島尾敏雄
島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。
1966年8月16日、千代田区九段で撮影。 | |
誕生 |
1917年4月18日 日本・神奈川県横浜市戸部3丁目18番地 |
死没 |
1986年11月12日(69歳没) 日本・鹿児島県鹿児島市 |
墓地 | 福島県南相馬市の共同墓地 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士 |
最終学歴 | 九州帝国大学法文学部文科(東洋史) |
活動期間 | 1947年 - 1986年 |
ジャンル | 小説、随筆 |
文学活動 |
第二次戦後派 (第三の新人とされることもある) 私小説 シュールレアリスム アヴァンギャルド |
代表作 |
『夢の中での日常』(1948年) 『死の棘』(1960年 - 1977年) 『出発は遂に訪れず』(1962年) 『硝子障子のシルエット』(1972年) 『日の移ろい』(1976年) 『魚雷艇学生』(1985年) |
主な受賞歴 |
戦後文学賞(1950年) 芸術選奨(1961年) 毎日出版文化賞(1972年) 谷崎潤一郎賞(1977年) 読売文学賞(1978年) 日本文学大賞(1978年) 日本芸術院賞(1981年) 川端康成文学賞(1983年) 野間文芸賞(1985年) |
デビュー作 | 『単独旅行者』(1947年) |
配偶者 | 島尾ミホ(1946年 - 死去まで) |
子供 | 島尾伸三(長男)、マヤ(長女) |
親族 |
島尾四郎(父)、トシ(母) 美江、雅江(妹) 義郎(弟) しまおまほ(孫) |
ウィキポータル 文学 |
大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」という概念を考案したことでも知られる。
作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの、戦争中の体験を描いた作品群、『出発は遂に訪れず』などの作品群、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの作品群に大別される。また、小説作品との決定的な差異はないとされる日記や、紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども多く書き続けた。
妻はのちに小説家となった島尾ミホ。長男は写真家の島尾伸三で、漫画家のしまおまほは孫にあたる。島尾の浮気に起因する心因性の精神症状に悩む妻との生活を描いた『死の棘』は、小栗康平によって1990年に映画化され、第43回カンヌ国際映画祭にて最高賞パルム・ドールに次ぐ、 審査員グランプリ受賞となった。
生涯
編集幼少時代
編集1917年4月18日、神奈川県横浜市戸部3丁目18番地にて、父・島尾四郎、母・トシとの長男として生まれた[1]。父・四郎は輸出絹織物売込商を営み、両親ともに福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)の出身[1]。体の弱い内気な子供で、家の中で1人で遊ぶことが多かったという[1]。ごく幼い頃に一時的に視力を失いすぐに回復したが、この時の不安と恐怖の記憶が心の奥に残った[1]。のちに妹2人、弟2人、異母弟1人が生まれて6人兄弟となる[1][2]。
母の体が弱かったこともあり、敏雄は父母の実家のある福島県相馬郡で過ごすことも多く、相馬と横浜を往復する幼少期であった[1]。相馬郡では母方の祖母・井上キクが敏雄ら孫を預かって可愛がり、囲炉裏の炬燵で方言による昔話や説話をよく語り聞かせた[1]。こうした東北のフォークロアの世界も敏雄の感受性を育てた[1]。ちなみに相馬郡小高町を故郷に持つ作家には埴谷雄高(本名・般若豊)がおり、のちに同郷の奇遇を埴谷と驚き合うことになる[1]。
1923年9月、横浜尋常小学校附属幼稚園に在園時、関東大震災により横浜の自宅が全壊したが、敏雄はちょうど重い病の後の療養で相馬郡にいて、一家も敏雄を迎えに福島に向かっていたため難を逃れた[1]。この頃の大震災からの疎外体験については、後の戦争体験との類似においてエッセイ等でたびたび言及される。
1924年、横浜尋常小学校に入学し、7月と12月に学校雑誌『学之友』に図画と作文「ボクノナガグツ」が掲載された[1]。その後1925年11月下旬に兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市灘区)に一家で移住し、西灘第二尋常小学校(現・神戸市立稗田小学校)に転校するが、自分の表現が活字になった時の体験により、小さな謄写版や片仮名のゴム活字を用いて独力で小冊子のようなパンフレット(『小兵士』『小兵士タイムス』『学びの声』)を編集・印刷することに没頭した[1]。
1929年、神戸市葺合区(現・中央区)八幡通に一家が移り、神戸尋常小学校(現・神戸市立こうべ小学校)に転校[1][2]。そこで当時国語教師をしていた小説家の若杉慧に綴方の指導を受ける[1]。同じく神戸小学校で若杉に綴方、書方の指導を受けた陳舜臣が印象に残る生徒であった一方、島尾は目立たない生徒であったという。
学生時代
編集1930年に兵庫県立第一神戸商業学校(現・兵庫県立星陵高等学校)に入学。山岳部に入り、病弱だった体が健康になってきた[1]。伝染病の病原菌に対する恐怖の念はなかなか克服できなかったが、山歩きが好きになったという[1]。同校在学中の1933年、年長の友人・金森正典と同人誌『少年研究』を発行したり、『峠』に参加したりした。他に何種類もの同人誌に詩や文章を寄稿していた[1]。この頃、中里介山の『大菩薩峠』に惹かれて読み進めた[1]。そんな中、卒業前年の1934年11月に、母・トシが帝王切開の出産後の術後経過が悪く死去した[1]。
商業学校卒業者は本来であれば進学せずに社会に出るのが一般的だったが、卒業の頃になって父親の事業が軌道に乗り上級の学校へ進学することが許された。しかし神戸高商の兵庫県立神戸高等商業学校の受験に失敗して進学先の決まらぬまま、第一神戸商業学校を卒業し、浪人生活に入った。当時商業学校から高等学校への進学は制度上許されていなかったので[要検証 ]、翌年も高等商業学校を受験しなければならなかったが、地元の兵庫県立神戸高等商業学校を避け、実家から遠方の小樽高商、長崎高商、鹿児島高商など地方の高等商業学校への進学を考えていたと述べている。
1936年4月、長崎高等商業学校に入学した。中桐雅夫編集の『LUNA』同人となり、以降同誌に幾つもの詩を発表した。1938年、長崎高商2年の頃、矢山哲治らと同人誌『十四世紀』を創刊するが、島尾が載せた小説と他同人2名の小説及び詩の内容が風俗壊乱と反戦思想の嫌疑をかけられ発行と同時に内務省より発売禁止の処分を受けた[1]。この頃ロシア語を学習する傍らドストエフスキー、プーシキン、チェーホフ、ゴーゴリ、ガルシンなどロシア文学を耽読した[1]。この時期の下宿は、長崎市南山手町大浦天主堂下の木造洋館だったが、そこには亡命ロシア人の家族もいて彼らとも親しく交流した[1]。
1939年3月に長崎高等商業学校を卒業する[3]が、神戸商業大学の受験に失敗したため引き続き4月から同校海外貿易科に籍を置く[4]。この夏、毎日新聞社主催のフィリピン派遣学生旅行団の一員としてルソン島、台湾を旅行した[1]。その体験が後に『呂宋紀行』として結実する。また同年、雑誌『科学知識』の懸賞小説に「お紀枝」が当選し(選者杉山平助、高見順)、賞金十円を得た。10月からは福岡の同人雑誌『こおろ』(のち『こをろ』)に加わる。長崎高商時代を舞台とした小説は「断崖館」と「春の日のかげり」、および習作期の「南山手町」がある。
古事記の一節にちなんで名付けられた『こをろ』は福岡市で刊行された文藝同人誌で、1939年から1944年にかけて、14号まで発行された。同人には島尾敏雄のほか矢山哲治、真鍋呉夫、阿川弘之、那珂太郎、小島直記、一丸章らがおり、同人は長崎高商と福岡高校の2つの系統からなっていた[1]。島尾の言によれば、福岡高校出身者はゲオルゲ、カロッサ、リルケ等ドイツのそうした系統や当時の風潮の「日本浪曼派」的な傾きが強く、商業(福岡商業)、高商出身者はそれに馴染まないものが多かったという。
そうした性質の異なる二派の青年たちからなる『こをろ』は度々分裂の危機に見舞われた。『こをろ』の中心人物で、25の若さで自殺とも事故ともつかぬ列車事故により夭折した矢山哲治の死に際しては、同人の多くが既に出征していたこともあって島尾が最も近くに居り、衝撃を受けた。『こをろ』の矢山追悼号へは「矢山哲治の死」を掲載し、葬式では島尾が弔辞を読んだ。
矢山哲治との関係についてその当初の印象を「このやうにドイツ風な又日本浪漫派風な雰囲気に誕生していた矢山とさういふ所に無縁であった私」としていたが、矢山の死後の1943年後半を述懐して、島尾は日本浪曼派の代表的批評家である保田與重郎について「旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」「ムサボルヤウニ読ンデ甚ダシク心ヒカレタ」と書いている。
『こをろ』へは「呂宋紀行」「暖かい冬の夜に」「浜辺路」「断片一章」などを発表している。
1940年、九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌41年に九州帝大法文学部文科を受験し直して再入学し[注釈 1]、東洋史を専攻する[7]。その頃、トルキスタンの砂漠に行くことを夢想していたという[7]。そのため『水滸伝』のほか『浮生六記』などの小説や『李太白詩選』、また研究資料として元史にも親しんだ。在学中、同じ研究室の一級下に庄野潤三がおり親交を結ぶ[7]。佐藤春夫、木山捷平らを共通して好んだ。庄野にはこの頃を描いた日記体の小説『前途』がある。1943年、8月に卒業論文「元代回鶻人の研究一節」を書き上げ九州帝国大学を半年繰り上げで卒業し海軍予備学生を志願した。また、死が身近に迫っていることを覚悟し、幼い頃からそれまで書かれた散文を集めた私家版『幼年記』を70冊限定で発行[7]。この頃、庄野を介して詩人の伊東静雄との通交がはじまる。その関係は戦後のある時期まで続き、伊東の圏内で林富士馬、庄野潤三、三島由紀夫らと同人誌『光耀』(前身は『まほろば』)を1946年に創刊することとなる[8]。
特攻隊体験
編集1943年の9月末、九州帝国大学を半年繰り上げで卒業したのち、陸軍での内務班生活を嫌って海軍予備学生を志願した島尾敏雄は、はじめ飛行科を志願し、予備学生試験の当日の判定では航空適性であったが一般兵科に採用され、旅順の教育部へ入った[7]。基礎教育期間を終了したあとの術科学校の希望書に暗号、一般通信に加え、惰弱と思われるのが嫌で第三希望に魚雷艇部門を記入したところ採用され、第一期魚雷艇学生として1944年2月から横須賀市田浦の海軍水雷学校で訓練を受けた。当時魚雷艇部門は創設されたばかりであり、また術科の専門部門では一番の危険配置とされていた。
同年4月から長崎県川棚町の臨時訓練所で水雷学校特修学生として過ごすうち、特攻の志願が認められた。猶予期間として一日の休暇が与えられ、就寝前に志願の可否を紙に書いて提出するかたちで募られたという。5月には海軍少尉の任官を受け、震洋の配置が決まった[7]。10月には第十八震洋特攻隊指揮官として、180名ほどの部隊を率いて奄美群島加計呂麻島呑之浦基地へ赴いた。その地で更に訓練を重ね、出撃命令を待つ日が長く続いた[7]。
島の人々にとり、それまで本土から来た軍人たちは威圧的で馴染めないものがあったが、特攻隊の隊長・島尾は言葉づかいが丁寧で島民の生活への配慮があった[7]。また、墜落した敵機操縦士の遺骸を手厚く埋葬する人間性から、次第に島の人々から尊敬や信頼を集めるようになり、「ワーキャジュウ(我々の慈父)」とまで呼ばれ、「あれみよ島尾隊長は人情深くて豪傑で……あなたのためならよろこんでみんなの命を捧げます」という歌までできるようになった[7]。
そして、この島で小学校教師をしていた大平ミホも島尾隊長に惹かれ、島尾も南島の妖精のようなミホに惹かれて2人は恋仲になった[7]。1945年6月には沖縄が米軍に完全制圧され、死が間近に迫ってきたことが伝わってきたが、その少し前に島尾はミホに献じる形で童話風の短編「はまべのうた」を書いていた[7]。
1945年8月13日の夕方に特攻戦が発動され出撃命令を受けた。そのことを上等兵曹から聞いたミホは、島尾が出撃したら自分も短剣で喉を突き海中に身を投げる覚悟で入江の浜に正座していた[7]。その日は敵艦隊が姿を見せず、発進の号令を受け取らぬまま14日の朝を迎えた。震洋での特攻戦は夜襲を原則としていたため日中の出撃はありえず機会は翌晩まで延期されることとなった[7]。
その日の正午に大島防備隊司令部から全指揮官参集の命令を受け、翌15日に即時待機状態のままラジオで「終戦の詔勅」(玉音放送)を聞き島尾は敗戦を知る[7]。しかし、なかなかその実感がなく、隊員の中には「詔勅」の後も出撃を主張する者も出た[7]。島尾隊長もしばらくは寝る時も日本刀を肌身離さず、死の緊張から解放されたものの、隊員らはやり場のない抑鬱状態となった[7]。
米軍が加計呂麻島に来た場合、特攻隊員は狙われやすいため、搭乗員撤退の手続きが進められる中、島尾はミホの父・大平文一郎にミホとの結婚の許しを得た後、隊員らを引き連れて本土に向かい、佐世保で隊は解散した[7]。
復員後、島尾は実家のある神戸で文学活動を開始する。伊東静雄を度々尋ね、はじめ庄野潤三、林富士馬、三島由紀夫らと『光耀』を創刊し、戦争体験の言語化がはかられたが、手書きの謄写版刷りの3号で最終刊となった[8]。その後、同じく伊東静雄の下に集まっていた富士正晴らと『VIKING』を創刊する[8]。そうした活動を開始した1946年の3月には、ミホを神戸に呼び寄せ結婚した[8]。
『VIKING』へ掲載した中篇「単独旅行者」、「島の果て」が野間宏の目に触れ、1948年5月、『近代文学』系の雑誌『芸術』へ「単独旅行者」が転載されることとなり文壇に認められた[8]。また、デビュー第2作「夢の中での日常」も花田清輝、佐々木基一らの『綜合文化』10月刊(真善美社)へ掲載され[9]、未遂に終わった死によるアイデンティティーの宙づり状態をモチーフに、悪夢に憑かれた作家を印象づけ注目された[8]。翌月6月には埴谷雄高らの雑誌『近代文学』へ第二次同人として参加する[8]。
この頃から、執筆活動と並行して、生活のため神戸山手女子専門学校(現・神戸山手短期大学)の非常勤講師のかたわら、神戸市立外事専門学校(現・神戸市外国語大学)の助教授となった[8]。神戸市立外事専門学校では文芸部同人誌に「私の文学的信条」などを寄稿した[8]。
1950年5月、新日本文学会の雑誌『新日本文学』へ掲載した「ちっぽけなアヴァンチュール」が井上光晴の「書かれざる一章」とともに、日本共産党主流派(所感派)から「反革命的な作品」「末期的プチブルの作品」だと批判を受け、これに対し編集部や久保田正文、中野重治らが擁護論を展開した[8]。
「死の棘」体験
編集その後1952年から東京に移り、東京都立向丘高等学校定時制の非常勤講師をしながら作家活動を続け、吉本隆明、奥野健男、詩人の清岡卓行らと雑誌『現代評論』を始めるが、東京の地で受けた刺激により、家をあける機会が多くなった[10]。そして島尾の浮気を知った妻・ミホは心の病に冒される。両親の深い愛情と穏やかな南島の環境で育ち、嫉妬や憎悪の感情を知らずにきたミホにとって、「隊長」として出会った島尾は夫となってからも尊敬の対象であったはずであったが、その思いは裏切られ激しい嫉妬心で精神のバランスが崩れてしまった[10]。
ミホは子供の前でも夫に怒りをぶつけ、家庭は修羅場と化した。妻・ミホの発作が続く中、ついに島尾は子供たちを奄美大島のミホの叔母のもとに預け(両親はすでに他界していたため)、千葉県市川市の国府台病院(現・国立国際医療研究センター国府台病院)に入院した妻に付き添う病院での介護生活を選ぶ[10]。妻からの地獄のような責苦を受けながら、その妻との生活の記録を島尾は合間を縫って書き綴った[10]。娘・マヤの体調が悪いという知らせや、妻の脱走事件などから、医師と相談し妻を退院させた後は、彼女の実家がある奄美に移住する生活となり、鹿児島県立大島高等学校や、鹿児島県立大島実業高等学校(現・鹿児島県立奄美高等学校)定時制の非常勤講師をしながら執筆活動を続けた[10]。
郷里の環境に身を置くことで、ミホの神経症状は次第に回復していった[10]。そして、その壮絶だった闘病記録はその後1959年から作品として、断続的に短篇として書き継がれて『死の棘』として完成していくことになる[10]。
受洗
編集奄美大島移住後、カトリック信徒であったミホ夫人の親戚に勧められ、1956年12月に奄美の聖心(みこころ)教会で、カトリックの洗礼を受ける(洗礼名ペトロ)。その後、ヨゼフ・里脇浅次郎司教(初代鹿児島教区司教、元・長崎大司教及び枢機卿、故人)鹿児島教区教区司祭の使徒ヨハネ・田辺徹神父(元・指宿教会主任司祭、故人)、ヨゼフ・大野和夫神父(元・南九州小神学院院長、前・鹿児島教区奄美地区長、故人)、ドミニコ・田原章神父(元・鴨池教会主任司祭、鹿児島市在住)、ペトロ・美島春雄神父(元・指宿教会主任司祭、前・鹿児島教区本部付司祭、故人)、ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・小平卓保神父(元・鹿児島純心女子短期大学教授、故人)、パウロ・郡山健次郎神父(後述)や、コンベンツァル聖フランシスコ修道会のルーシン・ヤング神父(元・赤羽教会主任司祭、故人)、ヴィンセント・ラチェンダロ神父(元・安里教会主任司祭、故人)ルカ・ディジヤク神父(元・古田町教会司祭、故人)、ベラルド・押川寿夫神父(元・コンヴェンッアル聖フランシスコ修道会日本管区長、前・那覇教区長)ゼローム・ルカゼフスキー神父(元・古田町教会主任司祭、名瀬市名誉市民、故人)、インノセント・坂谷豊光神父(元・聖母の騎士誌編集長、故人)、サムエル・深堀貴神父(元・コンベンツァル聖フランシスコ修道会日本管区管区長、故人)、石橋理神父(元・コンベンツァル聖フランシスコ修道会司祭)、ペトロ・瀧憲志神父(コンベンツァル聖フランシスコ修道会司祭・故人)ら、カトリック聖職者と親交を結ぶこととなる。特に、ルカ・ディジャク神父は「トシオは、私のベスト・フレンド。」とまで述べている。
また、長崎純心聖母会の修道女とは、娘のマヤが鹿児島純心高等学校に入学した関係で当時の学園長だったSr.エウゼビア・八田カネ(故人)ら修道女と交流を持つようになり、後年鹿児島純心女子短期大学で教鞭をとるきっかけとなった。(同会所属の幼きイエズスのテレジア・郡山康子修道女は、ミホ夫人の遠縁にあたり、郡山健次郎名誉司教の実姉である)
図書館長として
編集奄美大島での生活が安定するに伴い、1957年に鹿児島県の職員となった島尾は、奄美日米文化会館の館長に就任した[10]。奄美大島は戦後の一時期アメリカ軍の支配下にあった影響で行政組織の再建が十分ではなく、島には本格的な図書館が無かった(アメリカ軍と琉球政府が管轄していた琉米文化会館を改組した奄美日米文化会館が図書館の機能を担っていたが、日本返還後の引継の不十分さから機能停止に陥っていた)。そこで島尾は奄美に図書館を誘致する計画を立てた。鹿児島県はこれに応じて、1958年に奄美日米文化会館を母体として鹿児島県立図書館の奄美分館が設置され、島尾が初代分館長となる[10]。
島尾は、図書館については素人であったが、熊本商科大学に出向いて司書講習を受けて資格を習得し、図書館業務についても本格的に打ち込んだ[10]。
開館時に上司にあたる鹿児島県立図書館長の久保田彦穂(椋鳩十)は、島尾に対して「地方文化保存のための保存図書館」「調査研究のための参考図書館」「量・質共に備えた貸出図書館」という、3つの課題を与えた。島尾はこの久保田からの課題に応えるべく精力的に活動した。在任中の島尾は執筆活動と図書館長としての業務を厳格に峻別していたが、郷土資料の蒐集・刊行活動や当時としては先駆的な日曜日開館や住民の読書活動支援などに全力にあたり、離島の教育委員会や公民館を通じた図書の貸借や港の待合室や船内での読書室の設置活動、これらを支援するために時には自ら船に乗って離島への移動図書館業務の充実に尽すなど、日本の離島を抱えた地域における図書館活動のあり方に影響を与えている。また、図書館活動を通じた人的交流が島尾の執筆活動にも大きな影響を与えた。
この頃の執筆活動としては、『新日本文学』への「名護だより」の連載のほか、地元では「奄美郷土文化研究会」を組織して南島研究に関心を向けた[10]。また、井上光晴、奥野健男、吉本隆明らの雑誌『現代批評』に関わる一方、ミホの闘病記録をまとめる仕事に着手し、短篇「家の中」「家の外で」「離脱」「死の棘」「治療」「ねむりなき睡眠」を合わせた第一次の『死の棘』を1960年10月に講談社から刊行した[10]。
その後
編集奄美分館長を辞した翌年の1976年に名瀬市(現奄美市)から指宿市西方に住所を移し、鹿児島純心女子短期大学で教鞭をとっていた。鹿児島純心女子短期大学退職後、1977年に神奈川県茅ヶ崎市に移住。1983年に娘のマヤが、鹿児島純心女子短期大学の図書館司書に就職したのを期に、鹿児島県姶良郡加治木町に移住。1985年12月鹿児島市宇宿町に自宅を購入。
宇宿町の自宅で、書籍の整理中に脳内出血を発症し、出血性脳梗塞のため鹿児島市立病院に搬送されるが、3日間意識が戻らぬまま、1986年11月12日死去。
葬儀は鹿児島市の谷山教会で行われ、生前に交流のあった鹿児島教区教区司祭の小平卓保神父(元・鹿児島純心女子短期大学教授、前・紫原教会主任司祭、故人)、郡山健次郎神父(元・志布志教会主任司祭、現・鹿児島教区名誉司教、指宿教会管理者)の司式で執り行われた。
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来歴・人物
編集南島論
編集島尾敏雄の南島論については、沖縄返還に係る諸問題の顕在に先立つ1954年の「「沖縄」の意味するもの」以来、『新日本文学』へ連載していた『名瀬だより』をはじめとして南島、琉球弧と呼ばれる地域に関する数々のエッセイが発表されていた。それらは1960年に最初の南島に関するエッセイ集『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』(未來社)の刊行を皮切りに1966年、『島にて』(冬樹社)、1969年『琉球弧の視点から』(講談社)と幾度となくエッセイ・雑文集としてまとめられている。
「ヤポネシア」という造語については、1961年に「ヤポネシアの根っこ」という文章において初出が確認されている。大和を中心として出来事をみる「正統」とされた歴史観では、「日本」としてくくれる地域の本来持つ多様性、豊穣な側面が切り捨てられてしまうとして、日本列島を単に「島々の連なり」として捉える視点を新たに提案するものだった。しかし、当時の沖縄返還をめぐる議論の高まりや、この言葉が「天皇制を前提としない古代」を想定するのに格好の概念であったこともあり、60年代から70年代にかけて、谷川健一や吉本隆明らによって考古・民俗学的なキータームとして使用され広まることとなった。
「日本」概念の硬直性を融解させるこの試みは、本来の意図を離れ、また「ヤポネシアの根っこ」が柳田國男『海上の道』の解説のかたちとして書かれていたことなども相まって、それらが柳田南方学的な国家拡張的な側面をも有するとして、後年、村井紀らをはじめとするオリエンタリズム、ポストコロニアル批評の一部の論者から否定的な評価を受けることもある。
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その他
編集新宿の酒場で、酔ってからんできた中上健次に「自分は作家などと思っていない、ただ苦しまぎれに書いているだけだ」「お前、あれぐらいの作品で、自分を作家だと思っているのか」と批判し、しまいには「なまいき言うな、ぶちのめしてやるから、ちょっと表へ出ろ」と言って追い払った。
系譜
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略年譜
編集- 1917年(大正6年)
- 1923年(大正12年) 6歳
- 9月1日 - 関東大震災により横浜の家が全壊焼失。偶然、家族は横浜を離れていたため助かる。
- 1924年(大正13年) 7歳
- 4月 - 横浜尋常小学校に入学。
- 7月 - 学内雑誌『学之友』83号に図画(魚の絵)が掲載。
- 12月 - 学内雑誌『学之友』84号に作文「ボクノナガグツ」掲載。
- 1925年(大正14年) 8歳
- 1929年(昭和4年) 12歳
- 神戸市葺合区(現・中央区)八幡通に一家が移住。神戸尋常小学校(現・神戸市立こうべ小学校)に転校。
- 1930年(昭和5年) 13歳
- 4月 - 兵庫県立第一神戸商業学校 (現・兵庫県立星陵高等学校)に入学。山岳部に入る。中里介山の『大菩薩峠』を愛読。
- 1931年(昭和6年) 14歳
- 金森正典・正隆兄弟と同人誌『少年研究』を編集発行。3号から自分だけの雑誌となる。
- 1933年(昭和8年) 16歳
- 金森正典の同人誌『峠』に参加。
- 6月 - 文芸誌『若草』に随筆「剣山の想ひ出」が入選し掲載。
- 秋頃 - 『文芸タイムス』の準同人となる。
- 1934年(昭和9年) 17歳
- 『紫草』に同人参加。
- 8月 - 文芸誌『詞華の花籠』(文芸タイムス社)に詩5篇が掲載。
- 11月11日 - 母・トシが死去(享年37)。
- 1935年(昭和10年) 18歳
- 3月 - 兵庫県立第一神戸商業学校を卒業。浪人して受験勉強に励む。
- 1936年(昭和11年) 19歳
- 1937年(昭和12年) 20歳
- 金森正典など長崎高商の友人らと第二次『峠』を発行。『映画軌線』に映画評を発表。
- 1938年(昭和13年) 21歳
- 1939年(昭和14年) 22歳
- 3月 - 長崎高等商業学校を卒業。1年課程の同校海外貿易科に残る。
- 夏 - 毎日新聞社のフィリピン派遣学生旅行団に参加し、ルソン島、上海、台湾を旅する。
- 8月 - 『科学知識』の懸賞小説に応募した「お紀枝」が佳作当選。
- 10月 - 矢山哲治を中心とした同人誌『こおろ』(翌年9月の4号から『こをろ』)を創刊に参加。
- 1940年(昭和15年) 23歳
- 4月 - 九州帝国大学法文学部経済科に入学。『こをろ』に「呂宋紀行」を連載。
- 1941年(昭和16年) 24歳
- 1942年(昭和17年) 25歳
- 1943年(昭和18年) 26歳
- 1944年(昭和19年) 27歳
- 1945年(昭和20年) 28歳
- 1946年(昭和21年) 29歳
- 1947年(昭和22年) 30歳
- 1948年(昭和23年) 31歳
- 1949年(昭和24年) 32歳
- 1950年(昭和25年) 33歳
- 1951年(昭和26年) 34歳
- 12月 - 「いながぶり」を『近代文学』に発表。
- 1952年(昭和27年) 35歳
- 1953年(昭和28年) 36歳
- 10月 - 「子之吉の舌」を『文學界』に発表。「一二会」解散後、庄野潤三、吉行淳之介、安岡章太郎らと「構想の会」を結成。家庭をかえりみず家に帰らないことが多くなる。
- 1954年(昭和29年) 37歳
- 6月 - 奥野健男、吉本隆明らと雑誌『現代評論』を創刊。
- 4月 - 「帰巣者の憂鬱」を『文學界』に発表。
- 10月 - 島尾の浮気による激しい嫉妬が原因で妻・ミホが心因性反応を発病。
- 1955年(昭和30年) 38歳
- 1956年(昭和31年) 39歳
- 4月 - 鹿児島県立大島高等学校、鹿児島県立大島実業高等学校(現・鹿児島県立奄美高等学校)定時制の非常勤講師となる。
- 9月 - 現代社より短篇集『夢の中での日常』を刊行。
- 12月 - 名瀬市(現・奄美市)の聖心教会にてカトリックの洗礼を受ける。
- 1957年(昭和32年) 40歳
- 2月 - 「名護だより」を『新日本文学』に連載。
- 7月 - 書肆パトリアより『島の果て』刊行。
- 12月 - 鹿児島県職員となり、奄美日米文化会館の館長に就任。
- 1958年(昭和33年) 41歳
- 1月 - 「奄美郷土研究会」を組織し、会報を発行。
- 3月 - 県立大島高等学校を退職。
- 4月 - 鹿児島県立図書館の奄美分館の設置に伴い分館長を兼任。
- 1959年(昭和34年) 42歳
- 1960年(昭和35年) 43歳
- 1961年(昭和36年) 44歳
- 1962年(昭和37年) 45歳
- 1963年(昭和38年) 46歳
- 4月 - アメリカ合衆国国務省による招待旅行で、アメリカ、プエルトリコ、ハワイを2か月ほど巡る。
- 1964年(昭和39年) 47歳
- 1965年(昭和40年) 48歳
- 1966年(昭和41年) 49歳
- 1967年(昭和42年) 50歳
- 1968年(昭和43年) 51歳
- 3月 -「東欧への旅」を『文藝』に発表。長大な『東欧紀行』の連載開始。
- 7月 - 中央公論社より『日を繋げて』を刊行。
- 1969年(昭和44年) 52歳
- 2月 - 講談社より『琉球弧の視点から』を刊行。自転車で道路から谷川へ転落する事故に遭い右足骨折と打撲の負傷。名護と東京での半年以上の長期入院となる。頭部打撲の後遺症が残り気鬱症状に更に数年苦しむ。
- 1970年(昭和45年) 53歳
- 3月 - 鹿児島純心女子短期大学の非常勤講師となる。
- 5月 - 妻・ミホが心臓発作で倒れて病臥生活となる(昭和47年まで)。
- 11月 - アジア・アフリカ作家会議のため、ソビエトやインドを旅行。
- 1971年(昭和46年) 54歳
- 11月 - 中央大学出版部より『夢の系列』を刊行。
- 1972年(昭和47年) 55歳
- 1973年(昭和48年) 56歳
- 1月 - 冥草社より『記夢志』を刊行。
- 2月 - 冬樹社より『島尾敏雄非小説集成』全6巻を刊行開始(10月まで)。
- 1974年(昭和49年) 57歳
- 7月 - 妻・ミホが創樹社より『海辺の生と死』を刊行。
- 1975年(昭和50年) 58歳
- 1976年(昭和51年) 59歳
- 11月 - 沖積舎より『鬼剥げ』を刊行。中央公論社より『日の移ろい』を刊行。
- 1977年(昭和52年) 60歳
- 1978年(昭和53年) 61歳
- 1979年(昭和54年) 62歳
- 1980年(昭和55年) 63歳
- 1981年(昭和56年) 64歳
- 1982年(昭和57年) 65歳
- 3月 - 「湾内の入江で」を『新潮』に発表。
- 8月 - 「震洋の横穴」を『別冊潮』に発表。
- 1983年(昭和58年) 66歳
- 1984年(昭和59年) 67歳
- 1985年(昭和60年) 68歳
- 1986年(昭和61年) 69歳
- 1987年(昭和62年)
- 7月 - 潮出版社より遺稿集『震洋発進』が刊行。
- 1988年(昭和63年)
- 1月 - 潮出版社よりエッセイ集『透明な時の中で』が刊行。
作品の一覧
編集小説
編集- 「母さん」
- 「ぼくは小学尋常科」
- 「お紀枝」 『科学知識』(1939年 昭和14年 8月)
- 「原つぱ」 『扶揺』(1938年 昭和13年 2月)
- 「日曜学校」 『峠』(1937年 昭和12年6〜7月)
- 「南山手町」 『扶揺』(1940年 昭和15年 2月)
- 「天草の秋」 『九大文学』(1940年 昭和15年10月)
- 「呂宋紀行」 『こをろ』(1939年 昭和14年10月〜1941年 昭和16年 8月)
- 「東北について」
- 「噴水」 『芝火』(1942年 昭和17年)
- 「満州日記」(熱河紀行) 『こをろ』(1941年 昭和16年 9月)
- 「仏国寺行」 『九州帝国大学新聞』(1943年 昭和18年 5月)
- 「夢の中での日常」 『綜合文化』(1948年 昭和23年 5月)
- 「摩天楼」 『文学星座』(1947年 昭和22年 8月)
- 「孤島夢」 『光躍』(1946年 昭和21年10月)
- 「徳之島航海記」 『芸術』(1948年 昭和23年10月)
- 「単独旅行者」 『VIKING』(1947年 昭和22年10月)
- 「格子の目」 『新文学』(1949年 昭和24年 1月)
- 「原っぱ」 『扶揺』(1938年 昭和13年 2月)
- 「唐草」 『個性』(1949年 昭和24年 2月)
- 「南山手町序章」
- 「挿話」 『未来』(1948年 昭和23年12月)
- 「月下の渦潮」 『近代文学』(1948年 昭和23年11月)
- 「島の果て」 『VIKING』(1948年 昭和23年 1月)
- 「蜘蛛の行」 『舞踏』(1947年 昭和22年 8月)
- 「贋学生」
- 「ちっぽけなアヴァンチュール」 『新日本文学』(1950年 昭和25年 5月)
- 「旅は妻子を連れて」 『改造』(1952年 昭和27年 2月)
- 「夜の匂い」 『群像』(1952年 昭和27年 2月)
- 「亀甲の裂け目」 『近代文学』(1952年 昭和27年 9月)
- 「鬼剥げ」 『現代評論』(1954年 昭和29年 6月)
- 「子之吉の舌」 『文学界』(1953年 昭和28年10月)
- 「反芻」 『群像』(1954年 昭和29年 5月)
- 「帰巣者の憂鬱」 『文学界』(1954年 昭和29年 4月)
- 「われ深きふちより」 『文学界』(1955年 昭和30年10月)
- 「或る精神病患者」 『新日本文学』(1955年 昭和30年11月)
- 「のがれ行くこころ」 『知性』(1955年 昭和30年12月)
- 「離島のあたり」 『新日本文学』(1953年 昭和28年11月)
- 「星くずの下で」 『中央評論』(1955年 昭和30年 3月)
- 「闘いへの怖れ」 『明窓』(1955年 昭和30年 1月)
- 「孤島夢」
- 「摩天楼」
- 「石像歩き出す」 『光躍』(1947年 昭和22年 8月)
- 「夢の中での日常」
- 「勾配のあるラビリンス」 『表現』(1949年 昭和24年 1月)
- 「鎮魂記」 『群像』(1949年 昭和24年 9月)
- 「アスファルトと蜘蛛の子ら」 『近代文学』(1949年 昭和24年 7月)
- 「宿定め」 『近代文学』(1950年 昭和25年 1月)
- 「兆」 『新日本文学』(1952年 昭和27年 7月)
- 「亀甲の裂け目」
- 「月暈」 『近代文学』(1953年 昭和28年 1月)
- 「大鋏」 『新日本文学』(1953年 昭和28年 1月)
- 「死人の訪れ」 『新潮』(1953年 昭和28年 4月)
- 「坂道の途上で」 『新日本文学』(1954年 昭和29年 3月)
- 「鬼剥げ」
- 「むかで」 『群像』(1954年 昭和29年11月)
- 「川流れ」 『新日本文学』(1954年 昭和29年11月)
- 「肝の小さいままに」 『近代文学』(1955年 昭和30年 1月)
- 「島の果て」
- 「笛の音」
- 「徳之島航海記」
- 「ロング・ロング・アゴウ」 『人間・創作集』(1949年 昭和24年11月)
- 「冬の宿り」 『ニューエイジ』(1954年 昭和29年11月)
- 「春の日のかげり」 『心の友』(1954年 昭和29年 2月)
- 「アスケーティッシュ自叙伝」 『人間』(1952年 昭和26年 4月)
- 「砂嘴の丘にて」 『文学季刊』(1949年 昭和24年 8月)
- 「いなかぶり」 『近代文学』(1951年 昭和26年10月)
- 「鉄路に近く」 『文学界』(1956年 昭和31年 4月)
- 「家の中」 『文学界』(1959年 昭和34年11月)
- 「離脱」 『群像』(1960年 昭和35年 9月)
- 「死の棘」 『群像』(1960年 昭和35年 9月)
- 「治療」 『群像』(1957年 昭和32年 1月)
- 「ねむりなき睡眠」 『群像』(1957年 昭和32年10月)
- 「家の外で」 『新日本文学』(1959年 昭和34年12月)
- 「帰魂譚」
- 「日は日に」 『新潮』(1961年 昭和36年 2月)
- 「マヤと一緒に」 『新潮』(1962年 昭和37年 2月)
- 「島へ」 『文学界』(1962年 昭和37年 1月)
- 「夢にて」 『九大同窓会会報』(1963年 昭和38年春)
- 「出発はついに訪れず」 『群像』(1962年 昭和37年 9月)
- 「流棄」 『小説中央公論』(1963年 昭和38年 4月)
- 「日々の例」 『新潮』(1963年 昭和38年 5月)
- 「頑な今日」 『文藝』(1963年 昭和38年 1月)
- 「サン・ファン・アンティグォにて」 『世界』(1963年 昭和38年12月)
- 「日のちぢまり」 『文学界』(1963年 昭和38年 2月)
- 「子と共に」 『世界』(1964年 昭和39年 9月)
- 「過ぎ越し」 『新潮』(1965年 昭和40年 5月)
- 「捜妻記」 『風景』(1964年 昭和39年 3月)
- 「集会のあとで」 『群像』(1964年 昭和39年 3月)
- 「頃日のつとめ」 『群像』(1965年 昭和40年 8月)
- 「思屑録」 『青銅時代』(1965年 昭和40年夏)
- 「市壁の町なかで」 『文学界』(1965年 昭和40年 8月)
- 「お紀枝」
- 「原っぱ」
- 「日曜学校」
- 「南山手町」
- 「天草の秋」
- 「母さん」
- 「暖かい冬の夜に」 『こをろ』(1941年 昭和16年 3月)
- 「噴水」
- 「浜辺路」 『こをろ』(1944年 昭和19年 4月)
- 「はまべのうた」
- 「肉体と機関」
- 「公園への誘い」
- 「ソテツ島の慈父」 『VIKING』(1950年 昭和25年6〜7月)
- 「呂宋紀行(抄)」
- 「満州日記」
- 「仏国寺行」
- 「LUNA詩篇」
他
- 「日を繋けて」 『新潮』(1967年 昭和42年 6月)
- 「その夏の今は」 『群像』(1967年 昭和42年 8月)
- 「接触」 『文藝』(1967年 昭和42年10月)
- 「オールド・ノース・ブリッジの一片」 『文学界』(1968年 昭和43年 5月)
- 「摩天楼」
- 「夢の中での日常」
- 「鎮魂記」
- 「宿定め」
- 「兆」
- 「大鋏」
- 「月暈」
- 「子之吉の舌」
- 「鬼剝げ」
- 「帰魂譚」
- 「島へ」
- 「市壁の街中で」
- 「サン・ファン・アンティグォにて」
- 「孤島夢」
- 「アスファルトと蜘蛛の子ら」
- 「夢の中での日常」
- 「兆」
- 「鬼剝げ」
- 「むかで」
- 「島へ」
- 「夢にて」
- 「街なかは荒野!」 『読売ウィクリー』(昭和26年 1951年 6月)
- 「影」 『舞踏』(昭和27年 1952年)
- 「夢にて」(昭和27年 1952年)
- 「体験」(昭和27年 1952年)
- 「三つの記憶」 『現代批評』(昭和34年 1969年 6月)
- 「松田君の場合」 『日本経済新聞』(昭和28年 1953年12月)
- 「笛の音」 ABC放送(昭和27年 1952年 8月7日)
- 「草珊瑚」 『北海道新聞』(昭和28年 1953年 3月)
- 「硝子障子のシルエット」 ABC放送
- 「鶏飼い」 『週刊サンケイ』(昭和27年 1952年)
- 「終電車」 ABC放送(昭和27年 1952年10月23日)
- 「鶏の死」 ABC放送(昭和28年 1953年 7月13日)
- 「妻の職業」 ABC放送(昭和28年 1953年)
- 「きみよちゃんの事」 ABC放送(昭和28年 1953年)
- 「金魚」 ABC放送(昭和29年 1954年 6月11日)
- 「子供」 ABC放送(昭和29年 1954年 5月18日)
- 「突っつき順」 ABC放送(昭和29年 1954年 6月21日)
- 「おちび」 ABC放送(昭和29年 1954年 2月1日)
- 「ニャンコ」 ABC放送(昭和29年 1954年 4月8日)
- 「居坐り猫」 ABC放送(昭和28年 1953年)
- 「マヤ」 ABC放送(昭和29年 1954年)
- 「玉の死」 ABC放送(昭和29年 1954年 9月10日)
- 「ある猫の死のあとさき」 ABC放送(昭和29年 1954年 9月27日)
- 「つゆのはれ間」 ABC放送(昭和29年 1954年 7月30日)
- 「二軒の古本屋」 ABC放送(昭和29年 1954年 8月31日)
- 「運動会」 ABC放送(昭和29年 1954年10月22日)
- 「拾った猫」 『中央評論』(昭和29年 1954年11月)
- 「地蔵のぬくみ」 共同通信(昭和30年 1955年 3月)
- 「兄といもうと」 『カンナ』(昭和47年 1972年 5月)
- 「遠足」 『カンナ』(昭和47年 1972年 8月)
- 「記夢志」(昭和24年,昭和34年〜昭和42年)
- 「東北の昔ばなし」
- 「奄美の昔ばなし」
- 「お紀枝」
- 「原っぱ」
- 「日曜学校」
- 「南山手町」
- 「天草の秋」
- 「母さん」
- 「暖かい冬の夜に」
- 「噴水」
- 「浜辺路」
- 「はまべのうた」
- 「肉体と機関」
- 「公園への誘い」
- 「ソテツ島の慈父」
- 「詩篇LUNA以前」
- 「LUNA詩篇」
- 「昭和十四年日記」
他
- 「はまべのうた」 『光躍』(1946年 昭和21年 5月)
- 「肉体と機関」 『午前』(1947年 昭和22年 1月)
- 「島の果て」
- 「孤島夢」
- 「アスファルトと蜘蛛の子ら」
- 「ロング・ロング・アゴウ」
- 「夜の匂い」
- 「朝影」
- 「闘いへの怖れ」
- 「星くずの下で」
- 「廃址」
- 「徳之島航海記」
- 「離島のあたり」
- 「出孤島記」
- 「出発はついに訪れず」
- 「その夏の今は」
- 「ワルシャワまで」 『文藝』(1968年 昭和43年 3月)
- 「ワルシャワにて」 『文藝』(1968年 昭和43年 4月)
- 「墓地のにぎわい」 『文藝』(1968年 昭和43年 8月)
- 「ワルシャワの町歩き」 『文藝』(1968年 昭和43年10月)
- 「ワルシャワでの日々」 『文藝』(1968年 昭和43年11月)
- 「クラクフへ」 『文藝』(1968年 昭和43年12月)
- 「クラクフにて」 『文藝』(1969年 昭和44年 1月)
- 「カメドゥフ修道院まで」 『文藝』(1969年 昭和44年 3月)
- 「カメドゥフ修道院にて」 『文藝』(1969年 昭和44年 4月)
- 「ヴェリチカまで」 『文藝』(1969年 昭和44年 5月)
- 「ヴェリチカにて」 『文藝』(1970年 昭和45年 3月)
- 「ふたたびワルシャワへ」 『文藝』(1970年 昭和45年 4月)
- 「スターレ・ミアスト界隈」 『文藝』(1970年 昭和45年 3月)
- 「ニェポカラヌフへ」 『文藝』(1970年 昭和45年 6月)
- 「ニェポカラヌフにて」 『文藝』(1971年 昭和46年3〜4月)
- 「またワルシャワへ」 『文藝』(1971年 昭和46年 5月)
- 「イェジョルナ散策」 『文藝』(1971年 昭和46年 6月)
- 「トゥウシチへ」 『文藝』(1971年 昭和46年 7月)
- 「トゥウシチにて」 『文藝』(1971年 昭和46年 8月)
- 「トゥウシチから」 『文藝』(1971年 昭和46年 9月)
- 「二人のスタニスワフ」 『文藝』(1971年 昭和46年10月)
- 「チェンストホーヴァへ」 『文藝』(1971年 昭和46年11月)
- 「チェンストホーヴァにて」 『文藝』(1971年 昭和46年12月)
- 「オシヴィェンチムへ」 『文藝』(1972年 昭和47年 1月)
- 「オシヴィェンチムまで」 『文藝』(1972年 昭和47年 2月)
- 「ブジェジンガにて」 『文藝』(1972年 昭和47年 3月)
- 「さらばワルシャワ!」 『文藝』(1972年 昭和47年 4月)
- 「プラハまで」 『文藝』(1972年 昭和47年 6月)
- 「プラハにて」 『文藝』(1972年 昭和47年 7月)
- 「マジャールをこえて」 『文藝』(1972年 昭和47年 8月)
- 「ベオグラードのホテルにて」 『文藝』(1972年 昭和47年 9月)
- 「ベオグラード市街瞥見」 『文藝』(1972年 昭和47年11月)
- 「人形劇場」 『文藝』(1972年 昭和47年12月)
- 「カメレグダン城址」 『文藝』(1973年 昭和48年 1月)
- 「ラヴィツァ往復」 『文藝』(1973年 昭和48年 2月)
- 「ふたたびモスクワへ」 『文藝』(1973年 昭和48年 3月)
- 「ふたたびモスクワにて」 『文藝』(1973年 昭和48年 4月)
- 「モスクワの凍え」 『文藝』(1973年 昭和48年11月)
- 「コロミンスコア村へ」 『文藝』(1973年 昭和48年12月)
- 「さらば!モスクワ」 『文藝』(1974年 昭和49年 1月)
- 「日の移ろい」 『海』(1972年 昭和47年 6月〜1976年 昭和51年 9月)
- 「離脱」
- 「死の棘」
- 「崖のふち」
- 「日は日に」
- 「流棄」
- 「日々の例」
- 「日のちぢまり」
- 「子と共に」
- 「過ぎ越し」
- 「日を繋げて」
- 「引越し」 『新潮』(1972年 昭和47年 4月)
- 「入院まで」 『新潮』(1976年 昭和51年10月)
- 「贋学生」
- 「昭和四十三〜四十八年夢日記」 同人誌『カンナ』連載
- 「昭和四十九〜五十年夢日記」 書下ろし
- 「月下の渦潮」
- 「昭和十四年日記」
- 「昭和十八年日記」 『カイエ』(1977年 昭和52年12月)
- 「昭和五十年日記」(「名瀬日記」、「指宿日記」を)
- 「昭和五十二〜五十四年夢日記」 同人誌『カンナ』連載
- 「夢屑」 『群像』(1976年 昭和51年10月)
- 「過程」 『海』(1979年 昭和54年 7月)
- 「痣」 『文藝春秋』(1980年 昭和55年 2月)
- 「幼女」 『週刊朝日』(1973年 昭和48年3月)
- 「マホを辿って」 『海』(1981年 昭和56年10月)
- 「水郷へ」 『文学界』(1979年 昭和54年11月)
- 「石造りの街で」 『海』(1980年 昭和55年 7月)
- 「亡命人」 『群像』(1980年 昭和55年 1月)
- 「誘導震」 『新潮』(1979年 昭和54年 1月)
- 「擦過傷」 『新潮』(1979年 昭和54年 6月)
- 「踵の腫れ」 『新潮』(1980年 昭和55年 1月)
- 「湾内の入江で」 『新潮』(1982年 昭和57年 3月) (川端康成文学賞)
- 「奔湍の中の淀み」 『新潮』(1983年 昭和58年 3月)
- 「変容」 『新潮』(1985年 昭和60年 1月)
- 「基地へ」 『新潮』(1985年 昭和60年 6月)
- 「続 日の移ろい」 『海』(1977年 昭和52年 1月〜1984年 昭和59年 5月)
- 「震洋の横穴」 『別冊潮』(1982年 昭和57年 8月)
- 「震洋発進」 『潮』(1983年 昭和58年 8月)
- 「震洋隊幻想」 『潮』(1984年 昭和59年 8月)
- 「『石垣島事件』補遺」 『別冊潮』(1985年 昭和60年 8月)
- 「安里川遡行」 『海燕』(1985年 昭和60年 9月)
- 「春の日のかげり」
- 「原っぱ」
- 「ロング・ロング・アゴウ」
- 「島の果て」
- 「はまべのうた」
- 「出発は遂に訪れず」
非小説
編集- <名瀬だより>
- 「名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし」 『新日本文学』(1957年 昭和32年 5月)
- 「その気候」 『新日本文学』(1957年 昭和32年 6月)
- 「町の人々と背後の歴史」 『新日本文学』(1957年 昭和32年 7月)
- 「島の中の町の現実」 『新日本文学』(1957年 昭和32年 8月)
- 「年中行事の意味するもの」 『新日本文学』(1957年 昭和32年 9月)
- 「市民生活など」 『新日本文学』(1957年 昭和32年10月)
- 「災厄―台風とハブと癩と」 『新日本文学』(1957年 昭和32年11月)
- 「名瀬の言葉」 『新日本文学』(1958年 昭和33年 2月)
- 「周辺の村落」 『新日本文学』(1958年 昭和33年 3,6月)
- 「民間信仰」 『新日本文学』(1958年 昭和33年 7月)
- 「島のカトリック」 『新日本文学』(1958年 昭和33年 9,11月、1959年 昭和34年 1月)
- 「南島の冬」 『四国新聞』(1955年 昭和30年12月21日他)
- 「島の闘牛」 『北海日日新聞』(1956年 昭和31年 7月25日他)
- 「名瀬の正月」 『日本読書新聞』(1957年 昭和32年 1月 1日)
- 「名瀬は混沌の中に」 『市政』(1958年 昭和33年11月)
- 「文英吉さんの死を惜しむ」 『南日本新聞』(1957年 昭和32年 5月22日)
- 「泉芳朗氏のこと」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 6月 5日)
- <南島での覚え書き>
- 「「沖縄」の意味するもの」 『おきなわ』(1954年 昭和29年10月)
- 「加計呂麻島」 『旅』(1955年 昭和30年12月)
- 「奄美大島に惹かれて」 『南海日日新聞』(1956年 昭和31年 1月 1日)
- 「文学果つるところ」 『週刊新奄美』(1958年 昭和33年 1月 5日)
- 「南西の列島の事など」 『朝日新聞』(1956年 昭和31年 1月 6日)
- 「竜郷紀行」 『ともしび』(1956年 昭和31年11月)
- 「奄美群島を果して文学的に表現し得るか?」 『奄美新報』(1956年 昭和31年 1月1,5,6日)
- 「われわれのなかの南」 『南日本新聞』(1958年 昭和33年 1月 8日)
- 「南島が持つ力」 『南海日日新聞』(1958年 昭和33年 1月12日)
- 「奄美通いの船」 『毎日新聞』(1958年 昭和33年 7月15日)
- 「奄美の夏」 『東京新聞』(1958年 昭和33年 9月 7日)
- 「アマミと呼ばれる島々」 『南海日日新聞』(1959年 昭和34年 1月 5日)
- 「南の島のどこか」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 1月10日)
- 「沖縄らしさ」 『三田文学』(1959年 昭和34年 3月)
- 「奄美大島」 『西日本新聞』(1959年 昭和34年 5月18日)
- 「はなれ島の幸福」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 5月10日)
- 「はなれ島の不幸」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 5月30日)
- 「南の部分」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 6月10日)
- 「南島への招待」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 6月20日)
- 「奄美の呼び方」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 6月30日)
- 「ニライ・カナイ」 『南日本新聞』(1959年 昭和34年 7月10日)
- 「南の島での考え」 『NHK鹿児島放送』(1959年 昭和34年 8月)
- 「「離島の幸福・離島の不幸」あとがき」 (1960年 昭和35年 4月)
- 『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』未來社、1962年6月
- 『私の文学遍歴』未來社、1966年3月
- 『島にて』冬樹社、1966年7月
- 『琉球弧の視点から』講談社、1969年 朝日文庫
- 『日本の作家』おりじん書房、1974年9月
- 『南島通信』潮出版社、1976年9月
- 『名瀬だより』農村漁村文化協会、1977年10月
- 『南風のさそい』泰流社、1978年12月
- 『島尾敏雄による島尾敏雄<試みの自画像>』青銅社、1981年6月
- 『過ぎゆく時の中で』新潮社、1983年3月
- 『忘却の底から』晶文社、1983年4月
- 『島尾敏雄詩集』深夜叢書社、1987年4月
- 『透明な時の中で』潮出版社、1988年1月
- 『「死の棘」日記』新潮社、2005年3月
- 『戦後文学エッセイ選10 島尾敏雄集』影書房、2007年9月
- 『島尾敏雄日記 『死の棘』までの日々』新潮社、2010年8月
対談集
編集- 「島尾敏雄の原風景」奥野健男 『國文學』(1973年 昭和43年10月)
- 「神戸と文学」仲郷三郎 『ますと』(1950年 昭和25年 6月)
- 「漂泊の世代を語る」進藤純孝 『三田文学』(1972年 昭和47年12月)
- 「怯えについて」安岡章太郎 『文藝』(1972年 昭和47年 4月)
- 「文学と土地と」坂上弘 『文藝』(1973年 昭和48年 2月)
- 「特攻戦発動!」三國一朗・島尾ミホ 私の昭和史 東京12チャンネル(1967年 昭和42年6月26日放送)
- 「極限の文学」古林尚 『図書新聞』(1971年 昭和46年10月9日-16日)
- 「たまらない自分を負って」上総英郎 (1973年 昭和48年 1月)
- 「夢の中での日常」西郷竹彦 『文芸教育』(1975年 昭和50年11月)
- 「内に向かう旅」つげ義春 『海』(1971年 昭和46年11月)
- 「夢と現実―六日間の対話」小川国夫 (1976年 昭和51年 4月)
- 四月二日 金 飯坂温泉
- 私家版『アポロンの島』の注文者
- 交流のはじめ
- 昭和四十年初夏・藤枝、そして「一冊の本」
- 書くことへ焦点を合わせた生
- 加計呂麻島の特攻隊体験
- 極限状況の中の青春
- 八月十三日、特攻戦発動
- 四月三日 土 飯坂温泉
- 病の記憶
- 母の記憶
- 東北の家・東海の家
- 血筋と記録
- 眼 華
- 「峠」「十四世紀」「こをろ」――「青銅時代」
- 地中海体験と聖書の文体
- 停止する時間、流れ出す時間
- 成長する構図
- 通念と逸脱
- 「促し」ということ
- 四月四日 日 飯坂温泉
- 戦後の解放と夢の侵入
- 夢という現実
- 自然の息づかい
- 夢の因果律
- 暴力の世界
- カリフォルニア移民
- 東海道の宣教師、長崎の亡命ロシア人家族
- 受 洗
- キリスト教への複合感情
- フランス人司祭への共感
- 救いに対する渇き
- ヨブ記
- 文学と罪
- 旧約と新約
- 四月九日 金 長崎
- 即物的な文体
- 物と物との対比
- 覚醒をめざす文章
- 直感と言葉の間
- 消去法
- 比喩の技法
- 外界に内面のかげを見る
- 「病院記」――記録主義への回帰
- 救いの手立てとしての文学
- 近視眼的批評
- 「病妻記」――二角関係の成熟
- 四月十日 土 長崎
- 暗示による形式
- 消し方と効果
- 自然な語法
- 女性一人称小説
- イマジネーションの壁
- 『贋学生』『死の棘』『夢のかげを求めて』
- 四月十一日 日 長崎
- 『或る聖書』――地中海体験の結晶
- 旅のリズム
- 快癒期にみる自然の輝き
- 『或る聖書』執筆前後
- 奄美大島の空と海
- 「義臣伝」の歌
- 島の恋愛、妻の発病
- 書くことへの励まし
- 「病院記」からの離脱
- 十六年間の『死の棘』作品群
- 治癒力としての文学
- 後書 島尾敏雄
- 後書 小川国夫
- 四月二日 金 飯坂温泉
- 「離島の話」奥野健男 『風景』(1965年 昭和40年 7月)
- 「綾蝶生き魂」石牟礼道子、松浦豊敏、前山光則 『暗河』(1976年 昭和51年冬)
- 「ウチナーンチュは日本人だ」大城立裕 『週刊朝日』(1967年 昭和42年8月8日)
- 「沖縄文化と鹿児島のつながり」大城立裕 『琉球新報』(1970年 昭和45年4月6日)
- 「琉球弧とヤポネシア」大城立裕 『沖縄タイムス』(1974年 昭和49年1月1日)
- 「日本列島における琉球弧の意義」志村榮一 『大百蓮華』(1971年 昭和46年11月)
- 「日本民族の原点」佐古純一郎 『月刊キリスト』(1971年 昭和46年12月)
- 「飢餓をみつめる思想」谷川健一 『日本読書新聞』(1974年 昭和49年1月1日)
- 「琉球弧で日本を考える」司馬遼太郎 『潮』(1974年 昭和49年 6月)
- 「回帰の想念・ヤポネシア」 『中国』(1970年 昭和45年 5月)
- 「西日本の文化創造」伊藤研之、荒木精之、田中艸太郎、赤堀光信 『西日本新聞』(1972年 昭和47年10月10-20日)
- 「奄美文化の基層を認識」 『南海日日新聞』(1974年10月18日- 1975年3月6日)
- 「沖縄で何を書くか」大城立裕、牧港篤三 『新沖縄文学』(1975年 昭和50年)
- 「平和の中の主戦場」吉本隆明 『海』(1977年 昭和52年10月)
- 「存在体験と<他者>」饗庭孝男 『日本読書新聞』(1976年 昭和51年11月22日)
- 「『死の棘』の土台」針生一郎 『新日本文学』(1979年 昭和54年 2月)
- 「条件反射以前のもの」吉行淳之介 『潮』(1978年 昭和53年 2月)
- 「あのころのことでも…」庄野潤三 『カイエ』(1978年 昭和53年 2月)
- 「「リズムの文学」」對馬勝淑 『関西文学』(1976年 昭和51年 8月)
- 「回心と文学」森川達也 『宗教部報』(1978年 昭和53年12月)
- 「琉球弧の喚起力」色川大吉 『新沖縄文学』(1979年 昭和54年 5月)
- 「風土を見る目―島と半島」中上健次 『南日本新聞』(1978年 昭和53年1月3日)
- 「南島巡礼行」石牟礼道子・島尾ミホ 『日本読書新聞』(1979年 昭和54年1月15日)
- 「琉球弧を語る」外間守善 『国語科通信』(1977年 昭和52年11月)
- 「沖縄の文学と演劇をめぐって」大城立裕 『カイエ』(1978年 昭和53年10月)
- 「近代文学の功罪」奥野健男、村松剛、服部達、安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作他 『三田文学』(昭和29年 4月)『昭和批評大系 第4巻』所収
- 「傍系について」吉本隆明 『海』(1970年 昭和45年 5月) 吉本隆明『島尾敏雄』所収
- 「島尾文学の鍵」吉本隆明 『どこに思想の根拠を置くか』(1972年 昭和47年 5月) 吉本隆明『島尾敏雄』所収
- 「小川国夫とともに」小川国夫 『UR うる vol.3』(1973年 昭和48年 9月)
- 「鬼伝承」吉本隆明 『野性時代』(1976年 昭和51年 3月) 吉本隆明『島尾敏雄』所収
- 「西郷隆盛と南の島々」橋川文三 『伝統と現代』(1977年 昭和52年 8月) 橋川文三『西郷隆盛紀行』所収
- 「私の文学論」安達史人『写真試論』(1980年 昭和55年 1月) 安達史人『言語空間の遠近法』所収
- 「島尾敏雄の文学とその周辺」岩谷征捷『島尾敏雄私記』(1982年 昭和57年10月)
- 「小説のなかの女たち」 『現点』(1983年 昭和58年10月)
- 「現代文学の無視できない10人 島尾敏雄」つかこうへい 『すばる』(1986年 昭和61年 4月)
全集など
編集個人全集・作品集
編集- 「島の果て」
- 「孤島夢」
- 「摩天楼」
- 「石像歩き出す」
- 「蜘蛛の行」
- 「単独旅行者」
- 「夢の中での日常」
- 「徳之島航海記」
- 「月下の渦潮」
- 「挿話」
- 「薬」
- 「勾配のあるラビリンス」
- 「格子の目」
- 「唐草」
- 「アスファルトと蜘蛛の子ら」
- 「砂嘴の丘にて」
- 「鎮魂記」
- 「ロング・ロング・アゴウ」
- 「出孤島記」『文藝』(1949年 昭和24年11月)
- 「宿定め」
- 「ちっぽけなアヴァンチュール」
- 「摩耶たちへの偏見」 『婦人画報』(1950年 昭和25年 8月)
- 「黄色の部分」 『文学界』(1951年 昭和26年 3月)
- 「アスケーティッシュ自叙伝」
- 「いなかぶり」
- 「旅は妻子を連れて」
- 「夜の匂い」
- 「贋学生」
- 「兆」
- 「朝影」『現在』(1952年 昭和27年)
- 「亀甲の裂け目」
- 「大鋏」
- 「月暈」
- 「未明」 『文学界』(1953年 昭和28年 2月)
- 「死人の訪れ」
- 「断崖館」 『群像』(1953年 昭和28年)
- 「子之吉の舌」
- 「離島のあたり」
- 「春の日のかげり」
- 「坂道の途上で」
- 「鬼剝げ」
- 「帰巣者の憂鬱」
- 「反芻」
- 「むかで」
- 「冬の宿り」
- 「川流れ」
- 「肝の小さいままに」
- 「闘いへの怖れ」
- 「星くずの下で」
- 「川にて」 『現代批評』(1959年 昭和34年11月)
- 「家の外で」
- 「廃址」 『人間専科』(1960年 昭和35年11月)
- 「帰魂譚」 『新日本文学』(1961年 昭和36年 9月)
- 「われ深きふちより」
- 「狂者の学び」 『文学界』(1955年 昭和30年10月)
- 「或る精神病者」
- 「重い肩車」 『文学界』(1957年 昭和32年 4月)
- 「治療」
- 「のがれ行くこころ」
- 「転送」 『綜合』(1957年 昭和32年 8月)
- 「ねむりなき睡眠」
- 「一時期」 『新日本文学』(1957年 昭和32年 1月)
- 「家の中」
- 「離脱」
- 「死の棘」
- 「崖のふち」
- 「鉄路に近く」
- 「日は日に」
- 「島へ」
- 「マヤと一緒に」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「頑な今日」
- 「夢にて」
- 「捜妻記」
- 「集会のあとで」
- 「頃日のつとめ」
- 「思屑録」
- 「市壁の町なかで」
- 「流棄」
- 「日々の例」
- 「日のちぢまり」
- 「子と共に」
- 「過ぎ越し」
- 島尾敏雄非小説集成 第1巻 南島篇I (1973年 昭和48年 2月)
- 島尾敏雄非小説集成 第2巻 南島篇II (1973年 昭和48年 4月)
- 島尾敏雄非小説集成 第3巻 南島篇III (1973年 昭和48年 5月)
- 島尾敏雄非小説集成 第4巻 文学篇I (1973年 昭和48年 6月)
- 島尾敏雄非小説集成 第5巻 文学篇I (1973年 昭和48年 7月)
- 島尾敏雄非小説集成 第6巻 文学篇I (1973年 昭和48年10月)
- 島尾敏雄全集 第1巻 (1980年 昭和55年 2月) 幼年記
- 島尾敏雄全集 第2巻 (1980年 昭和55年 5月) 単独旅行者 夢の中での日常
- 島尾敏雄全集 第3巻 (1980年 昭和55年 7月) ちっぽけなアヴァンチュール
- 島尾敏雄全集 第4巻 (1980年 昭和55年 9月) 贋学生
- 島尾敏雄全集 第5巻 (1980年 昭和55年 2月) 帰巣者の憂鬱
- 島尾敏雄全集 第6巻 (1980年 昭和55年 2月) 出孤島記 出発は遂に訪れず
- 島尾敏雄全集 第7巻 (1980年 昭和55年 2月) われ深きふちより 硝子障子のシルエット
- 島尾敏雄全集 第8巻 (1980年 昭和57年 3月) 死の棘
- 島尾敏雄全集 第9巻 (1980年 昭和55年 2月) 夢の影を求めて
- 島尾敏雄全集 第10巻 (1980年 昭和55年 2月) 日の移ろい
- 島尾敏雄全集 第11巻 (1981年 昭和56年 9月) 記夢志 夢日記
- 島尾敏雄全集 第12巻 (1980年 昭和55年 2月) 東北と奄美の昔ばなし
- 島尾敏雄全集 第13巻 (1982年 昭和57年 5月) 文学エッセイI 1946-1959
- 島尾敏雄全集 第14巻 (1980年 昭和55年 2月) 文学エッセイII 1960-1968
- 島尾敏雄全集 第15巻 (1982年 昭和57年 9月) 文学エッセイIII 1968-1978
- 島尾敏雄全集 第16巻 (1980年 昭和55年 2月) 南島エッセイI 1954-1964
- 島尾敏雄全集 第17巻 (1983年 昭和58年 1月) 南島エッセイII 1964-1978
文学全集等収録分
編集- 「島の果て」
- 「単独旅行者」
- 「夢の中での日常」
- 「アスファルトと蜘蛛の子ら」
- 「いなかぶり」
- 「子之吉の舌」
- 「川にて」
- 「出孤島記」
- 「治療」
- 「死の棘」
- 「贋学生」
- 「島の果て」
- 「夢の中での日常」
- 「格子の目」
- 「鎮魂記」
- 「出孤島記」
- 「兆」
- 「子之吉の舌」
- 「離島のあたり」
- 「帰巣者の憂鬱」
- 「反芻」
- 「川流れ」
- 「帰魂譚」
- 「われ深きふちより」
- 「狂者のまなび」
- 「重い肩車」
- 「治療」
- 「のがれ行くこころ」
- 「転送」
- 「ねむりなき睡眠」
- 「私の文学」
- 「島の果て」
- 「夢の中での日常」
- 「月暈」
- 「死の棘」
- 「島へ」
- 「マヤと一緒に」
- 「島の果て」
- 「孤島夢」
- 「摩天楼」
- 「徳之島航海記」
- 「月下の渦潮」
- 「格子の目」
- 「砂嘴の丘にて」
- 「いなかぶり」
- 「断崖館」
- 「春の日のかげり」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「島の果て」
- 「夢の中での日常」
- 「われ深きふちより」
- 「廃址」
- 「死の棘」
- 「帰魂譚」
- 「島へ」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「日のちぢまり」
- 「夢の中での日常」
- 「徳之島航海記」
- 「われ深きふちより」
- 「死の棘」
- 「島へ」
- 「夢の中での日常」
- 「徳之島航海記」
- 「勾配のあるラビリンス」
- 「出孤島記」
- 「月暈」
- 「大鋏」
- 「子之吉の舌」
- 「鉄路に近く」
- 「川にて」
- 「死の棘」
- 「帰魂譚」
- 「島へ」
- 「マヤと一緒に」
- 「夢にて」
- 「市壁の町なかで」
- 「接触」
- 「砂嘴の丘にて」
- 「いなかぶり」
- 「勾配のあるラビリンス」
- 「宿定め」
- 「冬の宿り」
- 「市壁の町なかで」
- 「摩天楼」
- 「夢の中での日常」
- 「鬼剝げ」
- 「島へ」
- 「島の果て」
- 「孤島夢」
- 「徳之島航海記」
- 「アスファルトと蜘蛛の子ら」
- 「出孤島記」
- 「夜の匂い」
- 「闘いへの怖れ」
- 「廃址」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「坂道の途上で」
- 「死の棘」
- 「日は日に」
- 「家の中」
- 「ねむりなき睡眠」
- 「のがれ行くこころ」
- 「島の果て」
- 「夢の中での日常」
- 「格子の目」
- 「月暈」
- 「鬼剝げ」
- 「闘いへの怖れ」
- 「われ深きふちより」
- 「鉄路に近く」
- 「死の棘」
- 「島へ」
- 「マヤと一緒に」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「頑な今日」
- 「オールド・ノース・ブリッジの一片」
- 「金魚」
- 「運動会」
- 「終電車」
- 「死の棘」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「夢の中での日常」
- 「春の日のかげり」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「硝子障子のシルエット」
- 「死の棘」
- 「夢の中での日常」
- 「島の果て」
- 「われ深きふちより」
- 「死の棘」
- 「島へ」
- 「島の果て」
- 「湾内の入江で」
- 「徳之島航海記」
- 「出孤島記」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「単独旅行者」
- 「夢の中での日常」
- 「離脱」
- 「死の棘」
- 「崖のふち」
- 「日は日に」
- 「夢屑」
- 「孤島夢」
- 「石像歩き出す」
- 「摩天楼」
- 「夢の中での日常」
- 「勾配のあるラビリンス」
- 「亀甲の裂け目」
- 「大鋏」
- 「月暈」
- 「死人の訪れ」
- 「子之吉の舌」
- 「鬼剝げ」
- 「むかで」
- 「冬の宿り」
- 「誘導震」
- 「変容」
- 「基地へ」
- 「出発は遂に訪れず」
- 「離脱」
- 「死の棘」
- 「入院まで」
共著・監修
編集- 『日本の古典8 徒然草・方丈記』世界文化社、1976年1月
- 島尾敏雄編『奄美の文化』法政大学出版局、1976年3月
- 島尾敏雄編『ヤポネシア序説』創樹社、1977年2月
- 島尾ミホ・田畑英勝共著『日本の伝説23 奄美の伝説』角川書店、1977年10月
- 島尾敏雄監修『イメージの文学誌 水底の女』北宋社、1978年10月
特装版・限定版など
編集- 帰巣者の憂鬱 限定版(303部) プレス・ビブリオマーヌ 1969年10月
- 東北と奄美の昔ばなし 限定版(300部) 島尾伸三絵 詩稿社 1972年10月
- 記夢志 限定特装版(100部) 冥草社 1973年2月
- 硝子障子のシルエット―葉篇小説集 限定版(550部) 創樹社 1973年2月
- 島の果て 限定特装版(506部) 成瀬書房 1973年9月
- 出孤島記―島尾敏雄戦争小説集 限定特装愛蔵版(80部) 冬樹社 1975年3月
- 影 限定版(15部) 1975年9月
- 兄といもうと 遠足<風信子叢書> 限定版(270部) 鹿鳴荘 1976年8月
- 鬼剝げ 限定版(500部) 沖積舎 1976年11月
- 詩集 春 限定版(300部) 五月書房 1977年8月
- 日暦抄 限定版(100部) 鹿鳴荘 1977年11月
文庫判
編集- 『死の棘』角川文庫、1963年11月
- 『その夏の今は・夢の中での日常』講談社文庫、1972年5月
- 『島へ―自選短編集』潮文庫、1972年6月
- 『出発は遂に訪れず』旺文社文庫、1973年6月
- 『出発は遂に訪れず』新潮文庫、1973年9月 改版、2007年8月
- 『夢の中での日常』角川文庫、1973年10月
- 『日を繋けて』中公文庫、1976年3月
- 『出孤島記』新潮文庫、1976年8月
- 『われ深きふちより』集英社文庫、1977年11月
- 『島の果て』集英社文庫、1978年8月
- 『夢の中での日常』集英社文庫、1979年5月
- 『死の棘』新潮文庫、1981年1月 改版、2003年2月
- 『特攻体験と戦後』中公文庫、1981年9月 改版、2014年7月(吉田満と対談)
- 『その夏の今は 夢の中での日常』講談社文芸文庫、1988年8月
- 『魚雷艇学生』新潮文庫、1989年7月 復刊、2005年 改版、2011年8月
- 『日の移ろい』中公文庫、1989年12月
- 『続 日の移ろい』中公文庫、1989年12月
- 『贋学生』講談社文芸文庫、1990年11月
- 『夢日記』河出文庫、1992年1月
- 『新編 琉球弧の視点から』朝日文庫、1992年7月
- 『はまべのうた ロング・ロング・アゴウ』講談社文芸文庫、1992年1月
- 『ちくま日本文学全集032 島尾敏雄』ちくま文庫、1992年5月
- 『「死の棘」日記』新潮文庫、2008年8月
- 『夢屑』講談社文芸文庫、2010年9月
- 梯久美子編『妻への祈り-島尾敏雄作品集』中公文庫、2016年11月
単行本未収録作品
編集- 「斎藤寅次郎小論」 長崎高商映画研究会『映画軌線』(1939年 昭和14年 7月)
- 「二匹の猫」 向丘高校定時制文芸部『ロゴス』(1955年 昭和30年 3月)
- 「(復員)国破れて」 『新潮』(1987年 昭和62年 1月)
- 「地行日記」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
- 「憂愁の街」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
- 「無題」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
- 「秋風手記」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
アンソロジー等収録分
編集- 暗黒のメルヘン 立風書房 1990年7月(「摩天楼」を収録)
- 現代童話<福武文庫> 福武書店 1991年2月(「春の日のかげり」を収録)
- 夢÷幻視13=神秘 星雲社 1994年10月(「月暈」を収録)
- 塔の物語 異形アンソロジータロット・ボックス1<角川ホラー文庫> 2000年9月(「摩天楼」を収録)
- 戦後短篇小説選-『世界』1946‐1999 4 岩波書店 2000年4月(「子と共に」を収録)
- 戦後短篇小説再発見6 変貌する都市 <講談社文芸文庫> 講談社 2001年11月(「摩天楼」を収録)
- 戦後短篇小説再発見16 「私」という迷宮 <講談社文芸文庫> 講談社 2003年11月(「夢屑」を収録)
- 文士の意地-車谷長吉撰短篇小説輯-下 作品社 2005年8月(「お紀枝」を収録)
- 文芸誌「海」子どもの宇宙<中公文庫> 中央公論新社 2006年10月(「正チャンの冒険」を収録)
- 残しておきたい日本のこころ 幻戯書房 2007年6月(「昔ばなしの世界」を収録)
- 我等、同じ船に乗り<文春文庫> 文芸春秋 2009年11月(「孤島夢」を収録)
- 百年文庫035 灰 ポプラ社 2010年10月(「アスファルトと蜘蛛の子ら」を収録)
関連人物
編集- 島尾ミホ
- 小説家。『海辺の生と死』で田村俊子賞を受賞。「死の棘」に登場する「妻」のモデル。アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『ドルチェ―優しく』(2000)に主演した。島尾敏雄の間に息子の島尾伸三(写真家)と娘の島尾マヤ(1950年 - 2002年)がいる。1986年11月に島尾敏雄が死去した後も喪服を日常に着続けた。
- 伊東静雄
- 詩人。戦後、神戸時代に親しく付き合っていた。
- 庄野潤三
- 小説家。九州大学時代から戦後にかけて変わらず付合いを持った。
- 埴谷雄高
- 小説家、批評家。郷里が同じく福島県小高町。同地に埴谷島尾記念文学資料館がある。
- 小川国夫
- 小説家。島尾が朝日新聞上で私家版「アポロンの島」を激賞したことで作家として出発した。
- 阿川弘之
- 小説家。福岡で発行された文藝同人誌『こをろ』の創刊以来、活動を共にした。島尾と同じく海軍予備学生として出征し、ポツダム大尉の階級で終戦を迎えた。また、戦後、島尾敏雄、庄野潤三、吉行淳之介、安岡章太郎らが結成した「構想の会」へも参加していた。
- 富士正晴
- 小説家。
- 三島由紀夫
- 小説家。戦後、伊東静雄のもと島尾、庄野潤三らとともに活動した。
- 中村地平
- 小説家。島尾が同人誌『こをろ』に発表した「呂宋紀行」について、文芸時評で取り上げていた。その後、文学講演のために福岡にやってきた際、島尾は友人の矢山哲治とともに中村地平の宿を訪ね面識を得る。中村はその時、島尾の文章が中村の友人(太宰治)のそれに似ていることを指摘した。戦後、奄美に移住した島尾は、当時宮崎県立図書館長であった中村に鹿児島県立図書館長椋鳩十へ推薦依頼の労を取って貰っている。
- 吉田満
- 同じ戦中派世代として共著「特攻体験と戦後」(中央公論社、1978年)がある。
- 矢山哲治
- 詩人。
- 久坂葉子
- 小説家。
- 吉本隆明
- 批評家。作家論『島尾敏雄』(筑摩書房「筑摩叢書」、1990年)がある。
- 奥野健男
- 批評家。
- 谷川健一
- 民俗学者。
- 小栗康平
- 映画監督。映画版『死の棘』を完成させた。
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 映画監督。『ドルチェ』の中に島尾敏雄の写真があらわれ、経歴を監督本人が読み上げる。
- 是枝裕和
- 映画監督。『海よりもまだ深く』の主人公は「島尾敏雄文学賞」(架空の文学賞)を受賞した小説家という設定である。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 「言葉と出会う」(アルバム 1995, pp. 2–23)
- ^ a b 「略年譜」(アルバム 1995, pp. 104–108)
- ^ 長崎高等商業学校 編『長崎高等商業学校一覧 昭和14年度』長崎高等商業学校、1939年、254頁。NDLJP:1463356/135。
- ^ 長崎高等商業学校 1939, p. 142
- ^ 『九州帝国大学一覧 昭和15年』九州帝国大学、1940年9月、355頁。NDLJP:1450782/187。
- ^ 『九州帝国大学一覧 昭和16年』九州帝国大学、1941年10月、384頁。NDLJP:1450793/198。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「南島における生と死」(アルバム 1995, pp. 24–41)
- ^ a b c d e f g h i j 「『夢の中』の戦後」(アルバム 1995, pp. 42–55)
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、367頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「狂気の深い淵」(アルバム 1995, pp. 56–65)
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、369頁。ISBN 4-00-022512-X。
参考文献
編集- 島尾敏雄『死の棘』(改)新潮文庫、2003年2月。ISBN 978-4101164038。
- 島尾敏雄『死の棘』(再)新潮社、1984年5月。ISBN 4103101032。 - 初版は1977年9月
- 紅野謙介; 小川国夫 編『新潮日本文学アルバム 70 島尾敏雄』新潮社、1995年9月。ISBN 978-4106206740。
- 饗庭孝男編「島尾敏雄研究」冬樹社
- 島尾ミホ・志村有弘編「島尾敏雄事典」勉誠出版
- 井谷泰彦「『道の島』に本を担いで -奄美の図書館長・島尾敏雄-」(日本図書館文化史研究会 編『図書館人物伝 図書館を育てた20人の功績と生涯』(2007年 日外アソシエーツ ISBN 9784816920684))