舜天王統

琉球王国の王統

舜天王統(しゅんてんおうとう)は、舜天を祖とする王統で、1187年淳煕14年)から1259年開慶元年)の間、3代73年にわたり、「琉球国中山王」として王位に就いたとされる。

舜天王統
過去の君主
石碑「源為朝公上陸之趾」北緯26度40分57.6秒 東経128度00分11.6秒
初代 舜天
最終代 義本
称号 琉球国中山王(追封号)
始まり 1187年
終わり 1259年

舜天王統について

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舜天王統は、舜天を祖とする王統の通称名で[1]1187年淳煕14年)から1259年開慶元年)[2]、3代73年続いたとされる[3]。しかし、この王統自体、存在さえ不明であり[1]、実在しない伝説上の王統と考えられる[4]15世紀または16世紀頃、第二尚氏天孫氏、舜天、英祖の子孫であると称するようになって、史記に系譜的に組み立てたものと思われる[5]

舜天王統の各王の名前は、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球人の名前における漢字かな表記とは特殊で、後世になって付けられた(おくりな)ではないかと思われる[6]。『中山世譜』によれば、各王のを、「源(みなもと)」としている[7]。これは、初代・舜天の父とされる「鎮西八郎為朝公」(源為朝)による。『中山世鑑』『おもろさうし』『鎮西琉球記』によると、源為朝は沖縄の地に逃れ、その子が舜天になったとされ、この話が後に曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。大正11年(1922)には源為朝上陸の碑が建てられ、表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の康熙12年(寛文13年(1673))3月の『仕置(しおき)』(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「窃かに惟ふは此国人生初は、日本より渡りたる儀疑い無く御座候。然れば末世の今に、天地・山川・五形・五倫・鳥獣・草木の名に至る迄皆通達せり。然雖も言葉の余り相違は遠国の上久しく通融絶えたる故也」)。

『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き[8]、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたという[9]。しかし、舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられ[10]、首里に遷都したのは、察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と思われる[11]

中山世鑑』によれば、舜天以降、「琉球国中山王」を継承したとしているが、「琉球国中山王」と君主号を自称したのは、朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ、次代の武寧以降から、明より「琉球国中山王」として冊封を受けた[12][13]。しかし、舜天王統が統治していたとされる頃は、小規模のグスクが各地に点在し、沖縄本島全域を支配した人物は存在しなかったとされ[5]浦添を拠点とし、沖縄本島中部地域に影響を及ぼしていたと考えられる[14]

喜舎場一隆は、舜天王統はそれ以前の伝説的王統とは異なり、少なくとも実在した王統の祖であり、舜天は、源為朝が1165年長寛3年)3月に大島を脱出して鬼ヶ島に渡り、沖縄北部の運天港に上陸、豪族大里按司の妹と通じて尊敦(そんとん)を生み、その尊敦が舜天であるが、これは「鬼ヶ島 = 琉球」説から始まり、これらは羽地朝秀(向象賢)の『中山世鑑』に明記されているが、源為朝の伝承は1609年薩摩の琉球侵入以前からすでにあり、袋中の『琉球神道記』、1543年の『かたのはなの碑』、1546年の『漆継御門北之碑』などの碑文記にも明記され、『中山世鑑』を溯ること100年以前にはすでに存在しているため、薩摩の琉球侵入後に「日琉同祖論」を提唱した羽地朝秀の作為と断定することはできない、と述べている[15]。一方、舜天の実在についての疑問は、舜天の活動期がオモロの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の四王統(英祖王統察度王統第一尚氏第二尚氏)の始祖がオモロで聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり、舜天の実在はオモロからすると否定的に考えられるが、1543年の碑文記に「大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ」と明記されている以上、舜天の実在はまったく否定することもできない、と述べている[15]

 石井望は、舜馬(すま)は宮古八重山に遺留する琉球古語の島だとして、順熙は北宋『集韻』にもとづき「すい」だとした。熙は形聲文字の「い」が主流であり、北宋では年號に用ゐられ、福建で「い」音で普及してゐたとする。よって舜馬順煕を「すますい」(島添)とする。舜天の母は大里按司の妹なので、島添大里に該當するとした。これにより舜天王統の實在性が高まることになるが、新説のためまだ正否を評價されてゐない[16]

各王の概説

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舜天王統各王の統治期間
舜天王統
(天孫氏25代目)
1180
1190
1200
1210
1220
1230
1240
1250
1260
1270
 
国王頌徳碑(かたのはなの碑)。沖縄県那覇市に所在。北緯26度13分5.54秒 東経127度43分22.65秒

初代・舜天

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1166年乾道2年)に生誕、琉球に渡った源為朝を父とする出自伝説をもつ[17]1180年淳煕7年)に浦添按司となった[18]。その後、天孫氏の25代目を滅ぼした臣下の利勇を討ち、1187年(淳煕14年)に、琉球国中山王に即位したとされる[13][19]1237年嘉煕元年)に死去し、世子の舜馬順煕が即位した[20]

『中山世鑑』などの琉球の正史は、初代の王を舜天としており[21]、『中山世鑑』成立前の「国王頌徳碑(かたのはなの碑)」などから、王国内で舜天が初代の琉球国王として認識されていたと考えられる[22]

第2代・舜馬順煕

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1185年淳煕12年)に生誕、1238年嘉煕2年)に即位したが[23]、琉球の正史には、彼の事績について、一つも記されていない[5]1248年淳祐8年)に死去、世子である義本が即位した[24]

 石井望は、舜馬(すま)は宮古八重山に遺留する琉球古語の島だとして、順熙は北宋『集韻』にもとづき「すい」だとした。熙は形聲文字の「い」が主流であり、北宋では年號に用ゐられ、福建で「い」音で普及してゐたとする。よって舜馬順煕を「すますい」(島添)とする。舜天の母は大里按司の妹なので、島添大里に該當するとした[25]

第3代(最後)・義本

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1206年開禧2年)に生誕、1249年淳祐9年)に即位した[26]。しかし、治世中に国内に飢饉疫病が流行し、徳の無い自分の代わりに英祖に政治を任せたところ、災厄は収まった[27]1259年[28]開慶元年[29])、英祖に王位を譲ったとされ、これにより、舜天王統は滅び、英祖を祖とする英祖王統が始まったとされる[1]。退位後の義本の消息は不明であるが[28]、沖縄本島や奄美群島各地に彼を葬ったと伝えられるが存在している[30]

 石井望は義本を玉城城百名村の古氏「儀武」として、父の舜馬順熙の熙は北宋『集韻』に見られる形聲文字の主流で「い」音だとして、島添は「すますい」となり、舜天王統の實在性を主張する[31]

陵墓

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ナスの御嶽。北緯26度18分17.96秒 東経127度47分50.66秒

沖縄県中頭郡北中城村の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる御嶽がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)である。さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕を葬ったとされるコンクリート製の墓が存在する。また、義本も葬られているとされ、当御嶽は「義本王の墓」とも呼ばれている[32]

同県南城市字大里の南風原地区に所在する「食栄森(いいむい)御嶽」に、舜天を葬ったとされる墓がある[33]。御嶽の基壇の中央に、頂上に宝珠のついた円筒形の墓があり、周辺住民はこれを「ボーントゥー墓」と呼んでいる[34]。戦前まで、毎年中城御殿の使者も、参拝していたという[35]

義本を葬ったと伝えられる墓は、知られている中で、沖縄本島に8か所(そのうち国頭村に7か所)、そして鹿児島県奄美群島に2か所、計10か所に点在している[30]。その中の一つに、沖縄県国頭郡国頭村の辺戸に、義本を葬ったと伝えられる「辺戸玉陵」という墓がある[36]。これは、明治初期に第二尚氏によって改修させられ、近代的な構造になっている[36]

出典

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  1. ^ a b c 高良倉吉「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、pp.407 - 408
  2. ^ 安里ほか(2004年)、pp.60 - 62
  3. ^ 池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.337
  4. ^ 安里(2006年)、p.4
  5. ^ a b c 池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.338
  6. ^ 安里ほか(2004年)、p.63
  7. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、pp.53, 56 - 57
  8. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.39
  9. ^ 安里(2006年)、p.2
  10. ^ 知念勇「浦添グスク」、『浦添市史』(1989年)、pp.225 - 227
  11. ^ 安里(2006年)、pp.2 - 4
  12. ^ 「注釈1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.10
  13. ^ a b 「注釈1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12
  14. ^ 高良倉吉「浦添王統」、『浦添市史』(1989年)、p.223
  15. ^ a b 森克己田中健夫岩生成一 編『海外交渉史の視点』日本書籍〈第1巻 原始・古代・中世〉、1975年10月、293頁。 
  16. ^ 八重山日報令和六年八月十一日、日曜談話連載「小チャイナと大世界」第二百三十四囘。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240811.html 
  17. ^ 高良倉吉「舜天」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.407
  18. ^ 池宮正治「舜天」、『浦添市史』(1989年)、p.336
  19. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.55
  20. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.54
  21. ^ 安里ほか(2004年)、p.60
  22. ^ 「注釈3」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12
  23. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.56
  24. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.56
  25. ^ 八重山日報令和六年八月十一日、日曜談話連載「小チャイナと大世界」第二百三十四囘。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240811.html 
  26. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.57
  27. ^ 安里ほか(2004年)、p.61
  28. ^ a b 高良倉吉「義本」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.862
  29. ^ 安里ほか(2004年)、p.62
  30. ^ a b 井上(1985年)、p.25
  31. ^ 八重山日報令和六年八月十一日、日曜談話連載「小チャイナと大世界」第二百三十四囘。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0240811.html 
  32. ^ 「仲順の文化財 ナスの御嶽」、『北中城村の文化財』(1990年)、p.11
  33. ^ 『食榮森』(2010年)、p.67, 87
  34. ^ 『食榮森』(2010年)、p. 87
  35. ^ 『食榮森』(2010年)、pp. 87 - 88
  36. ^ a b 国頭村役場編(1967年)、pp.52 - 53

参考文献

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  • 安里進 『琉球の王権とグスク』 山川出版社〈日本史リブレット 42〉、2006年12月20日。ISBN 4-634-54420-2
  • 安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日。ISBN 4-634-32470-9
  • 井上秀雄「舜天王統滅亡の考察 - 英祖王への禅譲説に対する疑問 -」、沖縄女子短期大学紀要編集委員会編 『沖縄女子短期大学紀要 第4号』 pp.21 - 30、沖縄女子短期大学、1985年3月。
  • 浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第一巻 通史編 浦添のあゆみ浦添市教育委員会、1989年3月29日。
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典沖縄タイムス社、1983年5月30日。全国書誌番号:84009086
  • 北中城村教育委員会社会教育課編 『北中城村の文化財 北中城村文化財調査報告書第1集』 北中城村教育委員会、1990年3月。
  • 国頭村役場編 『国頭村史』 国頭村役場、1967年3月31日(1983年3月1日二刷)。
  • 首里王府(羽地朝秀 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』 榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
  • 蔡鐸著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』 榕樹書林〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
  • 南風原地区集落地域整備事業推進委員会編 『食榮森 南風原地区集落地域整備統合事業完了記念誌南城市南風原区自治会、2010年9月30日。
  • 森克己田中健夫岩生成一 編『海外交渉史の視点』日本書籍〈第1巻 原始・古代・中世〉、1975年10月。 全国書誌番号:73015046

関連項目

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外部リンク

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