山茶花究

1914-1971, 俳優、芸人。

山茶花 究(さざんか きゅう、本名:末広峰夫(すえひろ みねお)、1914年4月1日 - 1971年3月4日)は、日本俳優芸人

さざんか きゅう
山茶花 究
山茶花 究
あきれたぼういず時代(1950年・中央)
本名 末広 峰夫(すえひろ みねお)
別名義 加川 久(かがわ ひさし)
生年月日 (1914-04-01) 1914年4月1日
没年月日 (1971-03-04) 1971年3月4日(56歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府大阪市東区船場(現・中央区船場)
職業 俳優芸人
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1932年 - 1970年
主な作品
夫婦善哉
用心棒
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人物と生涯

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大阪府大阪市出身。生家は船場でも指折りの米問屋だったが、米騒動のあおりを受けて倒れる。兵庫県立神戸工業学校の建築科に入り、建築会社への就職が決まっていたが、実兄が東京で画家の修行をしていたことから、自らも画家の道が捨てきれず、卒業試験をすっぽかして単身東京へ行く。この頃、社会主義思想に傾倒し、特高にも目をつけられ、尾行を巻いているうちに浅草のレビュー小屋に潜り込んで、そのまま文芸部員としてレビューの台本を書いたり、また歌手として舞台で歌ったりして生計を立てるようになる。

1932年11月にカジノ・フォーリーで歌手としてデビュー。1933年1月に浅草オペラ館の俳優となる。その後エノケン劇団、万盛座のグラン・テッカール、「吉本ショウ」などを転々とする[1]。当時は笠井峰と名乗っていた。のち大阪に戻り、いくつかの舞台に立つが、芽が出ずに俳優を辞めて朝鮮に行き、実業につく。1937年8月、東宝ロッパ一座に入り役者に復帰。このとき一緒に入ってきた森繁久彌と出会う。ここで芸名加川久と名乗る。

1939年3月、当時ヴォードヴィルグループ「あきれたぼういず」が絶大な人気を得ていたが、リーダーの川田義雄を残して、坊屋三郎益田喜頓芝利英の3人が吉本興業から松竹系の新興キネマ演芸部に引き抜かれた。このとき、川田の代役として加川久が選ばれ、山茶花究と芸名を変更してグループに参加し、第2次あきれたぼういずが結成される。1943年に解散、森川信新青年座に副座長で入り、1944年に山茶花究劇団を組織して巡業するが、戦況の悪化により解散する。その後、水の江滝子主催の劇団たんぽぽに加わり、終戦を迎える。

敗戦直後の1945年10月に再び劇団を立ち上げるが、すぐに解散。1946年に坊屋三郎、益田喜頓と「あきれたぼういず」を再結成。1952年に解散後は、喜劇役者として舞台や映画で活躍。ラジオのジャズ番組の司会などをしていたところ、森繁久彌から誘われて映画『夫婦善哉』にふちなし眼鏡をかけたインテリの番頭役で出演、冷酷で神経質なキャラクターを嫌味たっぷりに演じ、性格俳優として飛躍。

社長シリーズ』『駅前シリーズ』などの喜劇映画に多数出演する一方、黒澤明川島雄三作品の常連俳優でもあった。エラの張ったギョロ目の風貌で、高利貸しやヤクザの親分など嫌味かつ個性的な役どころなど天下一品の味わいを出し、悪役も善玉もこなす性格俳優として、日本映画黄金期に140作品以上の作品に出演した。1961年に『女は二度生まれる』の演技でNHK助演男優賞を受賞。

また舞台でも活躍し、森繁劇団では番頭格として三木のり平と共に森繁の片腕として動く。喜劇畑出身の俳優だったが、実際は左翼思想に傾倒していただけに新劇志向だったという。1970年5月、森繁劇団の明治座公演で倒れ、酸素マスクをつけてまで舞台に立ったが、気管支拡張症で入院。肺結核糖尿病に苦しみ、死の床に見舞いに来た森繁久弥に「繁ちゃん、いっしょに逝こう」という言葉を残し、翌1971年3月4日午前6時16分に心不全で息を引き取った。

芸名は、九九の「さざんがきゅう(3×3=9)」に由来する[2][信頼性要検証]。またいつもサインを求められると、「非情」とそえていた。

出演作品

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映画

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太字の題名キネマ旬報ベストテンにランクインした作品

テレビドラマ

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舞台

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関連人物

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脚注

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  1. ^ 矢野誠一『さらば、愛しき芸人たち』文藝春秋文春文庫〉、1989年、152頁。ISBN 4-16-746002-5 
  2. ^ 児玉清著、集英社「負けるのは美しく」より。

外部リンク

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