日本浪曲協会
日本の浪曲師団体
一般社団法人日本浪曲協会(いっぱんしゃだんほうじんにほんろうきょくきょうかい)は、東京で活動する浪曲を演じる者(浪曲師ならびに曲師)が加盟する協会。略称は「浪協」または「日浪協」。
概要
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古くは明治の東京浪花節組合結成に始まる。
毎月、1~7日には木馬亭で定席を、毎週火曜日夜には協会大広間で「浪曲火曜亭」という茶話会付きの会[注釈 1]を開いているほか、毎年10月には浅草公会堂で浪曲大会を主催しており、併せて看板披露も行われることも多い[注釈 2]。毎年5月上旬には国立演芸場で大演芸まつりに参加、企画公演する。
過去には浅草国際劇場、銀座歌舞伎座[注釈 3]で浪曲大会を主催していた。
また、将来の深刻な曲師不足を解消するために、協会主催で開いている「浪曲三味線教室」の初回受講者から、玉川美穂子(後に浪曲師に転向し玉川奈々福)、佐藤貴美江、伊丹明と三人の現役が残り、核となっている。
現在、他の落語家団体との正式な提携はないが、玉川太福の落語芸術協会の加入を契機に、太福門下の弟子2名(落語芸術協会では前座)に加え、奈々福、三代目広沢菊春、国本はる乃と相次いで落語芸術協会に加入し、都内の落語定席への出演機会も増加しつつある。
所在地
編集沿革・歴史
編集- 明治初年代 - 東京浪花節組合が結成される。
- 明治30年代 - 神田組と浅草組の対立が始まる。
- 1926年(大正15年) - 松竹の向山庄太郎が一本化を図って「東京浪曲協会」として統一し、東西の大看板が集まる浪曲大会を年2回開催する(1938年(昭和13年)に日本浪曲協会へ改名)。
- 1939年(昭和14年) - 協会の運営に反旗を翻した寿々木米若、二代目玉川勝太郎、初代木村友衛、(大阪の梅中軒鶯童)など若手の人気浪曲師が中心となって「浪曲総和会」を結成する。
- 1940年(昭和15年)5月29日 - 「日本浪曲協会」に改組する(現在の協会はこれを創始としている)[2]。
- 太平洋戦争中に関西の浪曲親友協会、九州の興浪会と戦時統合して「日本浪曲会」が発足した際は、その本部と東京支部となる。戦後、再び日本浪曲協会を結成。
- 1945年(昭和20年) - 敗戦とともに旧に復し、再び「日本浪曲協会」になる。
- 1963年(昭和36年)9月27日 - 東京浅草田原町に自前の建物、浪曲協会会館が竣工する。
- 1968年(昭和43年) - 三門博会長の事務系排除の運営方針に反対した初代東家浦太郎はじめ有力浪曲師が、協会内に「浪曲百扇会」を結成して大会も別に開くなど内部分裂を起こす(この時期は同時に別会場で大会が2つ行われた)。
- 1970年(昭和45年) - 寿々木米若が会長に復帰し、百扇会組も協会に合流したことで再び一本化する。
- 1970年(昭和36年) - 浪曲定席の木馬亭が開場し、日本浪曲協会と木馬亭(根岸興行部)の共催の形をとる。
- 2012年(平成24年) - 補助金を不正受給していたことが発覚し、文化庁より5年間の補助金支給を停止される[3]。
- 2013年(平成25年)11月22日 - 任意団体から一般社団法人に移行する。
歴代会長
編集- 初代木村友衛(在任期間:(1942年(昭和13年)2月[4]-1945年)
- 東家楽燕(1946年-1947年。1期2年と決める[4])
- 木村友衛(1948年ー1949年)再任
- 初代春日井梅鶯(1950年[注釈 4]ー1951年)
- 寿々木米若(1952年ー1953年[注釈 5])
- 2代目広沢虎造(1954年-1955年)
- 2代目玉川勝太郎(1956年[注釈 6]-1957年)
- 木村若衛(1958年[注釈 7]-1959年)
- 寿々木米若(1960年-1963年)再任。2期
- 初代東家浦太郎(1966年-1967年)
- 三門博(1968年[5]ー1970年)百扇会分裂時代
- 寿々木米若(1970年ー1973年)昭和45年ー48年。百扇会復帰[6]再再任。2期
- 初代東家浦太郎(1974年ー1979年)昭和49ー54年、3期
- 木村若衛(1980年-1981年)再任
- 初代東家浦太郎(1982年-1985年)再任。2期
- 4代目天中軒雲月(1986年-1989年)昭和61から平成元年[7]。2期
- 3代目広沢虎造(1990年-1991年)
- 五月一朗(1992年-1993年)
- 3代目玉川勝太郎(1994年-1995年)
- 4代目東家三楽(1996年-2001年)平成8年ー13年[7]。3期
- 2代目東家浦太郎(2002年-2003年)
- 2代目春日井梅鶯(2004年-2005年)
- 4代目東家三楽(2006年-2007年)再任
- 澤孝子(2008年-2013年)平成20年から。3期
- 富士路子改め5代目東家三楽(2014年-2024年)
- 五代目天中軒雲月(2024年4月 - )
役員
編集2024年4月改選[8]
- 会長
- 副会長
- 理事
所属会員
編集(亭号別)※印は落語芸術協会にも加入の浪曲師。
浪曲師
編集- 葵わか葉
- 東家若燕改め4代目港家小柳丸
- (故二代目東家浦太郎門下)
- (天津妃祥)
- (大利根勝子)[注釈 8]
- 鳳舞衣子
- (鹿島秀若)
- (春日井梅光門下)
- 木村勝千代
- (故国本晴美門下)
- さがみ三太
- (故澤孝子門下)
- イエス玉川(故玉川勝太郎門下)
- (故玉川福太郎門下)
- 五代目天中軒雲月
- 浜乃一舟(曲師・伊丹秀敏の浪曲師名)
- (富士琴路門下)
- 二葉百合歌
- 真山隼人
- 三門柳
- 三門綾
- (故港家小柳門下)
曲師
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 貴重な若手の出番となっている。
- ^ 国際劇場で1978年から年2回、初年度のみ台東区社協主催、翌1979年から日浪協主催となった[1]。なお、新型コロナウイルス感染症流行のため、2020年は中止となり、2021年は江戸東京博物館大ホールで開催。2022年は浅草公会堂に戻ったが、2023年は日本橋公会堂(日本橋会館)での開催となった。
- ^ 歌舞伎座は第4期の建物。
- ^ 2月改選され、副会長に選ばれた三門博が巡業多忙を理由に辞任。代わりに玉川勝太郎。三門は戦後浪曲の民主化に意欲を燃やし、新しい構想を練っていた。三門の辞任はその旗揚げの矢先だったためと言われる。原典:東京新聞 三門はあれが浪曲か?と、とにかく異端視されながら「唄入り観音経」で天下を取った三門らしい。唯p.200
- ^ 「1951年以降民間のラジオ放送局が次々と開局していく。翌年、米若は日本浪曲協会会長に就任する(合計五期一〇年。)『浪花節』p.217
- ^ 1月末、浪曲協会役員が改選された。表33。唯1999p.264
- ^ 昭和33年1月、日本浪曲協会は総会を開き、三十三、四年度の役員改選を行った。玉川勝太郎に代わり新会長に木村若衛、副会長に松平国十郎天中軒雲月が選ばれる。これまでの戦後の会長は楽燕、友衛、梅鶯、米若、虎造、勝太郎と、戦前からの大家の持ちまわりだった唯1999p.277
- ^ 2023年2月、浪曲師を引退した。
- ^ 2023年5月7日の浪曲定席木馬亭公演をもって、浪曲師を引退した[10]。
出典
編集参考文献
編集- 唯二郎『実録浪曲史』東峰書房、1999年06月。9784885920485
- 正岡容 大西信行編『定本日本浪曲史』2009年 p.287-288に「十一 日本浪曲協会の会長」
- 真鍋昌賢『浪花節―流動する語り芸―』2017年p.217
関連項目
編集外部リンク
編集- 一般社団法人 日本浪曲協会
- 一般社団法人 日本浪曲協会 (@RokyokukyokaiJP) - X(旧Twitter)
- 「世界に響け!日本の魂!」一般社団法人 日本浪曲協会【公式】 - YouTubeチャンネル
座標: 北緯35度42分37.737秒 東経139度47分34.851秒 / 北緯35.71048250度 東経139.79301417度