黒田利高
黒田 利高(くろだ としたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の筆頭。
兵庫助利高(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 文禄5年5月18日(1596年6月13日) |
改名 | 小寺利隆→黒田利高 |
別名 | 通称:次郎、小一郎、兵庫助 |
戒名 | 清月道旭大居士 |
墓所 | 長圓寺(福岡市中央区) |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→黒田孝高 |
氏族 | 小寺氏、黒田氏 |
父母 | 父:黒田職隆、母:明石正風娘・岩(小寺政職の養女) |
兄弟 | 孝高、利高、利則、直之 |
妻 | 斎藤仁左衛門娘 |
子 | 政成、女(野村三十郎室)、女(栗山利章室) |
生涯
編集天文23年(1554年)、黒田職隆の次男として播磨国姫路城で誕生した[1]。同母兄に孝高(官兵衛・如水)がいる。
天正5年(1577年)、織田信長による中国攻めが開始されると、兄・孝高と共に羽柴秀吉の配下として参加し、秀吉の馬廻となった。天正6年(1578年)から天正8年(1580年)の三木合戦、その後の英賀城攻めにも従軍し、町坪城の城代となった。天正10年(1582年)の信長死後は秀吉に仕え、備中高松城の戦い・山崎の戦いでも秀吉に従っている。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い時には、甥の黒田長政らと共に和泉国で一揆の鎮圧に当たっている。
天正14年(1586年)から天正15年(1587年)の九州征伐にも参加した。この頃、兄・孝高の勧めにより周防国山口でキリシタンの洗礼を受けた。その後、孝高が戦後の九州国分によって豊前国6郡が与えられ、豊前中津城主となった際、兄から1万石を分与されて豊前高森城主となった[1]。
兄が隠居すると、その家督を継いだ甥の黒田長政の後見役を務めた。文禄元年(1592年)からは文禄の役にも大組頭として参加したが、一度講和状態となった文禄5年(1596年)に帰国。その後体調を崩して和泉国堺で療養中に死去した[1]。享年43[1]。法名は清月道旭大居士[1]。
家族
編集嫡子政成は、筑前国入国後、14,000石を領した[1]。井上之房の娘の一人を妻(正室)としたが病身のため、黒田忠之の時代に、嫡男政一に4,000石、次男政仲に2,000石を分知し、残りは返上した[1]。のち、両者とも知行を没収されることとなった[1]が、黒田家家臣として系譜は存続した。
関連作品
編集脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 家臣人名事典編纂委員会(編)『三百藩家臣人名事典 第7巻』新人物往来社、1989年5月。ISBN 4404016077。
- 学習研究社『戦国時代人物事典』学習研究社、2009年。ISBN 4054042902
- 本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年、106-111頁