武富 邦鼎(たけとみ くにかね、1852年12月19日嘉永5年11月9日) - 1931年昭和6年)11月17日)は、日本の海軍軍人。海軍中将正四位勲二等功三級。旧名、福地玄六。

武富 邦鼎
生誕 1852年12月19日
死没 (1931-11-17) 1931年11月17日(78歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1877年 - 1909年
最終階級 海軍中将
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略歴

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佐賀藩士・武富栄之允の三男[要出典]1872年明治5年)に海軍砲術生徒となる。1877年(明治10年)2月、海軍少尉補に任官し水路局出勤。1879年(明治12年)11月、海軍少尉に昇進。以後、参謀本部海軍部第3局課員、横須賀鎮守府参謀、「大和」「浪速」の各分隊長、海軍参謀部出仕、在朝鮮公使館付武官佐世保鎮守府参謀などを歴任。1893年(明治26年)12月、海軍少佐に進級。

日清戦争時は横須賀鎮守府参謀、兼海岸望楼監督官を務めた。1895年(明治28年)7月、軍令部出仕となり、以後、台湾総督府参謀、「和泉」「松島」の各副長、「赤城艦長を歴任。1897年(明治30年)12月、海軍中佐に昇進。1898年(明治31年)6月、東宮武官に転じ、同年10月、海軍大佐に進級した。

1901年(明治34年)7月、「磐手」艦長に就任し日露戦争に出征。1905年(明治38年)1月、海軍少将に昇進し第3艦隊司令官(第5戦隊)となり日本海海戦に参戦した。同年6月、第4艦隊司令官に転じ、以後、第3艦隊司令官(第6戦隊)、南清艦隊司令官、海軍省軍務局長将官会議議員、大湊要港部司令官を歴任。1908年(明治41年)8月、待命となり、1909年(明治42年)8月27日、海軍中将[1]に進むと同時に予備役編入。1914年大正3年)3月1日退役した[2]。墓所は青山霊園(1ロ8-28)。

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ 『官報』第7854号「叙任及辞令」1909年8月28日。
  2. ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
  3. ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
  4. ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
  5. ^ 『官報』第7874号「叙任及辞令」1909年9月21日。
  6. ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
  7. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。

参考文献

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  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。