8,268 1,785 1 1 64

江戸日本橋から北1里の中山道本郷追分と日光街道幸手宿とを岩槻経由で結ぶ、日光街道の脇往還。岩槻街道とも呼ばれる。統計は『日光御成道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




岩淵宿 武蔵 1,251 229 1 1 3
川口宿 武蔵 1,406 295 1 1 10
鳩ヶ谷宿 武蔵 906 217 1 1 16
大門宿 武蔵 896 180 1 1 6
岩槻宿 武蔵 3,378 778 1 1 10

日光街道小山宿から北1里の喜沢追分と今市宿とを鹿沼経由で結ぶ、日光街道の脇往還。統計は『壬生通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




飯塚宿 下野 310 65 2 1 11
壬生宿 下野 1,870 429 1 1 10
楡木宿 下野 511 128 1 2 15
奈佐原宿 下野 330 63 1 0 22
鹿沼宿 下野 2,844 751 1 1 21
文挟宿 下野 156 30 1 2 14
板橋宿 下野 222 42 1 2 25

中山道倉賀野宿から日光坊中までを結ぶ脇往還。楡木宿で日光壬生街道と合流する。統計は『例幣使道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

宿場町 旧国 人口 家数




玉村宿 上野 1,032 270 1 0 36
五料宿 上野 541 161 0 0 2
柴宿 上野 805 219 1 0 17
木崎宿 上野 917 147 1 0 34
太田宿 上野 1,496 406 1 1 10
八木宿 下野 542 96 1 0 19
梁田宿 下野 431 105 2 0 32
天明宿 下野 4,149 1,095 1 0 8
犬伏宿 下野 2,757 728 2 0 44
富田宿 下野 848 248 1 0 28
栃木宿 下野 3,999 1,030 1 0 7
合戦場宿 下野 444 105 1 1 25
金崎宿 下野 380 86 1 0 12

水戸街道と佐倉街道は、それぞれ日光街道千住宿から水戸宿まで、千住宿から佐倉城までを結ぶ、日光街道の脇往還である。千住宿の隣の水戸街道新宿でさらに佐倉街道が分岐する。佐倉街道は成田街道とも呼ばれた。統計は『水戸佐倉道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもので、大概帳に詳細な記載が残っているのは分岐点の新宿と、新宿の隣の宿である八幡宿 (佐倉街道)と松戸宿 (水戸街道)のみである。

宿場町 旧国 人口 家数




新宿 武蔵 956 174 0 0 4
八幡宿 下総 582 106 0 0 8
松戸宿 下総 1,886 436 1 1 28

明治初期

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元正院地誌課の塚本明毅らによって編纂され、明治7年(1874年)12月に刊行された『日本地誌提要』には代表的な都市(名邑)について明治6年(1873年)1月1日調の人口が記載されている。一方陸軍参謀部編によって徴発物件の一覧として編纂され、明治8年(1875年)11月に刊行された『明治八年 共武政表』には、明治5年(1872年)から明治8年(1875年)までの調査結果が、連担接続した輻輳地の本籍人口とともに記載されている。

日本地誌提要記載の名邑の明治6年1月1日調人口 (人口上位150都市)
順位 名邑 旧国 人口 順位 名邑 旧国 人口 順位 名邑 旧国 人口
1 東京 武蔵 595,905 51 小浜 若狭 19,271 101 今泉・岐阜 美濃 10,800
2 大坂 摂津 271,992 52 水戸 常陸 19,010 102 臼杵 豊後 10,738
3 京都 山城 238,663 53 新湊 越中 18,904 103 沼津 駿河 10,684
4 名古屋 尾張 125,193 54 島原 肥前 18,682 104 神奈川 武蔵 10,660
5 金沢 加賀 109,685 55 酒田 羽後 18,619 105 平戸 肥前 10,558
6 広島 安芸 74,305 56 出水 薩摩 18,591 106 二本松 岩代 10,435
7 横浜 武蔵 64,602 57 赤間関 長門 18,500 107 石巻 陸前 10,325
8 和歌山 紀伊 61,124 58 新発田 越後 18,312 108 品川 武蔵 10,293
9 仙台 陸前 51,998 59 桑名 伊勢 18,064 109 米子 伯耆 10,237
10 徳島 阿波 48,861 60 五別所・大津 近江 17,924 110 大垣 美濃 10,158
11 長門 45,318 61 福江 肥前 17,787 111 魚津 越中 10,098
12 首里 琉球 44,984 62 銚子 下総 17,688 112 小松 加賀 9,970
13 富山 越中 44,682 63 村上 越後 17,647 113 久米 琉球 9,800
14 熊本 肥後 44,620 64 福山 備後 17,643 114 四日市 伊勢 9,722
15 神戸・兵庫 摂津 40,900 65 山形 羽前 17,631 114 尾道 備後 9,722
16 福井 越前 39,784 66 国府 大隅 17,144 116 八戸 陸奥 9,518
17 高知 土佐 39,757 67 天王寺 摂津 16,560 117 船橋 下総 9,494
18 和泉 38,838 68 福山 渡島 16,092 118 武生 越前 9,416
19 秋田 羽後 38,118 69 甲府 甲斐 15,529 118 大聖寺 加賀 9,416
20 松江 出雲 37,808 70 津山 美作 15,411 120 宮津 丹後 9,398
21 新潟 越後 33,152 71 熱田 尾張 15,211 121 加治木 大隅 9,386
22 弘前 陸奥 32,886 72 前橋 上野 15,063 122 川越 武蔵 9,357
23 高松 讃岐 32,736 73 宇都宮 下野 15,061 123 金石 加賀 9,353
24 岡山 備前 32,372 73 鹿沼 下野 15,061 124 古河 下総 9,343
25 加世田 薩摩 31,595 75 郡山 大和 14,988 125 大村 肥前 9,284
26 静岡 駿河 31,555 76 那覇 琉球 14,610 126 山口 周防 9,279
27 長崎 肥前 29,656 77 川内 薩摩 14,449 127 能代 羽後 9,174
28 箱館 渡島 28,825 78 明石 播磨 14,410 128 江刺 渡島 9,158
29 高田 越後 27,460 79 松本 信濃 14,275 129 新宮 紀伊 9,134
30 鹿児島 薩摩 27,240 80 柏崎 越後 14,081 130 舞鶴 丹後 9,073
31 松山 伊予 26,141 81 丸亀 讃岐 13,875 131 大野 越前 9,052
32 鶴岡 羽前 24,964 82 高山 飛騨 13,081 132 坂井 越前 9,044
33 米沢 羽前 24,945 83 岡崎 三河 12,969 133 八代 肥後 9,021
34 鹿籠 薩摩 24,902 84 小田原 相模 12,710 134 館林 上野 9,007
35 姫路 播磨 24,521 85 相川 佐渡 12,632 135 飯田 信濃 8,944
36 彦根 近江 24,368 86 尼ヶ崎 摂津 12,404 136 大浜 三河 8,885
37 長岡 越後 24,067 87 上野 伊賀 12,385 137 柳河 筑後 8,865
38 高岡 越中 23,724 88 宇和島 伊予 12,209 138 岸和田 和泉 8,852
39 山田 伊勢 22,473 89 今治 伊予 12,000 139 出雲崎 越後 8,850
40 伏水 山城 22,334 90 宮崎 日向 11,929 140 厳原 対馬 8,806
41 伊勢 22,080 91 岩国 周防 11,684 141 松坂 伊勢 8,781
42 佐賀 肥前 21,660 92 揖宿 薩摩 11,588 142 西之宮 摂津 8,699
43 盛岡 陸中 21,306 93 中津 豊前 11,538 143 富江 肥前 8,669
44 奈良 大和 21,158 94 敦賀 越前 11,476 144 宮之城 薩摩 8,607
45 谷山 薩摩 21,087 95 深堀 肥前 11,463 145 三原 備後 8,565
46 博多 筑前 20,985 96 千住 武蔵 11,368 146 土崎 羽後 8,559
47 鳥取 因幡 20,782 97 高崎 上野 11,285 147 新庄 羽前 8,361
48 福岡 筑前 20,650 98 浜松 遠江 11,103 148 那珂湊 常陸 8,254
49 若松 岩代 20,588 99 青森 陸奥 10,965 149 七尾 能登 8,216
50 久留米 筑後 20,381 100 阿久根 薩摩 10,918 150 氷見 越中 8,175
明治八年 共武政表記載の邑里(輻輳地)の本籍人口 (人口上位150都市)
順位 邑里 旧国 人口 順位 邑里 旧国 人口 順位 邑里 旧国 人口
1 東京 武蔵 830,917 51 酒田 羽後 18,532 101 能代 羽後 9,318
2 大坂 摂津 271,992 52 山田 伊勢 18,406 102 川越 武蔵 9,276
3 京都 山城 226,134 53 山形 羽前 17,683 103 新宮 紀伊 9,127
4 名古屋 尾張 109,982 54 福山 備後 17,667 104 舞鶴 丹後 9,073
5 金沢 加賀 109,685 55 明石 播磨 16,951 105 大野 越前 9,052
6 鹿児島 薩摩 89,374 56 島原 肥前 16,771 106 坂井 越前 9,044
7 広島 安芸 66,906 57 福山 渡島 16,092 107 八代 肥後 9,021
8 横浜 武蔵 63,064 58 伊勢 15,939 108 館林 上野 9,007
9 和歌山 紀伊 61,105 59 大津 近江 15,932 109 土崎港 羽後 8,958
10 仙台 陸前 51,998 60 長岡 越後 15,882 110 山口 周防 8,933
11 徳島 阿波 48,861 61 甲府 甲斐 15,626 111 新発田 越後 8,919
12 熊本 肥後 44,619 62 宇和島 伊予 15,396 112 神奈川 武蔵 8,890
13 富山 越中 40,538 63 熱田 尾張 15,211 113 大浜 三河 8,885
14 福井 越前 39,784 64 前橋 上野 15,063 114 厳原 対馬 8,811
15 鳥取 因幡 37,796 65 宇都宮 下野 15,061 115 松坂 伊勢 8,797
16 静岡 駿河 37,724 66 郡山 大和 14,851 116 松代 信濃 8,790
17 和泉 36,457 67 松本 信濃 14,275 117 富江 肥前 8,694
18 松江 出雲 36,102 68 丸亀 讃岐 13,753 118 飯田 信濃 8,644
19 米沢 羽前 34,911 69 品川 武蔵 13,205 119 西宮 摂津 8,600
20 秋田 羽後 33,142 70 尼崎 摂津 13,170 120 神戸 摂津 8,554
21 弘前 陸奥 33,052 71 高山 飛騨 13,081 121 鞆津 備後 8,495
22 高松 讃岐 32,736 72 岡崎 三河 12,969 122 三原 備後 8,416
23 岡山 備前 32,372 73 小田原 相模 12,639 123 柳川 筑後 8,376
24 新潟 越後 32,043 74 上野 伊賀 12,385 124 七尾 能登 8,216
25 長門 30,092 75 相川 佐渡 12,276 125 氷見 越中 8,175
26 長崎 肥前 29,656 76 今治 伊予 12,177 126 安下荘 周防 8,165
27 高知 土佐 29,539 77 千住 武蔵 12,061 127 船橋 下総 8,117
28 箱館 渡島 28,825 78 岸和田 和泉 11,713 128 横手 羽後 8,086
29 兵庫 摂津 27,476 79 中津 豊前 11,538 129 那珂港 常陸 8,000
30 松山 伊予 26,424 80 敦賀 越前 11,476 130 久賀 周防 7,855
31 盛岡 陸中 25,457 81 気仙沼 陸前 11,377 131 土浦 常陸 7,788
32 高田 越後 25,163 82 浜松 遠江 11,303 131 輪島・輪島崎 能登 7,788
33 彦根 近江 24,368 83 高崎 上野 11,285 133 柏崎 越後 7,746
34 姫路 播磨 24,272 84 岐阜 美濃 10,800 134 延岡 日向 7,691
35 鶴ヶ岡 羽前 24,092 85 青森 陸奥 10,780 135 杵築 出雲 7,674
36 高岡 越中 23,724 86 沼津 駿河 10,684 136 牛深 肥後 7,590
37 佐賀 肥前 21,661 87 四日市 伊勢 10,670 137 三条 越後 7,564
38 伏水 山城 21,338 88 豊橋 三河 10,585 138 大森 武蔵 7,464
39 奈良 大和 21,210 89 米子 伯耆 10,362 139 島田 駿河 7,461
40 下ノ関 長門 21,175 90 大垣 美濃 10,158 140 小倉 豊前 7,459
41 博多 筑前 20,985 91 尾道 備後 10,134 141 一之宮 尾張 7,399
42 久留米 筑後 20,682 92 魚津 越中 10,098 142 白河 磐城 7,391
43 福岡 筑前 20,650 93 小松 加賀 9,970 143 津島 尾張 7,387
44 若松 岩代 20,588 94 八戸 陸奥 9,694 144 都城 日向 7,318
45 銚子 下総 19,857 95 臼杵 豊後 9,419 145 洲本 淡路 7,273
46 津山 美作 19,411 96 武生 越前 9,416 146 田辺 紀伊 7,203
47 小浜 若狭 19,271 96 大聖寺 加賀 9,416 147 村上 越後 7,145
48 水戸 常陸 19,177 98 宮津 丹後 9,398 148 西尾 三河 7,095
49 新湊 越中 18,904 99 金石 加賀 9,353 149 浦賀 相模 7,081
50 桑名 伊勢 18,640 100 古河 下総 9,343 150 赤穂 播磨 7,067

両者で都市人口が異なる場合が多々あるが、年度による違いも然りながら、まだ市制町村制の制定前で名邑、邑里(輻輳地)の範囲に確固たる規則がなく、統計上の町の範囲が調査によって異なるからである。また地租改正に反対していた薩摩藩においては戸籍調査も従来の郷村制で行われており、特に『日本地誌提要』では町の実態とはかけ離れた数字が記載されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ チャンドラーは大阪の人口を36万人と推定しているが、これは堺を含む人口である。よってここには堺の推定人口8万人を引いた値を載せた。
  2. ^ 身分別人口の合計と総数は一部合致しない。

出典

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参考文献

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  • 澤田吾一、『奈良朝時代民政経済の数的研究』、冨山房、1927年。
  • 大塚武松編、『藩制一覧』、日本史籍協会、1928年。
  • 小野均、『近世城下町の研究』、至文堂、1928。
  • 高橋梵仙、『日本人口史之研究』、三友社、1941年。
  • 原田伴彦、『中世における都市の研究』、講談社、1942年。
  • 関山直太郎、『近世日本人口の研究』、龍吟社、1948年。
  • 豊田武、『日本の封建都市』、岩波書店、1952年。
  • 関山直太郎、『近世日本の人口構造』、吉川弘文館、1958年。
  • 矢崎武夫、『日本都市の発展過程』、弘文堂、1962年。
  • 児玉幸多編、『近世交通史料集』、吉川弘文館、1967年–1978年。
  • 内務省地理局編纂物刊行会編、『日本地誌提要』、ゆまに書房、1985年 (原本は1874年–1875年に刊行)。
  • Tertius Chandler, Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census, Lewiston, NY: The Edwin Mellen Press, 1987.
  • 木村礎, 藤野保, 村上直編、『藩史大事典』、雄山閣、1988年。
  • 一橋大学経済研究所附属日本経済統計情報センター編、『明治徴発物件表集成』、クレス出版、1989年–1990年。
  • 速水融監修、『国勢調査以前日本人口統計集成』、原書房、1992年。
  • William Wayne Farris, Daily life and demographics in ancient Japan: Michigan monograph series in Japanese studies no. 63, Center for Japanese Studies, University of Michigan, Ann Arbor, 2009.
  • 網野善彦「よみがえる中世 3:武士の都-鎌倉」、平凡社、1989年。 

外部リンク

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