ブルボン家
ブルボン家(ブルボンけ、仏: Maison de Bourbon)は、ヨーロッパの王家で、フランス王家カペー家の支流の一つ。かつてのフランス王家、また現在のスペイン王家であり、さらに両シチリア王国など現在のイタリアの一部を治めていた家系もある。現在のルクセンブルク大公家も男系ではブルボン家の後裔。
ブルボン家 Maison de Bourbon | |
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王家 | |
国 |
フランス イタリア ルクセンブルク ナバラ スペイン |
領地 |
フランス ナバラ スペイン 両シチリア ブラジル ルクセンブルク パルマ |
主家 | カペー朝 |
当主称号 | |
創設 | 1272年 |
家祖 | クレルモン伯ロベール |
最後の当主 |
フランス・ナバラ: シャルル10世(1824 - 1830) フランス: ルイ・フィリップ1世(1830 - 1848) パルマ: ロベルト1世(1854 - 1859) 両シチリア: フランチェスコ2世(1859 - 1861) |
断絶 |
フランス・ナバラ: 7月革命(1830年) フランス: 2月革命(1848年) パルマ: サルデーニャ王国によって併合(1859年) 両シチリア: イタリア統一(1861年) |
民族 | フランス人 |
分家 |
コンデ家(断絶) |
ブルボン朝以前のブルボン家
編集起源
編集ブルボン家の家名の由来となったブルボネー[1]はフランスの中心部に位置し、文字通り王国の心臓部とも呼ぶべき場所であった。カール・マルテルの子孫といわれるアデマール (fr) が10世紀にこの地の最初の領主となり、ブルボン城(現在のブルボン=ラルシャンボーにあった)にちなんで自らの家名をブルボン家と称した。この古ブルボン家とも呼ぶべき家系 (fr) は、1218年に女領主マティルドの死によって断絶し、その息子であるダンピエール家 (fr) (ダンピエール領主)のアルシャンボー8世によって相続される。しかしこのダンピエール=ブルボン家も、アルシャンボー8世の息子アルシャンボー9世が1249年に男子を残さず没する。その娘アニェスはブルゴーニュ公ユーグ4世の息子ジャンと結婚し、2人の娘ベアトリスは国王ルイ9世の末子クレルモン伯ロベールと結婚する。ベアトリスとロベールの息子ルイ1世は国王シャルル4世によって1327年にブルボン公に叙せられる。これがカペー系ブルボン家の始まりである。
第一ブルボン家
編集百年戦争期
編集1328年にシャルル4世が死去し、ヴァロワ家のフィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まるが、イングランド王エドワード3世がこれに異を唱え、百年戦争が勃発する。ブルボン家はヴァロワ家の外戚、有力諸侯としてこれを支えていくことになる。
第2代ブルボン公ピエール1世は1356年のポワティエの戦いで戦死し、息子ルイ2世が公位を継いだ。この戦いで捕虜となった国王ジャン2世はロンドンで虜囚のまま1364年に死去し、ルイ2世の妹ジャンヌを妃とするシャルル5世が即位する。ジャンヌは1373年に突如発狂したが、精神障害はブルボン家の近親者に多かれ少なかれ見られ、遺伝性疾患であったと考えられている。これはヴァロワ家、後にランカスター家にも遺伝し、フランスとイングランドの歴史を大きく左右することになる。
1380年にシャルル5世とジャンヌの息子シャルル6世が王位に即き、新王の伯父ブルボン公ルイ2世は先王の弟たちとともにその後見人となった。シャルル6世が1392年に発狂して以後、王弟オルレアン公ルイの一派(オルレアン派)と叔父フィリップ豪胆公(後に息子ジャン無怖公)の一派(ブルゴーニュ派)の間で権力抗争が繰り広げられたが、ルイ2世はこの争いには加担しなかったらしい。1410年にルイ2世が73歳で没すると、ブルボン公位を継いだ息子ジャン1世は、暗殺されたオルレアン公ルイの遺児シャルルを首領として同年に結集したアルマニャック派に加わった。
1415年のアジャンクールの戦いで、フランス軍はヘンリー5世率いるイングランド軍に大敗し、オルレアン公シャルルを始めとする多くの貴族が捕虜となった。ブルボン公ジャン1世も捕虜となってロンドンへ送られ、ジャン1世の息子シャルル1世が不在の父に代わって実質的な家長となったが、若年のため母マリーが後見した。翌1416年には、マリーの父でヴァロワ家の長老であったベリー公ジャンが没するが、ベリー公には男子の後継者がなく、マリーが所領の一部であるオーヴェルニュ公領およびモンパンシエ伯領を相続した。のち、マリーの長男であるシャルル1世は前者を譲られ、三男ルイは後者を譲られてブルボン=モンパンシエ家を興す。
1419年、無怖公はアルマニャック派によって暗殺され、息子フィリップ善良公は報復としてイングランドと同盟する(アングロ=ブルギニョン同盟)。1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで没するが、ブルボン公シャルル1世はシャルル6世の息子シャルル7世に忠実に仕え、シャルル7世も自分とほぼ同年齢で有力な一族であるシャルル1世を信頼し重用するようになった。イングランドとブルゴーニュがネーデルラントを巡って仲違いを始めると、シャルル7世はすかさず善良公と1424年にシャンベリーの協定を結んで相互不可侵を獲得する。さらにシャルル7世は善良公を自分の陣営に引き込むため、翌1425年にシャルル1世及び懐刀でもあるフランス元帥アルテュール・ド・リッシュモンを善良公の姉妹であるアニェス、マルグリットとそれぞれ結婚させた。
1434年にジャン1世がロンドンで虜囚のまま没したことにより、シャルル1世は名実ともにブルボン公となった。同年末のヌヴェールでの協議において、リッシュモン元帥の調停によりシャルル1世と善良公は和解する。翌1435年のアラス会議には、フランス側の代表としてシャルル1世とリッシュモンが派遣された。会議は成功しアラスの和約が結ばれ、シャルル1世とリッシュモンは善良公の前で十字架に手を差し伸べ、無怖公への哀悼を示した。その後、シャルル1世は善良公と手を組んで街中を行進することで和解をアピールした[2]。
しかしその頃から、リッシュモンによる常備軍としての国王軍創設の改革を原因として、ブルボン公シャルル1世とシャルル7世の関係は微妙なものとなる。1440年に発覚したプラグリーの乱は、シャルル1世がアランソン公ジャン2世やジャン・ド・デュノワら他の王族と謀り、シャルル7世を廃位して王太子ルイを王位に就けようと企てた事件であった。陰謀はリッシュモンに露見して失敗に終わり、シャルル1世は逃亡したが、後に自らシャルル7世の許に出頭して謝罪した。シャルル1世は罪を許されたものの、領地の一部を没収された。
百年戦争終結後
編集シャルル1世は百年戦争終結から3年後の1456年に没し、息子ジャン2世が公位を継ぐ。1461年にはシャルル7世が死去し、ブルゴーニュ公国に亡命していた王太子ルイがルイ11世として王位に就く。ルイ11世は父王の中央集権化政策をさらに推し進め、ジャン2世を始めとする多くの諸侯の反発を招いた。ジャン2世は、自らの従弟で妹婿でもある善良公の嫡男シャルル(のちの突進公)らを始めとする諸侯を糾合して公的同盟 (en) を結成する。
1467年にブルゴーニュ公位を継いだシャルル突進公は、ヨーク家のイングランド王エドワード4世と同盟し、共同でフランスに攻め寄せた。この戦いに際して、ジャン2世の庶弟ルイはフランス海軍元帥に任じられ、艦隊を率いてアラス一帯でゲリラ活動を行い、アングロ=ブルギニョン連合軍を撹乱した。ルイはさらに、エドワード4世との間で1475年にピキニー条約を取りまとめてアングロ=ブルギニョン同盟を崩壊させた[3]。
1488年に死去したジャン2世には庶子しかいなかったため、聖職にあった三弟シャルル2世が公位を継いだ。ジャン2世の庶子の家系はラヴェンダン子爵、バシアン男爵、マローズ公爵となった。しかしシャルル2世は兄の死から5ヶ月余り後に死去した。四弟のリエージュ司教ルイ (en) には男子がいたものの庶子扱いされ(この家系はブルボン=ビュッセ家 (en) と呼ばれ、現在まで続いている)、末弟ピエール2世が公位を継いだ。ピエール2世はシャルル8世王の姉アンヌ・ド・ボージューの夫であり、妻と共に義弟の摂政を務めていた。
ブルボン=モンパンシエ家
編集唯一の男子に先立たれていたピエール2世が1503年に死去すると、ブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男子は絶えた。そのため、ピエール2世の娘シュザンヌと、その又従兄に当たる傍系ブルボン=モンパンシエ家のモンパンシエ伯シャルル(シャルル3世)が結婚して、共同で公位を継承した。ヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が絶え、オルレアン公シャルルの息子ルイ12世が王位を継承し、続いて従甥で娘婿であるフランソワ1世が1515年に王位に就く。
シャルルはモンパンシエ伯ルイ1世の孫で、その息子ジルベールとマントヴァ侯フェデリーコ1世の娘クララの息子であった。伯位は父からシャルルの兄ルイ2世に継承されていたが、ルイ2世が未婚のまま早世したためシャルルが継承者となった。
シャルル3世はマリニャーノの戦いで功を立てて元帥に任じられ、さらにはミラノ総督に任じられたが、有能さ故に恐れられたのか、間もなく更迭されて帰国を命じられた。1521年に妻シュザンヌが没すると、フランソワ1世の母でブルボン公シャルル1世の娘マルグリットを母とするルイーズ・ド・サヴォワがブルボン家の相続権を主張し、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収された。これに憤激したシャルル3世は1523年、フランソワ1世の宿敵である神聖ローマ皇帝カール5世と密約を交わし、イングランド王ヘンリー8世も巻き込んだ陰謀を企てた。しかし、この陰謀はフランソワ1世に露見し、シャルル3世はカール5世の許へ逃亡した。
カール5世の下で軍の指揮を委ねられたシャルル3世は、1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜とする活躍を見せた。フランソワ1世は翌1526年にマドリード条約を締結して釈放されるが、すぐに破棄して1527年に戦争を再開する。カール5世は、フランソワ1世に与した教皇クレメンス7世への懲罰として、シャルル3世を指揮官とする軍勢をローマへ差し向けた。シャルル3世率いる皇帝軍は教皇軍を敗走させたが、ローマを包囲中にシャルル3世は戦死した。指揮官の死によって皇帝軍は統制を失い、ローマ略奪が起こった。
ブルボン=ヴァンドーム家
編集シャルル3世の死をもってブルボン家の本流は絶えた。代わって、ブルボン公ルイ1世の四男ラ・マルシュ伯ジャック1世 (en) から5代目の末裔であるヴァンドーム公シャルルがブルボン家の家長となったが、ブルボン公の称号と所領はルイーズ・ド・サヴォワを経てヴァロワ=アングレーム王家のものとなった。ラ・マルシュ伯の家系をブルボン=ラ・マルシュ家と呼ぶが、ジャック1世の子ジャン1世 (en) は婚姻によりヴァンドーム伯位を獲得し、次男ルイ (en) がこれを継承した。ラ・マルシュ伯はルイの兄ジャック2世 (en) が継承したが、男子がなく断絶した。ラ・マルシュ伯はルイから3代にわたって継承されたが、シャルルの代に至ってヴァンドーム公に昇叙されていた。この家系を特にブルボン=ヴァンドーム家と呼ぶ。一方、シャルルの叔父ルイ (en) はシャルル3世の姉ルイーズ (en) と結婚しており、ブルボン朝初期まで続く第二ブルボン=モンパンシエ家を興している。
ヴァンドーム公シャルルの伯母ジャンヌは、初め宗家のブルボン公ジャン2世の3人目の妻となり、死別後の再婚でカトリーヌ・ド・メディシスの母マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュをもうけている。また、シャルルの妹アントワネットはギーズ公クロードに嫁いでおり、フランソワ2世の王妃でもあったスコットランド女王メアリー・ステュアートやアンリ4世と敵対するギーズ公アンリ1世はその孫であった。
シャルルの息子アントワーヌは、ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚してナバラ王位を獲得した。ジャンヌの家系アルブレ家はナバラ王家としてピレネー山脈以北のバス=ナヴァール(低ナバラ、現在のフランス領バスク)を治めた他、フォワ、ベアルンなどフランス南部に所領を持つ大貴族であり、ジャンヌはその最後の当主であった。また、ジャンヌの母マルグリットはフランソワ1世の姉であり、さらに最初の夫アランソン公シャルル4世がアントワーヌの母方の伯父であるという縁もあった。ジャンヌは熱心なユグノーであり、カルヴァン派を国教として領内のカトリック教徒を弾圧した。1553年にジャンヌが夫アントワーヌとの間に儲けたのが、のちのフランス王アンリ4世である。
アントワーヌの弟のうち、ブルボン枢機卿およびルーアン大司教シャルルは国王アンリ3世の死後にアンリ4世の対立王「シャルル10世」として擁立されたが、間もなく死去した(1589年 - 1590年)。末弟のコンデ公ルイ1世はブルボン=コンデ家の祖である。この家系からはさらにブルボン=コンティ家が分かれている。
アンリ4世の即位後、ヴァンドーム公位は庶子セザールに授けられ、第2のブルボン=ヴァンドーム家を興したが、孫のフィリップの代で断絶した。
歴代当主
編集- 第一ブルボン家
- ブルボン公ルイ1世(1327年 - 1342年)
- ブルボン公ピエール1世(1342年 - 1356年)
- ブルボン公ルイ2世(1356年 - 1410年)
- ブルボン公ジャン1世(1410年 - 1434年)
- ブルボン公シャルル1世(1434年 - 1456年)
- ブルボン公ジャン2世(1456年 - 1488年)
- ブルボン公シャルル2世(1488年)
- ブルボン公ピエール2世(1488年 - 1503年)
- ブルボン女公シュザンヌ(1503年 - 1521年)
- ブルボン=モンパンシエ家
- ブルボン=ヴァンドーム家
- ヴァンドーム公シャルル(1527年 - 1537年)
- ヴァンドーム公アントワーヌ(1537年 - 1562年) ナバラ王:1555年 - 1562年
- ヴァンドーム公アンリ(1562年 - 1589年) ナバラ王:1562年 - 1610年、フランス王(アンリ4世):1589年 - 1610年
フランス・ブルボン家
編集アントワーヌとジャンヌ・ダルブレの子アンリは、父からヴァンドーム公位とともにブルボン家家長の地位およびフランス王位継承権を、母からナバラ王位を継承していたが、ヴァロワ朝の断絶に際してフランス王アンリ4世として即位した。ルイ14世のとき絶対君主制を確立したが、フランス革命で一時中断、復古王政ののち1830年の7月革命をもって嫡流はフランス王位を失った。
歴代国王(フランスとナバラの王)
編集オルレアン家(ブルボン=オルレアン家)
編集7月革命の後にブルボン家嫡流に代わって即位したルイ・フィリップの家系オルレアン家(ブルボン=オルレアン家)もブルボン家の支流の一つであり、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世に始まる。
スペイン・ブルボン(ボルボン)家
編集スペインでアブスブルゴ(ハプスブルク)家が断絶した後、1700年にフランスのルイ14世が孫のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)をスペイン王に即位させた。この企てはスペイン継承戦争を招いたが、戦争の結果各国が即位を承認し、ボルボン朝が成立した。1931年にアルフォンソ13世が退位した後、長く王位を失っていたが、1975年に孫のフアン・カルロス1世が即位して王制が復活した。
カルリスタ
編集フェルナンド7世死後、その娘であるイサベル2世が即位したが、フェルナンド7世の弟であるモリナ伯カルロスはこれに反発して、カルロス5世として独自に即位した。以後、スペインはイサベル2世派とカルロス5世派とに分かれて内戦が勃発した。カルロス5世及びその子孫を支持する一派をカルリスタと呼ぶことから、この内戦はカルリスタ戦争という。カルロス5世の男系子孫の最後の男子であるサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(アルフォンソ・カルロス1世)が死去した後は、カルリスタはそれぞれ独自の王を立て、分裂している。なお、モンティソン伯フアン・カルロス(フアン3世)以降はレジティミストの要請により名目上のフランス王位も兼ねていた。
ナポリ・シチリアのブルボン(ボルボーネ)家
編集イタリア南部のナポリ王国とシチリア王国はもともとアラゴン王国の支配下にあったが、アラゴン王国がスペインに統合されることによって、スペイン王家の支配を受けるようになった。ナポリとシチリアは形式的に分かれているだけで、どちらもスペインの支配下にあり、スペイン・ブルボン朝の成立に伴いブルボン家の支配はこれら両王国にも及ぶことになった。ところが、スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世即位後勃発したスペイン継承戦争でオーストリアがナポリとシチリアを占領した。オーストリアの支配は1707年から1734年まで続いた。
ポーランド継承戦争中、フェリペ5世の王子でパルマ公だったドン・カルロスが武力でナポリとシチリアを奪回し、ナポリ王カルロ7世およびシチリア王カルロ5世となった。ここにブルボン家は南イタリアをも獲得したことになる。その後、カルロ7世はスペイン王位に即位してカルロス3世となり、ナポリとシチリアは息子のフェルディナンドに譲った。これがナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)である。
19世紀始めのナポレオン戦争でナポリは一時フランス帝国の支配下に落ちたが、1816年のウィーン議定書によって返還され、両シチリア王国として再出発した。ナポリ王フェルディナンド4世(=シチリア王フェルディナンド3世)は両シチリア王フェルディナンド1世となった。両シチリアのブルボン家は4代続いたが、1860年にガリバルディに征服され、統一イタリア王国に併合された。廃位後も家系は今日まで存続している。
パルマのブルボン(ボルボーネ)家
編集イタリア北部のパルマ公国はファルネーゼ家によって建てられた国であるが、ファルネーゼ家が断絶した際に、フェリペ5世の王妃でファルネーゼ家出身のエリザベッタ・ファルネーゼの尽力によって、フェリペ5世とエリザベッタの息子ドン・カルロス(カルロス3世)が公位を継承した。その後パルマはポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家に渡るが(ドン・カルロスは代わってナポリとシチリアの王位に就く)、オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約で再びスペイン・ブルボン家に戻り、カルロスの弟フィリッポが公位に就いた。このフィリッポの家系をブルボン=パルマ家(ボルボーネ=パルマ家)と呼ぶ。
フィリッポの死後は息子フェルディナンドが公位を継いだが、パルマはナポレオン・ボナパルトに征服され、フェルディナンドの息子ルドヴィーコは新たに建てられたエトルリア王国の王位に就けられた。エトルリア王国はルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコの代にフランスに併合され、カルロ・ルドヴィーコはウィーン会議の結果ルッカ公となったが、ルッカ公国は1847年にトスカーナ大公国に併合され、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公位を得た後に死去した。
その後、パルマ公は2代続くが、パルマ公国は住民投票によって1860年にサルデーニャ王国に併合されて消滅した。因みに、最後のパルマ公ロベルト1世は廃位後に24人の子をもうけており、10人の男子のうちから今日まで存続している家系もある。その一つは、ルクセンブルク大公シャルロットと結婚したフェリックス公子の家系である。ルクセンブルク大公家はルクセンブルク家あるいはナッサウ=ヴァイルブルク家の家名を用いているが、男系ではブルボン家の後裔に当たる。
レジティミスト
編集フランス革命以後もブルボン家をフランス王家として支持した王党派をレジティミスト(Legitimists)あるいは正統派という。彼らはボナパルト家支持者であるボナパルティスト、あるいは同じく王党派とされるがオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と対立しながら、今日まで存在し続けている。
シャルル10世の孫、シャンボール伯アンリ・ダルトワの死によってルイ15世の男系男子が絶えると、レジティミストの一部はオルレアニストに合流したが、一部はサリカ法に基づいてスペイン・ブルボン家の王族をフランス王家継承者に推し、今日に至っている。
現在はスペイン・ブルボン家の分家のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーンが「ブルボン家家長」「フランス王ルイ20世」として支持されている。これに対してオルレアニストはパリ伯兼フランス公ジャン・ドルレアン(ジャン4世)がフランス王位を主張している。オルレアン家は「パリ伯」の称号をレジティミストから認められているが、ルイス・アルフォンソが用いている「アンジュー公」の称号をフランス公は認めておらず、フランスの裁判所に提訴したことがある(訴えは退けられた)。
レジティミストのフランス王位請求者(7月革命以後、シャンボール伯アンリまで)
編集- シャルル10世(1830年 - 1836年)
- アングレーム公ルイ・アントワーヌ(ルイ19世、1836年 - 1844年)
- シャンボール伯アンリ(アンリ5世、1844年 - 1883年)
以降は「レジティミスム」を参照のこと。
インドのブルボン家
編集インドのボーパールには、フランスからインドに渡ったという、ジャン・フィリップ・ド・ブルボンの後裔を称する「ブルボン家」が存在している。ボーパール藩王国では富裕な一門であり、バルタザール・ブルボン=シャサド・マシは藩王国の宰相を務めている。1882年にルイ・ルッスレが表した旅行記にもその存在が書かれている。現在の家長はバルタザール4世。2007年にはミシェル・ド・グレース[4]が小説『Le Raja de Bourbon』において主題として取り上げている。ド・グレースはこの本の中で、ボーパールのブルボン家の先祖はアンリ4世の甥だとし、「証拠はないが、そう信じている」と述べている[5]。
ブルボン家と近親婚
編集ブルボン家は初期から、一族内で近親婚を繰り返し、それに伴う弊害をもたらしてきた。それはブルボン公時代の、シャルル5世の后であるジャンヌの発狂で現れた。そして、フランス王位を継承し、更にはスペイン、ナポリ、シチリアの王位も獲得すると、王位を安定化するために一族間で血族結婚を頻繁に行った。国内に於いても、ブルボン系の有力貴族間で血族結婚が行われた。1750年代の外交革命に伴い、同じく血族結婚が盛んであったハプスブルク=ロートリンゲン家と縁組を頻繁に行うようになった。その結果、両家で早世したり、あるいは成人しても身体に障害を持つ者が続出した。
系図
編集古ブルボン家およびダンピエール=ブルボン家
編集アデマール ブルボン卿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エイモン1世 ブルボン卿 | アルシャンボー4世 ブルボン卿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルシャンボー1世 ブルボン卿 | アルシャンボー5世 ブルボン卿 | エイモン2世 ブルボン卿 | マティルド・ド・ブルボン | ギー2世 ダンピエール卿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルシャンボー2世 ブルボン卿 | アルシャンボー6世 ブルボン卿 | アルシャンボー7世 ブルボン卿 | アルシャンボー8世 ブルボン卿 | ギヨーム2世 ダンピエール卿 | マルグリット2世 フランドル女伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルシャンボー3世 ブルボン卿 | アルシャンボー | アルシャンボー9世 ブルボン卿 | ギヨーム2世 フランドル伯 | ギー フランドル伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アニェス・ド・ブルボン | フランドル家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クレルモン伯ロベールからアンリ4世まで
編集- 凡例
- 第一ブルボン家系
- 第一ブルボン=モンパンシエ家系
- ブルボン=ラ・マルシュ家、(第一)ブルボン=ヴァンドーム家系
- 第二ブルボン=モンパンシエ家系
フランス・ブルボン王家
編集アンリ4世 フランス王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ13世 フランス王 | ガストン オルレアン公 | セザール ヴァンドーム公 〔ブルボン=ヴァンドーム家〕 | アレクサンドル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ14世 フランス王 | フィリップ1世 オルレアン公 〔オルレアン家〕 | ルイ2世 ヴァンドーム公 | フランソワ ボーフォール公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ (グラン・ドーファン) | ルイ ヴェルマンドワ伯 | ルイ・オーギュスト メーヌ公 | ルイ・アレクサンドル トゥールーズ伯 | ルイ3世ジョゼフ ヴァンドーム公 | フィリップ ヴァンドーム公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ (プチ・ドーファン) | フェリペ5世 スペイン王 〔スペイン・ブルボン家〕 | シャルル ベリー公 | ルイ・オーギュスト ドンブ公 | ルイ・シャルル ウー伯 | ルイ・ジャン・マリー パンティエーヴル公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ15世 フランス王 | カルロス3世 スペイン王 | フィリッポ パルマ公 〔ブルボン=パルマ家〕 | ルイ・アレクサンドル ランバル公 | ルイーズ・マリー | ルイ・フィリップ2世 オルレアン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ・フェルディナン | ルイ・フィリップ フランス王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ16世 フランス王 | ルイ18世 フランス王 | シャルル10世 フランス王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ17世 | マリー・テレーズ | ルイ・アントワーヌ アングレーム公 | シャルル・フェルディナン ベリー公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンリ シャンボール伯 | ルイーズ・ダルトワ | カルロ3世 パルマ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スペイン・ブルボン王家
編集フェリペ5世 スペイン王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイス1世 スペイン王 | フェルナンド6世 スペイン王 | カルロス3世 スペイン王 ナポリ王・シチリア王 パルマ公 | フィリッポ パルマ公 〔ブルボン=パルマ家〕 | ルイス・アントニオ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェリペ カラブリア公 | カルロス4世 スペイン王 | フェルディナンド1世 両シチリア王 〔ブルボン=シチリア家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルナンド7世 スペイン王 | カルロス モリナ伯 (王位請求者) | フランシスコ・デ・パウラ カディス公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イサベル2世 スペイン女王 | フランシスコ・デ・アシス カディス公 | カルロス・ルイス モンテモリン伯 (王位請求者) | フアン・カルロス モンティソン伯 (王位請求者) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ12世 スペイン王 | カルロス マドリード公 (王位請求者) | アルフォンソ・カルロス サン・ハイメ公 (王位請求者) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ13世 スペイン王 | ハイメ マドリード公 (王位請求者) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ コバドンガ伯 | ハイメ セゴビア公 | フアン バルセロナ伯 | ゴンサーロ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ カディス公 | ゴンサーロ | フアン・カルロス1世 スペイン王 | アルフォンソ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイス・アルフォンソ | フェリペ6世 スペイン王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両シチリア・ブルボン王家
編集フェルディナンド1世 両シチリア王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランチェスコ1世 両シチリア王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナンド2世 両シチリア王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランチェスコ2世 両シチリア王 | ロドヴィーコ トラーニ伯 | アルベルト カストロジョヴァンニ伯 | アルフォンソ カゼルタ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナンド・ピウス カラブリア公 | カルロ・タンクレーディ (カルロス・タンクレド) スペイン王子 カゼルタ伯 | ラニエーリ カストロ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
アルフォンソ スペイン王子 カラブリア公 | フェルディナンド・マリア カストロ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
カルロ・マリア (カルロス・マリア) スペイン王子 カラブリア公 | カルロ カストロ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
ピエトロ (ペドロ) カラブリア公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブルボン=パルマ家
編集フィリッポ パルマ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナンド パルマ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドヴィーコ エトルリア王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カルロ・ルドヴィーコ エトルリア王 ルッカ公 パルマ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カルロ3世 パルマ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロベルト1世 パルマ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エンリコ | ジュゼッペ | エリア | シクスト | グザヴィエ (ハビエル) | フェリックス | シャルロット ルクセンブルク大公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロベルト・ウーゴ | カルロス・ウゴ | シクスト・エンリケ | ジャン ルクセンブルク大公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カルロス・ハビエル | アンリ ルクセンブルク大公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集出典
編集- ^ 「ブルボン家」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 。コトバンクより24 September 2023閲覧。
- ^ 清水 1994, pp. 358-359.
- ^ カルメット 2000, pp. 400-405.
- ^ ギリシャの旧王族で、母はブルボン=オルレアン家の出身。
- ^ Angelique Chrisafis (2007年3月3日). “Found in India: the last king of France”. The Guardian. 2020年2月5日閲覧。
参考文献
編集- 清水正晴『ジャンヌ・ダルクとその時代』現代書館、1994年11月。ISBN 978-4-7684-6646-9。
- カルメット, ジョセフ『ブルゴーニュ公国の大公たち』田辺保訳、国書刊行会、2000年5月。ISBN 978-4-336-04239-2。
関連図書
編集- Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 325–328.
- Wood, James, ed. (1907). . The Nuttall Encyclopædia (英語). London and New York: Frederick Warne.
関連項目
編集- フランスの歴史
- フランス君主一覧
- ナバラ君主一覧
- スペイン君主一覧
- ナポリとシチリアの君主一覧
- パルマ公の一覧
- 王室の一覧
- コンデ公
- カペー家
- オルレアン家
- ブルボン公
- ブルボン島
- ムーラン (アリエ県)
- バーボン・ウイスキー:ブルボンの英語読みに由来する。
- ブルボン・ボパール家:ボーパールに末裔を称する一族が居住している。