小野浜造船所
歴史
編集当初、イギリス人のエドワード・チャールズ・キルビーが他の2人ととも[1]に「小野浜鉄工所」として設立し、木造汽船の製造などを行っていた。1878年(明治11年)にキルビー単独で独立し、「小野浜造船所」となった。1882年(明治15年)には日本初の鉄製汽船、太湖汽船太湖丸を建造し、エドワード・ハズレット・ハンターの設立した大阪鉄工所(後の日立造船)と並び、日本の近代造船所の黎明期に大きな役割を果たした[2]。
キルビーは熱心な売り込み工作を行い、当時日本で唯一の鉄船の建造実績を有していたこともあり、1883年(明治16年)2月23日には海軍から日本初の鉄製軍艦「大和」(初代)の受注に成功した。しかし建造は順調ではなく、10月にはイギリスに発注した部品がストライキの影響で届くのが遅れたことを理由に工期延期の申し出がなされ、12月には資金繰りが行き詰ったキルビーが自殺してしまうという事態となった[3]。
「大和」の建造中であったこともあり、1884年(明治17年)に海軍が引き取り官営造船所として存続、呉鎮守府開設後はその管轄とされた。同時期に設置された呉造船部(後の呉海軍工廠)が軌道に乗ると設備は呉に移転され[4]、小野浜造船所は閉鎖された。
年表
編集主な建造艦艇
編集脚注
編集- ^ 千田武志「官営軍需工場の技術移転に果たした外国人経営企業の役割 : 神戸鉄工所、小野浜造船所を例として」『政治経済史学』第458巻、政治経済史学会、2004年10月、6頁、ISSN 0286-4266、CRID 1050858784330238464。
- ^ “展示会「近代神戸の足跡」造船業”. 神戸大学附属図書館. 2013年6月1日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 池田憲隆「1883年海軍軍拡前後期の艦船整備と横須賀造船所」『人文社会論叢. 社会科学篇』第7巻、弘前大学人文学部、2002年2月、17-34頁、hdl:10129/980、ISSN 1345-0255、CRID 1050282677532894464、2023年6月22日閲覧。
- ^ 呉に以前からあった設備は甲造船工場と呼ばれ、後に船殻建造工場となる。一方小野浜からの移転設備は乙造船工場と呼ばれ後に艤装工場に発展した。堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』p32-33の記述より。
参考文献
編集- 神戸港の歴史
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』(原書房、1969年)ISBN 4-562-01873-9