水交社
水交社(すいこうしゃ)とは、1876年(明治9年)3月21日に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体である。名称の由来は『荘子』の「君子之交淡若水」から採用命名された。総裁は海軍将官の現役皇族、社長は現任海軍大臣の兼務であった。
概要
編集海軍士官専用の旅館や喫茶店なども経営し、会員と施設利用は海軍士官・高等文官・士官候補生などの海軍幹部関係者に限定だった。水交社自体は太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦に伴い、海軍省と共に消滅したが、1952年(昭和27年)に財団法人水交会として復興した。
機関紙「水交社記事」[1]を発行していた。なお水交会編で『回想の日本海軍』(原書房、1985年)が出版されている。
また旧外地の台湾台南市汐見町にかつて水交社の建築物があり(後に眷村になった)、戦後「水交社」が汐見町の代りに地名(zh:水交社 (臺南市))となり現在も使用されている。[2]
所在地
編集水交社本部ビル
編集山本五十六の葬儀は麻布飯倉町の水交社で行なわれた。1943年(昭和18年)6月に行われた山本五十六元帥の国葬の列は、麻布飯倉町2丁目交差点近くの「水交社本部ビル」から出発した。
敗戦後の水交社解散後に、空襲から焼け残り空家となった、大きな白い建物であった「水交社本部ビル」は米軍に接収され、米軍関係者のサロンや宿舎に使用された。後に米軍は日本政府へ、「旧日本海軍の水交社を返還する」と通告した。しかし、「水交社本部ビル」が使われなくなっても返還されず、その代わり、占領軍のフリーメイソンによって占拠され、入り口には「メソニック・ビル」の表示が掲げられた。
1949年(昭和24年)暮れに接収が解除された後、1950年(昭和25年)6月に、国(占領下の日本政府の大蔵省)から、土地、建物とも、最低価格の8千万円で優先的に、「宗教法人東京メソニックロッジ協会」(財団法人東京メソニック協会の前身、現・一般財団法人メイスン財団)に払い下げられ、8月には所有権取得登記が行われた。屋上にコンパスと直角定規の大きなシンボルマークが掲げられた時期もあった。
「メソニック・ビル」には、日本のフリーメイソンの中核となる「日本グランド・ロッジ」(1957年(昭和37年)3月設立)が入居していた。現在の黒くて低層の「東京メソニックビル」(東京メソニックセンター、地上2階 地下2階)は1981年(昭和56年)5月に定礎されて(定礎式が行われた年か竣工年かは不明)建て替えられたものだが、一室には水交社時代の応接室が再現されている。
現在の「東京メソニックビル」内には、日本のフリーメイソンの中枢が集まっており、「日本グランド・ロッジ」の他、いくつかのブルーロッジ、リサーチ・ロッジやアメリカ管轄のロッジも含め、事務所が割当てられており、秘書業務・財務業務が行われている。また、付帯組織である「ヨーク・ライト」(York Rite)や「スコティッシュ・ライト」(Scottish Rite)も事務所を構えている。地上1階はエントランスだけで何もない。地上2Fには「日本グランドロッジ」や「ヨーク・ライト」や「スコティッシュ・ライト」などのオフィスやライブラリがあり、地下1Fには各ロッジのオフィスがある。地下2Fにはブルーロッジやスコティッシュ・ライトホールやダイニングホールやキッチンがある。
この接収を巡っては、1952年(昭和27年)に結成された「水交会」(水交社の後身、大日本帝国海軍・海上自衛隊関係者によるOB団体)が、「国際法違反である」として、資産取り戻し訴訟を起こして、建物の返還を要求した。その後、10年越しの民事裁判が続けられたが、裁判開始から14年後の1966年(昭和41年)に、フリーメイソン側が金1000万円を支払うということで「水交会」側の実質敗訴の形で和解が成立し、水交社跡地はフリーメイソンの物となった。
脚注
編集- ^ 当時の「水交社記事(昭和18年9月25日号)」を、再編・解説した『追悼山本五十六』が、2010年に(新人物文庫:新人物往来社編)刊行されている
- ^ 水交社文化園區計畫 台南市政府
- ^ 江戸明治東京重ね地図 ISBN 978-4-901441-36-0