愛宕 (砲艦)
愛宕(あたご)は、日本海軍の砲艦。摩耶型の1隻。艦名は京都府の愛宕山にちなんで命名された[8]。
愛宕 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀造船所[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 砲艦[2][3] |
建造費 | 262,492円[4] |
母港 | 横須賀[5] |
艦歴 | |
計画 | 1883年度計画 |
発注 | 1884年12月24日製造令達[6] |
起工 | 1886年7月17日[7][8] |
進水 | 1887年6月17日[9]、または6月18日[8] |
竣工 | 1889年3月2日[10][8] |
最期 | 1904年11月6日座礁沈没 |
除籍 | 1905年6月15日[8][11] |
要目(計画[2]) | |
排水量 | 621英トン |
長さ | 47m |
最大幅 | 8.200m |
深さ | 4.150m |
吃水 | 平均:2.990m |
ボイラー | 海軍式低円缶 2基 |
主機 | 横置2段2筒レシプロ 2基 |
推進 | 2軸 x 145rpm |
出力 | 自然通風700馬力、強圧通風950馬力 |
帆装 |
スクーナー型 帆面積2,986平方フィート[12] |
速力 | 10.25ノット |
燃料 | 1904年:石炭72トン[13][14] |
乗員 |
計画乗員:113名 1886年1月定員:115名[15] |
兵装 | 実際:21cm砲1門、12cm砲1門、47mm砲2門[4] |
その他 | 船体:鋼骨鉄皮 |
艦型
編集他艦の相違点
編集兵装
編集計画では24cm旋回砲1門(艦首)、15cm旋回砲1門(艦尾)、機砲2門の予定だった[2]。
要目
編集文献により相違がある。
公試成績
編集実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
公試 | 144rpm | 983馬力 | 10.46ノット | 失脚12.4% | ||||
公試 | 622英トン | 471馬力 | 9.5ノット | 日露戦争前直近の成績 | [14] |
艦歴
編集建造
編集1884年(明治17年)6月5日、横須賀造船所で建造予定の一等砲艦は
1886年(明治19年)7月17日龍骨を据え付けた(起工)[7]。 造船材料の多くは輸入品であったが不良品が多く含まれていたり、修理艦船の状況から残業が必要になって人件費が増加するなどで製造予算が不足になり、1887年(明治20年)5月3日予算の50,000円増額が認められた[18]。 6月17日午後1時30分より命名式を行った[9]。 命名式には明宮(後の大正天皇)が参列[9]、 艦首のくす玉を割り、鳩を放って紙吹雪などを散らした[19]。 進水は造船所長が支綱を切断して支柱を外したが船体が船台を全部滑り落ちず[9]、 船体が水に半分浸かった状態で命名式を終わった[20]。 翌18日午後2時に「愛宕」は完全に進水した[21]。 このため進水日を6月17日としている文献が多い[22] が、6月18日とする文献もある[8]。
1889年(明治21年)2月15日に工事は完成し[10]、 2月13日に標柱間試航、14日は復水器に多少の不具合が発見されたために公試運転中止、15日は直航運転(5時間)の公試運転を行った[23]。 3月2日に艦は造船所から艦長沢少佐へ引き渡された(竣工)[10]。
1890年
編集1890年(明治22年)8月23日に第一種と定められる。
1892年
編集1892年(明治23年)4月、仁川から釜山へ向かう途中、所安島沖の暗礁に触れて沈没した「出雲丸」の乗員乗客の捜索を行い、その後所安島に漂着していた生存者の内4名を長崎まで運んだ[24]。
1891年 - 1892年
編集1891年(明治24年) 10月21日に清国警備のために品海を出港[25] 、 翌1892年(明治25年)4月8日、長崎港に帰国した[25]。
1893年
編集1893年(明治26年) 4月18日に朝鮮国警備の為に横須賀を出港[25]、 12月13日竹敷に帰国した[25]。
1894年
編集1894年(明治27年)5月19日、修理を行うために横須賀鎮守府警備艦の任務を解かれた[5][26](非役艦)。 6月29日常備艦隊に編入[27]。 7月13日、常備艦隊所属の「高雄」「大和」「葛城」「天龍」「愛宕」と呉鎮守府警備艦「赤城」の6隻で臨時に警備艦隊が編成された[28]。 7月19日、「愛宕」は西海艦隊(同日警備艦隊から改称[29])から除かれ、再度常備艦隊に編入された[30]。
日清戦争
編集1894年(明治27年)7月23日に佐世保を出港、7月25日日清戦争開戦[25]、 9月24日に長崎港に一時帰国した[25]。 9月29日長崎出港[25]、 旅順・大連・威海衛攻略作戦に参加した。 翌1895年(明治28年)5月29日に佐世保港に帰国した[25]。
1895年
編集1895年(明治28年) 8月21日に清国警備のために長崎を出港[25]、 10月10日に佐世保港に帰港した[25]。 11月15日、「和泉」「愛宕」「摩耶」の3隻は西海艦隊から除かれ、常備艦隊に編入された[31]。
1896年 - 1897年
編集1896年(明治29年) 3月21日に朝鮮国警備の為に品海を出港[25]、 6月13日門司港に帰国した[25]。 10月23日に朝鮮国警備の為に神戸を出港[25]、 翌1897年(明治30年) 4月25日竹敷に帰国した[25]。
1898年
編集1898年(明治31年)3月21日、二等砲艦に類別。 4月30日朝鮮国警備の為に横須賀を出港[25]、 10月27日五島富島に帰国した[25]。
1899年
編集1899年(明治32年) 4月19日朝鮮国警備の為に横須賀を出港[25]、 11月1日門司港に帰国した[25]。
1900年
編集1900年(明治33年) 4月9日朝鮮国警備の為に横須賀を出港した[25]。
北清事変
編集北清事変では1900年(明治33年)6月から10月にかけて活動した。「愛宕」は在天津領事からの陸戦隊派遣要請を受けて5月29日に陸戦隊25名を天津に派遣[32]。「愛宕」陸戦隊は他国の陸戦隊と合流して北京へ向かい、5月31日から北京公使館保護に従事[33]。9月3日に陸戦隊は「愛宕」へ帰艦した[34]。 10月27日「愛宕」は佐世保港に帰国した[25]。 1901年(明治34年) 3月8日横須賀を出港、引き続き北清事変に従事した[25]。 8月1日に北清事変が終了し、引き続き清国方面で警備に従事[25]、 10月24日神戸港に帰国した[25]。
1902年 - 1903年
編集1902年(明治35年) 5月25日に南清の警備のために佐世保を出港[25]、 翌1903年(明治36年) 5月28日佐世保港に帰国した[25]。
日露戦争
編集1904年(明治37年) 1月29日韓国南岸警備のために竹敷を出港[25]、 2月6日日露戦争開戦[25]、 「愛宕」は旅順攻略作戦に参加した。 渤海湾口での密輸入船監視に従事していた「愛宕」は、10月6日、哨区に向かう途中、北隍城島と南隍城島の間の未知の暗礁で座礁し沈没した[35]。乗員は駆逐艦「薄雲」により救助された[35]。
1905年(明治38年)6月1日、喪失公表[36]。 6月15日除籍[11]、 同日類別等級表からも削除された[37]。
艦長
編集※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 沢良煥 少佐:1888年5月14日 - 1890年9月17日
- 副島種藤 少佐:1890年9月17日 - 1891年6月11日
- 迎敦忠 少佐:1891年6月11日 - 1891年7月23日
- 島崎好忠 少佐:1891年7月23日 - 1892年6月3日
- 植村永孚 少佐:1892年6月3日 - 1893年1月26日
- 上村正之丞 少佐:1893年1月26日 - 1894年2月2日
- 井上良智 少佐:1894年2月2日 - 1895年5月11日
- 中溝徳太郎 少佐:1895年5月11日 - 1896年11月18日
- 永峰光孚 少佐:1896年11月18日 - 1897年6月23日
- 成川揆 中佐:1898年1月22日 - 1899年9月29日
- 竹内平太郎 中佐:1899年9月29日 - 1900年9月1日
- 和田賢助 中佐:1900年9月1日 - 12月6日
- 小橋篤蔵 中佐:1901年2月14日 - 10月31日
- 木村浩吉 中佐:1902年4月22日 - 11月1日
- 石橋甫 中佐:1902年11月1日 - 1903年6月22日
- 久保田彦七 中佐:1903年12月28日 - 1904年12月22日
脚注
編集- ^ #日本近世造船史明治(1973)428-433頁、「内国製艦艇表(試運転成績)」
- ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.376、愛宕艦計画要領
- ^ a b #日本近世造船史明治(1973)297頁。
- ^ a b c #日本近世造船史明治(1973)352-355頁、「艦艇表(計画要領)」
- ^ a b #M27達(下)/5月画像23、明治27年5月19日達第74号「横須賀鎮守府所管警備艦愛宕修理ニ付役務ヲ解カル」
- ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.300
- ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.353
- ^ a b c d e f g #艦船名考(1928)pp.61-62「愛宕 あたご Atago.」
- ^ a b c d #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.376
- ^ a b c d #横須賀海軍船廠史(1973)第3巻p.33
- ^ a b #M38達/6月画像7、明治38年6月15日達第82号
- ^ #日本近世造船史明治(1973)298頁。
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)下巻p.283、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.173、明治19年1月21日(丙2)畝傍外七艦定員
- ^ #海軍軍備沿革p.49
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.355、明治17年6月5日(丙91)
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.372
- ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.377
- ^ #M20公文類聚13/愛宕命名式画像1-2
- ^ #公文備考別輯/愛宕命名式画像29、6月18日電報「愛宕艦本日午後二時無事進水シタリ」
- ^ #M22公文類聚13/愛宕落成画像1
- ^ #公文備考別輯/愛宕製造手続(2)画像23-24、明治22年2月26日陽33套第7号の13「軍艦愛宕公試運転執行御届」
- ^ 『日本郵船株式會社五十年史』684ページ、『官報』第2635号(明治25年4月14日)160ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa #S9恩給調査(下)/軍艦(4)画像11-12、旧愛宕。
- ^ #M27公文類聚32/愛宕解役画像1
- ^ #M27達(下)/6月画像24、明治27年6月29日達第105号
- ^ #M27達(下)/7月画像12、明治27年7月13日達第107号、第108号。
- ^ #M27達(下)/7月画像16、明治27年7月19日達第122号
- ^ #M27達(下)/7月画像17、明治27年7月19日達第123号
- ^ #M28達/11月画像10、明治28年11月15日達第124号
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、66-67ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、67、71ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、71ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』234ページ
- ^ 『官報』第6574号、明治38年6月1日。
- ^ #M38達/6月画像7、明治38年6月15日達第83号
参考文献
編集- アジア歴史資料センター
- 国立公文書館
- 『公文類聚』
- 「横須賀造船所ニ於テ愛宕艦命名式ヲ執行ス」『公文類聚・第十一編・明治二十年・第十三巻・兵制門三・兵器馬匹及艦船』、JACAR:A15111325400。
- 「新造軍艦愛宕ノ工事ヲ落成ス」『公文類聚・第十三編・明治二十二年・第十三巻・兵制四・庁衙及兵営城堡附・兵器馬匹及艦船』、JACAR:A15111741400。
- 「警備艦愛宕修理ニ付役務ヲ解ク」『公文類聚・第十八編・明治二十七年・第三十二巻・軍事門四・海軍・雑載』、JACAR:A01200783700。
- 防衛省防衛研究所
- 『公文備考別輯』
- 「愛宕 製造手続(2)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 高雄 赤城 摩耶 愛宕 明治16~22』、JACAR:C11081476000。
- 「愛宕 命名式」『公文備考別輯 完 新艦製造部 高雄 赤城 摩耶 愛宕 明治16~22』、JACAR:C11081476100。
- 『達』
- 「5月」『明治27年 達 下巻』、JACAR:C12070033700。
- 「7月」『明治27年 達 下巻』、JACAR:C12070033900。
- 「11月」『明治28年 達 完』、JACAR:C12070035700。
- 「6月」『明治38年 達 完』、JACAR:C12070053000。
- 「除籍艦艇/軍艦(4)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、JACAR:C14010005800。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 日本郵船株式會社(編)『日本郵船株式會社五十年史』日本郵船、1935年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで』朝雲新聞社
- 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年。ISBN 4-642-07251-9
- 横須賀海軍工廠/編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。
- 『官報』