利勇
史記における経歴
編集『中山世鑑』によると、利勇は天孫氏25代のとき、幼少期より取り立てられて寵愛され、壮年になると国の政治を任され権威をほしいままにしたという[1]。それが高じて、主君から王位を奪うという野心が芽生え、ある日、主君に薬と偽った毒入りの酒を飲ませて殺害し、自ら中山王と称した[2]。この時、浦添按司の尊敦(後の舜天)は、この出来事を知り、義兵を起こし利勇のところへ向かった[3]。尊敦率いる軍の奇襲により、城内の兵士は慌てふためき、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、中には降参する者もいた[3]。利勇は戦う姿勢を見せたが、尊敦の軍勢を抑えることができず、妻子を刺し殺し、自らの腹を切り絶命した[4]。そして、尊敦は民衆からの推薦により、王となり、舜天王統を築いたとされる[5][6]。
『中山世譜』によれば、琉球最初の王統とされる天孫氏は、丙午の年に25代まで続いたと記している[7][8]。東恩納寛惇は、その「丙午」の年は舜天が即位した1187年(淳煕14年)の前年にあたるとし、すなわち1186年(淳煕13年)を天孫氏が滅亡した年としたかと述べている[9]。
『椿説弓張月』にみる利勇
編集『椿説弓張月』に登場する「利勇」という人物は、琉球の国相・「利射(りしゃ)」の甥で[12]、琉球国天孫氏25代の王「尚寧王」から政権を奪った[13]。彼は、そのいとこで「尚寧王」の妃・「中婦君(ちゅうふきみ)」と共に国政を執ったが[14]、「曚雲(もううん)」という妖僧に「尚寧王」と「中婦君」は殺害され[15]、「利勇」は南風原へ逃亡、「陶松寿(とうまつじゅ)」を軍師にして「曚雲」討伐の機会をうかがっていた[12]。しかし、「陶松寿」と琉球に渡った「為朝」らは、殺された「毛国鼎(もうこくてい)」の子供である「鶴・亀」兄弟に父の敵として、「利勇」を討たせた[16]。
曲亭馬琴作の『椿説弓張月』は、特に、1765年(明和2年)に出版された徐葆光著『中山伝信録』の和刻本と、それを読みやすく抜き出して書き直した森島中良の『琉球談』(1790年〔寛政2年〕)の2つから、登場人物のモデルを多く採用している[17]。前述した『椿説弓張月』に登場する「利勇」は、天孫氏25代を滅亡させた利勇がモデルであるが、作中における最大の敵は彼ではなく、馬琴が作り上げた「曚雲」である[18]。琉球の血を排除した「舜天丸(すてまる)」が王位に就き、また、為朝が「曚雲」を倒した後に「帰郷(作中では霊に迎えられ雲の中へ消失)」するという『中山世鑑』と異なる設定をしているのは、『椿説弓張月』が大和による琉球征服を主題にしているからである[19]。
出典
編集- ^ a b 嘉手納宗徳「利勇」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.846
- ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.52
- ^ a b 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.53
- ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.53 - 54
- ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.55
- ^ 高良倉吉「舜天」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.407
- ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.20
- ^ 小島瓔禮(「禮」は実際には、しめすへん「ネ」に「豊」)「天孫氏」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.865
- ^ 「注釈 1」、『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.22
- ^ 平岩(1981年)、p.133
- ^ 平岩(1981年)、p.187
- ^ a b 椿説弓張月主要人物小事典「利勇」、平岩(1981年)、p.185
- ^ 椿説弓張月主要人物小事典「尚寧王」、平岩(1981年)、p.184
- ^ 椿説弓張月主要人物小事典「中婦君」、平岩(1981年)、p.185
- ^ 椿説弓張月主要人物小事典「曚雲」、平岩(1981年)、p.185
- ^ 平岩(1981年)、p.135
- ^ 島村(2015年)、p.392
- ^ 島村(2015年)、p.393
- ^ 島村(2015年)、pp.398 - 399
参考文献
編集- 沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社、1983年5月30日。全国書誌番号:84009086
- 蔡鐸著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』 榕樹書林〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
- 島村幸一 『琉球文学の歴史叙述』 勉誠出版、2015年7月6日。ISBN 978-4-585-29098-8
- 首里王府(羽地朝秀 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』 榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
- 平岩弓枝 『椿説弓張月』 学研〈現代語訳 日本の古典20〉、1981年4月20日。