源長経
平安時代中期の貴族。正四位下・越前守、備前守。子に源経信(木工頭、従四位上、三河守、子に仁範、経範(1031-1104.4.13、遍照寺法務、木寺法印、仁和寺、東大寺別当、東寺一長者、法印
源 長経(みなもと の ながつね)は、平安時代中期の貴族。醍醐源氏、権大納言・源重光の子。官位は正四位下・越前守。
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 明理(初名)→長経 |
官位 | 正四位下、越前守 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:源重光、母:行明親王の娘 |
兄弟 | 通雅、長経、方理、則理、康経、藤原伊周室、藤原道長室 |
妻 | 藤原時方の娘、源簾子(源扶義の娘) |
子 | 経成、小兵衛、経信、仁暹 |
経歴
編集初名は明理(あきまさ)。永祚2年(990年)一条天皇の五位蔵人に補任(時に正五位下・右近衛少将)。正暦4年(993年)左近衛少将を経て、正暦6年(995年)従四位下に叙せられた。
しかし、長徳2年(996年)4月に長徳の変が発生し、藤原伊周・隆家兄弟が失脚して中関白家が没落すると、伊周の義兄弟(明理は伊周の妻の兄弟)にあたる明理も連坐して殿上の簡を削られてしまった。同年7月には本府の役に従うべしとの宣旨が下り、昇殿は聴されないものの、左少将として近衛府の役を務めた。長徳3年(997年)再び昇殿を聴されている。
長保元年(999年)左京大夫に転じ、のち皇太后・藤原遵子の皇太后宮亮を兼ねた。この間の寛弘元年(1004年)頃に長経と改名している。
官歴
編集- 時期不詳:従五位下
- 永延2年(988年) 2月27日:右近衛少将[1]
- 時期不詳:正五位下
- 永祚2年(990年) 9月1日:五位蔵人[1]
- 正暦4年(993年) 3月9日:左近衛少将[2]
- 正暦6年(995年) 正月5日:従四位下[2]
- 長徳2年(996年) 4月24日:被削殿上簡[1]。7月27日:可従本府役宣旨、不聴昇殿[1]
- 長徳3年(997年) 9月9日:昇殿[1]
- 長保元年(999年) 9月24日:左京大夫
- 寛弘元年(1004年)頃:明理から長経に改名
- 寛弘4年(1007年) 12月2日:見兼皇太后宮亮(皇太后・藤原遵子)[3]
- 長和3年(1014年) 6月17日:辞大夫[1]
- 寛仁元年(1017年) 9月14日:見摂津守[3]
- 治安3年(1023年) 9月4日:見修理権大夫[1]
- 万寿元年(1024年) 2月11日:見讃岐守[1]
- 長元3年(1030年) 8月28日:見備前守[1]