ガストン (オルレアン公)
ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス(Gaston Jean Baptiste de France, 1608年4月25日 - 1660年2月2日)は、ブルボン朝フランスの王子。オルレアン公(duc d'Orléans)。
ガストン・ドルレアン Gaston d'Orléans | |
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オルレアン公 | |
在位 | 1626年 - 1660年 |
出生 |
1608年4月25日 フランス王国、フォンテーヌブロー宮殿 |
死去 |
1660年2月2日(51歳没) フランス王国、ブロワ |
埋葬 | フランス王国、サン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ |
マルグリット・ド・ロレーヌ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ブルボン家 |
父親 | フランス王アンリ4世 |
母親 | マリー・ド・メディシス |
サイン |
生涯
編集フランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの三男として、フォンテーヌブローで生まれた。兄にルイ13世、ムッシュ・ドルレアン(夭折)、姉にスペイン王フェリペ4世妃エリザベート(イサベル)、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世妃クリスティーヌ(クリスティーナ)、妹にイングランド王チャールズ1世妃アンリエット(ヘンリエッタ)がいる。
1611年にムッシュ・ドルレアンが死亡してから、1638年にルイ13世の長子として後のルイ14世が生まれるまでの間は、フランスの推定王位継承者であった。
1608年にアンジュー公に叙され、1626年にオルレアン公、ブロワ伯、シャルトル伯となった。1628年、当時ユグノーの牙城であったラ・ロシェル包囲に軍を率いて参加。また、母マリーとリシュリュー枢機卿の政府に楯突き、ラングドックで王軍に完敗した後フランドルに逃亡した。やがて兄と和解して帰国するが、1635年にリシュリューに対して陰謀を企み国外へ逃げ、再度政府に服従させられた。
服従後もすぐに同じ陰謀を繰り返し、1642年に兄の寵臣サン=マール侯を操り、リシュリュー暗殺を画策したが失敗した。翌1643年に兄が亡くなると王国の陸軍大将となり、フランス北部でスペイン軍と戦った。1646年にはアランソン公になった。フロンドの乱(1648年 - 1653年)に際して、甥ルイ14世の重臣マザラン枢機卿に睨まれ、1652年に私領ブロワに蟄居させられ、そこで亡くなった。
子女
編集1626年8月、ナントでブルボン家支流のモンパンシエ公アンリ・ド・ブルボンの相続人マリーと結婚、1女をもうけたが、マリーは翌年に死去した。
- アンヌ・マリー・ルイーズ(1627年 - 1693年) - ローザン公アントワーヌ・ド・コーモンと結婚
1632年1月、ナンシーでマルグリット・ド・ロレーヌ(ロレーヌ公フランソワ2世の娘、シャルル4世の妹)と結婚、1男4女をもうけた。
- マルグリット・ルイーズ(1645年 - 1721年) - トスカーナ大公コジモ3世と結婚、後に離婚
- エリザベート・マルグリット(1646年 - 1696年) - ギーズ公ルイ・ジョゼフ妃
- フランソワーズ・マドレーヌ(1648年 - 1664年) - サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世妃
- ジャン・ガストン(1650年 - 1652年)
- マリー・アンヌ(1652年 - 1695年)
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