黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)は、賤ヶ岳の七本槍に倣い、戦国大名黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称。18世紀上旬の享保年間の頃には成立している。この24人の中に親族の弟達や譜代重臣8人が黒田八虎とされた。長政を含めて黒田二十五騎とする場合もある。なお、江戸時代に、江戸城百人番所において、黒田藩の家臣が詰めていた部署を「二十五騎組」と称していた説もある。

該当者

編集
人名 生没年 通称 備考
井上之房 1554年 - 1634年 九郎右衛門、周防守 黒田八虎の一人
小河信章 1554年 - 1593年 伝右衛門
菅正利 1567年 - 1625年 六之助、和泉守
衣笠景延 1547年 - 1631年 久左衛門、因幡守
桐山信行 1554年 - 1625年 孫兵衛、大炊助、丹波守
栗山利安 1550年 - 1631年 善助、四郎右衛門、備後守 黒田八虎の一人
黒田一成 1571年 - 1656年 三左衛門、美作守 黒田孝高の養子、黒田八虎の一人
黒田利高 1554年 - 1596年 兵庫助、次郎、小一郎 黒田職隆の次男、黒田孝高の実弟。黒田八虎の筆頭
黒田利則 1561年 - 1612年 修理亮、四郎太 黒田職隆の三男、黒田孝高の異母弟。黒田八虎の一人
黒田直之 1564年 - 1609年 図書助、惣右衛門、市兵衛 黒田職隆の四男、黒田孝高の異母弟。黒田八虎の一人
毛屋武久 1554年 - 1628年 主水正、武蔵守 近江国出身。他家を渡り歩き黒田家に仕えた当時の著名人。24人中最も知行が少ない。
後藤基次 1560年 - 1615年 又兵衛、隠岐守 黒田八虎の一人。大坂夏の陣にて戦死、または生存説多数。
竹森次貞 1550年 - 1621年 新右衛門、石見守
野口一成 1559年 - 1643年 左助、藤九郎
野村祐勝 1560年 - 1597年 太郎兵衛 母里友信の異母弟
林直利 1569年 - 1629年 太郎右衛門、掃部亮 信濃国軽井沢出身
原種良 1557年 - 1639年 弥左衛門、左近太夫、孫三郎、伊予守 原田氏一族[1]。元豊前大友氏家臣
久野重勝 1545年 - 1592年 四兵衛
堀定則 1557年 - 1636年 平右衛門 別名:正勝、正儔
益田正親 1542年 - 1611年 与助、与九郎 貧農から取り立てられた説がある
三宅家義 1548年 - 1619年 山太夫、藤十郎、若狭守 摂津国出身
村田吉次 1565年 - 1621年 兵助、出羽守 当初は「井口」姓
母里友信 1556年 - 1615年 太兵衛、多兵衛、但馬守 黒田八虎の一人。槍の名手。黒田節のモデル。
吉田長利 1547年 - 1623年 六郎太夫、壱岐守 黒田孝高の乳兄弟

脚注

編集
  1. ^ 黒田二十四騎”. 播磨の黒田武士顕彰会. 2014年8月5日閲覧。

参考文献

編集