三國一朗

日本の放送タレント、エッセイスト

三國三国一朗(みくに いちろう、1921年大正10年〉1月12日 - 2000年平成12年〉9月15日)は、日本放送タレントエッセイスト俳優である。

三國 一朗
(みくに いちろう)
『小説倶楽部』1963年6月号(桃園書房
誕生 (1921-01-12) 1921年1月12日
日本の旗 日本 愛知県名古屋市
死没 (2000-09-15) 2000年9月15日(79歳没)
墓地 青山霊園
職業 放送タレント、司会者、エッセイスト
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京帝国大学文学部社会学科
ウィキポータル 文学
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来歴・人物

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愛知県名古屋市出身。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部社会学科を繰り上げ卒業し従軍。戦後、劇作家久板栄二郎の下で修業した後、雑誌編集者を経てアサヒビール社員となる。

1952年に、志摩夕起夫らと行った、深夜放送「イングリッシュ・アワー」(ラジオ東京)での仕事は「日本で最初のラジオ・パーソナリティ」である。

1953年日本テレビ放送網で放送を開始したアサヒビール一社提供番組「ほろにがショー 何でもやりまショー」の二代目司会者として出演し、以後放送タレントとして各種番組に出演。1956年にアサヒビールを退社した後はタレントを専業とした。近代日本史への造詣が深く、東京12チャンネルの「私の昭和史」(1964年~1974年、放送批評懇談会の期間選奨を受賞)の司会や、二・二六事件を扱ったNHK特集のレポーターを務めている。

晩年は「お好み演芸会」(NHK総合テレビジョン)の「花の落語家5人衆の知恵比べ」の司会も務めた。

スクラップ・ブックが趣味で、技術指南書『ハサミとのり』を刊行。この本は刊行当時、スクラップ愛好家の間で、非常な評判を博した。また、放送タレントの先輩として、徳川夢声を敬愛し、夢声研究の決定版『徳川夢声の世界』を刊行し、芸術選奨新人賞を受賞した。

その他にも「タレントの余技」をこえた、軽妙なエッセイ集を何冊も刊行した。

2000年9月15日急性心不全のため、東京都稲城市の病院で死去。79歳没。

叔父に俳優の三國周三[1]。その妻が女優の水町庸子

出演番組

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テレビ

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ラジオ

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俳優

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テレビドラマ

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映画

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著書

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  • 私は司会者角川書店、1961年12月30日。
  • ハサミとのり 私のきりぬき帖』みゆき書房、1970年3月1日。
  • 徳川夢声の世界』 (1979年、青蛙房
  • 『肩書きのない名刺』 (1980年、自由現代社/中公文庫 1984年)、第28回日本エッセイスト・クラブ賞受賞
  • 三國一朗の人物誌毎日新聞社、1982年3月30日。
  • 『女たちの遠景』(1982年、潮出版社)
  • 『肩書きのない名刺(2)』(1983年、自由現代社)
  • 『話術 会話と対話』(1984年筑摩書房
  • 『戦中用語集』(1985年岩波新書
  • 『人づきあい50の名言』(1985年、講談社)
  • 『ことばのある風景』 新潮社1985年 
  • 徳川夢声とその時代』〈もんじゅ選書〉、講談社、1986年6月20日。
  • 『橋』(1990年青蛙房

共著

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  • 『タレントの本棚』(愛書家交換会・蚤の市 1983年)、著者の一人

編著

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エピソード

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  • 1954年9月、ラジオ東京で番組担当中に「洞爺丸が函館港外で座礁」の臨時ニュースを読んでいる。ニュース終了直後に流れたのはアルゼンチンタンゴの『SOS』(後に『コンデナ』に改名)であったが、意図した選曲ではなく全くの偶然であった。後年になって『この時のような不気味な経験は他に一度もない』と語っている。

研究書

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  • 濱田研吾『三國一朗の世界 あるマルチ放送タレントの昭和史』清流出版 2008年4月

脚注

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  1. ^ 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)