兼明親王
兼明親王(かねあきらしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。醍醐天皇の第11皇子。
兼明親王 | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 延喜14年(914年) |
薨去 | 永延元年9月26日(987年10月21日) |
改名 | 源兼明 → 兼明親王 |
別名 | 御子左大臣、前中書王 |
官位 |
一品中務卿 (臣籍時)従二位左大臣 |
父母 | 父:醍醐天皇、母:藤原淑姫 |
兄弟 | 勧子内親王、宣子内親王、恭子内親王、克明親王、保明親王、慶子内親王、代明親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、重明親王、常明親王、修子内親王、敏子内親王、式明親王、雅子内親王、有明親王、普子内親王、時明親王、長明親王、源高明、兼明親王、源兼子、靖子内親王、源厳子、源自明、韶子内親王、源允明、康子内親王、英子内親王、斉子内親王、朱雀天皇、章明親王、村上天皇、源為明、盛明親王 |
妻 | 源衆望の娘 |
子 | 源伊陟、源伊行 |
臣籍降下して源 兼明となり、左大臣に昇ったことから御子左大臣と呼ばれた。晩年になって政略上の事情から皇籍に復帰し、中務卿となったことから中書王(ちゅうしょおう)あるいは前中書王(さきの ちゅうしょおう)と呼ばれる。
経歴
編集延喜20年(920年)源高明ら醍醐天皇の皇子女6人とともに、源朝臣姓を与えられて臣籍降下する。
朱雀朝の承平2年(932年)无位から従四位上に直叙され、翌承平3年(933年)播磨権守に任官する。天慶2年(939年)右近衛権中将に任ぜられると、天慶5年(942年)左近衛権中将を経て、天慶7年(944年)30歳にして参議として公卿に列した。議政官として治部卿を兼ね、この間の天慶9年(946年)正月に正四位下、11月には村上天皇の大嘗会に伴って従三位と続けて昇叙されている。
その後も、天暦7年(953年)権中納言、天暦9年(955年)中納言、天暦10年(956年)正三位、康保4年(967年)従二位・大納言に叙任されるなど、順調に昇進を果たす。安和2年(969年)に発生した安和の変で兄の左大臣・源高明は失脚するが、兼明は一時的に殿上を取り止めたのみで連座を免れた。
円融朝の天禄2年(971年)右大臣を経ずに左大臣に就任したが、貞元2年(977年)勅により57年ぶりに皇籍に入って親王に復して二品に叙せられ、名誉職の中務卿に転じる。兼明が皇族に復帰させられたのは、藤原兼通・兼家兄弟の争いに関係している。兼通は弟の兼家に一時期廟堂の席次を先んじられたことを深く恨みに思い、自らが関白内大臣になった際、兼家を大納言に据えおき、従兄弟にあたる藤原頼忠を相談相手とした。そして頼忠を左大臣に引き上げるため、当時その座にあった兼明がとばっちりを受けたのである。折しも円融天皇は異母兄・源昭平の皇籍復帰を願っていたことから、この2件を抱き合わせで行うことを条件にこの人事を認めたという。これに憤慨した兼明親王は、後に『本朝文粋』に収録された漢詩「菟裘賦(ときゅうふ)」の中で、「君昏くして臣諛ふ」と円融天皇や兼通・頼忠を痛烈に非難している。
寛和2年(986年)中務卿を辞し、その後は嵯峨に隠棲した。同年に嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊泉を得られたことが「祭亀山神文」(『本朝文粋』)に記されている。後に亀山には後嵯峨上皇が仙洞亀山殿を造営した。延元元年(987年)9月6日薨去。享年74。
親王の別称に御子左大臣・御子左があるが、これは「醍醐天皇の皇子(御子)である左大臣」という意味。後世、親王の邸宅に藤原長家(御子左大納言)が住したため家号となり御子左家となった。
人物
編集「後中書王」と呼ばれた甥の具平親王と共に並び称される博学多才の主で、藤原佐理・藤原行成と共に三蹟の一人に数えられる場合もある。『江談抄』『本朝文粋』に詩文を残す。『古今和歌六帖』の撰者と考えられている。
親王の歌
編集- 七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき(あやしき) (後拾遺1154)
- 太田道灌の雨具借りの故事(山吹伝説)に登場する古歌として知られている。
官歴
編集注記のないものは『公卿補任』による。
- 延喜20年(920年) 12月28日:臣籍降下(源朝臣)[1]
- 承平2年(932年) 正月7日:従四位上(直叙)。11月:昇殿(雑砲)
- 承平3年(933年) 正月12日:播磨権守[2]
- 天慶2年(939年) 2月1日:右近衛権中将
- 天慶3年(940年) 3月25日:兼紀伊権守
- 天慶5年(942年) 3月9日:左近衛権中将
- 天慶7年(944年) 4月9日:参議、昇殿如元
- 天慶8年(945年) 3月28日:兼近江権守。11月25日:兼治部卿
- 天慶9年(946年) 正月7日:正四位下。11月19日:従三位(大嘗会悠紀)
- 天暦3年(949年) 日付不詳:止近江権守。9月:服解(母)。12月:復任
- 天暦5年(951年) 正月30日:兼紀伊権守
- 天暦7年(953年) 9月25日:権中納言
- 天暦9年(955年) 2月17日:昇殿。7月24日:中納言
- 天暦10年(956年) 正月7日:正三位
- 応和2年(962年) 8月7日:兼左兵衛督
- 康保4年(967年) 正月20日:権大納言。10月11日:従二位。12月13日:大納言
- 安和2年(969年) 正月27日:兼侍従。3月26日:兄大臣事下殿上(安和の変)
- 天禄元年(970年) 8月5日:兼皇太子傳
- 天禄2年(971年) 11月2日:左大臣。11月8日:兼蔵人別当。11月24日:勅授帯剣
- 天延2年(974年) 2月28日:聴輦車
- 貞元2年(977年) 4月21日:親王宣下、二品[3]。12月10日:中務卿
- 時期不詳:一品[4]
- 寛和2年(986年) 正月25日:辞中務卿
- 延元元年(987年) 9月6日:薨去
系譜
編集60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集参考文献
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
官職 | ||
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先代 藤原在衡 |
左大臣 971 - 977 |
次代 藤原頼忠 |
先代 源重信 |
左兵衛督 962 - 967 |
次代 源雅信 |