益田喜頓

日本の俳優、コメディアン

益田 喜頓(ますだ きいとん、本名:木村 一、1909年明治42年〉9月11日 - 1993年平成5年〉12月1日)は、日本俳優昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。

ますだ きいとん
益田 喜頓
益田 喜頓
1959年
本名 木村 一
生年月日 (1909-09-11) 1909年9月11日
没年月日 (1993-12-01) 1993年12月1日(84歳没)
出生地 北海道函館市
死没地 北海道函館市
職業 俳優コメディアン
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1931年 - 1993年
活動内容あきれたぼういず」メンバー(1936年 - 1939年
主な作品
映画
歌ふ狸御殿
テレビドラマ
高原へいらっしゃい
マー姉ちゃん
受賞
毎日芸術賞(1963年)
紫綬褒章(1977年秋)
勲四等旭日小綬章(1984年春)
函館市栄誉賞(1990年)
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来歴・人物

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1909年(明治42年)9月11日北海道庁函館区青柳町(現在の北海道函館市青柳町)に、会津藩の武家上がり(戦さに敗れ、新潟から船で函館へ逃れてきた[1])の家に生れる。当時 木村家は土木請負業を経営し、石山も2ヵ所あった。又七飯村には杉林で囲まれた何万坪もある別荘を持ち、年間の半分はこの別荘で過ごした。裕福な家で育つが、7歳の時祖父が亡くなり、父親の代で事業は失敗[1]。父親が「アメリカで一旗あげる」と言って、祖母、母、そして5人の兄弟(後に末の妹ができる)を残し蒸発[1]。一家は谷地頭の長屋のような小さな家へ移転。貧しい生活状態が続いた。その頃から喜劇映画が好きで、特にバスター・キートン(大ファンであったため、仲間からもキートンのあだ名で呼ばれていた[2])、チャップリン、ペン・タービン、ハリー・ラングドン、ロイド[1]らが主役を演じるアメリカの短編喜劇の無声映画を好んで観ていた。

1923年(大正12年)、北海道庁立函館商業学校(旧制、現在の北海道函館商業高等学校)に入学する。トルストイを愛読し、小説家を志す一方、野球部に入り頭角を現し、三塁手として活躍し、北海中学校(旧制、現在の北海高等学校)に引き抜かれる。卒業後、「函館太洋倶楽部」に入り野球を続けるが、鈍足のため野球の道をあきらめる[1](当時の久慈次郎主将から当時設立したばかりのプロ野球に誘われている)。

1930年(昭和5年)、小樽五十嵐財閥経営の貿易会社に入社し、同系列資本の札幌の「赤い風車レビュー団」を手伝っていたが[1]、翌年解散したので上京し、吉本興業東京吉本)に入社し、「花月劇場」でショーに出演する。

1936年(昭和11年)、川田義雄芝利英坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成し[1]クラシックジャズから流行歌まで様々な替え歌やナンセンスギャグパロディなどで一世を風靡する。なお、芝利英(坊屋三郎の弟)とは中学の同級生。「あきれたぼういず」での益田の得意技はヨーデルであった。

1939年、一旦は新興キネマ演芸部の引き抜きに応じ同社に移籍するが、結局新興との契約を破棄し、「あきれたぼういず」を脱退する。第二次世界大戦中の1942年に、木村恵吾監督の『歌う狸御殿』に出演し、キートンばりの演技を披露した。「益田喜頓一座」を旗揚げするが大阪で連合国軍機の空襲にあい解散する。

 
あきれたぼういず時代(1950年・上)

戦後、1946年(昭和21年)に、坊屋三郎、山茶花究と「あきれたぼういず」を再結成するが、1951年に解散。その後、映画を中心に活躍する。

1957年(昭和32年)に、東宝演劇部に入り、ミュージカルにも積極的に出演し、特に『マイ・フェア・レディ』(1963年)のピカリング大佐役が知られる。また、『屋根の上のヴァイオリン弾き』は、1967年の初演以来907公演に司祭役で出演し、代表作となった。

1990年(平成2年)には半世紀以上住んでいた台東区西浅草を離れ、函館へ「永住帰郷」した。

その後も舞台やテレビで活躍したものの、1993年(平成5年)12月1日大腸癌のため、函館の病院で死去[3]。84歳没。墓所は函館市実行寺浅草寺境内の「喜劇人の碑」にその名を残す(2001年)。

筆まめで知られ、エッセイ集や短編小説集などといった著作も数多くある。おなじ浅草の喜劇人キドシンこと木戸新太郎は同郷・同窓で函館商業学校の7つ後輩に当たる。また夫人は同じ東京吉本所属の女優で、戦前の「吉本ショウ」の舞台で人気を博したミス花月。

主な出演

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映画

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ドラマ

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第69話「宝島は太陽の下に」

アニメ

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舞台

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  • 放浪記(1961年・1971年) - 白坂五郎 役

出演CM

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その他

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受賞歴

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音楽

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シングル

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発売日 規格 規格品番 タイトル 歌手
キングレコード
1960年 EP EB-384 A 心に太陽持っている 益田喜頓
B あの娘は胸に 春日八郎
東芝レコード
1960年 EP TR-1133 A 娘よ 益田喜頓
B 息子よ 益田喜頓
東宝レコード
1970年10月 EP AS-1015 A 喜頓のララバイ 益田喜頓
B 旅路の果て 益田喜頓
東芝レコード
1976年 EP TC-3040 A なぜ? 益田喜頓・水森亜土
B リップル・マリンを知ってるかい? 水森亜土
トーラスレコード
1988年7月23日 EP 07TR-1190 A さらば友よ-最後の握手- 野口五郎 & 益田喜頓
B ふたつのカーネーション 野口五郎 & 益田喜頓

アルバム

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発売日 規格 規格品番 タイトル
日本ウインザー
1968年12月 LP ALW-003 喜劇王益田喜頓のすべて ALL ABOUT MASUDA KIITON
1971年 LP AW-0014 おやじのサンバ
キングレコード
1974年5月 LP SAW-89-90 ムーラン・ルージュの灯は消えず 戦前篇
2008年6月4日 CD KICS8162-63
東芝レコード
1975年4月5日 LP TP-60033 喜頓の青い鳥はどこ 古いノート

著書

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 益田 喜頓〜函館ゆかりの人物伝 - 函館市文化・スポーツ振興財団2021年10月22日閲覧。
  2. ^ 「昭和ヒーロー事典 芸能編」講談社文庫、1989年7月15日発行、106-107頁。
  3. ^ 「故郷喪失のサラリーマンたちよ函館に凱旋した益田喜頓さんに学べ / E.T」『Decide = 決断 : business world & Chinese survey : magazine for decisionmakers』第11巻第10号、サバイバル出版、1994年1月1日、83頁、NDLJP:2863762/42 

外部リンク

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