レジティミスム
レジティミスム、正統派、正統主義(フランス語: Légitimisme)は、「フランスとナヴァルの王はサリカ法の単純適用によってのみ選ばれるべき」とする立場をとるフランスの君主制支持運動。この立場を支持する者をレジティミスト (Légitimiste) と呼ぶ。フランス復古王政期には「ユルトラ王党派」と呼ばれ、1830年の7月革命で王位を追われたブルボン王朝の嫡系を強く支持した。フランスの歴史家ルネ・レーモンはレジティミストを、オルレアニスト、ボナパルティストと並ぶフランスにおける3つの右翼の派閥の一つと分析している。レジティミストは反革命的な政治主張によって特徴づけられ、1789年のフランス革命、フランス共和国および両者と結びつくもの全てを否認している。このため伝統的カトリック教徒とも立場が近く、また次第に極右政治運動と結びつきつつある。
歴史
編集ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)
編集復古ブルボン朝が1814年に始まると、非常に厳しい参政権制限を背景に、ユルトラ王党派が1815年から1816年(「またと見出しがたい議会」 (la Chambre introuvable) と呼ばれた)、さらに1824年から1827年の間、代議院の多数派を占めた。ユルトラたちは「国王以上に国王支持派」 (plus royalistes que le roi) と言われ、ルイ18世(在位1814年 - 1824年)とシャルル10世(在位1824年 - 1830年)の治世に政権与党の座を占めた。ユルトラはルイ18世による立憲君主体制および君主権の制限に反対し、アンシャン・レジームの再構築とフランス革命による歴史の断裂を消し去ることを望んだ。復古王政期に彼らが敵視したのは、自由主義、共和主義そして民主主義の思想だった。ルイ18世は民衆に受け入れられやすいよう、穏健な形でアンシャン・レジームに「回帰」することを望んだが、ユルトラたちは完全な旧体制回帰の夢をあきらめていなかった。ユルトラが王政復古期に政治的に重要な役割を果たせたのは、一部には彼らに非常に有利になる選挙法が定められていたためだった。ユルトラたちは世襲議員として貴族院に席を占めており、また当時の選挙法はおよそ10万人の成人男性にのみ選挙権を与えていたのである。
ルイ18世の治世初期の大臣たち、タレーラン、リシュリュー公、デュカス公らはユルトラに支配された「またと見出しがたい議会」によって退けられた。ついにはルイ18世は、この混乱を招くばかりの議会を解散したが、彼らに代わって議席を占めた自由主義者たちも、ユルトラより御しやすいとは到底言い難かった。1820年に国王の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)の次男でユルトラ反動主義者だったベリー公が暗殺され、リシュリュー公が一時的に政権を担当した後で、ヴィレール伯爵を首班とするユルトラ政権が再び成立した。
1824年に穏健派すぎると見られていたルイ18世が崩御すると、ユルトラの反転攻勢が始まった。1825年1月、ヴィレール内閣は(聖餅が中に入っていようがいまいが)聖器を盗んだ者を死刑とすることを定めた涜聖取締令を通過させた。この「時代錯誤な法律」(フランスの歴史家・政治家ジャン=ノエル・ジャネネの言)は結局一度も適用されないまま、ルイ・フィリップ(在位1830年 - 1848年)の治世の最初の月に廃止された。ユルトラたちはまた急進主義者を処罰するための法廷を設置するよう求め、報道の自由を制限する法案を通過させた。
7月王政期から第二帝政期(1830年 - 1871年)
編集1830年の7月革命で、より自由主義的な政治を支持するオルレアン家のルイ・フィリップが王位にのぼると、ユルトラたちは田舎にある自分たちの城に戻って公的活動から完全に身を引いてしまい、その影響力は衰えた。彼らは時とともにその政治信条を軟化させ、ブルボン家の王位復帰が彼らの第一目標となった。1830年以後、ユルトラたちはレジティミスト(正統王朝主義者)として知られるようになった。
1830年から1848年の7月王政期、レジティミストたちは日蔭者の地位に追い込まれ、多くが積極的な政治参加を止めた。自分たちにとって正統な国王は誰なのかという議論があった1844年以前には、レジティミストをめぐる状況はより錯綜していた。シャルル10世と息子の王位継承者アングレーム公ルイ・アントワーヌは、彼らの孫と甥であるシャンボール伯爵アンリのために王位請求を放棄していた。シャルル10世とアングレーム公が1836年と1844年にそれぞれ没するまでレジティミストたちは、正統主義の面からどちらかと言えばシャンボール伯ではなく、王位を放棄した2人を国王とそれぞれ認めていた。
ルイ・フィリップが1848年革命で王位を追われると、レジティミストたちの立場は強まった。シャンボール伯に子供が出来ないことがレジティミストたちの弱みだったが、彼らは第二共和政時代に政治的存在感を見せた。レジティミストはオルレアニスト(オルレアン王朝主義者)と連合して秩序党を結成し、1849年5月の総選挙から1851年12月2日に大統領ルイ=ナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こすまで政権与党の地位にあった。レジティミストは1848年12月から1849年11月まで続いたオディロン・バロ内閣の重要な一角を占め、中等教育をカトリック教会の手に委ねることを定めたファルー法を通過させた。
この時期、レジティミスト陣営ではオルレアニストとの「融合」がさかんに議論された。両党派の融合によって、王政回帰をよりスムーズに実現できるのではないか、と考えられたのである。この動きに期待したルイ・フィリップの息子たちの何人かは、シャンボール伯を国王として持すると表明した。しかし両派の合同は実現せず、1850年以後は再び対立するようになった。熱心なオルレアニストはルイ・フィリップの三男ジョアンヴィル公を共和国の大統領候補に擁立しようとしており、これに対してレジティミスト陣営の大多数は、次善の策として対抗馬のボナパルト支持に傾いていた。これがボナパルトの野心実現を後押ししたのであるが、レジティミストたちは1851年12月にボナパルト大統領が決めた普通選挙制への移行には反対した。そしてオルレアニストの指導者たちと同様、レジティミストの指導者もボナパルトのクーデターに際して逮捕された。第二帝政の崩壊まで、レジティミストは再び国政から締め出された。
第三共和政初期(1871年 - 1883年)
編集19世紀後半になっても、レジティミスムは多数のエリート階層の政治主張の重要な一部であり、アンシャン・レジーム期以来の貴族たちの大部分から熱烈に支持されていた。1870年のパリ包囲戦と1871年のパリ・コミューンの後、レジティミストたちはもう一度だけ政治的優位を手に入れることが出来た。1871年8月6日に男子普通選挙制の下で行われた民主的選挙で、国民議会では王党派が諸県の支持を得て多数派を占めた(パリのみは全て共和主義者の議員が当選した)。当時、もはやシャンボール伯が子供を残さずに死去することがほぼ確実視されていたレジティミスト陣営では、オルレアニスト陣営との合同を進めていく用意ができていた。自由主義者の集まるオルレアニスト陣営はシャンボール伯を国王と認め、オルレアン家の王位請求者であるパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールもシャンボール伯をフランス王家の家長と認めた。その見返りに、レジティミストたちも会議決定により、シャンボール伯が没した後はパリ伯が後継の国王となることを認めた。しかし、フランスの君主制支持者たちにとっては不運なことに、シャンボール伯はアンシャン・レジームの象徴であるフルール・ド・リスの紋章を捨てて当時フランス国旗となっていたトリコロールをフランス王国旗に使うことを拒んだために、その死まで王制への移行を実現することが出来なかった。そのうち君主制支持者たちは、共和制転覆を狙って1877年に5月16日危機を引き起こしたが失敗し、それ以後も命脈を保ち続けたものの、長く議会での優位を失った。
シャンボール伯の没後、ブルボン王家の分枝のうち最も正統王朝に血統の近い家系は、スペイン王フェリペ5世の系統(ブルボン=エスパーニュ家とその支流)のみとなった。しかしフェリペ5世の男系子孫は1713年のユトレヒト条約の締結以後、フランスの王位継承権を放棄させられた形となっていたため、フランスのレジティミストの多くは、シャンボール伯の没後はパリ伯とその子孫(オルレアン家)を正統な王位請求者と見なすようになった。
ところがレジティミストの中には、権限喩越 (Ultra vires) であり、かつ基本的なフランス王位継承法に反しているとして、フェリペ5世の王位継承権放棄を否認し、カルリスタと呼ばれる党派に支持されてスペイン王位を請求していた、1883年以後のブルボン家の嫡系にフランス王を名乗る権利があると主張する者も存在した。ブルボン家「嫡系」の当主が積極的にフランス王位を主張しなかったこともあって、この集団に属する者はごくわずかだった。
第三共和政中期から後期(1883年 - 1940年)
編集ドレフュス事件が騒がれる中で1899年に結成された民族主義者の組織「アクシオン・フランセーズ」は、シャルル・モーラスの影響で君主主義に方針を転換させた。モーラスの単一民族主義と国王およびカトリック教会への帰依は実用的な観点から採用されたものだったが、少なくとも1926年に教皇ピウス11世から非難を受けるまでは、アクシオン・フランセーズはフランスの反動分子の間で人気を保ち続け、一部のレジティミストをも魅了したと思われる。モーラスは早くも1919年には女性参政権への支持を表明したが(フランスの女性参政権は1944年になってシャルル・ド・ゴールによって認められる)、これは1871年の総選挙で地方の人々が君主制支持者に投票したのと同様に、女性たちもより保守的な候補を支援するだろうと見込んだからであった。
第三共和政時代に「シニストラスム」の影響を受けた一部の保守派たちは、反革命や反共和主義と関連の深い「右翼」という言葉で自分たちを呼ぶようになった。シャンボール伯が死去して10年後の1893年、共和国体制に順応した一部のレジティミストたちは「立憲主義右派」 (Droite constitutionnelle) ないし「共和主義右派」 (Droite républicaine) と自称していた。しかし彼らは1899年にはその自称を変え、1902年には「アクシオン・リベラル」党として総選挙に打って出た。同党は一部の郷愁的なレジティミストを引きつけて、1910年から右翼を公然と名乗っていた唯一の政党であり、1924年以後「右翼」という言葉からは実質的に議会の右翼席という(非党派的な)意味が失われた。
この時期までに、大多数のレジティミストたちは田舎にある自分たちの持ち城に帰り、政治の舞台から身を引いた。アクシオン・フランセーズの運動は1930年代を通じて影響力を保ち続けていたが、同組織による王制復古の主張は、古いレジティミストたちのそれとは全く異なる動機に基づくものであり、モーラスがカトリック信仰を金のために利用しているのを見たレジティミストたちは、アクシオン・フランセーズと決別した。このため、レジティミストたちの政治活動は1920年代、1930年代を通じて低調であった。アクシオン・フランセーズとは関係しない極右活動家の組織した1934年2月6日暴動でも、組織者たちの反動的な信念は、ほとんど人々の共感を呼ばなかった。王党派の貴族たちは、大きな勢威をふるっていたナチズムやファシズムの影響を受けた新しい極右活動家と、自分たちは全く別の存在だと考えていた。ところが、レジティミストたちは1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻とそれに伴う第三共和政の崩壊を、「神の御業」と呼んで歓喜をもって迎えたという点ではモーラスと何ら変わるところはなかった。レジティミストの多くが、占領統治下のフランスに反動的な方針を課すことのできる思わぬ機会を得たと考え、フィリップ・ペタンを首班に据えたヴィシー政権に次々に参画した。
ヴィシー政権から第二次大戦以後(1940年 - 現在)
編集歴史家ルネ・レーモンのフランス右翼に関する研究によれば、レジティミストたちはヴィシー政権期に政治的な重要性を回復することが出来たという。レーモンに言わせれば、彼らのうちのある者はアルジェリア戦争(1954年 - 1962年)において秘密軍事組織を支援していたし、マルセル・ルフェーブルが1970年に創設した聖ピオ10世会は、特にフランス支部に関して、レジティミスム運動に共感しているという。
ブルボン家「嫡系」の王位請求を支持する集団は第二次世界大戦後に強大化した。その原因としては、まずオルレアン家の王位請求者であるパリ伯アンリが政治的に左翼であったこと、そしてブルボン家「嫡系」の王位請求者であるセゴビア公ハイメ(スペイン王アルフォンソ13世の廃嫡された次男で、カルリスタ王位請求者の後継者の一人として扱われた)によるフランス王位に対する積極的な請求活動があった。そして1980年代までに、ハイメの息子であるカディス公アルフォンソはレジティミストの支持を獲得し、ついにブルボン家嫡系の当主として、自分の支持者たちに「レジティミスト」の政治的党派名を返還するように求めたのである。こうした経緯から、スペイン生まれでアンジュー公を名乗るルイ・アルフォンス・ド・ブルボン(カディス公の次男、スペイン語名はルイス・アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・マルチネス=ボルディウ)が現在のレジティミストの王位請求者であり、フランスのレジティミストたちにとっての正統なフランス王「ルイ20世」ということになる。1987年、オルレアン家の相続人(および嫡系以外のブルボン家の人々)は、ルイ・アルフォンスと「アンジュー公」を名乗る権利を争い、また彼がフランス王家の紋章を使うのをやめさせるために訴訟を起こしたが、これらの訴えは1989年3月に共和国裁判所によって棄却された。アンジュー公ルイ・アルフォンスは、父方の祖母を通じてフランスの市民権を有しており、また一般的にカペー家の正統かつ嫡系の家長と見なされている。
2006年、フランスのカトリック教会の極端な伝統主義者たちの一派は、教皇ベネディクトゥス16世の神学面での保守性に非常に勇気づけられた。レジティミストたちは欧州憲法に拒絶反応を示しており、フランスの独立を脅かすと認識したものには何であれ強く反対している。現在のレジティミストたちは、その考え方や意見も多様といえる。パリのサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会に集まる伝統的カトリック教徒と一緒に行動するような宗教的な人々もいれば、マリーヌ・ル・ペンの国民連合やフィリップ・ド・ヴィリエのフランス運動の集会に顔を出す政治的な人々もいる。その他の多数派は立憲君主主義者で、スペインやイギリスのような憲法と議会をもつ君主政体をフランスにも導入すべきだと考えている。
レジティミストのフランス王位請求者(1792年以後)
編集肖像 | 名前 | 生没年 | 付記 |
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(ルイ・オーギュスト・ド・フランス) 1792年8月10日 - 1793年1月21日 |
1754年8月23日 - 1793年1月21日 | ||
(ルイ・シャルル・ド・フランス) 1793年1月21日 - 1795年6月8日 |
1785年3月27日 - 1795年6月8日 | ノルマンディー公。ルイ16世の次男。 | |
(ルイ・スタニスラス・グザヴィエ・ド・フランス) 1795年6月8日 - 1824年9月16日 |
1755年11月17日 - 1824年9月16日 | プロヴァンス伯。ルイ16世の弟。 | |
(シャルル・フィリップ・ド・フランス) 1824年9月16日 - 1836年11月6日 |
1757年10月9日 - 1836年11月6日 | アルトワ伯。ルイ18世の弟。 | |
(ルイ・アントワーヌ・ド・フランス) 1836年11月6日 - 1844年6月3日 |
1775年8月6日 - 1844年6月3日 | アングレーム公。シャルル10世の長男。 | |
(アンリ・シャルル・フェルディナン・ダルトワ) 1844年6月3日 - 1883年8月24日 |
1820年9月29日 - 1883年8月24日 | シャンボール伯。ルイ19世の弟ベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワの息子。 |
1870年代、対立していたオルレアニストとレジティミストは、フランスの王制復古の共通目的のために和解した。パリ伯はシャンボール伯をフランスの筆頭王位請求者と認め、子供のないシャンボール伯はその見返りとして、パリ伯を自分のフランス王位請求権の相続人と認めた、とオルレアン派は主張している。実際にはシャンボール伯は、伝統公法を存知し決して破らないように、和解は家族内の問題にすぎないと述べている。さらに、甥のマドリード公ジャック・ド・ブルボンに、王族の勲章やシャルル10世の皿などを遺産として譲渡している[1]。
シャンボール伯の没後、多くのレジティミストがパリ伯をオルレアニスト、レジティミスト共同のフランス王位の相続人と見なすようになった。現代のヨーロッパの王侯の大部分は、いまやオルレアン家が正統なフランス王家になったとみなしている。現在のポルトガル王位請求者のドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサによると「オルレアン家がフランス王家であると全てのヨーロッパ王侯が認めている[2]」とのことである。
オルレアニストと、シャンボール伯の後継者としてオルレアン家の当主を正統と認めるレジティミストは、シャンボール伯(「アンリ5世」)以降の王位請求権は以下のように継承されたと見なしている。
肖像 | 名前 | 生没年 | 付記 |
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(ルイ・フィリップ・アルベール・ドルレアン) 1883年8月24日 - 1894年9月8日 |
1838年8月24日 - 1894年9月8日 | パリ伯。ルイ・フィリップ1世の孫。オルレアニストの王位請求者としてルイ・フィリップ2世だったが、シャンボール伯の没後に正統王朝の後継者としてフィリップ7世に改めた。 | |
(ルイ・フィリップ・ロベール・ドルレアン) 1894年9月8日 - 1926年3月28日 |
1869年8月24日 - 1926年3月28日 | オルレアン公。フィリップ7世の息子。 | |
(ジャン・ピエール・クレマン・マリー・ドルレアン) 1926年3月28日 - 1940年8月25日 |
1874年9月4日 - 1940年8月25日 | ギーズ公。フィリップ8世の従弟。ルイ・フィリップ1世の曾孫。 | |
(アンリ・ロベール・フェルディナン・マリー・ルイ・フィリップ・ドルレアン) 1940年8月25日 - 1999年6月19日 |
1908年7月5日 - 1999年6月19日 | パリ伯。ジャン3世の息子。 | |
(アンリ・フィリップ・ピエール・マリー・ドルレアン) 1999年6月19日 - 2019年1月21日 |
1933年6月14日 - 2019年1月21日 | パリ伯およびフランス公。アンリ6世の長男。 | |
(ジャン・カール・ピエール・マリー・ドルレアン) 2019年1月21日 - |
1965年5月19日 - | パリ伯。アンリ7世の長男。 |
一方、より熱心なレジティミストはルイ14世の孫の一人であるスペイン王フェリペ5世によるフランス王位継承権放棄を無効であると主張し、シャンボール伯が1883年に死去して以後、フランス王位はフェリペ5世の嫡系子孫に渡ったと見なしている。
肖像 | 名前 | 生没年 | 付記 |
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(ジャン・シャルル・ド・ブルボン) 1883年8月24日 - 1887年11月21日 |
1822年5月15日 - 1887年11月21日 | モンティソン伯。ルイ14世の孫アンジュー公フィリップの玄孫。 | |
(シャルル・マリー・ド・ブルボン) 1887年11月21日 - 1909年7月18日 |
1848年3月30日 - 1909年7月18日 | アンジュー公。ジャン3世の長男。 | |
(ジャック・ピエ・ド・ブルボン) 1909年7月18日 - 1931年10月2日 |
1870年6月27日 - 1931年10月9日 | アンジュー公。シャルル11世の息子。 | |
(アルフォンス・シャルル・マリー・ド・ブルボン) 1931年10月2日 - 1936年9月29日 |
1849年9月12日 - 1936年9月29日 | アンジュー公。シャルル11世の弟。 | |
(アルフォンス・リオン・デスパーニュ) 1936年9月29日 - 1941年2月28日 |
1886年5月17日 - 1941年2月28日 | スペイン国王アルフォンソ13世。シャルル12世のはとこ。スペイン王アルフォンソ12世の長男。 | |
(ジャック・アンリ・ド・ブルボン) 1941年2月28日 - 1975年3月20日 |
1909年7月18日 - 1975年3月20日 | アンジュー公。アルフォンス1世の次男。1957年にジャック2世からアンリ6世と改めた。 | |
(アルフォンス・ジャック・ド・ブルボン) 1975年3月20日 - 1989年1月30日 |
1936年4月20日 - 1989年1月30日 | アンジュー公。アンリ6世の長男。 | |
(ルイ・アルフォンス・ド・ブルボン) 1989年1月30日 - |
1974年4月25日 - | アンジュー公。アルフォンス2世の次男。 |
系譜
編集
脚註
編集- ^ https://archive.org/details/latraditionmonar00watr
- ^ “Dom Duarte de Bragance : « La République est très démocratique, mais a déjà mis le pays en banqueroute par deux fois ! »”. L'Incorrect. (2019年1月28日) 2019年2月21日閲覧。