赤城 (砲艦)
概要
編集小野浜造船所で1890年(明治23年)8月20日に竣工、8月23日に第一種と定められる。同型の3艦と異なり鋼製の船体構造であった。
日清戦争では黄海海戦、大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加。黄海海戦で当時の軍令部長樺山資紀の座乗する輸送船「西京丸」を守り抜いたことで有名である。このときに清の艦隊の集中砲火をうけ、艦長の坂元八郎太は戦死、航海長の佐藤鉄太郎も負傷、「赤城」も大損害を受けている。
1898年3月21日に二等砲艦に類別。その後北清事変、日露戦争に参加。日露戦争では、旅順攻略作戦、樺太作戦等に参加。1904年5月18日、旅順沖で砲艦「大島」と衝突事故を起こし、「大島」を沈没させてしまっている。
1911年の除籍後、翌年3月頃に川崎汽船に売却され商船「赤城丸」となった。このときにかなり改造され、砲艦時代の面影はほとんど無くなった。しかし、船首に装備された衝角だけはそのままだったという。1921年頃に転売され尼崎汽船の所有船になり、1945年台風で沈没。その後浮揚されたが、1946年1月備讃瀬戸で触雷によりまたも沈没。再度浮揚され使用されるものの、1953年老朽化の為大阪で解体された。艦齢は実に63年に及んだ。
ちなみに、黄海海戦での本艦の奮戦振りを元に「坂元少佐(赤城の奮戦)」という軍歌が作られた。
艦長
編集※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 朝枝惟一 少佐:1889年8月2日 - 1891年7月23日
- 瓜生外吉 少佐:1891年7月23日 - 1891年12月14日
- 舟木錬太郎 少佐:1891年12月14日 - 1892年12月21日
- 井上良智 少佐:1892年12月21日 - 1893年9月12日
- 出羽重遠 少佐:1893年9月12日 - 1894年5月5日
- 坂元八郎太 少佐:1894年5月5日 - 1894年9月17日戦死 軍歌「坂元少佐(赤城の奮戦)」のモデル
- 梨羽時起 少佐:1894年9月19日 - 1894年9月21日
- 早崎源吾 少佐:1894年9月21日 - 1895年8月20日
- 餅原平二 少佐:1895年8月20日 - 1895年10月14日
- 橋元正明 少佐:1895年10月14日 - 1895年12月27日
- 丹治寛雄 少佐:1895年12月27日 - 1896年9月21日
- 武富邦鼎 少佐:1897年2月18日 - 1898年6月1日
- 荒木亮一 中佐:1898年6月1日 - 1898年7月19日
- 玉利親賢 中佐:1898年9月1日 - 1899年5月24日
- 坂本一 中佐:1899年6月17日 - 1899年10月13日
- 上原伸次郎 中佐:1899年10月13日 - 1900年9月25日
- 毛利一兵衛 中佐:1901年5月9日 - 1902年6月5日
- 藤本秀四郎 中佐:1903年12月28日 - 1904年6月19日
- 江口麟六 中佐:1904年6月19日[1] - 1905年5月8日
- 羽喰政次郎 中佐:不詳 - 1906年8月30日
- 上村翁輔 中佐:1906年8月30日 - 1907年2月28日
- 中島市太郎 中佐:1907年2月28日 - 1907年7月1日
- (兼)水町元 中佐:1907年7月1日 - 1907年7月12日
- 水町元 中佐:1907年7月12日 - 1908年1月10日
- 町田駒次郎 中佐:1908年1月10日 - 1908年9月25日
- 大島正毅中佐:1908年9月25日 - 1909年12月1日
- 中島源蔵 中佐:1909年12月1日 - 1910年12月1日
同型艦
編集脚注
編集- ^ 「明治三十七年辞令通報 6月」 アジア歴史資料センター Ref.C13071937900
参考文献
編集- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目
編集- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 赤城 [II] (巡洋戦艦→空母)