ミカ・ユハニ・サロMika Juhani Salo, 1966年11月30日 - )は、フィンランド出身の元レーシングドライバー

ミカ・サロ
ミカ・サロ (2011年)
基本情報
フルネーム ミカ・ユハニ・サロ
略称表記 SAL
国籍  フィンランド
出身地 同・ヘルシンキ
生年月日 (1966-11-30) 1966年11月30日(58歳)
F1での経歴
活動時期 1994-2000,2002
所属チーム '94 ロータス
'95-'97 ティレル
'98 アロウズ
'99 B・A・R
'99 フェラーリ
'00ザウバー
'02 トヨタ
出走回数 109
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 2
通算獲得ポイント 33
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初勝利
最終勝利
最終戦 2002年日本GP
テンプレートを表示

妻は日本人で元レースクイーンのノリコ・サロ(遠藤賀子)、息子はレーシングドライバーのマックス・サロ[1]

プロフィール

編集

ジュニア時代

編集

ハッキネンとの関係

編集

サロはカート時代から2歳年下で同じフィンランド人で同じ名前でもある、ミカ・ハッキネンとライバル関係にあり、「ふたりのミカ」として才能を比較された。出生地も同じヴァンター(Vantaa)市マルティンラークソであり、それぞれの生家は道路を1本挟んだだけの近さであった。現在、彼らが少年時代を過ごしたこの地域は“MIKA-MIKA-LAND”と呼ばれ、ヘルシンキ市近郊のちょっとした観光スポットになっている。

サロは1988年フォーミュラ・フォード1600ヨーロッパチャンピオンを獲得。1989年アラン・ドッキング・レーシング英語版よりイギリスF3選手権に参戦する。1990年はハッキネンとふたりでイギリスF3を席巻し、サロは6勝を挙げシーズン前半のタイトル争いをリードしたが、9勝したハッキネンが中盤戦以降に連勝しチャンピオンとなった。マカオGPではハッキネンが優勝目前でクラッシュし、サロは優勝したミハエル・シューマッハに次ぐ総合2位を獲得した。

当初、ハッキネンは国際F3000選手権にステップアップする予定であり、サロも結果的には日本でF3000にステップアップしたため、予定通りであったなら似たようなキャリアとなるはずだった。ところが、ハッキネンがDAMSF3000のマシンのテスト走行を体験[2]した際、そのマシンを酷評したため[3]、ハッキネンのマネージャー、ケケ・ロズベルグが計画を変更。名門ではあったが存続の危機に瀕していたチーム・ロータスのシートを確保してF1デビュー[4][5]を決断したのに対し、サロにはハッキネンをマネージメントするロズベルグのようなF1への強いパイプを持つ援軍はいなかったこともあり、国際F3000選手権へのステップアップも決まらず、その後の両者のキャリアは明暗が分かれた。

F3時代の激しいライバル関係から、イギリスではサロとハッキネンが不仲であると報じられることも少なくなかったが、サロによると「僕らの間に問題が発生したことなんてない。そういう言い方をされるのは全てメディアのせいだ。元々フィンランドで近所なんだけど、その時から友達と言うわけではないんだ。僕らは年齢も2つ違うし、性格も全く違う。共通の話題が無いから話をしてる所を見る機会が少ないだけだ。顔を合わせれば普通に挨拶するよ。」と二人の関係性を語っている[6]

全日本F3 / 全日本F3000

編集

1991年、活動の場を日本に移す。同年の全日本F3000選手権に第2戦から参戦。大雨となった第4戦MINEで6位に入賞し初ポイントを得たが、日本特有のハイグリップタイヤと未経験のサーキットで苦戦が多くを占めポイント獲得はその1戦のみのランキング22位で終了。

1992年アド・レーシング / チーム5ZIGENから全日本F3000に継続参戦し、第3戦MINEで4位を獲得。夏場には全日本F3選手権にもダブルエントリーで参戦し日本のサーキットでの経験値を高めた。前年より完走率を向上させ、最終戦富士でも5位でポイントを獲得しランキングは15位に浮上した。

1994年にそれまで使用していた無限エンジンからコスワースエンジンに変更すると、開幕戦・鈴鹿で3位となり、ついに全日本F3000での初表彰台を獲得。日本では4シーズンを戦い、最終年となった1994年にランキング最高位となるシリーズ7位となった。

当時サロと同じく来日参戦し、後にF1でも共に戦った仲間にはジョニー・ハーバートエディ・アーバインハインツ・ハラルド・フレンツェンローランド・ラッツェンバーガージャック・ヴィルヌーヴ(全日本F3)らがおり、ジェフ・クロスノフトーマス・ダニエルソンマルコ・アピチェラとも仲が良かった。サロはこの時期を振り返って、「日本での4年間は自分のキャリアにとって良い選択だった。タイヤ性能がF1よりも良かったので、強大なグリップによるコーナーでの横Gとハイスピードに耐えられる身体が出来た。日本に来てなかったらぼくはヘルシンキでタクシー運転手でもやってたと思う。」と語っている[6]

ロータス / ティレル / アロウズ

編集
 
1995年イギリスGPにてティレル・023に乗るサロ

1994年シーズンの終盤戦に、財政難に陥ったロータス・無限ホンダは、第14戦ヨーロッパGPを前にジョニー・ハーバートの契約をリジェチームへ売却して移籍させ、交換の形でエリック・ベルナールを加入させた。ロータスとベルナールは1戦のみの契約で、翌戦の第15戦日本GPでF1デビューを果たしたのが、全日本F3000で鈴鹿を知り尽くしていたサロであった。サロはこの鈴鹿がF1マシン初ドライブとなった。

1995年はそのままロータスから参戦するする予定だったが、ロータスはシーズン終了後に消滅し、ロータスと合併したパシフィック・レーシングがサロとの契約を主張し、裁判の結果契約は無効と判断され、開幕戦直前に母国フィンランドの通信会社ノキアがメインスポンサーとなったティレルと契約。開幕戦ブラジルでは3位まで浮上し、スピンで順位を下げ結果7位となったが、それが無ければ表彰台を獲得できる好走を見せた。現地で見ていたニキ・ラウダがサロについて「二流のマシンに乗っていても一目でわかる才能だった。彼はかなりのポテンシャルだろう。今グランプリ関係者に注目すべきヤングドライバーは誰かと聞いてごらんよ。100人中100人がミカ・サロと答えるだろう。」と述べるなど、F1での3戦目にして高い評価を得た[7]。レギュラー初年度の同年に6位以内入賞3回を記録。1996年も入賞3回を記録し、その年のチームメイト片山右京を超える成績を残す。

しかし、1996年以降ティレルのチーム成績は年々下降を続け、1997年までをレース中団で過ごすことになる。そして、1997年モナコGPでは雨の中タイヤ無交換作戦が成功し5位入賞。この年唯一かつティレルチームとして最後の入賞となった。

1998年デイモン・ヒルに替わってアロウズへ移籍。しかし、チームに前年健闘したような戦闘力は無かったうえ、マシンの信頼性も前年より悪化。完走すらままならない状況であった。モナコGPで4位に入りペドロ・ディニスとダブル入賞を果たしたが、入賞はそれだけであった。予選およびランキングではシーズンを通してチームメイトを上回り、翌シーズンもアロウズ残留の予定だったが、1999年の開幕前テストに合流した高木虎之介とのシート争奪戦に敗れ、開幕戦直前にチームから放出。シートを失い浪人生活の状態で1999シーズンは開幕を迎えた。

フェラーリ

編集
 
1999年イタリアGPにてフェラーリ・F399に乗るサロ

1999年、開幕戦の直前にシートを失ったサロだったが、同年がF1キャリアの中で最も注目を浴びるシーズンとなった。

まず、ブラジルGPでクラッシュして欠場を余儀なくされたリカルド・ゾンタの代役として3レースに出場。デビューシーズンで全くの不振に終わったBARのシーズン最高成績(7位)を記録する。

イギリスGPミハエル・シューマッハがマシントラブルによってクラッシュし脚を骨折。負傷欠場が決まると、その代役としてサロが指名され、フィンランド人初となる名門スクーデリア・フェラーリのシートを得ることになった。その2戦目となるドイツGPではレース中盤からF1キャリア初のラップリーダーとなり首位走行を続けるも、タイトル争い中のエディ・アーバインを勝たすためのチームオーダーを受け入れ、優勝を譲った。それでも、自身初となる2位表彰台を獲得し、アーバインから感謝の印として優勝トロフィーを贈られた。その後、イタリアGPでも3位表彰台を獲得。ポイントを獲得できたのはこの2戦のみではあったがシューマッハ不在のフェラーリにおいて完璧な代役を務め、この年フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得へも大きく貢献した。BARで3戦、フェラーリで6戦の合計9戦のみの出走であったが、サロのF1キャリアの中で最も年間ポイントを稼いだシーズンはこの1999年であった。

このシーズンの助っ人としての働きが評価され、翌年からF1レギュラーシートを取り戻すことになった。また、高い信頼を勝ち得たフェラーリとのパイプは、F1以後のレースキャリアでも続くことになる。

ザウバー / トヨタ

編集

2000年はフェラーリからの推薦もあり、フェラーリのエンジン供給を受けるザウバーのシートを獲得。この年は安定した走りを見せ、4回入賞して6ポイント・ランキング11位となったが、上位でのレースが困難であると判断すると1年でチームを離脱する。

2001年、翌年からF1参戦することを発表したトヨタと契約し、アラン・マクニッシュとともに1年間テストを担当した。サロは日本在住の経験があり、日本人女性と結婚していたことから日本語でのコミュニケーション能力が非常に高かった(少なくともヒアリングについては全く問題ないという証言が多数を占める)。このためF1に参入したばかりであり、少なくない日本人スタッフが混じっていたトヨタにとっては非常に有益な存在であった。

2002年から満を持してF1復帰を果たし、開幕戦オーストラリアGPでいきなり6位入賞し、デビュー戦でトヨタに初ポイントをもたらす活躍を見せた。また、第3戦ブラジルGPでも6位入賞を果たしたが、結局このシーズンの入賞はこの2回のみとなった。トヨタとは複数年契約であったとされるが、翌年に向けトヨタはドライバーランナップを一新し、B・A・Rからオリビエ・パニスを迎え、2002年にトヨタエンジンでCARTチャンピオンを獲得したクリスチアーノ・ダ・マッタをF1へ転向させることを決定。サロはトヨタのシートを失い、以後F1シートの獲得は成らなかった。奇しくもF1デビューと最終レースが共に日本GP(1994年・2002年)となった。

なお、F1参戦が終了したのちに受けたある手術で、サロのに高濃度のカーボンダストが検出されたと医師が明かしたことがきっかけで、F1界で使用するカーボン製のブレーキディスクから発生するブレーキダストの問題が初めて取り上げられることとなった[8]

F1以降

編集

2003年PKレーシングからCART4レースに参戦し、マイアミで3位を記録した。ル・マン24時間レースにはアウディから参戦。

2004年以降はGTレースに活躍の場を移し、FIA GT選手権アメリカン・ル・マン・シリーズ (ALMS) に参戦する。ALMSではRisi Competizioneフェラーリ・F430GTに乗り、2007年にはチームメイトのハイメ・メロと共にALMS GT2クラスのドライバーズチャンピオンを獲得する。2008年2009年にはル・マンでもLMGT2クラスを連覇した。

2005年世界ラリー選手権 (WRC) フィンランドラリーでは、コースの試走レッキを行うドライバーとして走行した。試走行車両にもかかわらずかなりのハイペースで走行し、地元ファンから大きな声援を浴びている。フィンランドでは元レーシングドライバーがラリー走行をするのはまれなことではなく、過去にはケケ・ロズベルグやミカ・ハッキネンらもグラベルを走行したことがある。

2010年以降はFIA GT1世界選手権V8スーパーカーにもスポット参戦しているほか、「フェラーリ・レーシング・デイズ鈴鹿2012」の際に来日し、フェラーリ・チャレンジ・アジアパシフィック選手権にゲストドライバーとして参戦するなど現役活動を続けている。また、地元フィンランドのテレビ局MTV3の解説者や、ゲストスチュワード[9]としてF1に関わっている。

2018年はロシアのSMPレーシングのスポーティングディレクターを務め、FIA 世界耐久選手権(WEC)に参戦する同チームの運営を担う一方で、同年ウィリアムズからF1に参戦したセルゲイ・シロトキンのマネージメントも担当している[10]

逸話

編集
  • 1990年のF3シーズン終了後、以後に予定されたプランは2つしか無く、交渉が上手くいけば国際F3000選手権へのスポット参戦、それがだめな場合は1991年もイギリスF3に継続参戦するしか無かった。11月のマカオ・富士のF3シリーズでのサロの走りを見た日本のレース関係者から「日本でレース活動をする気はありますか?」と初めて打診を受けた時は、日本にF3000選手権があることも知らなかったため乗り気ではなかった。しかし2度目の電話で「ギャラはいくらで、どんなマシンで、との提案をしてくれた時、すぐに日本でのレース参戦を決めた。だって僕はそれまでレース賞金はもらっていたけど、チームからの契約金はもらった事が無かったんだよ。それがプロとして報酬が受け取れてレースが出来るなんて、すぐ日本に行きますって答えたよ。」と述べている[6]
  • F1デビューはロータスからとなったが、何かと比較対象となっていたハッキネンとF1デビューのチームが共にロータスとなり、カーナンバー「11」であることも共通する偶然が生じた。ロータス仕様のレーシングスーツの準備が間に合わなかったためハーバートが先月までロータスで着用していたものを借りての出走だった[11]
  • 日本居住時代は東京・下北沢を生活拠点としており、Racing On誌上で近所を散策する様子や日課であるスポーツクラブ通いなども紹介された[12]。アーバイン、ラッツェンバーガー、ヴィルヌーヴ、トーマス・ダニエルソンとはレースの無い週でも仲が良く、サロのそれほど広くはない下北沢のマンションの部屋へ遊びに来ては皆でその床で雑魚寝をしていくなど行動を共にしていた[6]。この頃、レースクイーンをしていた後に妻となる賀子夫人とも知り合っている。
  • 多数のレーシングカーを乗った中でも、日本時代に乗ったF3000マシンは印象深いと述べている。「F1マシンはF3に近い所があって、個人的にはF3000のフィーリングが好きだった。日本のハイグリップタイヤも面白かったしね。でも成績もタイムもなかなか出なかったから、今でも不思議に思う事がある。F1はハイスピードのグリップは強烈だから、高速域になると意外とドライビングは簡単なんだ。でも100km/h以下だとウイングの効果が無くなるから全くグリップしてくれない。F3000はその点高速も低速も安定していたよ」とF1マシンと全日本F3000マシンの違いを解説している。
  • 1995年開幕戦、ティレルへの移籍初戦にして3位を走行しながらスピンしてしまった原因は、ティレル加入決定があまりにも直前での決定になったため、自分用の専用シート製作が出来ておらず前任のマーク・ブランデル仕様のシートそのままだったためポジションに不具合が多く「肩が想像を絶する痛みで、腕の感覚が無くなってしまった」ためだった。このレースではレースウェアもブランデルがチームに置いて行ったものを借りて出走していたため、「自分用の物はパンツとヘルメットだけだった」とコメントしている。
  • ティレルでチームメイトとなった片山右京について、「日本に行った1991年のチャンピオンは彼だし、良いドライバーなのは間違いない。僕とはドライビングのスタイルが極端に違っていたのでセッティングの共有は全くできなかった。右京の好みはオーバーステア気味のセットだけど、僕はオーバーステアが大嫌いなんだ。ブレーキングでは彼の方がかなり深くまで突っ込むし、ワイルドだね。マシン開発面では共通点がほとんど無いので、走った後の感想も違ってしまう。マシンを開発するハーベイ・ポスルスウェイトにとっては問題だったかもしれない。」と語っている[6]

人物

編集
  • 家族は夫人との間に1男1女。長男のマックス・サロはレーシングドライバーの道に進んでいる。2020年には日本で行われる『ポルシェ スプリント チャレンジ ジャパン』シリーズへの参戦を発表したが[13]新型コロナウイルス感染症の流行の影響で入国が困難となったため、実際には開幕戦に参戦したのみに終わった。2021年にはFIA-F4選手権[14]、2023年にはスーパー耐久・ST-Zクラスに参戦する[15]など、以後も日本でレース活動を行っている。

レース戦績

編集

フォーミュラ

編集

イギリス・フォーミュラ3選手権

編集
チーム エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1989年 アラン・ドッキング・レーシング アルファロメオ A THR
7
DON
C
SIL
5
BRH
Ret
SIL
10
BRH
5
THR
7
SIL
5
DON
10
SIL
6
SNE
Ret
OUL
12
SIL
11
BRH
7
DON
5
SIL
6
THR
Ret
14位 10
1990年 無限 A DON
2
SIL
1
THR
2
BRH
4
SIL
1
BRH
1
THR
1
SIL
2
DON
5
SIL
1
SNE
7
OUL
2
SIL
2
BRH
Ret
DON
3
THR
1
SIL
Ret
2位 64

全日本フォーミュラ3選手権

編集
チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1992年 チーム・5ZIGEN トヨタ SUZ TSU FSW SUZ SEN
Ret
TAI
7
MIN
5
SUG
7
SUZ SUZ 13位 2

(key)

全日本F3000選手権

編集
チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1991年 株式会社アド・レーシング ローラ・T91/50 無限 SUZ AUT
14
FSW
DNQ
MIN
6
SUZ
DNQ
SUG
DNQ
FSW
18
SUZ
Ret
FSW
C
22位 1
レイナード・91D SUZ
DNQ
FSW
Ret
1992年 レイナード・92D SUZ
Ret
FSW
15
MIN
4
SUZ
Ret
AUT
10
SUG
Ret
FSW
18
FSW
17
SUZ
8
FSW
15
FSW
5
15位 5
1993年 ローラ・T93/50 SUZ
13
FSW
9
MIN
7
SUZ
Ret
AUT
C
SUG
6
FSW
C
FSW
DNS
SUZ
17
FSW
Ret
SUZ
Ret
17位 1
1994年 チーム・5ZIGEN with AD RACING TEAM コスワース SUZ
3
FSW
5
MIN
7
SUZ
11
7位 6
ローラ・T94/50 ジャッド SUG
12
FSW
Ret
SUZ
8
FSW
Ret
FSW SUZ
10

F1世界選手権

編集
チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1994年 ロータス 109 無限ホンダ・MF351 HC 3.5L V10 BRA PAC SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR EUR JPN
10
AUS
Ret
NC
(32位)
0
1995年 ティレル 023 ヤマハ・OX10C 3.0L V10 BRA
7
ARG
Ret
SMR
Ret
ESP
10
MON
Ret
CAN
7
FRA
15
GBR
8
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
5
POR
13
EUR
10
PAC
12
JPN
6
AUS
5
15位 5
1996年 024 ヤマハ・OX11A 3.0L V10 AUS
6
BRA
5
ARG
Ret
EUR
DSQ
SMR
Ret
MON
5
ESP
DSQ
CAN
Ret
FRA
10
GBR
7
GER
9
HUN
Ret
BEL
7
ITA
Ret
POR
11
JPN
Ret
13位 5
1997年 025 フォード・ED5 3.0L V8 AUS
Ret
BRA
13
ARG
8
SMR
9
MON
5
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
13
BEL
11
ITA
Ret
AUT
Ret
LUX
10
JPN
Ret
EUR
12
17位 2
1998年 アロウズ A19 アロウズ・T2-F1 3.0L V10 AUS
Ret
BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
9
ESP
Ret
MON
4
CAN
Ret
FRA
13
GBR
Ret
AUT
Ret
GER
14
HUN
Ret
BEL
DNS
ITA
Ret
LUX
14
JPN
Ret
13位 3
1999年 B・A・R 01 スーパーテック・FB01 3.0L V10 AUS BRA SMR
7
MON
Ret
ESP
8
CAN FRA GBR 10位 10
フェラーリ F399 フェラーリ・Tipo048 3.0L V10 AUT
9
GER
2
HUN
12
BEL
7
ITA
3
EUR
Ret
MAL JPN
2000年 ザウバー C19 ペトロナス・SPE04E 3.0L V10 AUS
DSQ
BRA
DNS
SMR
6
GBR
8
ESP
7
EUR
Ret
MON
5
CAN
Ret
GBR
10
AUT
6
GER
5
HUN
10
BEL
9
ITA
7
USA
Ret
JPN
10
MAL
8
11位 6
2002年 トヨタ TF102 トヨタ・RVX-02 3.0L V10 AUS
6
MAL
12
BRA
6
SMR
Ret
ESP
9
AUT
8
MON
Ret
CAN
Ret
EUR
Ret
GBR
Ret
FRA
Ret
GER
9
HUN
15
BEL
7
ITA
11
USA
14
JPN
8
17位 2

(key)

  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。
チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 順位 ポイント
2003年 PK・レーシング ローラ・B02/00 コスワース STP MTY LBH BRH LAU MIL LS POR CLE TOR VAN ROA MDO
MTL DEN
14
MIA
3
MXC
5
SRF
11
FON
C
16位 26

(key)

スポーツカー

編集

FIA GT選手権

編集
チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2004年 GPC ジェッセ・スクアドラ・コルセ フェラーリ・575-GTCマラネロ GT MNZ VAL MAG HOC BRN DON SPA
2
9位 27
AFコルセ マセラティ・MC12 GT1 IMO
2
OSC
1
DUB
Ret
ZHU
1
2006年 フェラーリ・F430 GT2 GT2 SIL
3
BRN
6
OSC
2
SPA
1
CAS
5
DIJ
3
MUG
4
HUN
5
ADR
DSQ
DUB
3
3位 61
2007年 ヴィタフォン・レーシング マセラティ・MC12 GT1 GT1 ZHU SIL
1
BUC MNZ OSC 16位 10
AFコルセ フェラーリ・F430 GT2 GT2 SPA
Ret
ADR NOG ZOL NC 0
2008年 GT2 SIL MNZ ADR OSC SPA
3
BUC1 BUC2 BRN NOG ZOL SUN 18位 13

アメリカン・ル・マン・シリーズ

編集
チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
2003年 アウディスポーツ・UK アウディ・R8 LMP900 SEB
4
ATL SNM TRO MOS ROA LGA MIA PET 28位 12
2005年 マセラティ・コルセ マセラティ・MC12 GT1 GT1 SEB ATL MDO LIM SNM POR
4
ROA MOS PET LGA NC 0
2006年 リシ・コンペティツィオーネ フェラーリ・F430 GT2 GT2 SEB HOU
3
MDO
6
LIM UTA
1
POR
1
ROA MOS PET LGA
1
9位 82
2007年 GT2 SEB
1
STP
1
LBH
1
HOU
1
UTA
Ret
LIM
9
MDO
2
ROA
1
MOS
1
DET
1
PET
6
LGA
1
1位 202
2008年 GT2 SEB
Ret
STP
10
LBH
9
UTA
Ret
LIM
3
MDO
5
ROA
5
MOS
1
DET
3
PET
1
LGA
2
7位 121
2009年 GT2 SEB
1
STP LBH UTA LIM MDO ROA MOS PET
1
LGA 13位 60
2010年 GT SEB LBH LGA UTA LIM
4
MDO ROA
7
MOS PET
7
21位 28

FIA GT1世界選手権

編集
チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
2010年 マッドクロック・レーシング シボレー・コルベット C6.R ABU
QR

Ret
ABU
CR

15
SIL
QR
SIL
CR
BRN
QR

19
BRN
CR

12
PRI
QR
PRI
CR
SPA
QR
SPA
CR
NÜR
QR

15
NÜR
CR

23
ALG
QR
ALG
CR
NAV
QR
NAV
CR
INT
QR
INT
CR
SAN
QR
SAN
CR
52位 0

(key)

ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ

編集
チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 順位 ポイント
2013年 SMPレーシング フェラーリ・458イタリア GT3 GTC SIL IMO SPL HUN CAS
5
13位 10
2014年 GTC SIL
IMO
10
SPL
9
CAS
11
EST
11
28位 4

ル・マン24時間レース

編集
ル・マン24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
2003年   アウディスポーツ・UK
  アリーナ・モータースポーツ
  フランク・ビエラ
  ペリー・マッカーシー
アウディ・R8 LMP900 28 DNF DNF
2007年   リシ・コンペティツィオーネ   ジョニー・モウレム
  ハイメ・メロ
フェラーリ・F430 GT2 GT2 223 DNF DNF
2008年   ハイメ・メロ
  ジャンマリア・ブルーニ
GT2 326 19位 1位
2009年   ハイメ・メロ
  ピエール・カッファー
GT2 329 18位 1位
2010年   AFコルセ   ルイス・ペレス・コンパンク
  マティアス・ルッソ
GT2 0 DNS DNS
2014年   SMPレーシング   セルゲイ・ズロービン
  アントン・ラディギン
オレカ・03R-日産 LMP2 303 37位 12位

セブリング12時間レース

編集
セブリング12時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
2003年   アウディスポーツ・UK   ジョニー・ケイン
  ペリー・マッカーシー
アウディ・R8 LMP900 351 6位 6位
2007年   リシ・コンペティツィオーネ   ハイメ・メロ
  ジョニー・モウレム
フェラーリ・F430 GT2 GT2 330 12位 1位
2008年   ハイメ・メロ
  ジャンマリア・ブルーニ
GT2 137 DNF DNF
2009年   ハイメ・メロ
  ピエール・カッファー
GT2 332 8位 1位
2011年   ハイメ・メロ
  トニ・バイランダー
フェラーリ・458イタリア GT2 GT 266 DNF DNF

スパ・フランコルシャン24時間レース

編集
スパ24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
2004年   GPC ジェッセ・スクアドラ・コルセ   ヴィンセント・フォッセ
  ファビオ・バビーニ
  フィリップ・ピーター
フェラーリ・575-GTCマラネロ GT 557 2位 2位
2006年   AFコルセ   ルイ・アグアス
  ティモ・シャイダー
フェラーリ・F430 GT2 GT2 560 6位 1位
2007年   ディルク・ミューラー
  トニ・バイランダー
GT2 365 30位 10位
2008年   ジャンマリア・ブルーニ
  ハイメ・メロ
  トニ・バイランダー
GT2 550 7位 3位
2013年   SMPレーシング   キリル・ラディギン
  ヴィクトル・シャイタル
  マウリツィオ・メディアーニ
フェラーリ・458イタリア GT3 Pro-Am 556 6位 2位

全日本ツーリングカー選手権

編集
チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1993年 チーム・5ZIGEN トヨタ・カローラレビン JTC-3 MIN
8
AUT
5
SUG
6
SUZ
Ret
TAI
Ret
TSU
1
TOK
Ret
SEN
Ret
FSW
4
14位 47

(key)

関連項目

編集

脚注

編集
  1. ^ ミカ・サロの息子、「YOUは何しに日本へ?」に出演するようです! - みんなでF1・2021年10月25日
  2. ^ ミカ・ハッキネン いつもプレッシャーの中で Racing On 1991年11月15日号 79頁 ニューズ出版
  3. ^ ZOOM UP DRIVER ミカ・ハッキネン F1界の巨人を目指して F1速報 1991年第15戦日本GP号 31頁 武集書房
  4. ^ ハッキネンがロータス入り、ケケ・ロズベルグが強力に推薦 オートスポーツ No.573 1991年2月1日号 三栄書房
  5. ^ 活動中止の危機に陥っていたチームロータス、どたんばになってケケ・ロズベルグの強力なテコ入れによりミカ・ハッキネンとオルスト・シュベルがチームに加入。まずはチームのF1参戦は確保 F1速報 1991開幕直前号 38頁 1991年3月11日発行 武集書房
  6. ^ a b c d e 「もうひとりのミカ」インタビュー ミカ・サロ Racing On No.193 90-93頁 1995年6月9日発行
  7. ^ ミカ・サロ '95シーズン最大の有望株 F1グランプリ特集 24-25頁 1995年6月16日発行
  8. ^ ドライバーにブレーキダストが直撃?ベッテル、今季マシンの問題点を指摘 Motorsport.com 2022年7月12日
  9. ^ "バーレーンGPのスチュワードはサロ". GpUpdate.(2013年4月17日)2013年5月10日閲覧。
  10. ^ ウィリアムズのドライバーたちは“ハングリー”だとミカ・サロ - TopNews・2018年1月17日
  11. ^ サロ「ジョニーから借りたウェアの足が短くて困った(笑)」AS+F 1994年日本GP号 三栄書房 1994年11月
  12. ^ オフはスカッシュでリフレッシュ ミカ・サロ Racing On 武集書房 1991年
  13. ^ https://jp.motorsport.com/porsche/news/PSCJ-Max-Salo-Field-Manegment-motorsport-announcement/4773442/ ミカ・サロの長男、マックス・サロが日本でポルシェを駆る! PSCJへの参戦を発表] - motorsport.com 2020年3月26日
  14. ^ ATEAM Buzz Racing、2021年もFIA-F4はじめ多くの若手ドライバーをバックアップ - オートスポーツ・2021年4月30日
  15. ^ 佐々木孝太率いるBUZZ KOTA RACINGがマクラーレンでスーパー耐久ST-Zクラス挑戦へ - オートスポーツ・2023年2月21日

外部リンク

編集