野口一成
野口 一成(のぐち かずしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、筑前国福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は左助、藤九郎。
野口左助一成(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄2年(1559年) |
死没 | 寛永20年4月8日(1643年5月25日) |
改名 | 彦次郎(幼名)→一成→卜庵(号) |
別名 | 通称:左助、藤九郎 |
主君 | 黒田孝高→長政→忠之 |
藩 | 筑前福岡藩士 |
氏族 | 野口氏 |
父母 | 父:浄金 |
妻 | 曽我一信娘(母里友信妹) |
子 | 一吉、万右衛門 |
経歴
編集永禄2年(1559年)、播磨国加古郡野口で、教信寺の僧・浄金の子として生まれる。浄金は黒田孝高と親しく、囲碁仲間でもあった。天正3年(1575年)、元服して黒田氏の家臣となる。織田氏の傘下の黒田氏家臣として、天正5年(1577年)の高倉山城攻めでは、神吉小伝次を討ち取った。
天正8年(1580年)の三木合戦、天正15年(1587年)の財部城攻めなどでも戦功を挙げる。黒田家の九州豊前国移封後の天正16年(1588年)、旧領主城井鎮房暗殺の際にはその家臣を7人斬り伏せており、その功績から黒田長政から短刀を賜り、630石を拝領した。小田原征伐、文禄・慶長の役、木曽川・合渡川の戦い、関ヶ原の戦いにも参戦した。関ヶ原では身体の左側ばかりに傷を負いながら奮闘したため、通称を「左助」(さすけ)と改めることとなった。
慶長6年(1601年)、黒田氏が筑前国に入国した後、鉄砲組大頭に任命されて2,500石を拝領。また、益田正親と共に福岡城の石垣普請奉行も務めた。慶長11年(1606年)の江戸城天下普請の際には、母里友信と共に天守台の石垣を担当した。
元和9年(1623年)、長政が没し黒田忠之が跡を継ぐと、3,000石に加増されている。寛永7年(1630年)、福岡城南二の丸城番となる。寛永14年(1637年)の島原の乱では、忠之の呼び出しを受け、側に控えた。この戦陣の際、次男の万右衛門が討死している。この後、家督を孫の吉波(長男・一吉の子)に譲り、隠居して卜庵と号した。
寛永20年(1643年)4月8日死去。享年85。
逸話
編集ある剣客との仕合の際、一成は相手の木刀を左腕で受け止め、右手の木刀で突き倒したところ、「腕で受ける剣術というものはない」と冷笑されたため、具足櫃から籠手を取り出して見せたが、その籠手には多くの太刀痕が残っていたとされる。 この逸話は上述の「身体の左側ばかりに傷を負いながら奮闘」と話が合うため、一成の戦闘スタイルを窺い知ることができる。