ホンダ・RS(アールエス)は本田技研工業が発売していたオートバイで、ロードレース用の競技専用車である。

モデル一覧

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RS125R

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1993年に世界チャンピオンを獲得したダーク・ラウディスのマシン

RS125RはHRC(ホンダレーシングコーポレーション)製の2ストローク124 cc単気筒エンジンを搭載するレース専用マシンである。末尾にRを付けず、「RS125」と呼ばれることも多い。製造はHRCではなく、1987年モデル以降はVFR750R(RC30)と同様に本田技研工業浜松製作所で他量産車とは別ラインで製造が行われた[1]

ロードレース世界選手権125 ccクラスには1987年、イタリアのエツィオ・ジャノーラをライダーにプロトタイプのマシンを参戦させた。翌年からレギュレーションが変更となり、エンジンが単気筒のみに制限されるのを見越してのプロトタイプ投入であり、ホンダにとっては1968年にGP参戦を休止して以来の同クラス本格復帰で、初の2ストロークマシンでの参戦となった。翌1988年には第6戦ニュルブルクリンクでジャノーラが初優勝を果たした。そして1990年に17歳のロリス・カピロッシが初めてチャンピオンを獲得して以降、RS125Rは以下のとおり、のべ9名の世界チャンピオンを輩出した。

しかし、ホンダは2004年に車体を、2005年にエンジンのキットパーツの開発を終了させてしまったため[2]ライバルのアプリリアに対して性能の差が大きくなり[独自研究?]2009年時点で、RS125Rでグランプリにフル参戦するライダーはほぼ皆無になってしまった[要出典]。また125 ccクラス自体も2012年より「Moto3」クラスにリニューアルされ、2ストロークエンジンのマシンは参戦不可となったため、後継車両としてNSF250Rが登場している(RS125R用のパーツの多くがNSF250Rでも利用可能であることからも、後継車両であることがわかる[要出典])。

諸元

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1984年型RS125Rは4型となった[3]

1986年型はPJ型キャブレターの大径化など吸気系を変更した[5]

1987年型はフレームがアルミニウム合金ボックスフレームとなり、またニューマシンとされ、フルモデルチェンジを行い発売された[6][1]

1988年型は、エキゾーストパイプの配置が今までの右側から左側に変更となった[7]

1989年型は小変更を加えて完成度を高くした[8]

1991年型はマイナーチェンジであった[9]

1992年型はエンジンをマイナーチェンジし、また、別売でセットアップキットが販売された[10]

1993年型は1993年1月に発売された[11]1994年型は1993年11月に発売され、ポート形状を変更してパワーアップを図った[11]

1995年型はエンジンのクランクケースをそれまで使ってきたモトクロッサーであるCR派生からRS専用の新設計にし、振動抑制のためにバランスシャフトを採用した[2]ことと、大きく改良された車体を採用[2]され、フルモデルチェンジを行い発売された[12]

1996年型はミッションオイルの少量化、かつ摩擦によるパワー損失の軽減化を図った[13]

1996年8月に、レギュレーションの変更に合わせて、無鉛ガソリンに対応したRS125Rが発売された[14]

1998年型はケーヒン製ショートPJキャブレターを装備した[15]

RS125R-W

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RS125R-W(アールエスひゃくにじゅうごアール-ダブリュー)は、ホンダRSC(レーシングスポーツクラブ)/HRC(ホンダレーシングコーポレーション)製の市販ロードレーサーである。

諸元

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1980年にRSCから販売された水冷2ストローク単気筒125 ccの市販ロードレーサーである。空冷エンジンのMT125Rの後継機として、CR125Rの水冷エンジンを搭載する[16]

1981年型は全日本ロードレース選手権に出場するライダーを対象としたRSC製のマシン[17]

1983年型RS125R-W IIIは、HRC製の市販ロードレーサーである。フレームの高剛性化ためにスイングアーム・ピボットのエンジンマウントやめ、スイングアームを角型スチール製にする[18]

RS250R

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RS250Rは、2ストローク249 cc V型2気筒エンジンを搭載するレース専用マシン。ロードレース世界選手権GP250クラスなどのカテゴリを戦う。RS250RWは有力エントラント[独自研究?]にホンダから供給されたスペシャルモデルで後継はNSR250

1985年にフレディ・スペンサーがRS250RWで250ccクラスの世界チャンピオン獲得。同年に小林大が250 ccクラスの全日本チャンピオンとなる。(フレディー・スペンサーのチャンピオンマシンは開発コードがNV1Aとなっていたが、アントン・マンクなどのRS250RWの開発コードはNW1Aとなっていたように、完全ワンオフのマシン[19]で、事実上NSR500のエンジンの排気量と気筒数を半分したと比喩されるような仕様[独自研究?]で、事実上スペンサー以外は扱えない程のピーキーなエンジン)。その後ホンダは01年にNSR250の開発を終了し、02年限りでレースから退役とさせた一方で、NSRの後継としてキットとはいうもの、実際はエンジンのクランクケース、サブフレームなどの一部パーツ以外は別物[19]のため、ほぼワークス用のワンオフに近いパーツを組み込んだRS250RWを投入したが、2007年をもって開発を終了した。GP250クラス最後となった2009年に青山博一が2年落ちとなるRS250RW[20]でGP250クラス最後のチャンピオンを獲得している[19]

諸元

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RS250Rは、HRC製の市販ロードレーサーである[21]

1986年型は排気デバイスATACを装備し、折れのない出力曲線を描く[要出典]。フロントホイールは17インチとなる[22]

1988年型は、クランクシャフトやポートの設計が変わり、ワークスマシンNSR250により近い能力を持つようになる[24]

1989年型は、ワークスマシンNSR250の市販版である[25]

1992年型は、フロントフォークを倒立フォークとし、また、排気系のマイナーチェンジで加速力アップを図る[26]

1993年型は前年にNSRがフルモデルチェンジを行ったことから、それと同様にエンジンバンク角を90度から狭角にするなどの大改良を行い、フルモデルチェンジ行い販売された[要出典]

1994年型はブレーキキャリパーをブレンボ製を装備[27]

1995年型はサスペンションの設定をマイナーチェンジ[28]

1996年型はV型エンジンの挟角が1995年型の72°から75°へ変更された。また、排気バルブとカウルをワークスマシンのNSRに準じて変更[29]

1998年型は無鉛ガソリンへの対応による変更とラムエアインテーク機構の標準装備化。カウルのスクリーンを高くし、ライダーの負担軽減を図る[30]

2001年型は設計変更を行い、フルモデルチェンジを行って販売された[要出典]


RS500R

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RS500Rは、HRC製の市販ロードレーサーで、1983年に発売された。前年に発表されたホンダ・NS500の量産モデルであり、両車には共通点が多かった[要出典]。排気量498.6 ccの2サイクル水冷V型3気筒(前バンク1気筒・後バンク2気筒)エンジンが搭載された。基本価格はヤマハ・TZ500、スズキ・RGB500が300万円程度であった当時に500万円と高額であった[要出典]が、前年度のNS500よりも若干落ちる程度の高いパフォーマンスを発揮すること、若手ライダー(例:ワイン・ガードナーレイモン・ロッシュ)を中心にワークスNS500の格落ちエンジンや部品が供給されたことから、多くのライダーが選択した[独自研究?]

セッティングの幅が広く様々な味付けが可能なマシンでもあった。ライディングポジションやギヤシフトのパターンだけでなく、パワー特性、ハンドリング等の基本的な部分にマシン一台一台の個性が出ていた。それまでの市販レーサー、ヤマハ・TZ350、250、500、ドゥカティ750、スズキ・RG500、RGB500などはどのライダーが乗ってもほぼ同じ特徴を示していたが、RS500はセッティングの自由度が比較にならない程広かった。例としてスタンダード仕様でフロントホイールが16インチ、リヤが18インチ(または16インチ)だが、前後18インチホイールへの換装や、フレームを欧州のフレームビルダー(コンストラクター)であるニコバッカ製やシュバリエ製に特注し、換装するケースもあった(片山敬済のニコバッカ製、ディディエ・デ・ラディゲスのシュバリエ製など。)。またエンジンを高度にチューンしワークスホンダに迫るスピードを発揮したチームもあった[独自研究?]ロスマンズホンダチームのRS500エンジンはベンチ計測においてワークスNS500のエンジンパワーを凌いでいたと言われている[要出典]

1983年シーズンは前述のロッシュ以外にもユーゴスラビアGPでプライベートライダーとしてRS500を駆るイタリアのジョヴァンニ・ペラティエがワークスNS500を駆るマルコ・ルッキネリをコンマ3秒差で抑え、8位に入賞した。また、デイブ・ピーターセン(南アフリカ)、ブット・ファン・ドルメン(オランダ)、ファビオ・ビリオッティ(イタリア)、グスタフ・レイナー(ドイツ)、ピエール・エティエンヌ・サミン(フランス)らによって上位入賞することも多数あった。1984年シーズンの世界GPではワイン・ガードナーやレイモン・ロッシュが表彰台に上がり、ロッシュはポール・ポジションの獲得もあった。

RSを市販化した一方、ホンダは翌1984年に4気筒エンジン搭載の新ワークスマシンNSR500の開発に着手しており、1986年新たなアルミフレームのRS500がリリースされたが、RSを使用するプライベートチームでは好成績を収めることができなくなっていた[独自研究?]しかし、4気筒のNSR500を基にした市販車両や、他メーカーの同クラス車両は市販されていなかったため、プライベートチームは部品をやりくりしながらRS500Rを使用し続けた[要出典]。そんな中、1988年にテクニカルスポーツ関東の五百部徳雄(現[いつ?] I.ファクトリー代表)が、ワークスマシンが数多く参加する全日本ロードレース選手権500ccクラスにおいてRS500で1勝を挙げた。日本国内では、1990年に松本憲明が使用したのが最後であった。

実質的な後継車両として、1997年より市販が開始されたNSR500Vがある。

車両解説

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ワークスNSとそのカスタマー供給型RSはフロントカウリング、シートカウル、タンクなどはほぼ同一であり[独自研究?]多くの部品の基本設計が同一で互換性がある[要出典]が、量産化にあたってグレードやコストを下げられているため多くの差異がある[独自研究?]

RS、NSどちらもアルミ合金製の手曲げ加工によって製作された[独自研究?]。性能と外観はほとんど差はないが、1985年仕様のロスマンズホンダブリテンチームのNSでは前輪荷重を増やすためエンジンマウントが20 mm前方に移され、ステアリングヘッドの位置も変わり上部のレールがわずかに低くされている[要出典]NSはスイングアームが長く、重量配分が変更されており、リヤサスペンションとスイングアームをつなげるリンクの形状も若干異なる[要出典]フロントフォークのアウターチューブはNSがマグネシウム合金製に対しRSはアルミ合金製であり、サスペンション径もNSは⌀43とRSより太い[独自研究?]

オイルや冷却水などを含む半乾燥重量はRSが122 ㎏に対しNSではチタン製やマグネシウム製のボルト、ナット、パーツを多用し、そのほかにも細部にわたる軽量化を施したため117 kgと5 kg軽い[要出典]ホンダレーシング(HRC)のテストでRS500のボルト類をワークスNS500の物に置き換えたところ数キログラムの単位で軽くなったとのレポートもある[要出典]

エンジン関連
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V型3気筒でレイアウトやデザインは同一だが、シリンダーはNSがOリングとラバーシールによってクランクケースに取り付けるのに対しRSでは従来のガスケットを介して取り付けられている。そのため取り付け前の排気/吸気ポートの高さが異なる。ワークスNSではこのシリンダーブロックに当時の最新技術を使ったCFRP製リードバルブを使用している[要出典]

クランクシャフト、ピストン、ミッションのデザインは同じだが、クラッチハウジング、ギヤセレクター、ギヤの材質が異なりNSの方が重量と抵抗が少ない[独自研究?]。クランクケースはRSがアルミ合金製であるのに対しNSではマグネシウム合金製であるクランクケースはRSがアルミ合金製であるのに対しNSではマグネシウム合金製である[要出典]

キャブレターはどちらもケーヒンのマグネシウム合金製だが、RSが⌀36に対しNSが⌀37で楕円形の吸気口を採用している[要出典]

排気デバイスのATACはRSでは、1983年と1984年モデルには装備されなかったが、1985年モデルで上の2気筒のみに装備された[要出典]それに対しNSは1984年以降、3気筒に全部装備されており、スロットルレスポンスと扱いやすさに差があった[独自研究?]RSでは初期のワークスNSと同様、8000回転を超えてATACのバルブが閉じたあと急激に加速していくためコーナーリング中にこの回転域に入るとテールスライドが突然始まるなど、神経質な特性であったがNSでは低回転からもっとスムースにピークパワーに続く特性でより無駄なくパワーを使いこなせるものであり、トルク感とレスポンスは非常に鋭かった。ATAC非装備だった初期のRSはワークスNSデビュー年だった82年モデルに近いパワー特性でパワーバンドは狭く神経質な特性だった[独自研究?]エキゾーストパイプも異なり、RSと比較してNSでは10馬力近く高い133馬力を発揮している[要出典]

1985年シーズン、チームイタリアのファビオ・ビリオッティが駆るRS500のメカニックだった「ペッビーノ」ことジュゼッペ・コンサルビイは3つ目のATACを自作して取り付けた[要出典]。その結果ビリオッティは地元イタリアのミサノで開催されたサンマリノGPで9位入賞を果たした。

諸元

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1984年型は、1983年型ワークスマシンNS500の市販型として販売される[31]

1986年型は、フレームがアルミニウム合金ツインチューブとなる[要出典]。生産台数は10 - 15台[32]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b Honda | 夢を背負ったマシンRS125Rの軌跡 1987”. www.honda.co.jp. 2024年4月13日閲覧。
  2. ^ a b c Honda | 夢を背負ったマシンRS125Rの軌跡 1995-2009”. www.honda.co.jp. 2021年8月18日閲覧。
  3. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p628)より。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 後輪を保持し、サスペンションの一部としても機能する部品 --『図解でわかる バイクのメカニズム』(p11)より。
  5. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p668)より。
  6. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p693)より。
  7. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p716)より。
  8. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p738)より。
  9. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p796)より。
  10. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p818)より。
  11. ^ a b c 日本モーターサイクル史』(p841)より
  12. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p865)より。
  13. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p888)より。
  14. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p911)より。
  15. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p936)より。
  16. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p532)より。
  17. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p559)より。
  18. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p609)より。
  19. ^ a b c 『RACERSVol.44 NSR250/RS250RW』三栄書房。 
  20. ^ Honda | 『最後の王者を目指して』青山博一の挑戦~前編~”. www.honda.co.jp. 2024年4月21日閲覧。
  21. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p631)より。
  22. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p674)より。
  23. ^ 日本モーターサイクル史』(p698)より。
  24. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p720)より。
  25. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p742)より。
  26. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p800)より。
  27. ^ a b c 日本モーターサイクル史』(p846)より。
  28. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p868)より。
  29. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p892)より。
  30. ^ a b c 日本モーターサイクル史』(p940)より。
  31. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p637)より。
  32. ^ a b 日本モーターサイクル史』(p680)より。

参考文献

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  • 『日本モーターサイクル史 1945→2007』八重洲出版ヤエスメディアムック 169〉、2007年7月30日 発行。ISBN 978-4861440717 
  • 小川直紀『図解でわかる バイクのメカニズム - 基本からマスターできるメカの学習参考書』(第1刷)山海堂Sankaido motor books〉、2001年11月1日。ISBN 978-4381077486 
    • 小川直紀『図解でわかる バイクのメカニズム - 基本からマスターできるメカの学習参考書』(第3刷)山海堂〈Sankaido motor books〉、2003年5月8日。ISBN 978-4381077486 

関連項目

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外部リンク

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