伊野波雅彦
伊野波 雅彦(いのは まさひこ、1985年8月28日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック、サイドバック)、ミッドフィールダー(ボランチ)。元日本代表。
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名前 | ||||||
愛称 | イノ[1] | |||||
カタカナ | イノハ マサヒコ | |||||
ラテン文字 | INOHA Masahiko | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1985年8月28日(39歳) | |||||
出身地 | 宮崎県宮崎市 | |||||
身長 | 179cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF[2] / MF[3] | |||||
利き足 | 右足[3][4] | |||||
ユース | ||||||
2001-2003 | 鹿児島実業高校 | |||||
2004-2005 | 阪南大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2006-2007 | FC東京 | 48 | (1) | |||
2008-2011 | 鹿島アントラーズ | 89 | (2) | |||
2011-2012 | ハイドゥク・スプリト | 15 | (1) | |||
2012 | ヴィッセル神戸 | 29 | (0) | |||
2013-2015 | ジュビロ磐田 | 82 | (3) | |||
2016-2018 | ヴィッセル神戸 | 52 | (0) | |||
2019-2021 | 横浜FC | 66 | (0) | |||
2022 | 南葛SC | 1 | (0) | |||
通算 | 382 | (7) | ||||
代表歴2 | ||||||
2005 | 日本 U-20 | 0 | (0) | |||
2006-2008 | 日本 U-21/22/23 | |||||
2011-2014[5] | 日本 | 21 | (1) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2022年11月16日現在。 2. 2014年5月27日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集プロ入り以前
編集実家は豆腐屋[6][4]。幼少時は水泳や器械体操を習っていたが[7][8] 9歳の時に全てを辞め[8]、サッカーを始める[1][7]。生目台中学では同期の上田常幸と共に宮崎県選抜に選ばれていた[8]。この頃、同郷の増田誓志を伴いブラジル・リオデジャネイロに2度の短期留学を経験[7][9]。また、当時から鹿島アントラーズのファンで、鹿島ユース入りを図って直談判を申し出たが、遠方のクラブに入る負担などを理由に断られた。スカウト担当の平野勝哉は当時の伊野波について「まだ小柄でどんなタイプの選手かも分からなかった」と述懐している[10]。鹿島がキャンプで伊野波の地元である宮崎を訪れた際には練習を見学に行き、小笠原満男と一緒に写真を撮っている。
2001年、鹿児島実業高等学校に進学。高校卒業後のJリーグ入りを目指して数チームに練習参加するが叶わず[8][9]、2004年に阪南大学に進学。1年生の時にユニバーシアード候補に選出されて名を上げると、負傷した吉弘充志の代役として[11]大熊清率いるU-20日本代表に抜擢され[8]、2005年のワールドユースにも参加。しかし、本大会では出場機会を得られず、この悔しさと[9][12]、元々大学で4年間を過ごすつもりも無かったことから[8]大学を休学してのプロ入りを決断[13]。
FC東京
編集J1の6クラブからオファーを受け[1]、特に鹿島では既にプロ入りしていた増田からも誘いを受けていたが、増田との対戦を希望し[9]、2006年1月にFC東京への加入が発表された[14]。当時の監督であったガーロは開幕戦から新人の伊野波をスタメンに抜擢しボランチで起用。相手キーマンへのマンマークを担った[12][1]。その後も故障者の多かった守備陣の穴を埋める形で、SBやボランチ、CBと複数のポジションで出番を与えられた[3][1]。第19節アビスパ福岡戦ではヘディングでプロ初得点を決めた[15]。
2007年はポジションをSBに絞って臨むことを宣言していたが[16]、4月に出場機会を失うと[17] ボランチへの転向を志願[18]。しかし、シーズン中盤以降今野泰幸がボランチに復帰[19] してからは再び控えに戻った[20]。
鹿島アントラーズ
編集2008年、鹿島アントラーズに完全移籍[21][22]。同年開催の北京オリンピック代表メンバー入りに向け、シーズン通してレギュラーでプレーすることを目標としていたが[23]、序盤はバックアッパーに甘んじ、オリンピック出場を逃した。シーズン終盤にかけてCBの定位置を奪取。リーグ優勝に貢献し、プロ入り後初のタイトルを獲得した。
2010年序盤はDF李正秀の加入により出場機会が激減するも[注 1]、同年7月に李が退団して以降はレギュラーに復帰した。
2011年はリーグ戦とACLが併行していた序盤こそ先発出場を続けていたが[25][26]、ACL敗退後は中田浩二がCBに配されたことで[26] 出場機会を減らし[25]、「日本代表で結果を残すため」シーズン途中で退団した[27]。
ハイドゥク・スプリト
編集2011年7月、クロアチア1部プルヴァHNLのハイドゥク・スプリトへ完全移籍[27][28]。クロアチアを足掛かりに上位リーグへの移籍を目指していたが[29]、給与未払いを理由に2012年1月に退団した[30]。
ヴィッセル神戸
編集2012年2月、ヴィッセル神戸へ完全移籍[31]。序盤は主にボランチで起用されたが、その後ポジションをCBへ移した。J2降格を喫し、1年で退団した。
ジュビロ磐田
編集2013年、ジュビロ磐田へ完全移籍[32][2]。開幕から3バックの一角を務めたが[33]、チームのサッカーに順応できず、代表活動の負担も重なりチームはJ1第31節鳥栖戦の敗北より降格。神戸在籍時に続く2年連続のJ2降格となってしまった。2014年はディフェンスリーダーとして奮戦するも[4]、好不調の波が激しく安定感を欠き[34] J1復帰を逃した。
2015年は左長母指屈筋の負傷を抱えながらも[35][36]、守備の要として32試合に出場[37]。同年11月23日のJ1昇格が懸かったJ2最終節大分戦では、シーズン初得点となる先制ゴールを決めて同月12日に亡くなった監督・名波浩の父を思いユニホームの袖下から喪章を外し、スタンドへ掲げた[38]。この得点もあってJ1復帰を果たしたが、自身の高年俸やクラブの若手登用の方針から[39][35] 磐田との契約を満了[40]。翌年の神戸加入時には、磐田側から戦力外通告を受けた旨を明かした[41][42]。
ヴィッセル神戸復帰
編集タイなどへの海外移籍[43] や引退を含め進路を模索したが[42]、古巣ヴィッセル神戸ではJ2降格を喫し何も成し遂げられなかった、やり残したことがあるとして[44]、2016年2月に同クラブへ完全移籍[41]。4年ぶりの復帰となった[44]。同年はセンターバックのレギュラーとして出場を続けたが、クエンテン・マルティノス(横浜FM)と共にリーグ最多タイの警告処分を受けた[45]。
2018年シーズンは、なかなか試合に絡む事は出来なかったが、10月にフアン・マヌエル・リージョが監督に就任するとボランチとしてレギュラーを奪う。レギュラーを奪うきっかけとなった第31節の名古屋グランパス戦では、リージョが試合後のインタビューで「伊野波はチームに熱を加えてくれた」と伊野波を称賛している[46]。しかし、チームの新シーズンの始動日である[47] 2019年1月17日に契約満了によりヴィッセル神戸を退団する事が発表された[48]。
横浜FC
編集2019年2月18日、横浜FCへ移籍する事が発表された[49]。2月に入団した事もあり、クラブのキャンプに参加することができず、難しいコンデション調整を強いられたが、3月16日に行われたJ2第4節・アルビレックス新潟戦で移籍後初出場[50]。新潟戦以降はレギュラーとして出場し、横浜FCのJ1昇格に貢献した。2021年12月30日、契約満了が発表された[51]。
南葛SC
編集2022年3月1日、南葛SCに加入したと発表があった[52]。12月19日、現役引退を発表した[53]。
日本代表
編集2006年8月31日、イビチャ・オシムが指揮するAFCアジアカップ2007予選大会の日本代表メンバーに選出された[54](試合出場なし)。2007年のアジアカップにも直前で播戸竜二が負傷離脱したため[55] A代表に緊急招集された[56]。また、U-22代表では北京五輪アジア二次予選までキャプテンを務め[注 2]、3バックの中央でDFラインを統率した[1][9]。
2010年、アルベルト・ザッケローニの初采配となるアルゼンチンとのキリンチャレンジカップおよび韓国との国際親善試合の日本代表メンバーに選出。 2011年のアジアカップでサウジアラビア戦に後半から内田篤人と交代で日本代表初出場を果たし、直後に前田遼一へのアシストを決めた。内田の出場停止により初の先発出場となった準々決勝のカタール戦ではオフサイドをかけ損なって失点につなげるなど[58] 終始低調なパフォーマンスだったが終盤に値千金の決勝点を決めた。
2014年5月12日、2014 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出された。所属するジュビロ磐田は2013年にJ2に降格しているため、J2クラブ所属でワールドカップ日本代表に選出された史上3人目の選手となった[注 3]。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。
人物・エピソード
編集所属クラブ
編集- 宮崎東サッカースポーツ少年団[8](宮崎市立東大宮小学校)[9]
- 1998年 - 2000年 宮崎市立生目台中学校[8][9]
- 2001年 - 2003年 鹿児島実業高等学校
- 2004年 - 2005年 阪南大学 (休学してプロ入り、後に退学)
- 2006年 - 2007年 FC東京
- 2008年 - 2011年7月 鹿島アントラーズ
- 2011年7月 - 2012年1月 ハイドゥク・スプリト
- 2012年 ヴィッセル神戸
- 2013年 - 2015年 ジュビロ磐田
- 2016年 - 2018年 ヴィッセル神戸
- 2019年 - 2021年 横浜FC
- 2022年 南葛SC
個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2006 | FC東京 | 19 | J1 | 28 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 35 | 1 |
2007 | 20 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 24 | 0 | |||
2008 | 鹿島 | 23 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 26 | 0 | ||
2009 | 30 | 1 | 2 | 0 | 4 | 0 | 36 | 1 | |||
2010 | 26 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | 33 | 0 | |||
2011 | 10 | 1 | - | - | 10 | 1 | |||||
クロアチア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2011-12 | ハイドゥク | 19 | 1.HNL | 15 | 1 | 3 | 0 | - | 18 | 1 | |
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2012 | 神戸 | 19 | J1 | 29 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 30 | 0 |
2013 | 磐田 | 25 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 29 | 1 | ||
2014 | J2 | 25 | 1 | - | 1 | 0 | 26 | 1 | |||
2015 | 32 | 1 | - | 0 | 0 | 32 | 1 | ||||
2016 | 神戸 | 39 | J1 | 27 | 0 | 6 | 0 | 1 | 0 | 34 | 0 |
2017 | 15 | 0 | 5 | 0 | 3 | 1 | 23 | 1 | |||
2018 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | |||
2019 | 横浜FC | J2 | 28 | 0 | - | 0 | 0 | 28 | 0 | ||
2020 | 19 | J1 | 19 | 0 | 1 | 0 | - | 20 | 0 | ||
2021 | 19 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 22 | 0 | |||
2022 | 南葛 | 39 | 関東1部 | 1 | 0 | - | - | - | 1 | 0 | |
通算 | 日本 | J1 | 281 | 4 | 33 | 0 | 18 | 1 | 332 | 5 | |
日本 | J2 | 85 | 2 | - | 1 | 0 | 86 | 2 | |||
日本 | 関東1部 | 1 | 0 | - | 0 | 0 | 1 | 0 | |||
クロアチア | 1.HNL | 15 | 1 | 3 | 0 | - | 18 | 1 | |||
総通算 | 382 | 7 | 36 | 0 | 19 | 1 | 437 | 8 |
その他の公式戦
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2008 | 鹿島 | 19 | 2 | 0 |
2009 | 6 | 0 | ||
2010 | 5 | 0 | ||
2011 | 3 | 0 | ||
通算 | AFC | 16 | 0 |
その他の国際公式戦
- 2011年
- UEFAヨーロッパリーグ 2011-12予選3回戦 1試合0得点
獲得タイトル
編集- 関西学生サッカーリーグ 新人賞 (2004年)[14]
- デンソーカップ日韓大学定期戦 優秀MF賞[14]
- ユニバーシアードサッカー競技 (2005年)[14]
- Jリーグ (2008年、2009年)
- FUJI XEROX SUPER CUP (2009年、2010年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会 (2010年)
- AFCアジアカップ (2011年)
代表歴
編集出場大会
編集- U-20日本代表
- 2005年 - FIFAワールドユース選手権
- U-21日本代表
- U-22日本代表
- 2007年 - 北京オリンピックサッカーアジア予選
- U-23日本代表
- 2008年 - トゥーロン国際大会
- 日本代表
- 2006年 - AFCアジアカップ予選
- 2007年 - AFCアジアカップ2007
- 2011年 - AFCアジアカップ2011
- 2013年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2013
- 2014年 - 2014 FIFAワールドカップ
試合数
編集- 国際Aマッチ 21試合 1得点 (2011年 - 2014年)[5]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2011 | 9 | 1 |
2012 | 7 | 0 |
2013 | 4 | 0 |
2014 | 1 | 0 |
通算 | 21 | 1 |
出場
編集ゴール
編集# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2011年1月21日 | カタール、ドーハ | カタール | ○3-2 | AFCアジアカップ2011 |
脚注
編集- 注釈
- 出典
- ^ a b c d e f 『FC東京ファンブック 2007』毎日新聞社、2007年、24頁。
- ^ a b “伊野波雅彦選手ヴィッセル神戸より完全移籍加入”. ジュビロ磐田 (2013年1月9日). 2013年1月9日閲覧。
- ^ a b c “選手データベース 伊野波雅彦”. 2009年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月30日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2008年2月21日)
- ^ a b c 『ELGOLAZO Jリーグプレーヤーズガイド2015』スクワッド、2015年、167頁。
- ^ a b “伊野波 雅彦”. サッカー日本代表データベース
- ^ 鹿島伊野波の実家が連日豆腐差し入れ - 日刊スポーツ (2011年2月18日)
- ^ a b c d “「SWITCH」- 伊野波雅彦(FC東京)「二十歳の決意」”. 2006年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2006年5月2日)
- ^ a b c d e f g h “PLAYER'S HISTORY FILE022”. 2010年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月18日閲覧。 Jリーグ選手協会 (2007年8月3日)
- ^ a b c d e f g “宮崎市出身U-22日本代表 増田(鹿島)伊野波(FC東京)”. 2008年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月6日閲覧。 宮崎日日新聞 (2007年2月25日)
- ^ 平野勝哉『サッカースカウトマン』出版芸術社、2012年、172-173頁。ISBN 9784882934288。
- ^ 《ワールドユース2005》レポート メンバー決定! 伊野波、梶山がメンバー入り! Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2005年5月29日)
- ^ a b c Tokyo Mania Vol.17 182ch (2006年7月11日)
- ^ “伊野波 電撃入団”. 2006年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月6日閲覧。 東京中日スポーツ (2006年1月11日)
- ^ a b c d “伊野波雅彦選手(阪南大学)来季新加入のお知らせ”. 2006年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 FC東京 (2006年1月10日)
- ^ 【J1:第19節 F東京 vs 福岡 レポート】 Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2006年8月24日)
- ^ 伊野波 今季はサイドバックで勝負 反町監督“御前試合”攻守で存在感 東京中日スポーツ (2007年2月6日)
- ^ 選手出場記録 Jリーグ (2007年12月1日)
- ^ “梶山だ!伊野波だ!平山だ! 五輪トリオで危機脱出”. 2007年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 東京中日スポーツ (2007年5月9日)
- ^ 【J1:第23節 広島 vs F東京 レポート】 Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2007年8月30日)
- ^ “伊野波が鹿島に完全移籍”. 2008年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 東京中日スポーツ (2008年1月11日)
- ^ “伊野波雅彦選手 鹿島アントラーズへ完全移籍決定のお知らせ”. 2008年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 FC東京 (2008年1月15日)
- ^ 伊野波雅彦選手が完全移籍で加入 鹿島アントラーズ (2008年1月15日)
- ^ “鹿島が伊野波獲り”. 2007年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 東京中日スポーツ (2007年12月2日)
- ^ 【J1:第4節 鹿島 vs 山形】オズワルドオリヴェイラ監督(鹿島)記者会見コメント Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2010年3月27日)
- ^ a b 選手出場記録 Jリーグ (2011年12月3日)
- ^ a b 【AFCチャンピオンズリーグ2011 ソウル vs 鹿島】プレビュー Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2011年5月25日)
- ^ a b 伊野波 雅彦選手の移籍に基本合意 鹿島アントラーズ (2011年7月5日)
- ^ “伊野波がクロアチア移籍で会見 「早く次のレベルに」”. 共同通信 (2011年7月7日). 2011年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月15日閲覧。
- ^ -伊野波の挑戦-クロアチアから目指せ、ブラジルW杯!-by-伊野波雅彦 ゲキサカ (2011年8月23日)
- ^ 代理人が伊野波のハイデュク退団を主張 goal.com (2012年1月20日)
- ^ 元クロアチア ハイデュク・スプリト DF伊野波雅彦選手 移籍加入決定 ヴィッセル神戸 (2012年2月2日)
- ^ DF伊野波雅彦選手 ジュビロ磐田へ完全移籍のお知らせ ヴィッセル神戸 (2013年1月9日)
- ^ 磐田“開幕男”伊野波「結果にこだわる」 日刊スポーツ (2013年3月2日)
- ^ 『月刊J2マガジン 2015年1月号』ベースボール・マガジン社、2014年、55頁。
- ^ a b 伊野波、無念さにじませ磐田退団をFBで発表 日刊スポーツ (2015年11月28日)
- ^ 磐田DF伊野波、左長母趾屈筋損傷で離脱…復帰まで約4週間の見込み 日刊スポーツ (2015年8月18日)
- ^ 磐田退団伊野波「たくさんの思い出。陰ながら応援」 日刊スポーツ (2015年11月27日)
- ^ 磐田伊野波、12日死去の名波監督父に捧げる先制弾 日刊スポーツ (2015年11月24日)
- ^ [“【磐田】伊野波、契約更新せず J1昇格も条件面折り合わず”. 2015年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月28日閲覧。スポーツ報知 (2015年11月27日)
- ^ 伊野波 雅彦選手、契約満了のお知らせ ジュビロ磐田 (2015年11月30日)
- ^ a b DF伊野波雅彦選手 加入決定のお知らせ ヴィッセル神戸 2016年2月9日
- ^ a b 伊野波雅彦選手 2016シーズン加入のお知らせ J's GOAL (2016年2月9日)
- ^ “【磐田】伊野波と契約満了を発表! 移籍先はタイ!?”. 2015年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月9日閲覧。 スポーツ報知 (2015年11月30日)
- ^ a b 「サッカーを辞めることも考えた」…DF伊野波、神戸に4年ぶり復帰 サッカーキング 2016年2月9日
- ^ 2016明治安田生命J1リーグ選手ランキング Soccer D.B.
- ^ バルサ化神戸、守備はどうする?リージョ監督は伊野波雅彦に託す。 Number 2018年11月7日
- ^ J1神戸、始動日に…DF伊野波の退団を発表 昨季終盤は主軸として活躍 デイリースポーツ 2019年1月17日
- ^ 『DF伊野波雅彦選手 契約満了のお知らせ』(プレスリリース)ヴィッセル神戸、2019年1月17日 。2019年1月17日閲覧。
- ^ DF伊野波雅彦選手完全移籍加入のお知らせ 横浜FC 2019年2月18日
- ^ 伊野波が電撃加入の横浜FCでデビュー「そこまで悪くなかった」 横浜FC 2019年3月16日
- ^ 伊野波 雅彦選手 契約満了のお知らせ 横浜FC 2021年12月30日
- ^ 【TOP】伊野波雅彦 選手、新規加入のお知らせ 南葛SC 2022年3月1日
- ^ 思い出の地・カタールで決断…元日本代表DF伊野波雅彦が現役引退を発表、Jリーグ5クラブやクロアチアでプレー「運命を感じざるを得ません」 超ワールドサッカー 2022年12月19日
- ^ “日本代表メンバーに伊野波雅彦選手選出のお知らせ”. 2007年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月30日閲覧。 FC東京 (2006年8月31日)
- ^ 播戸離脱で伊野波招集 ゲキサカ (2007年7月4日)
- ^ “AFCアジアカップ2007 日本代表 メンバーに 伊野波雅彦選手追加招集のお知らせ”. 2007年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月14日閲覧。 FC東京 (2007年7月4日)
- ^ 【北京五輪出場決定! U-22日本代表 vs U-22サウジアラビア代表】試合終了後の水本裕貴選手(千葉)コメント Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2007年11月21日)
- ^ 勇気がもたらした逆転劇 日々是亜洲杯2011 宇都宮徹壱 スポーツナビ (2011年1月22日)
- ^ 元日本代表J選手が前代未聞の投資トラブル 高配当で勧誘され「2500万円損害」 東スポweb 2018年12月14日
関連項目
編集外部リンク
編集- 伊野波雅彦 (@inoha19) - X(旧Twitter)
- 伊野波雅彦 (@kitkat0319) - X(旧Twitter) (旧アカウント)
- 伊野波雅彦 - National-Football-Teams.com
- 伊野波雅彦 - Soccerway.com
- 伊野波雅彦 - FootballDatabase.eu
- 伊野波雅彦 - WorldFootball.net
- 伊野波雅彦 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 伊野波雅彦 - FIFA主催大会成績
- 伊野波雅彦 - J.League Data Siteによる選手データ
- 伊野波雅彦 - AS.com
- プロフィール - 日本サッカー協会
- プロフィール (2007年) - ウェイバックマシン(2007年10月26日アーカイブ分) - FC東京
- プロフィール (2011年) - ウェイバックマシン(2011年7月2日アーカイブ分) - 鹿島アントラーズ
- プロフィール (2011年) - ウェイバックマシン(2011年12月25日アーカイブ分) - HNKハイデュク・スプリト
- プロフィール (2013年) , (2014年) , (2015年) - ジュビロ磐田
- プロフィール - ヴィッセル神戸