1994年サンマリノグランプリ

1994年サンマリノグランプリは、1994年5月1日イタリアイーモラにあるイモラ・サーキットで開催されたF1レースである。1994年のF1世界選手権の第3戦で、このシーズンのヨーロッパラウンド初戦として開催された。アイルトン・セナローランド・ラッツェンバーガーの最期のレースとして知られる。

サンマリノの旗 1994年サンマリノグランプリ
レース詳細
日程 1994年シーズン第3戦
決勝開催日 5月1日
開催地 イモラ・サーキット
イタリア エミリア=ロマーニャ州イモラ
コース長 4.933 km
レース距離 58周(286.114 km)
決勝日天候
ポールポジション
ドライバー
タイム 1'21.548
ファステストラップ
ドライバー イギリスの旗 デイモン・ヒル
タイム 1'24.335(Lap 10)
決勝順位
優勝
2位
3位

概要

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このグランプリではローランド・ラッツェンバーガーシムテック)と3度のワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナウィリアムズ)が死亡したのをはじめ、多くの事故と負傷者が発生し、BBCの解説者マレー・ウォーカーは「私の知る限り、グランプリレース史上、最も悲しい日である」と形容した[1]

レースは最終的にミハエル・シューマッハの勝利で終わったが、シューマッハはレース後の記者会見で「満足感もなく、ハッピーでもない」と語った。ニコラ・ラリーニは2位に入りキャリア初の得点を挙げ、3位にはミカ・ハッキネンが入った。また、日本人ドライバーの片山右京が2度目の5位入賞を挙げている。

このレースにおいて発生した複数の事故は、モータースポーツの安全性を高めることの重要性を示した。12年ぶりにGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)が活動を開始し、マシン設計とコースの双方に多くの変更が加えられた。

またこのレース以後、国際自動車連盟(FIA)会長のマックス・モズレーの主導により多くのレギュレーションが改定された。次戦モナコGPからピットロードに速度制限が設けられたほか、ダウンフォースを削減しコーナリングスピードを低下させる目的で、第5戦スペインGP以降は順次ボーテックスジェネレーターの禁止、ステップドボトムの導入、リアディフューザーの規制強化、フロントウイング翼端板の最低地上高引き上げなど、様々なレギュレーション変更が行われた。これらの変更は満足なテスト期間を設けられることもなく半ば強行されたものであったため、安全性を確認することなく付け焼き刃での突貫作業となったことから批判も多く、レギュレーション変更後も大事故が多発した。

しかし、結果としてそれまで死亡事故が12年間にわたり発生せず「安全神話」とまで呼ばれ、安全性向上への意識が疎かになりつつあった状況に終止符が打たれ、1994年以降から現代に続くマシンやサーキットの安全性向上へ繋がる契機となった。

予選

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金曜日

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セナの後輩ルーベンス・バリチェロは、この週末の最初のアクシデントから生還した。

4月29日金曜日、レースのスタート順位を決める最初の予選中に、ジョーダンのルーベンス・バリチェロがヴァリアンテ・バッサシケインで225km/hで縁石に乗り上げ、空中に飛び上がった[2]。マシンはタイヤバリアの上端と金網に衝突し、バリチェロはその衝撃で気を失った[3]。マシンはノーズから地面に垂直落下した後に数回横転し、裏返しになって停止した。

バリチェロは事故現場で医療チームからの手当てを受け、そのままメディカルセンターへ搬送された。鼻を骨折し、ギプスで腕を固められたことでレースウィーク中はマシンの運転ができなくなったが、翌日にはサーキットに戻り、ドライバーズミーティングに出席した。当時ウィリアムズルノーをドライブしていたデイモン・ヒルは事故の10年後、当時の気持ちについて「俺達は戦車並に頑丈なクルマに乗ってるんだ、多少不安に感じても怪我なんかしない、と自身に言い聞かせて予選を続けた」と述懐している[4]

土曜日

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予選開始から20分後、シムテックローランド・ラッツェンバーガーがヴィルヌーヴカーブを曲がりきれず、アウト側のコンクリートウォールにほぼ正面から衝突した。サバイバルセル(モノコック部)は原形を大まかには留めていたものの車体左側には大きく穴が開き、ラッツェンバーガーは衝突の衝撃により頭蓋底骨折を起こした。

ラッツェンバーガーは事故の直前の周回に「アクア・ミネラリ」シケインで縁石を乗り越えており、その時の衝撃でマシンのフロントウィングがダメージを受けていたものと考えられている。ラッツェンバーガーは縁石越え後もピットに戻らず、次の周回でもタイムアタックを続けたが、306km/hで走行中にフロントウィングが完全に破損し、マシンコントロールを失った[5]

 
ヴィルヌーヴカーブ:ラッツェンバーガーのクラッシュ地点

セッションは40分を残して中断したが、残り時間は最終的にキャンセルされた[4][3]。その後、ラッツェンバーガーが多発外傷により死亡したと病院から発表された。F1レースウィーク中の死亡事故は1982年カナダGPリカルド・パレッティ以来のことで、ポール・リカールブラバムのテスト中にエリオ・デ・アンジェリスが死亡してからは8年が経過していた。

F1コース上の当時の医療チームリーダーだったシド・ワトキンスは、このニュースを聞いたセナの反応について「アイルトンは取り乱して、僕の肩で泣いてたよ」と後に語っている[6]。ワトキンスは「君は何をしなきゃいけないんだ?既に3度も世界チャンピオンになって、間違いなく一番速いドライバーさ。もうやめにして、釣りにでも行こうぜ」と、翌日のレースにセナが出場しないように説得しようとしたが、セナは「シド、僕らの手にはどうしようもない事があるのさ。僕は辞められない。続けなきゃならないんだ」と返した[6]

セナはポールポジションを獲得し、ポイントランキングでトップのミハエル・シューマッハが2番手に続いた。ゲルハルト・ベルガーが3番手となり、セナのチームメイトデイモン・ヒルは4番手となった。なお、ラッツェンバーガーが事故前に記録したタイムは予選通過最後尾の26位に相当していた。

結果

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順位 No ドライバー コンストラクター タイム
1 2   アイルトン・セナ ウィリアムズルノー 1'21.548
2 5   ミハエル・シューマッハ ベネトンフォード 1'21.885 +0.337
3 28   ゲルハルト・ベルガー フェラーリ 1'22.113 +0.565
4 0   デイモン・ヒル ウィリアムズルノー 1'22.168 +0.620
5 6   J.J.レート ベネトンフォード 1'22.717 +1.169
6 27   ニコラ・ラリーニ フェラーリ 1'22.841 +1.293
7 30   ハインツ=ハラルド・フレンツェン ザウバーメルセデス 1'23.119 +1.571
8 7   ミカ・ハッキネン マクラーレンプジョー 1'23.140 +1.592
9 3   片山右京 ティレルヤマハ 1'23.322 +1.774
10 29   カール・ヴェンドリンガー ザウバーメルセデス 1'23.347 +1.799
11 10   ジャンニ・モルビデリ フットワークフォード 1'23.663 +2.115
12 4   マーク・ブランデル ティレルヤマハ 1'23.703 +2.155
13 8   マーティン・ブランドル マクラーレンプジョー 1'23.858 +2.310
14 23   ピエルルイジ・マルティニ ミナルディフォード 1'24.078 +2.530
15 24   ミケーレ・アルボレート ミナルディフォード 1'24.276 +2.728
16 9   クリスチャン・フィッティパルディ フットワークフォード 1'24.472 +2.924
17 25   エリック・ベルナール リジェルノー 1'24.678 +3.130
18 20   エリック・コマス ラルースフォード 1'24.852 +3.304
19 26   オリビエ・パニス リジェルノー 1'24.996 +3.448
20 12   ジョニー・ハーバート ロータス無限ホンダ 1'25.114 +3.566
21 15   アンドレア・デ・チェザリス ジョーダンハート 1'25.234 +3.686
22 11   ペドロ・ラミー ロータス無限ホンダ 1'25.295 +3.747
23 19   オリビエ・ベレッタ ラルースフォード 1'25.991 +4.443
24 31   デビッド・ブラバム シムテックフォード 1'26.817 +5.269
25 34   ベルトラン・ガショー パシフィックイルモア 1'27.143 +5.595
26 32  ローランド・ラッツェンバーガー シムテックフォード 1'27.584 +6.036
27 33   ポール・ベルモンド パシフィックイルモア 1'27.881 +6.333
28 14   ルーベンス・バリチェロ ジョーダンハート

決勝

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3度のワールドチャンピオン、アイルトン・セナの死は、F1を大きく変えることとなった。

前日に事故死したラッツェンバーガーは予選を26位で通過しており、彼を追悼する目的で決勝は26番グリッドを空けた状態でスタートした。

スタート直後、J.J.レートのベネトンがグリッド上でストールした。後方からスタートしたペドロ・ラミーは、停止していたベネトンを前走車に遮られ確認することができず、レートに追突して車体の破片やタイヤなどが空中に舞い上がった。マシンのパーツは、観客を守るためにスタートライン付近に設置されていたフェンスを飛び越え、9名の観客が軽傷を負った[7]

この事故によりセーフティカーが導入され、それによる低速走行によってタイヤの温度が低下した。レースの前に行われたドライバーズブリーフィングにおいて、セナはゲルハルト・ベルガーとともに「セーフティカーのスピードが遅いとタイヤ温度を高く保てない」との懸念を示していた[7]。コース上の破片などが除去されるとセーフティカーは退き、レースはローリングスタートで再開された。

再スタートから2周後、シューマッハを抑えてトップを走行していたセナが、タンブレロコーナーでコースアウトした。その後、セナは壁に衝突するまでの0.9秒間にブレーキングと6速から5速へのシフトダウンによって、312km/hから211km/hまで減速していた。

 
タンブレロコーナー:セナの事故現場

14時17分(CEST、以下同)にレース中断を示す赤旗が提示され、シド・ワトキンスがセナの手当てのために現場に向かった。赤旗でレースが中断されると、マシンはスローダウンしてピットレーンに戻り以後の指示を待たなければならないが、ラルースチームのクルーは赤旗が提示されているにもかかわらず、エリック・コマスをピットアウトさせるというミスを犯してしまった[8]。コマスがほとんどフルスピードで現場に差し掛かったため、マーシャルはスローダウンさせるために必死に旗を振って合図を送った[9]。ユーロスポーツのコメンテーターであったジョン・ワトソンは、この件について「これまでの人生で見てきた事の中で、最も馬鹿げた出来事だった」と語っている[9]。コマスはコースにいた人間と車両をすべて避けたが、自らセナの事故現場を目にしたことに苦しみ、レースをリタイアした。

イタリア放送協会(RAI)により世界に配信されたセナの事故の映像はあまりに生々しく、BBCは独自映像に切り替え、ピットレーンの様子を映し出した[10]。壊れたマシンから救出されたセナは、ボローニャに近いマッジョーレ病院にヘリコプターで搬送された。

セナの事故から37分後の14時55分、レースは再スタートされた。再スタートされたレースの結果は中断された最初のレースとの合算で争われることになった。再スタート直後はゲルハルト・ベルガーがコース上でのリードを奪ったが、レース中断時点ではシューマッハがベルガーに対してリードしており、合算ではシューマッハがレースをリードしていた。12周目にシューマッハはコース上でもトップに立ったが、ベルガーはその4周後にハンドリングの問題でリタイアした。ラリーニはシューマッハのピットストップにより一時的にトップに立ったが、自身のピットストップで順位は元に戻った[11]

ゴールまで10周を残したところで、ピットレーンにおいてミケーレ・アルボレートのミナルディから右リアタイヤが外れた。アルボレートはピット出口で停車したが、外れたタイヤに当たったフェラーリとロータスの各2名のメカニックが負傷した[12]。難を逃れたフェラーリのメカニックは「周りから叫び声が聞こえたので、何事かと振り返った瞬間にタイヤが自分の鼻先をかすめて行った」と語っている。当時のF1ではピットロードにおける速度制限が定められていなかったことから被害に拍車がかかり、次戦モナコGPからピットロードでの速度制限が定められる契機となった。

最終的にはミハエル・シューマッハがニコラ・ラリーニとミカ・ハッキネンを抑えて優勝し、1994年のF1世界選手権の開幕3戦で満点となる30ポイントを獲得した。ラリーニにとってはキャリア唯一の表彰台で、初のポイント獲得となった。表彰式ではラッツェンバーガーとセナへの配慮から、シャンパンファイトは行われなかった。

結果

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順位 No ドライバー コンストラクター 周回 タイム/リタイア グリッド ポイント
1 5   ミハエル・シューマッハ ベネトンフォード 58 1:28'28.642 2 10
2 27   ニコラ・ラリーニ フェラーリ 58 +54.942 6 6
3 7   ミカ・ハッキネン マクラーレンプジョー 58 +1'10.679 8 4
4 29   カール・ヴェンドリンガー ザウバーメルセデス 58 +1'13.658 10 3
5 3   片山右京 ティレルヤマハ 57 +1 Lap 9 2
6 0   デイモン・ヒル ウィリアムズルノー 57 +1 Lap 4 1
7 30   ハインツ=ハラルド・フレンツェン ザウバーメルセデス 57 +1 Lap 7
8 8   マーティン・ブランドル マクラーレンプジョー 57 +1 Lap 13
9 4   マーク・ブランデル ティレルヤマハ 56 +2 Laps 12
10 12   ジョニー・ハーバート ロータス無限ホンダ 56 +2 Laps 20
11 26   オリビエ・パニス リジェルノー 56 +2 Laps 19
12 25   エリック・ベルナール リジェルノー 55 +3 Laps 17
13 9   クリスチャン・フィッティパルディ フットワークフォード 54 +4 Laps 16
Ret 15   アンドレア・デ・チェザリス ジョーダンハート 49 スピンオフ 21
Ret 24   ミケーレ・アルボレート ミナルディフォード 44 ホイール 15
Ret 10   ジャンニ・モルビデリ フットワークフォード 40 エンジン 11
Ret 23   ピエルルイジ・マルティニ ミナルディフォード 37 スピンオフ 14
Ret 31   デビッド・ブラバム シムテックフォード 27 スピンオフ 24
Ret 34   ベルトラン・ガショー パシフィックイルモア 23 エンジン 25
Ret 19   オリビエ・ベレッタ ラルースフォード 17 エンジン 23
Ret 28   ゲルハルト・ベルガー フェラーリ 16 サスペンション 3
Ret 2  アイルトン・セナ ウィリアムズルノー 5 事故死 1
Ret 20   エリック・コマス ラルースフォード 5 棄権 18
Ret 6   J.J.レート ベネトンフォード 0 衝突 5
Ret 11   ペドロ・ラミー ロータス無限ホンダ 0 衝突 22
DNS 32  ローランド・ラッツェンバーガー シムテックフォード 予選中の事故死 26
DNQ 14   ルーベンス・バリチェロ ジョーダンハート 棄権 -
DNQ 33   ポール・ベルモンド パシフィックイルモア -

レース後

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シューマッハがゴールラインを越えてから2時間20分後の18時40分、マリア・テレーザ・フィアンドリ医師はアイルトン・セナの死を発表した。公式の死亡時刻は14時17分、つまり即死だった。なお、フジテレビジョンの中継においては「18時3分にセナが脳死に陥った」という非公式情報をもとに、その段階でセナの死を報道している[13]。検死解剖の結果、死因は大破したマシンのサスペンション部品がヘルメットを貫通したものと結論づけられた[14]

1994年のイモラのレイアウトは1981年より使用されているものだったが[15]、以後、F1グランプリで使われることは二度となかった。事故後、サーキットは大きく改修され、タンブレロも変更を受けた。タンブレロでは過去にもゲルハルト・ベルガー1989年)、ネルソン・ピケ(1987年)、リカルド・パトレーゼ(1992年、合同テスト中)の大きな事故が起こっており、高速コーナーから低速のシケインへと姿を変えた。FIAはF1カーの設計に関するレギュレーションも変更し、1994年の車両では1995年のレギュレーションに適合することができなくなった[16]

 
2件の死亡事故が起こった1994年のレース後、サーキットのレイアウトは変更された。

決勝日の朝に行われたドライバーズブリーフィングでセナとベルガーから懸念が提起されたことがきっかけとなり、グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)が次戦1994年モナコグランプリで再結成された。1961年に設立されたGPDAは、1982年に解体されていた。再結成の主な目的は、イモラの事故を受け、安全向上のためにドライバーが話し合う場を設けることだった。また、この年のモナコグランプリでは、最前列の2グリッドにブラジル国旗とオーストリア国旗がペイントされ、命を落とした2人のドライバーを追悼するためにグリッドが空けられた。また、レース前に1分間の黙祷が捧げられた。


1994年5月5日、セナはブラジルサンパウロで国葬にされた。約50万人の群衆が沿道に並び、セナの棺を見送った[1]。セナのライバルであったアラン・プロストは棺を担いだ[17]。多くのF1関係者はセナの葬儀に参列したが、当時のFIA会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、2日後の5月7日にオーストリアザルツブルクで執り行われたラッツェンバーガーの葬儀に参列した[18]。10年後、モズレーはプレスカンファレンスで「僕が彼(ラッツェンバーガー)の葬儀に参列したのは、皆がセナのほうに参列したからだ。誰かが彼の葬儀に参列する事が重要だと思った」と語っている[19]

裁判

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イタリアの検察は法的手順に則り、セナの死に関連して6名を訴えた。訴えられたのは、ウィリアムズフランク・ウィリアムズパトリック・ヘッドエイドリアン・ニューウェイイモラ・サーキットオーナー代表のフェドリコ・ベンディネリ、サーキットディレクターのジョルジョ・ポッジ、レースディレクターでサーキットを認可したローランド・ブルインセラードである[20]。判決は1997年12月16日に下され、過失致死について6名の被告全員が無罪となった[21]

セナの事故原因はステアリングコラムの破損であると法廷で確定された[22]。ステアリングコラムは、セナの要望により切断と再溶接が行われていた。これはマシン内の居住性を改善するためであった。

この判決を受け、州検察はパトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューウェイに対して上訴した。1999年11月22日、新たな証拠がないことから法廷は無罪を言い渡した。セナの車両に搭載されたブラックボックスは損傷していたためにデータが残されておらず、テレビ局は事故直前に車載カメラの映像を他車のものに切り替えてしまったために、セナの車載カメラの映像には1.6秒ほどの内容が残っていなかった。イタリアの刑法530条に従い、告訴は「証拠がないか、事実が存在しない」と宣言された[23]。2003年1月、この判決は530条の解釈に間違いがあるとされ、イタリア最高裁に取り消された[24]。再審が命じられ、2005年5月27日にヘッドとニューウェイの両名とも無罪とされた[25]

脚注

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  1. ^ a b “Race ace Senna killed in car crash”. BBC News. (1994年5月1日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/1/newsid_2479000/2479971.stm 2006年10月28日閲覧。 
  2. ^ Longmore, Andrew (1994年10月31日). “Ayrton Senna: The Last Hours”. The Times (News International). http://www.cstudio.net/may194.html 2006年10月28日閲覧。 
  3. ^ a b Hamilton, Maurice. Frank Williams. Macmillan. pp. 232. ISBN 0-333-71716-3 
  4. ^ a b Hill, Damon (2004年4月17日). “Had Ayrton foreseen his death?”. The Times (News International). http://www.timesonline.co.uk/article/0,,12771-1077121,00.html 2006年10月28日閲覧。 
  5. ^ Spurgeon, Brad (1999年4月30日). “5 Years After Senna's Crash, Racing Is Safer ? Some Say Too Safe: Imola Still Haunts Formula One”. International Herald Tribune. http://www.iht.com/articles/1999/04/30/prix.2.t_1.php 2007年5月1日閲覧。 
  6. ^ a b Hamilton, Maurice. Frank Williams. Macmillan. pp. 234. ISBN 0-333-71716-3 
  7. ^ a b “A tragic weekend”. The Times (News International). (2004年4月19日). http://www.timesonline.co.uk/article/0,,12771-1079325,00.html 2006年10月28日閲覧。 
  8. ^ “TITLE REQUIRED”. Autosport. (1994年5月5日) 
  9. ^ a b Watson, John (Commentator) (1994). Eurosport Live Grand Prix (Television). Eurosport.
  10. ^ Horton, Roger (2000年). “There's Something about Murray”. Autosport. http://atlasf1.autosport.com/2000/dec20/horton.html 2006年10月28日閲覧。 
  11. ^ Grand Prix Results: San Marino GP, 1994”. GP Encyclopedia. www.grandprix.com. 2006年10月28日閲覧。
  12. ^ Rider, Steve (Presenter) (1994). San Marino Grand Prix (Television). London, United Kingdom: BBC.
  13. ^ Secrets of Senna's black box”. Senna Files. www.ayrton-senna.com (1997年3月18日). 2006年10月28日閲覧。
  14. ^ Thomsen, Ian (1995年2月11日). “Williams Says Italy May Cite Steering In Senna's Death”. International Herald Tribune. http://www.iht.com/articles/1995/02/11/prix_0.php 2006年10月28日閲覧。 
  15. ^ Autodromo Enzo e Dino Ferrari - Imola”. www.gpracing.net192.com. 2006年10月28日閲覧。
  16. ^ Wright, Peter (1995年). “Preview of 1995 Formula1 Cars”. www.grandprix.com. http://www.grandprix.com/ft/ft00187.htm 2006年10月28日閲覧。 
  17. ^ Open Warfare”. www.gpracing.net192.com. 2006年10月28日閲覧。
  18. ^ David Tremayne, Mark Skewis, Stuart Williams, Paul Fearnley (1994年4月5日). “Track Topics”. Motoring News (News Publications Ltd.) 
  19. ^ “Max went to Roland's funeral”. www.f1racing.net. (2004年4月23日). http://www.f1racing.net/en/news.php?newsID=48657 2006年10月28日閲覧。 
  20. ^ Hamilton, Maurice. Frank Williams. Macmillan. pp. 276. ISBN 0-333-71716-3 
  21. ^ All six cleared in Senna trial”. Senna Files. www.ayrton-senna.com (1997年12月16日). 2006年10月28日閲覧。
  22. ^ Faulty Steering Caused Crash!”. Senna Files. www.ayrton-senna.com. 2006年10月28日閲覧。
  23. ^ Appeal absolves Head and Newey”. Senna Files. www.ayrton-senna.com. 2006年10月28日閲覧。
  24. ^ “Senna death case back in court”. BBC Sport. (2003年1月28日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/motorsport/formula_one/2701713.stm 2006年10月28日閲覧。 
  25. ^ “Top designers acquitted on Senna”. BBC Sport. (2005年5月27日). http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/motorsport/formula_one/4587195.stm 2006年10月28日閲覧。 

レース結果は、F1公式サイトおよびYahoo!Japanより。

外部リンク

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前戦
1994年パシフィックグランプリ
FIA F1世界選手権
1994年シーズン
次戦
1994年モナコグランプリ
前回開催
1993年サンマリノグランプリ
  サンマリノグランプリ 次回開催
1995年サンマリノグランプリ