敦明親王

日本の平安時代の皇族、三条天皇の第一皇子

敦明親王(あつあきらしんのう)は、三条天皇の第一皇子。母は皇后藤原娍子大納言藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)[1]藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得た。

敦明親王
(小一条院)
皇太子
在位 長和5年1月29日1016年3月10日) - 寛仁元年8月9日1017年9月7日

時代 平安時代中期
生誕 正暦5年5月9日994年6月20日
薨御 永承6年1月8日1051年2月21日
尊号 小一条院
位階 准太上天皇
父母 父:三条天皇、母:藤原娍子
兄弟 敦明親王(小一条院)敦儀親王敦平親王当子内親王禔子内親王性信入道親王禎子内親王
藤原延子藤原寛子院の上藤原頼宗長女)、源長経女、瑠璃女御(源政隆女)
敦貞親王、栄子内親王、敦昌親王儇子内親王敦元親王源基平敦賢親王嘉子内親王、信子女王、源信宗斉子内親王、行観
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経歴

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正暦5年(994年)に皇太子・居貞親王の第一皇子として生まれる。父の居貞親王は、長く年下のいとこである一条天皇皇太子であった。寛弘3年(1006年)11月に元服。この後、藤原顕光の娘・延子と結婚する。寛弘8年(1011年)父の居貞親王が践祚三条天皇)。敦明も親王宣下を受け、式部卿に任ぜられる。

三条朝の長和3年(1014年)6月に従者に命じて、加賀守源政職を拉致し、敦明が住む堀河邸に監禁して暴行する。加えて、連行の際には衆人環視の中で政職に自らの足で歩くことを強制してさらし者にする、という事件を起こす。当時、政職は敦明の妹の禎子内親王に対する債務を滞納しており[2]、返済履行を促すための実力行使であった可能性もあるが[3]、当時の天皇の第一皇子による前代未聞の凶行に貴族社会は驚き、舅の右大臣・藤原顕光が批判にさらされた[4][5]

また、敦明自身だけでなく、家来も以下のような事件を起こしている。

  • 長和3年(1014年)12月:敦明の雑人と藤原定頼の従者が乱闘事件を起こして[6]、敦明の雑人が死亡[7]。更にその報復のためか、乱闘事件の直後に敦明が定頼に殴りかかり、執政の左大臣藤原道長を激怒させた[8][9]
  • 長和4年(1015年)4月:敦明の住む堀河殿(藤原顕光邸)に逃げ混んだ脱獄囚を捕らえようとした看督長放免が敦明の家人に殴られ[10]、看督長はこれに抗議をして仕事を一時放棄した[11]
  • 長和4年(1015年)6月:敦明の家人が同僚の別の者になりすまして、藤原実資の邸に現れてを借りようとして失敗(借りた絹を返さずに詐取し、その罪を同僚に擦り付けようとした)[12][13]

三条天皇は、藤原道長の孫にあたる一条天皇の第二皇子・敦成親王(のち後一条天皇)を皇太子としていた。三条天皇は道長との関係がうまくいかずその圧力を受け続け、長和5年(1016年)1月29日に敦明親王を次期皇太子とすることを条件に退位する。敦明親王は皇太子となるが、身分の上下を問わず諸官人は春宮関係の官職に就くことを忌避。さらに、道長自身も皇太子に伝えるべき壺切の剣を渡さぬなど圧力を加え、翌長和6年(1017年)5月に三条上皇が崩御するとさらに圧迫を強める。一方の敦明側も、14歳も年下の天皇の皇太子では次期天皇として即位できる可能性は低いと考え、自ら皇太子廃位を願い出た。これにより、同年8月9日に皇太子を辞退、同25日に道長の計らいで小一条院尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る一方で、道長の娘である寛子(母・源明子)を妃に迎えて婿入りし、高松殿(近衛御門)を居所とする。さらに家司として受領随身を受け、親王所生の子供たちが三条天皇の猶子の資格として、二世王でありながら親王宣下を受けるなど破格の待遇を受けた。

しかし、これによって敦明に捨てられる形[注釈 1]となった妃・延子は悲しみの余りに寛仁3年(1019年)に急死し、続いてその父親の左大臣・藤原顕光も、治安元年(1021年)に失意のうちに病死した。その後、顕光父娘は怨霊になって道長一族に祟ったとされ、人々は顕光を「悪霊左府(左大臣)」と呼んで恐れたと伝えられている。

敦明は上皇に準じる待遇を得つつも、道長派の受領層からはふさわしい尊重を受けられなかったらしい[16]。寛仁3年(1019年)10月に石山寺に参詣した際には、敦明を接待することになっていた左少弁近江守源経頼(道長の義理の甥)は完全に接待職務を放棄してしまう。そのため、道長の子である権中納言藤原能信が在国の下級官人を捕まえて、強引に接待に当たらせたという[17]

一方で、敦明も道長派の受領であった、高階業敏成章兄弟に暴行する所行に及んでいる。

  • 治安元年(1021年宇治からの帰還中に平安京の南の東寺近くで、従者に紀伊守・高階成章を虐待させる。従者は成章の頭髪を掴んで地面に這いつくばらせると、四方八方からさんざんに蹴飛ばす暴行を加えた。そのため成章の衣服はボロボロになってしまった。なお成章は小一条院が紀伊国に所有する荘園に関連してかねてより院から恨みを買っていたという[18]
  • 治安3年(1023年賀茂祭に派遣された祭使が平安京へ戻る還立の日に、平安京北郊の紫野にて祭使行列を見物する場所を確保しようとしたらしく[19]、従者が周りの多数の見物人に暴力を振るった。従者の中には知足院の中に逃げ込んだ者を追うために騎乗したままで院の僧房を騎乗したまま走り回る者もいて、僧房がそこらじゅう破壊される被害を受けた。さらには、小一条院家の執事・高階在平は従者を指揮して、前長門守・高階業敏を暴行させ、烏帽子を奪い、さらにはをかき乱させた[20]

万寿2年(1025年)3月に母・藤原娍子を、7月に妻・藤原寛子を亡くすが、その後、寛子の兄・藤原頼宗の娘を新たに娶ったことで厚遇を維持していた[21]

万寿4年(1027年)には、右大臣藤原実資の家工であった豊武という者の身柄を引き渡すよう要求したところ、実資は公式な場での決着を望んで検非違使庁に裁定を求めるが、検非違使庁は豊武の罪状を認めなかった。そこで、小一条院は実資の小野宮第の近くに住んでいた豊武を5人の従者に拉致させる実力行使に出た。しかし、豊武を連行していた従者が小野宮第の北門の前を通りがかっかため、実資の従者の牛飼らに見つかってしまい両者が抜刀する騒ぎとなる。結局、騒ぎのどさくさに紛れて豊武は逃亡してしまい、拉致は失敗している[22]

長暦2年(1038年出家永承6年(1051年)正月8日薨去享年58。

孫娘源基子が生んだ実仁親王輔仁親王は皇位継承者と目されたが異母兄白河天皇に嫌われ、不遇の生涯を送った。

人物

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短慮な振舞いによる数々の暴力沙汰を起こしたことなどについて、藤原実資の『小右記』には敦明に対する批判が立太子以前より多く記されている。また、藤原行成の『権記』にも皇太子辞退の報を受けて、顔相に詳しくないと前置きしながら「無龍顔」(天皇の相ではなかった)と述べている[23]

後世の歴史家からも、暴力事件を理由に天皇としての器量がなかったと評されることが多い。しかし、これらの暴力事件はそれなりの必然性があり、むしろ敦明の行動力を示しているとの評価もある[24]

一方で、長和4年(1015年)の内裏焼亡の際に、急ぎ避難するために母后を抱えて走ったり[25]、慌てて避難したために冠り物がなくが露わになっていた父帝に対して自らの髻を気にせず烏帽子を譲った(その後、敦明は誰かの烏帽子を徴して被った)逸話があることや[26]、源政職への辱めも妹が債権の返済がなされず困っていたことから、債務者を懲らしめたものである[3]、として親兄弟には深い愛情を持っていたとされる[25]

判官代として出仕した源頼義は、狩猟を愛好した敦明に側近として重用された。伝承ではある時、頼義の嫡男(義家)誕生を聞いた敦明がその子の顔を見たいと思し召し、参内した赤子を鎧の袖に座らせて拝謁したという。この時に新調した鎧、もしくは敦明より拝領した鎧が源氏八領の一つ源太が産衣とされる[27]

妃・王子女

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系図

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60 醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
61 朱雀天皇
 
62 村上天皇
 
兼明親王
 
源高明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広平親王
 
63 冷泉天皇
 
致平親王
 
為平親王
 
64 円融天皇
 
昭平親王
 
具平親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
65 花山天皇
 
67 三条天皇
 
 
 
 
 
66 一条天皇
 
 
 
 
 
源師房
村上源氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敦明親王
(小一条院)
 
禎子内親王
(陽明門院)
 
68 後一条天皇
 
69 後朱雀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
70 後冷泉天皇
 
71 後三条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『栄花物語』[14]には、小一条院が寛子のいる高松殿で厚遇を受けている傍らで、延子のいる堀河殿では院に捨てられた延子が臥せって薬湯も喉が通らず、顕光も延子と共に残された敦貞親王を馬になって乗せている有様で、女房達はむせび泣いている光景が描かれている[15]

出典

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  1. ^ 三省堂編修所 編『コンサイス日本人名辞典』上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰(監修)(第5版)、三省堂、2009年、41頁。 
  2. ^ 『御堂関白記』長和4年7月23日条
  3. ^ a b 繁田 2005, p. 171.
  4. ^ 『小右記』長和3年6月16日条
  5. ^ 繁田 2005, p. 164.
  6. ^ 『小右記』長和3年12月1日条
  7. ^ 『小右記』長和3年12月6日条
  8. ^ 『小右記』長和3年12月8日条
  9. ^ 関口、2007年、P223.
  10. ^ 『小右記』長和4年4月5日条
  11. ^ 『小右記』長和4年4月20日条
  12. ^ 『小右記』長和4年閏6月13日,14日条
  13. ^ 関口、2007年、P223-224.
  14. ^ 『栄花物語』巻第13「ゆふしで」
  15. ^ 関口、2007年、P221-222.
  16. ^ 繁田 2005, p. 156.
  17. ^ 『小右記』寛仁3年10月25日条
  18. ^ 『小右記』治安元年11月8日条
  19. ^ 繁田 2005, p. 147.
  20. ^ 『小右記』治安3年4月18日条
  21. ^ 関口、2007年、P225.
  22. ^ 『小右記』万寿4年6月2日条
  23. ^ 『権記』寛仁元年8月8日条
  24. ^ 繁田 2005, p. 189.
  25. ^ a b 繁田 2005, p. 187.
  26. ^ 繁田 2005, p. 186.
  27. ^ 寛永諸家系図伝』第一(続群書類従完成会、p.86)

参考文献

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  • 倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば―』ミネルヴァ書房、2010年。 
  • 繁田信一『殴り合う貴族たち -平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年。 
  • 関口力「小一条院」(角田文衛先生傘寿記念会 編『古代世界の諸相』、晃洋書房、1993年、所収:「小一条院について-道長政権舌における貴族の生き方に関連して-」、『摂関時代文化史研究』、思文閣出版、2007年 ISBN 4784213449 P217-227)