マルセル・ルフェーブル
マルセル=フランソワ・マリエ・ジョゼフ・ルフェーヴル(Marcel-François Marie Joseph Lefebvre, 1905年11月29日 – 1991年3月25日)は、フランスのカトリック大司教。西アフリカの教皇使節と聖霊修道会(英: Congregation of the Holy Spirit; Holy Ghost Fathers とも)の総長としての職務を経て、第二バチカン公会議に関連した教会の変化への反対を主導した。
1970年に、カトリックの伝統主義を擁護を標榜する司祭団体である聖ピオ十世会 (SSPX)を創立した。1988年、教皇ヨハネ・パウロ2世の命に反し、同会での活動を続けるため4人の司教を聖別(叙階)した。教皇庁は直ちに、彼と叙階式に参加した他の司教が教会法の下に自動破門の制裁を受けたと宣言した[1]。ルフェーヴル大司教の支持者は破門について異議を唱えてきた。2009年1月21日、教皇庁は4人の司教の破門を取り消した[2]。
生涯
編集青少年期
編集フランス、ノール県のトゥールコワンで生まれ[3]、3番目の子供で次男であった[4]。 父は工場主であるルネ・ルフェーヴルは、「敬虔なカトリックで、君主制に愛着を抱き、アクシヨン・フランセーズのメンバー」[5] であった 。ルネは、1944年にフランスのレジスタンス活動及びイギリスへの諜報活動により、ゲシュタポが収容したドイツ東ブランデンブルクのゾネンブルク・ナチス強制収容所で亡くなった[6]。 母はガブリエル・ヴァティーヌといい、1938年に亡くなっている[6]。
両親は敬虔なカトリック信徒であり、子供を毎日ミサに連れていった[4]。父は熱烈な王党派であり[7]、第一次世界大戦中にトゥールコワンがドイツに占領されている間は、イギリス諜報機関へのスパイ組織を担った[6]。
1923年に司祭になるための勉強を始め、彼の父の強い勧めによりローマのフランス人神学校に行った[8]。 後に彼は保守的な物の見方を、校長でブルトン人司祭であるアンリ・ル・フロック神父の御陰であるとした[9]。 彼の勉強は、1926年と1927年に兵役に就いたことにより中断した[10]。1929年5月25日、彼はローマの聖ヨハネ・ラテラノ大聖堂で、バジリオ・ポンピージュ枢機卿により助祭に叙階された[11]。1929年9月21日、所属する教区である[12]リールのアキーユ・リエナール司教(間もなく枢機卿となる)により、司祭に叙階された[13]。叙階後もローマで勉強を続け、1930年7月に神学の博士課程を終えた[14]。
1930年8月に、リエナール枢機卿はルフェーヴルをリールの郊外のロムの小教区の助任司祭に割り当てた[15]。これより以前に、彼は聖霊修道会の会員として布教任務につくために、教区の任務を解かれることを要望していた。しかし、枢機卿はリール教区の小教区の任務に従事している間に考えれば良いと断言した[11]。1931年7月には教区の任務を解かれた。 9月にはオルリーの聖霊修道会の修練院に入った[4]。1年後の1932年9月8日、3年間の請願を立てた[16]。
聖霊修道会司祭としての彼の最初の任務は、アフリカのガボンの首都リーブルヴィルにある聖ヨハネ神学校の教授職であった[17]。1934年には神学校の校長となった [18]。1935年には終生請願をした。ガボンで長上として、多くの聖霊修道会の宣教活動に従事した[19]。1945年10月、ルフェーヴルは総長により、フランスに戻ってモルタンの聖霊修道会の神学校の校長という新しい任務に就くよう命じられた[15]。
アフリカの司教
編集彼のフランスへの帰還は、長くは続かなかった。1947年6月12日、教皇ピオ12世は彼をセネガルのダカールの代牧司教に任命し [20]、アンテドンの名義司教の座を与えた[21]。1947年9月18日には、彼を司祭に叙階したリエナール枢機卿の司式により、トゥールコワンの彼の家族の小教区で司教に聖別され、ジャン=バティスト・フォーレ司教とアルフレッド=ジャン=フェリックス・アンセル司教が立ち会った[11][22]。
その新しい地位により、ルフェーヴルは350万人中わずか5万人のカトリック信者しかいない地域の責任を負うことになった[23]。
1948年9月22日、彼はダカールの代牧を続ける一方で[24]、さらなる責任を負うことになった。ピオ12世は、フランス領アフリカの教皇使節に彼を任命したのである[25]。この資格で、彼はアフリカの46教区[26]における教会当局への教皇庁の代理人となった[27]。そして新たな責務と共に、彼はエウロパのアルカディオポリスの名義大司教に任命された[28]。
教皇使節としての主要な任務は、フランス領アフリカに教会構造を設立することであった[29]。ピオ12世は相応しいヒエラルキーへの迅速な移行を望んでいた。ルフェーブルは新しい司教を選任したり[26]、 司祭や修道女の数を増す責任を負っていた[30]。 また、様々な教区での教会の数を増やす任務もあった[3]。
1955年9月14日、ダカール代牧区は大司教区となり、ルフェーヴルは最初のダカールの首都大司教となった[29][31]。ピオ12世が、聖職者や信徒に第三世界での布教活動を指示し、より多くの宣教師を求めた教書「フィデイ・ドヌム」を書いている間、ルフェーヴル大司教は最初かつ最も重要なアドバイザーであった[32]。
1958年にピオ12世が逝去して教皇ヨハネ23世が跡を継ぎ[33]、1959年にルフェーヴルに教皇使節としてかダカールの大司教として留まるかという選択を与えた後に[30]、 他の人物をフランス領アフリカの教皇使節に任命した。ルフェーヴルはダカールの大司教を1962年1月まで続け[30]、その後はフランスのチュールに移動となったが[3]、 大司教の肩書きはそのまま保持していた[34]。 1960年に、教皇ヨハネス23世は、彼を第二バチカン公会議の中央準備委員会に任命した[35]。
聖霊修道会の総長
編集1962年7月26日、聖霊修道会の総会はルフェーヴルを総長に選出した[36]。彼は宣教分野での経験により、広く尊敬されていた[3]。その一方で、ある進歩的な(特にフランスの)会員は、彼の管理のスタイルが権威主義的であると考え、急進的な改革を望んでいた[37]。1962年8月7日、ルフェーヴルはフリギア・シンナダの名義大司教区を与えられた[38]。
ルフェーヴルは、修道会の影響力のある会員から、彼が現代教会の指導者や、特にフランスでの司教会議の現代化と改革の要求から距離を置いていると考えられ、益々非難されるようになった。1968年9月、第二バチカン公会議の変化後における修道会の方向を議論するために、聖霊修道会の総会が開かれた。総会での最初の行動は、何人かの調停者を選んで彼の代わりに総会を指導することであった。 ルフェーヴルは、教皇パウロ6世に聖霊修道会の総長としての辞表を提出した[39]。 後に、彼はもはや聞き従うことを望まない修道会の総長に留まることは不可能となったと語った[11]。
第二バチカン公会議
編集教皇ヨハネ23世に、第二バチカン公会議の中央準備委員会のメンバーに任命され[40]、公会議で司教が参考に供するために提出される原稿の議論に参加した[41]。公会議の1会期(1962年10月から12月)の間[42]、彼は公会議の協議による方向性を懸念するようになった[3]。彼は、教父の国際的グループとして知られる司教の研究グループにおいて、主導的な役割を果たした[43]。
公会議における懸念の主要な部分は、宗教の自由の原理に関する討論であった[44]公会議の3会期(1964年9月から11月)の間[45]、ペリクル・フェリチ大司教は、ルフェーブルと他の同意見の司教がその話題に関する文書の草案を書き直す特別4人委員会に任命されたと宣言したが[46]、この手段は間もなく教皇の認可を経ていないことが分かり、文書の草案を準備する責任の多くは、キリスト教一致促進のための教皇庁立協議会に与えられた[47]。「宗教の自由に関して」という題の草案に代わり、彼とアルフレド・オッタビアーニ枢機卿は、「教会と国家の関係及び宗教的寛容」を扱う文書を支持した[48]。司教団の国際的グループは、公会議の第4会期まで延期された書類への予選票を(修正案と共にであるが)得ることが出来たが、公会議での圧倒的多数により、1965年12月7日に採択された宣言「ディグニタティス・フマネ」(人間の尊厳、ラテン語: Dignitatis humanae) の最終版の文書を阻止することは出来なかった[49]。何人かは、この圧倒的大多数は、最初は留保や反対すらあった高位聖職者間への公会議の改革派の司教団による強力なロビー活動によるものであるという観点を表明した[50]。
聖ピオ十世会の創立
編集聖霊修道会の総長を引退した後、1973年まで神学生が聖職者となる儀式であったトンスラ[51]を拒否されたローマのフランス人神学校からのカトリック伝統主義者の接近を受けた[52]。彼等は勉強を終えるための保守的な神学校を求めた。彼等をスイスのフリブール大学に導いた後[53]、 ルフェーブルは彼等神学生を個人的に教えるよう要請された[53]。 1969年に当地の司教からフリブールに神学校を設立する許可を受けて、神学校は9人の神学生と共に開校し、1971年にはスイスのエコンに移転した[54]。
ルフェーヴルは神学生に団体の創立を提案した[53]。1970年11月、フランソワ・シャリエール司教は、聖ピオ十世会を6年間暫定的な許可の下に「ピア・ウニオ」(公的に修道者組織として認められるための最初の段階)[55]として創立した。
神学的な見解の異なるフランスの司教は、聖ピオ十世国際神学校を疑念を以てあしらい、それが「野良猫神学校」であるとした[56]。彼等は、そこの如何なる神学生も教区に入籍させないだろうと示唆した[57]。
1974年11月、2人のベルギー人司祭が枢機卿委員会の指示の下に厳格な調査をし[57]、好意的な報告をしたと言われている [58]。 しかし、エコンで、彼等は結婚した者への司祭叙階は間もなく普通のこととなるとか、真実は時代と共に変化し、イエズス・キリストの復活における伝統的な概念は議論を招きやすい等、神学生や職員が恥ずべきものであると反対した多くの神学的見解を表明した[57]。後に「疑い様の無い強い憤り」と述べた雰囲気で[57]、ルフェーヴルは、当時教会で進行していた変革において明らかに見られた現代主義やリベラリズムの潮流を強烈に攻撃した宣言を書いた[59]。
バチカンとの衝突
編集1975年1月、フライブルクの新しい司教は、聖ピオ十世会に対する仮認可を撤回する意図を表明した。ルフェーヴルは枢機卿委員会との2度の会議に参加したが、司教は1975年5月6日にその意図を実行に移した[57][60]。 この行動は、1975年6月にルフェーブルに手紙を書いた教皇パウロ6世により支持された。それでも、ルフェーヴルは事業を継続した[61] 。1976年5月24日の教皇枢密院会議で、パウロ6世はルフェーヴルを名指しで非難し、彼のその支持者に対して考えを改めるように呼びかけた[62]。
1976年6月29日、当地の司教の認可無しでローマから禁じるようにという手紙を受け取っていたにもかかわらず、計画していた司祭叙階を実行に移した。その結果、司祭を叙階することを禁じられた。1週間後、司教省長官はルフェーブルに、彼の状況を正常化するには教皇に許しを請わなければならないと通知した。彼は書面での返答で、教会の現代化は、公会議前の教会の高位聖職者と高位のフリーメーソンによる秘密の協定に由来する「現代人の考えとの妥協」であると主張した[63]。ルフェーヴルは、その時教皇に詫びていなかったので、聖職停止となったことを知らされ[64]、合法的には秘跡を実行することが出来なくなった[65]。彼は新しい様式のミサを捧げることを禁じられたと発言し[66]、パウロ6世は明らかにこれを本気で受け取り、「ルフェーヴルは、以前の式次第を用いて秘跡を実行することにより罰を逃れた」と述べた[67]。 聖職停止後もミサを捧げ、彼の神学校の神学生に対する叙階の秘跡を含む他の秘跡を実行し続けた。
1976年9月11日、パウロ6世はルフェーヴルと謁見し[68]、1ヶ月後に書簡を送って叱責し、謁見でも行った要請を繰り返した [69]。その後1978年に新しい教皇に選出されたヨハネ・パウロ2世は、選出されてから60日後にルフェーヴルと謁見したが[70]、合意には至らなかった。
エコンでの司教叙階
編集1987年、81歳のルフェーヴルは、彼の死後に職務を継続する司教を聖別(叙階[71])する意図を表明した[72]。カトリック教会法第1013条では、司教叙階は教皇の許可を必要としていたので、このことは議論の的となるものであった[73]。
1988年5月5日、ルフェーヴルはヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の第265代ローマ教皇ベネディクト16世)との聖ピオ十世会の状況を正常化する協定に署名した。ラッツィンガー枢機卿は1人の司教が同会のために叙階されることに同意した[74]。ところが彼は合意した協定を破棄し、後継者を得るために必要ならば、教皇の認可なしもやむをえないという見方を取るようになった[75]。 教皇は、彼に「神学的かつ教会的な結果」の警告をし、「離教的な行動」を取らないようにと要請し、ラッツィンガー枢機卿は、バチカンを代表して直接面談し、「司教があくまでも分裂(シスマ)の道を進むのであれば、教会を破門されるだろう」と「改めて具体的に警告」して、伝統派を牽制した。しかしルフェーブル大司教は、この警告を無視し[76]、1988年6月30日、 ルフェーヴルはブラジルカンポのアントニオ・デ・カストロ・マイヤー名誉司教を共同司式者として4人の同会の司祭であるベルナール・ティシエ・ド・マルレ、リチャード・ウィリアムソン、アルフォンソ・デ・ガラレタとベルナール・フェレーの4人を司教に聖別(叙階)した[77]。
7月1日、司教省は、この司教叙階が離教的行動であり、直接関わった6人はそれ故に自動破門を招いたという声明を出した[78]。翌7月2日、教皇ヨハネ・パウロ2世は自発教令「エクレジア・デイ」(神の教会)[79]で、「この司教叙階は離教であり、教会法第1382条により、関わった司教や司祭は自動的に破門された[80]」と述べ、司教叙階を非難した[81]。
ルフェーブルは、彼と他の司教叙階に関わった聖職者が「ローマから離れた」のではなく、それ故離教者ではないと宣言し[82]、かつ司教叙階は「必要不可欠なケースであると分かった」が、第二バチカン公会議以来起こっている変化がカトリックではないことをローマに理解させる事ができなかったと語った[83]。間もなく司教に聖別される4人の司祭に宛てられた手紙で、「ローマは信仰を失ってはいないと言えると私は思わない」と書いた[84]。 1991年3月25日に、85歳で癌によりスイスのマルチニーで亡くなった[85]。
神学的立場
編集彼は以下の立場と関連があるとされていた。
脚注
編集- ^ Canon 1382 of the Code of Canon Law
- ^ Pope lifts excommunications of Lefebvrite bishops
- ^ a b c d e Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Chapter 1).
- ^ a b c Monsignor Lefebvre in his own words (February 2002) Archived 2006年12月6日, at the Wayback Machine..
- ^ 『バチカン・シークレット』、p.173.
- ^ a b c Jeanette M. Pryor & J. Christopher Pryor, "René Lefebvre and the Holocaust[リンク切れ], Le Floch Report, March 19, 2006.
- ^ A convinced monarchist, he devoted himself during the whole of his life to the cause of the French Dynasty, seeing in a royal government the only way of restoring to his country its past grandeur and a Christian revival. A Calvary 1941-1944 René Lefebvre Part 1, June 1984, Volume VII, Number 6, The Angelus
- ^ In 1923 Marcel followed his brother to the French Seminary in Rome , taking his father’s advice (or rather, obeying his father’s command) to avoid the diocesan seminaries, which he suspected of liberal leanings. The ghost at all our tables, Oriens journal
- ^ Archbishop Lefebvre readily admitted that were it not for the solid formation he received from Fr. Le Floch, he too might have succumbed to the creeping liberalism of the age. I have handed on what I have received by John Vennari, published in The Angelus [August 2005]
- ^ Monsignor Leferbve in his own words (April 2002) Archived 2004年3月22日, at the Wayback Machine..
- ^ a b c d Bernard Tissier de Mallerais, Marcel Lefebvre: une vie (Étampes: Éditions Clovis, 2002).
- ^ His Grace, Archbishop Marcel Lefebvre, was ordained to the priesthood on September 21, 1929, and consecrated a bishop on September 18, 1947, by (the late) Achille Cardinal Lienart, Bishop of Archbishop Lefebvre’s Diocese of Lille (France). THE VALIDITY OF HOLY ORDERS By Fr. Douglas Laudenschlager, Society of Saint Pius X, United States District
- ^ Ordained priest at Lille, France, by Msgr Achille Liénart, Bishop of Lille, on 21 September 1929 Archbishop Marcel Lefebvre - Useful Information Archived 2004年7月3日, at the Wayback Machine. Society of Saint Pius X, District of Great Britain
- ^ Seminary training: 1923-29 in the French Seminary, Rome, Doctor in philosophy and in theology. I - Archbishop Marcel Lefebvre
- ^ a b Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Chapter 3).
- ^ Monsignor Lefebvre in his own words (June/July 2002) Archived 2004年3月22日, at the Wayback Machine.
- ^ He entered the Holy Ghost Fathers in 1930 and was assigned to the Seminary of St. Mary at Libreville (Gabon) from 1932 to 1945.Some Memories of Archbishop Lefebvre's childhood Archived 2009年1月31日, at the Wayback Machine., The Angelus, November 1980, Volume III, Number 11, Sister Marie Christiane Lefebvre
- ^ Teacher of Dogma and Holy Scripture in the Seminary of Libreville, Rector from 1934, he managed to be at the same time teacher, bursar, printer, plumber, electrician, driver... maybe having already in mind his Society’s Priests! A Biography of Archbishop Marcel Lefebvre by Father Ramón Anglés
- ^ St. Michel de Ndjolé (May 1938 - August 1939), Ste. Marie de Libreville (December 1939 - August 1940), St. Paul de Donguila (August 1940 - April 1943), and finally St. François Xavier de Lambaréné (April 1943 - October 1945)
- ^ Archdiocese of Dakar - catholic-hierarchy.org
- ^ Anthedon (Titular See) - catholic-hierarchy.org
- ^ "on the 18th of September, 1947, he was consecrated bishop in his hometown by Cardinal Liénart, Bishop Fauret —his former superior at Libreville— and Bishop Ancel." A Biography of Archbishop Marcel Lefebvre by Father Ramón Anglés]
- ^ Monsignor Lefebvre in his own words (September 2002) Archived 2003年11月7日, at the Wayback Machine..
- ^ Archbishop Marcel-François Lefebvre, C.S.Sp. †
- ^ Nunciature to Sénégal
- ^ a b Monsignor Lefebvre in his own words (November 2002).
- ^ A papal representative who in the territory assigned to him has the power and duty of watching over the status of the Church and of keeping the Roman pontiff informed regarding the same. Apostolic Delegate Archived 2003年3月22日, at the Wayback Machine., from the New Catholic Dictionary
- ^ Arcadiopolis in Europa (Titular See).
- ^ a b Fr. Ramón Anglés, His Grace Archbishop Marcel Lefebvre (1905-1991) - A short biography by one of his priests.
- ^ a b c Monsignor Lefebvre in his own words (January 2003) Archived 2003年8月18日, at the Wayback Machine..
- ^ 14 September 1955 49.8 Appointed Archbishop of Dakar, Senegal Archbishop Marcel-François Lefebvre, C.S.Sp. †.
- ^ Vor 50 Jahren, am 21. April 1957, erschien die Missionsenzyklika Fidei donum von Papst Pius XII. Ein wichtigster Berater des Heiligen Vaters war kein geringerer als dessen Delegat für das französischsprachige Afrika, S. Ex. Erzbischof Marcel Lefebvre. Source: Enzyklika Fidei Donum und Erzbischof Lefebvre[リンク切れ]
- ^ At the death of Pius XII he was elected Pope on 28 October 1958, taking the name John XXIII. POPE JOHN XXIII, Vatican News Service
- ^ 23 January 1962 56.2 Appointed Archbishop (Personal Title) of Tulle, France Archbishop Marcel-François Lefebvre, C.S.Sp. †, from catholic-hierarchy.org
- ^ Yes, it is correct that I was part of the Central Preparatory Commission during the two years before the Council An Interview With Archbishop Marcel Lefebvre Archived 2009年1月31日, at the Wayback Machine., Given on 3 May 1982, to Louis Moore, Religion Editor of The Houston Chronicle
- ^ Question 2: Who is Archbishop Marcel Lefebrve?, SSPX USA
- ^ Bernard Tissier de Mallerais, Marcel Lefebvre: The Biography (Kansas City, Mo.: Angelus Press, 2004).
- ^ Synnada in Phrygia (Titular See)
- ^ July/August 2003 Monsignor Lefebvre in his own words (July/August 2003) Archived 2004年3月19日, at the Wayback Machine.
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- ^ As a member of the Central Preparatory Commission the Archbishop worked for several years upon the draft documents which the Council Fathers were to discuss (the preparatory schemas). God Bless the Archbishop Archived 2009年1月31日, at the Wayback Machine., from The Angelus, August 1983, Volume V, Number 8
- ^ The Second Vatican Council
- ^ the Archbishop found himself drawn into the role of a leader of the International Group of Fathers which came together to defend orthodoxy(God Bless the Archbishop Archived 2009年1月31日, at the Wayback Machine., from The Angelus, August 1983, Volume V, Number 8)
- ^ The voting ensued, and Archbishop Lefebvre said: "On religious liberty, non placet…because it is based on false principles solemnly condemned by the sovereign pontiffs. Archbishop Lefebvre preparing the council Archived 2003年2月24日, at the Wayback Machine.
- ^ Second Vatican Council
- ^ "It was suddenly announced that the document on Religious Liberty would be handed to a new commission for revision — a commission that included some of the most moss-backed of the moss-backed conservatives (to borrow a phrase from Archbishop Connolly!), including Archbishop Lefebvre, who later established the schismatic Society of St. Pius X." Vatican II, Part 4: The Third Session Archived 2007年9月4日, at the Wayback Machine., Corinna Laughlin, St. James Cathedral, Seattle
- ^ "In interviews with Bea and Frings, Paul VI agreed that the Christian Unity office would bear the major responsibility for revising the two declarations."(Cum Magno Dolore, Time Magazine, 23 October 1964)
- ^ Archbishop Lefebvre Preparing the Council Archived 2003年2月24日, at the Wayback Machine.
- ^ "Thus, during the final vote on the morning of December 7 (when the fathers had to choose between a simple approval or disapproval of the last draft), Lefebvre was one of the 70 — about 3 percent of the total — who voted against the schema." Marcel Lefebvre: Signatory to Dignitatis Humanae, by Brian Harrison
- ^ Der Rhein fliesst in den Tiber: eine Geschichte des Zweiten Vatikanischen Konzils, Wiltgen SVD, Ralph M., Feldkirch. Lins. cop. 1988. p. 316
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- ^ Pia unio - the preliminary stage towards becoming an officially recognized religious institute or Society of Apostolic Life. For the decree see Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Appendix V).
- ^ Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Chapter 2).
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- ^ "Archbishop Lefebvre was told that this examination was very positive and that he just had to come to Rome and clarify some questions."Conference of Father Franz Schmidberger, Superior General of the Society of St. Pius X Archived 2009年1月31日, at the Wayback Machine. at Rockdale, Sydney, Australia October 16, 1990 by Father Gerard Hogan and Father François Laisney
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- ^ Pope Paul VI canonically suppressed the SSPX and its seminary in 1975. My Journey out of the Lefebvre Schism Archived 2005年8月29日, at the Wayback Machine., by Pete Vere, Envoy Magazine, Volume 4.6, Retrieved 11 September 2006
- ^ Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Chapter 11).
- ^ Consistory for the creation of twenty new Cardinals (May 24, 1976)
- ^ "Letter of Mgr. Lefebvre to Pope Paul VI" (July 17, 1976), quoted in: Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Chapter 12).
- ^ Roger McCaffrey and Thomas Woods, “All We Ask is for the Mass”, May 2005, Catholic World News
- ^ Holier than Thou, Brian O'Neel, This Rock, April 2003, Pages 18 - 24, quoting Vere and William Woestman, O.M.I., Is the Society of St. Pius X in Schism?[リンク切れ]
- ^ The International Priestly Society of Saint Pius X XXV Anniversary 1970-1995 A family diary Archived 2007年9月28日, at the Wayback Machine., Conference given by Fr. Anglés at Kansas City, November 1, 1995
- ^ "arbitrans te poenam istam devitare, si sacramenta administras anterioribus formulis utens" (Letter to Archbishop Lefebvre, October 11, 1976)
- ^ Michael Davies, Apologia pro Marcel Lefebvre (Chapter 14).
- ^ In this letter the Pope asked Archbishop Lefebvre to accept the documents of the Second Vatican Council in their obvious meaning, the legitimacy of the revised liturgy, the obligatory character of the norms of canon law then in force, and the authority of the diocesan bishops over preaching and administration of the sacraments in their dioceses.
- ^ Weeks after becoming Pope in 1978, he granted Lefebvre's request for an audience (their only meeting) and repeatedly expressed his desire for peace.The Archbishop Calls It Quits, Richard N. Ostling, Time, 27 June 1988
- ^ 第二バチカン公会議を否定する聖ピオ十世会では、司教叙階についての記述がない旧教会法にもとづき、司教「叙階」ではなく司教「聖別」と表記している。
- ^ The situation is such, the work placed in our hands by the good Lord is such, that faced with this darkness in Rome, faced with the Roman authorities' pertinacity in error, faced with this refusal to return to Truth or Tradition on the part of those who occupy the seats of authority in Rome, faced with all these things, it seems to us that the good Lord is asking for the Church to continue. This is why it is likely that before I give acco/sspof my life to the good Lord, I shall have to consecrate some bishops. Bishops to Save the Church, Marcel Lefebvre, June 1987
- ^ "No bishop is permitted to onsecrate anyone a bishop unless it is first evident that there is a pontifical mandate." TITLE VI Code of Canon Law, canon 1013
- ^ Protocol of Agreement between the Holy See and the Priestly Society of Saint Pius X Archived 2009年1月31日, at the Wayback Machine. This is an English translation of the original French.
- ^ That is why, taking into account the strong will of the present Roman authorities to reduce Tradition to naught, to gather the world to the spirit of Vatican II and the spirit of Assisi, we have preferred to withdraw ourselves and to say that we could not continue. It was not possible. We would have evidently been under the authority of Cardinal Ratzinger, President of the Roman Commission, which would have directed us; we were putting ourselves into his hands, and consequently putting ourselves into the hands of those who wish to draw us into the spirit of the Council and the spirit of Assisi. This was simply not possible.Sermon on the occasion of the Episcopal Consecration, Marcel Lefebvre, June 1988
- ^ On 3 June, Lefebvre wrote that he would still go ahead with the 30 June consecrations. On 9 June 1988, Pope John Paul II replied to him with a personal letter, recalling the agreement the archbishop had signed on 5 May and appealing to him not to proceed with a design that "would be seen as nothing other than a schismatic act, the theological and canonical consequences of which are known to you." When no reply came from Lefebvre, this letter was made public on 16 June.Pope John Paul II, an Obituary, Latin Mass Society of Ireland
- ^ ベルナール・ルコント『バチカン・シークレット』河出書房新社、2010年、p.191.
- ^ Decree of Excommunication
- ^ http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/motu_proprio/documents/hf_jp-ii_motu-proprio_19880702_ecclesia-dei_lt.html
- ^ "In itself, this act was one of disobedience to the Roman Pontiff in a very grave matter and of supreme importance for the unity of the church, such as is the ordination of bishops whereby the apostolic succession is sacramentally perpetuated. Hence such disobedience - which implies in practice the rejection of the Roman primacy - constitutes a schismatic act (cf. Code of Canon Law, can. 751) In performing such an act, notwithstanding the formal canonical warning sent to them by the Cardinal Prefect of the Congregation for Bishops on June 17 last, Mons. Lefebvre and the priests Bernard Fellay, Bernard Tissier de Mallerais, Richard Williamson and Alfonso de Galarreta, have incurred the grave penalty of excommunication envisaged by ecclesiastical law (cf. Code of Canon Law, can. 1382)."Ecclesia Dei
- ^ "A bishop who consecrates some one a bishop without a pontifical mandate and the person who receives the consecration from him incur a latae sententiae excommunication reserved to the Apostolic See" (TITLE III Code of Canon Law, canon 1382).
- ^ We are not schismatics! If an excommunication was pronounced against the bishops of China, who separated themselves from Rome and put themselves under the Chinese government, one very easily understands why Pope Pius XII excommunicated them. There is no question of us separating ourselves from Rome, nor of putting ourselves under a foreign government, nor of establishing a sort of parallel church as the Bishops of Palmar de Troya have done in Spain. They have even elected a pope, formed a college of cardinals... It is out of the question for us to do such things. Far from us be this miserable thought to separate ourselves from Rome! Sermon on the occasion of the Episcopal Consecration, Marcel Lefebvre, June 1988
- ^ Thus, we find ourselves in a case of necessity. We have done all we could, trying to help Rome to understand that they had to come back to the attitudes of the holy Pius XII and of all his predecessors. Bishop de Castro Mayer and myself have gone to Rome, we have spoken, we have sent letters, several times to Rome. We have tried by these talks, by all these means, to succeed in making Rome understand that, since the Council and since aggiornamento, this change which has occurred in the Church is not Catholic, is not in conformity to the doctrine of all times. This ecumenism and all these errors, this collegiality - all this is contrary to the Faith of the Church, and is in the process of destroying the Church. Sermon on the occasion of the Episcopal Consecration, Marcel Lefebvre, June 1988
- ^ Letter to the Four Bishops Elect
- ^ The French-born prelate died of cancer on March 25 at the age of 85, almost three years after being excommunicated for defying papal orders., Associated Press, reproduced in the New York Times April 3, 1991
- ^ This spirit of adultery is also made clear in the ecumenism instituted by The Secretariat for the Unity of Christians. Archbishop Marcel Lefebvre's June 1988 Public Statement against False Ecumenism Archived 2006年10月13日, at the Wayback Machine., 19 October 1983, hosted by the United States district of the Society of Pius X
- ^ Archbishop Lefebvre preparing the Council Archived 2003年2月24日, at the Wayback Machine.; Hence, to accept Religious Liberty was in principle to accept the “rights of man” within the Church. Now, the Church has always condemned these declarations on the “rights of man” which have been made against the authority of God. Conference Of His Excellency Archbishop Marcel Lefebvre, Long Island, New York, November 5, 1983, hosted by SSPXasia.com
- ^ Archbishop Lefebvre is known most widely for his support of the Tridentine liturgy and his attacks on the liturgical changes initiated by Vatican II. But his complaints against Vatican II go far beyond liturgical reforms. He also rejects conciliar developments in collegiality, religious liberty and ecumenism. These are seen by him as corresponding to the Revolution's égalité, liberté and fraternité. Archbishop Lefebvre: Moving Toward Schism?, Thomas J. Reese, S.J., America, June 4, 1988
- ^ ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日
著作
編集参考文献
編集- Jean Madiran, L'Intégrisme. Histoire d'une histoire, Paris, Nouvelles Éditions Latines, 1964.
- Émile Poulat, Intégrisme et catholicisme intégral. Un réseau secret international antimoderniste : la « Sapinière », 1909-1921, Paris, Casterman, 1969.
- Yves Congar, La Crise dans l’Église et Mgr Lefebvre, Paris, Cerf, 1976.
- Marcel Lefebvre, Il L’ont découronné, Fideliter/Clovis, 1987.
- Franck Lafage, Du refus au schisme : le traditionalisme catholique, Ed. Du Seuil, 1989.
- Bernard Tissier de Mallerais, Marcel Lefebvre, une vie, Fideliter/Clovis, 2002.
- Nicolas Senèze, La crise intégraliste. Vingt ans après le schism de Mgr Lefebvre, Paris, Bayard, 2008.
- ベルナール・ルコント『バチカン・シークレット』河出書房新社、2010年 ISBN 978-4-309-20543-4