ノルマンディー上陸作戦

1944年にナチス・ドイツ占領下のフランスで実行された第二次世界大戦中の作戦
ノルマンディの戦いから転送)
第二次世界大戦 > オーヴァーロード作戦 > ノルマンディー上陸作戦

座標: 北緯49度20分 西経0度36分 / 北緯49.34度 西経0.60度 / 49.34; -0.60

ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん、: Normandy landings)は、第二次世界大戦中の1944年6月6日連合国軍によって行われた、ナチス・ドイツ占領下のフランス北部への上陸作戦。英語ではこのほか、Normandy Invasion[8]、the Normandy Campaign[9]とも表記される。

ノルマンディー上陸作戦
Invasion of Normandy

ロバート・F・サージェント撮影『死の顎へ』(en:Into the Jaws of Death
1944年6月6日、LCVPからオマハ・ビーチに上陸するアメリカ第1歩兵師団第16歩兵連隊E中隊
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日1944年6月6日
場所:北フランス(ノルマンディーコタンタン半島
結果連合軍の勝利
歴史的意味および余波も参照)
  • 連合軍がフランスに上陸し、西部戦線での陸戦が再開
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カナダの旗 カナダ
自由フランスの旗 自由フランス軍
ポーランドの旗 ポーランド
オーストラリアの旗 オーストラリア
ベルギーの旗 自由ベルギー軍
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
オランダの旗 オランダ
 ノルウェー
チェコスロバキアの旗 自由チェコスロバキア軍
ギリシャの旗 ギリシャ王国
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗ドワイト・アイゼンハワー(連合軍最高司令官)
イギリスの旗 アーサー・テッダー(連合軍副司令官)
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー(陸軍総司令官)
イギリスの旗 トラフォード・リー=マロリー(空軍総司令官)
イギリスの旗 バートラム・ラムゼー(海軍総司令官)
アメリカ合衆国の旗 オマール・ブラッドレー
イギリスの旗 マイルズ・デンプシー
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ナチス・ドイツの旗 エルヴィン・ロンメル
ナチス・ドイツの旗 フリードリヒ・ドルマン
ナチス・ドイツの旗 レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク
戦力
156,000(6月6日時点)
1,332,000(7月24日まで[1]
380,000(7月23日まで)
損害
アメリカ軍
戦死1,465[2]~2,501[3]
他連合軍戦死1,913[4]
負傷者約6,000人[5]
死傷者約9,000[6]
捕虜約200,000[7]
ノルマンディー上陸作戦

連合国軍の正式作戦名はネプチューン作戦(Operation Neptune)、上陸からフランスの首都パリの解放までの作戦全体はオーヴァーロード作戦(Operation Overlord)と呼称している。

イギリスを進発したイギリス軍アメリカ軍を主力とする連合国軍の兵員が、作戦初日だけで約15万人、オーヴァーロード作戦全体で200万人が英仏海峡を渡ってノルマンディー海岸とコタンタン半島東岸に上陸した。現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦である[10][11][12][13]

本作戦は、北フランス内陸に対する夜間の落下傘部隊の降下から始まり、上陸予定地への空襲艦砲射撃に続いて、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。連合軍は、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが「かつて行われたもののうちで最も複雑な作戦」と評したほどの苦戦も覚悟していたが、様々な要因もあってドイツ軍にとっては完全な奇襲となり[14]、上陸作戦は「オマハ・ビーチ」など一部を除いて円滑に進み、損害は想定を遥かに下回った[15]。とはいえドイツ国防軍武装親衛隊(武装SS)の抵抗は激しく、連合国軍は橋頭堡を確保した後、内陸への進撃は計画より遅れた[16]

ナチス・ドイツは、ソビエト連邦(ソ連)との東部戦線イタリア戦線に加えて、西部戦線でも再び陸上での戦闘を余儀なくされることになり、1年足らず後の1945年5月上旬には降伏に追い込まれた

ノルマンディーの上陸作戦は第二次世界大戦中最もよく知られた戦いの一つでもある。本作戦で用いられた用語「D-デイ」は作戦決行日を表し、現在では主に作戦開始当日の1944年6月6日について使われる。

序章

編集

ナチス・ドイツのフランス侵攻ノルウェー侵攻での防衛戦に敗れた英仏などの連合国軍は、1940年夏までにヨーロッパ大陸からイギリス本土(グレートブリテン島)へ撤退した。翌1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ対ソ連侵攻以来、ドイツの陸上戦力はほとんどが東部戦線に向けられていた。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンは、英米に対してフランスに第二戦線を築くことを再三要請していた。

イギリス軍は、第一次世界大戦の西部戦線のように、正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は、戦線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、英仏海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。

英仏海峡を渡っての作戦は、1942年中にブレストシェルブールへの(本格的反攻ではない)限定的上陸のスレッジハンマー作戦、1943年以降の北フランス上陸のラウンドアップ作戦が立案された。またヨーロッパ大陸以外の攻撃では、ナチス・ドイツとその同盟国であるイタリア王国傀儡政権ヴィシー・フランスの支配地域が広がっている北西アフリカに上陸するジムナスト作戦、ノルウェー上陸のジュピター作戦が立案されていた。

しかしスレッジハンマー作戦は準備期間が短すぎ、上陸してもコタンタン半島やブルターニュ半島に閉じ込められるだけで吸引できるドイツ軍兵力が小さいことから早々に放棄された。またジュピター作戦も放棄。結局、北アフリカ戦線のドイツ軍を排除するトーチ作戦(ジムナスト作戦から改称)が実行され、ラウンドアップ作戦は1943年以降になる事となった。結局ラウンドアップ作戦は1943年中に実施できない事が判明したため、1944年までずれ込み、作戦名も「オーヴァーロード作戦」に変更された。1943年には北アフリカから北上した連合軍が南イタリアに上陸してイタリア政府は降伏したが、イタリアを占領したドイツはイタリア半島を北に後退しながら防衛戦を展開し、連合国軍の進撃は遅々としていた。

1943年11月28日に英ソ占領下のイランで開かれたテヘラン会談において、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズヴェルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、スターリンが討議し、1944年の5月には第二戦線を開くことが正式に合意された。

連合国軍の計画

編集

計画策定

編集
 
ノルマンディー上陸作戦の作戦計画図(1944年6月6日)。赤はドイツ軍の部隊。輸送路が短くてすむが防御の厚いパ=ド=カレーを避け、落下傘部隊の降下と艦船による砲撃、揚陸を組み合わせている。
 
ノルマンディー上陸作戦の概略図

計画立案のプロセスは連合軍総司令部のスタッフによって1943年の1月に始められた。1944年4月28日には南デヴォンで上陸演習「タイガー演習」が行われたが失敗し、アメリカ軍に749人の死者を出した。連合軍上層部はこの失敗がドイツに伝わり、大規模な上陸作戦の用意をしていることが露見することを恐れた。しかしドイツ軍情報部は、そこまでの詳しい情報はキャッチしていなかった。

イギリス本土基地からの連合国軍戦闘機の航続距離は上陸地点の選択を非常に制限した。地理学的に上陸地点はパ・ド・カレー(カレー港)とノルマンディーの2地点に絞り込まれた。パ・ド・カレーがイギリス本土から距離的に最短であり上陸地点として最適だったが、当然の事ながらドイツ側も連合軍によるパ・ド・カレーへの上陸を警戒しており、その防御が強力だったため、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択した。

1942年のカナダ軍ディエップ攻撃での失敗から連合軍は、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。ノルマンディー正面への広範囲な上陸は、ドイツ軍にとってブルターニュ西海岸のシェルブール港と、首都パリからドイツ国境へ向けての2つの攻撃の脅威となることが予想された。ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄い地点であったが、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であった。

作戦準備

編集
 
作戦協議をする連合国遠征軍最高司令部

1943年12月に連合国遠征軍最高司令部最高司令官として、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー大将が、1944年1月には本作戦の地上部隊最高司令官である第21軍集団司令官にイギリス陸軍バーナード・モントゴメリー大将が任命された。

計画の段階で海からの上陸が3個師団、空挺部隊が2個旅団要求された。モントゴメリーはすぐに初期攻撃の規模を海からの攻撃を5個師団、空からを3個師団増加させた。合計で47個師団の投入が承認された。内訳はイギリス軍、カナダ軍、ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパから逃れてきていた各国軍の合計26個師団とアメリカ軍21個師団である。

海上では、イギリス海軍提督バートラム・ラムゼー卿指揮下で上陸用舟艇4,000隻を含む4,400~5,000隻を超える艦艇が投入される計画であった[17]。輸送艦隊を守り、ドイツが築いた「大西洋の壁」に艦砲射撃を浴びせる陣容は、アメリカ海軍の戦艦「ネバダ」「アーカンソー」「テキサス」、イギリス海軍の戦艦「ロドニー」「ウォースパイト」「ラミリーズ」の戦艦6隻、巡洋艦ラプラタ沖海戦ドイツ海軍ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー」を自沈に追い込んだ戦歴を誇るイギリス海軍軽巡洋艦エイジャックス」、第一次ソロモン海戦で激闘の上に沈没した先代「クインシー」の艦名を引き継いだアメリカ海軍重巡洋艦クインシー」、ダカール沖海戦でイギリス海軍と交戦したのち自由フランス海軍に所属することとなった軽巡洋艦「ジョルジュ・レイグ」など21隻[18]~23隻[19]駆逐艦108隻、その他護衛艦152隻という威容を誇り、その前を277隻の掃海艇が先行する計画であった[19]。その陣容はかつて人類がこれまで海に送り出したことのない正に史上最大のものとなったが[18]、720隻の軍艦以外の艦艇については、高速輸送船や病院船などの他には、錆びだらけの旧式の貨客船や、ずんぐりした曳舟、平底の上陸用舟艇など、この作戦のためにかき集めた船などで構成されていた。

一方でアメリカ軍はノルマンディーへの上陸作戦とほぼ同時期に、大日本帝国相手の太平洋戦争でもマリアナ諸島への大規模な侵攻作戦となるフォレージャー作戦を計画しており、アメリカの無尽蔵の物量を証明することとなった[20]。しかも、ノルマンディーに投入された戦艦は、真珠湾攻撃マダガスカルの戦い大日本帝国海軍に大破させられた後、修理を終えて参戦した「ネヴァダ」や「ラミリーズ」などの旧式艦ばかりであったのに対して、日本海軍との大規模な海戦が予想されたため、アメリカ海軍の航空母艦や、「ワシントン」「アイオワ」「ニュージャージー」「サウス・ダコタ」「インディアナ」「アラバマ」「ノース・カロライナ」の16インチ(40.6cm)砲英語版を搭載した新鋭戦艦7隻は、全てフォレイジャー作戦に投入され[21]、さらにサイパンの戦いでは旧式戦艦「テネシー」「カリフォルニア」「メリーランド」「コロラド」「ペンシルベニア」、「ニューメキシコ」「ミシシッピ」の7隻も艦砲射撃に加わっており、サイパン島を守る日本軍は、ノルマンディーを超える14隻もの戦艦からの艦砲射撃を浴びることとなった[22]

最初の40日間の目標は次の通り定められた。

その後3か月の目標は次の通り。

侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思い込ませるため、連合軍はボディガード作戦英語版という大規模な欺瞞作戦を展開した。この作戦の一部として行われたのがフォーティチュード作戦である。この作戦はフォーティチュード・ノース(ノルウェー侵攻作戦)とフォーティチュード・サウス(パ・ド・カレー侵攻作戦)の2つからなっており、架空のアメリカ軍師団が偽の建物と装備と共に作られ、偽のラジオメッセージがイギリス各地に送信された。更に作戦により現実味を持たせるため、その架空軍団の指揮官には当時謹慎中だった、アメリカ陸軍のジョージ・パットン将軍が指名された。また、上陸地点を南フランスであるとした欺瞞作戦「コッパーヘッド作戦英語版」を策定し、バーナード・モントゴメリー大将の影武者としてM・E・クリフトン・ジェームズ少尉を北アフリカに派遣した。

当然ドイツ軍も実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたが、連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。欺瞞は可能な限り続けられ、その地域のレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続された。この作戦は徹底したものであり、ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付ける事を目的としていた。

また、フォーティチュード・ノースを支援するためにスカイ作戦と言う欺瞞作戦も展開された。これはスコットランドから無線交信を使用して、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としていることをドイツのアナリストに認識させるために行われた。ドイツ軍はこの架空の脅威の為、この地域の部隊をフランスに移動させなかった。

 
キャンバススクリーンを全開にした状態のDDシャーマン戦車

連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホバートPercy Hobart)少将指揮下のイギリス第79機甲師団英語版の装備する特殊車両は「ホバーツ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用戦車D.D. (Duplex Drive) シャーマン地雷除去戦車シャーマン・クラブ、戦闘工兵車チャーチルAVRE(Armoured Vehicle Royal Engineers)、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARK (Armoured Ramp Carrier)などである。特に連合軍が力を入れたのがDD戦車であった。これは、ディエップの戦いで多数の戦車が海岸に打ち上げられて破壊された悪夢から考案されたもので、戦車に浮力を得るためのキャンバススクリーンと、水上を進行するための推進システムを装備しており、水上を4ノットで航行できる性能を有していた。このDD戦車は上陸第一波として歩兵と一緒に上陸して進撃路を切り開く計画であった。しかし、太平洋戦線の上陸戦で活躍していたアムトラックやアムトラックの戦車砲搭載型アムタンクが開発当初から水陸両用の運用を考慮されていたのに対し[23]、DD戦車は水上航行性能に難があり、特に波が高い状況では満足に航行することができなかったため、上陸前に多くのDD戦車が海中に没することとなってしまった。

当初、上陸時刻は自軍の損害を嫌うアイゼンハワーの方針でより侵攻距離が短くなる満潮時を考えていた。しかし、ドイツ軍の司令官にエルヴィン・ロンメル元帥が着任したという情報を掴んだモントゴメリーは、自分がロンメルをエル・アラメインの戦いで打ち破ったときの経験を思い返して、ロンメルが海岸や海中に大量の障害物を構築し、ロンメル得意の臨機応変の戦術や計略を駆使して上陸を妨害してくると予想。それを打ち破るための最も有力な作戦は、圧倒的な物量で踏み潰すことだと判断し、ロンメルの小細工を無効化させるべく干潮時の上陸を主張した。干潮時に上陸すれば、兵士の進撃距離は伸びて危険度は増すが、重要な戦車や火砲を揚陸する揚陸艇を水中障害物やそれに設置されている機雷から守ることができた。モントゴメリーは多少の損害には目をつぶっても、物量によって有利に作戦を展開できると考えた。ドイツ軍の誰もが、干潮時の身を隠すとこもできない砂浜を、800mも走り抜けてくるとは予想もできなかったので、ドイツ軍の火線は全て満潮時の波打ち際を目標として配置されており、このモントゴメリーの作戦は、結局ロンメルの裏をかくこととなった[24]

作戦準備のため、信じられないほどの人と資材の波がイギリスに流れ込んだ。グレートブリテン島南部には大量のアメリカ兵が来て、ホテルや公共施設はおろか、レストランや映画館に至るまであらゆる施設にアメリカ兵が溢れた。飛行場の増設も行われ、163か所もの臨時飛行場が作られた。また大量の物資を輸送するため鉄道も増設されて、延伸されたレールの長さは250kmにも達した。作戦直前の5月になると物資の輸送や蓄積はピークに達し、50,000台もの軍用車が休みなく、兵士や物資や兵器を運搬し軍需品の山が森や林に隠された。準備された物資のなかには、フランス上陸後に使用する予定の数千両の新しい機関車や2,000両の貨車も含まれていた[25]。これら膨大な物資や人員の輸送には様々な困難があったが、イギリスの鉄道会社とイギリス軍はこれを大きな問題もなくやり遂げた[26]

1944年5月当時、上陸作戦に備えてイギリス国内に駐留したアメリカ兵は約150万人に上ったが[27]、施設に収まりきらないアメリカ兵を収容するためのテントや仮設の兵舎が構築され、その規模は大きな都市ほどもあった。これだけの人数なので食事の準備だけでも一苦労であり、アメリカ軍だけで4,500人の料理人と50,000人以上の食事担当の要員が従事したが、食事の配給を待つ兵士の列は毎食ごとに1㎞にもなったという[28]。この大量の若者に対する娯楽への配慮も忘れていなかった。アメリカ軍兵士専用の娯楽施設であるGIクラブが何か所も設置され、そのクラブには米国慰問協会が手配したグレン・ミラーキャブ・キャロウェイアーティ・ショウなどといった著名なミュージシャンが演奏のために招かれ、アメリカ兵の若者たちは伝説的なミュージシャンの演奏をバックに、街中でナンパしてきたイギリスの若い女性や補助地方義勇軍の女性兵士などとダンスを楽しんだ。アメリカ兵は「ハニー・チャイル(かわい子ちゃん)」とイギリス女性を呼び、戦争中の物資不足でイギリス人が目にしないような高級化粧品やナイロン製の下着や靴下や香料入りの石鹸などといったぜいたく品をアメリカ軍のPXで購入して「ハニー・チャイル」にプレゼントしてその歓心を得ようとした。このため、アメリカ兵と国際結婚するイギリス女性が激増し、戦争花嫁として7万人ものイギリス女性が海を渡ってアメリカに移り住んでいる[29]。どの数字も想像を絶するもので、これほどの軍隊を打ち破ることは絶対に不可能と思われた[28]

また、補給物資を効率的に揚陸するため、「マルベリー英語版」と呼ばれる人工港湾施設をアメリカ軍とイギリス軍がそれぞれ1つ準備した。この「マルベリー」は潜函(ケーソンと呼ばれるコンクリート製の箱)、浮橋(ポンツーンと呼ばれる、40トン用と25トン用など数種類有る)、消波ブロック及び沈船を組み合わせたもので、ル・アーブル港を使用できるようになるまでの半年の間、燃料を始めとする約120万トンの補給物資の揚陸に用いられることになった。

更にフランス各地に対する空襲が強化された。交通網は寸断され、防衛準備のための機雷搬送に遅れが出たため、上陸前に設置できなかった。また、フランス市民の死傷者も増加し、防衛戦用に約9万床増設された病院のベッドはフランス市民の入院者によって使用されていたという。

作戦予定日は当初5月1日となっており、テヘラン会談でソ連に通告された。しかしその後3週間の延期が決まり、さらに6月1日に変更された。5月15日には再び変更され、作戦予定日は6月5日となった。

自由フランスに対しては、アメリカのルーズベルト大統領が国民の信託を経ていない亡命政府を正統なものとは認めておらず、また機密保持が全くというほど当てにできなかったので、機密漏洩の危険性が高いとして作戦計画は知らされていなかった。しかし自由フランスを支援していたチャーチルからの要請もあって、作戦直前に自由フランス指導者シャルル・ド・ゴールに作戦計画が知らされた。そのため、自由フランスは自分らの国土が戦場になるのにもかかわらず、作戦に殆ど関与することはできなかった[30]。作戦に参加した数少ないフランス人のなかで、イギリス軍第3師団と一緒に上陸する予定のフランス人特殊部隊171人は、真っ先に故郷の地を踏むことができる光栄に士気が上がっていた。貴族ながら志願兵として特殊部隊に加わったギー・ド・モンロール伯爵は、自分の部隊の攻略目標がドイツ軍が司令部として使用しているカジノの建物だと知ると「そいつはありがたい。私はあそこでずいぶん金をすりましたからね」と部隊長に冗談を言って笑わせている[31]

連合軍最高司令部は失敗に終わったディエップの戦いのときのように、ドイツ軍から手痛い反撃を受け恐るべき死傷者を出すと懸念していたうえ[32]、ネプチューン作戦の前年の1943年11月に太平洋戦線で行われたガルヴァニック作戦におけるタラワの戦いで、アメリカ軍は、日本の海軍陸戦隊を相手に大損害を被って敵前上陸作戦の困難さを思い知らされていた。自軍の損害予想の正確性に定評のあったアメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将は、タラワの戦訓を分析の上で戦闘開始後数時間で50,000人の死傷者を被ると警戒を強めていた[33]

ドイツ側の状況

編集

大西洋の壁

編集
 
「大西洋の壁」の建設範囲
 
「大西洋の壁」を視察するロンメル(左)

ドイツ軍が西ヨーロッパの海岸地帯に砲台を構築することとなったきっかけは、イギリス本土侵攻作戦「アシカ作戦」の際に、英仏海峡を渡る輸送艦隊を守るために、イギリス軍の艦船やイギリス本土沿岸を砲撃するためであった。そのため1940年の9月にはコンクリート製の砲台の建築が始まったが、「アシカ作戦」が無期限延期される代わりに独ソ戦が開始されると、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は北方の防衛を強化するためノルウェーの海岸線が重視された。しかし、1942年3月にイギリス軍のサン=ナゼール強襲が成功すると、ヒトラーはフランス海岸線の防衛に危機感を抱くこととなり、まずは敵が侵攻してくる可能性の高い港湾施設を要塞として強化することを命じた[34]

ヒトラーは「要塞をつくることにかけては、古今を通じ、私ほど偉大なものはない」と自信を見せ[35]、1942年8月に総統令を発し、コンクリートを多用した強固な防衛拠点の構築を命じた。各拠点は約70人の兵士と機関銃や対戦車砲が配置される予定で、当初の計画では拠点が15,000か所構築される予定であった。ヒトラーはこの要塞線を「大西洋の壁Atlantic Wall)」と呼んで誇っていたが、構築を命じられたトート機関の見積もりでは1943年春までに完成するのはせいぜい6,000か所であった[34]。しかも、1943年に入ると連合軍によるドイツ本土空襲が激化した。その復旧作業やイタリアへの連合軍の侵攻が懸念されるようになったため、イタリアの防衛強化のためにトート機関の労働力を投入する必要性に迫られて、さらに「大西洋の壁」の構築は遅れることとなった[36]

フランスの防衛は西方総軍が担当しており、その総司令官はエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥であったが、1943年3月にヴィッツレーベンが体調を崩したという理由によりゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が就任した。1943年11月、ヒトラーは連合軍によるフランス侵攻の兆しをもはや無視することはできないと考えていたが、1944年1月になって、ドイツ軍は連合軍が西ヨーロッパで「第2戦線」を構築するため大規模な上陸作戦を展開するという情報を掴み、さらに大西洋沿岸の防備を固めることとした[37]

「大西洋の壁」は、連合軍の攻撃を弾き返すための強力な防御施設であるとされ、「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と内外にプロパガンダされていた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、ヒトラーの言う"狂信的"突貫工事を進めた。だが、あまりにも膨大な建設資材の発注に対して、特に鉄鋼材は少量しか入手できなかった。そのため、旋回レールを備えた大砲陣地などの強力な施設は少数にならざるを得ず、マジノ線要塞やジークフリート線要塞から、設備を取り外して建設を進めていた。

そもそもノルウェー沿岸からフランス・スペイン国境にまで達する、3,000マイル以上の大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だった。実際には「大西洋の壁」は、敵よりもむしろドイツ国民に対する宣伝用のこけおどしであり、ドイツ宣伝省によるプロパガンダに過ぎなかった。

しかしヒトラーは自信満々だった。さらに「大西洋の壁」の整備を監督させるため、「進攻正面防備特務査察監」という新たな役職まで作って、自分が最も信頼するエルヴィン・ロンメル元帥を、B軍集団と共にイタリアから北フランスへ移動させた[35]。ロンメルはルントシュテット率いるドイツ西方総軍の指揮下に入りラ・ロシュ=ギヨン英語版に司令部を置いたが、着任早々に任務の重要性とヒトラーからの信頼を痛感して、デンマークからフランスまで精力的に視察して回った[38]

ロンメルも、進攻正面防備特務査察監の着任前はドイツ軍のプロパガンダを信じており、「大西洋の壁」の整備は進んでいると思い込んでいた。しかし実際に視察してみると、進捗の遅さに危機感を抱くことになった[39]。そこでロンメルは要塞の構築に全力を注ぐことし、視察頻度も増加させ自ら細かな口出しも行った。ロンメルは北アフリカ戦線で「悪魔の園」と称した、地雷ブービートラップなど地獄的なトラップに満ちた封鎖地域を構築して防衛戦に活用したが、フランスの海岸にはもっと大規模なものを構築することとした。連合軍の上陸用舟艇を撃破するため、上陸が予想される満潮時にちょうど海中に沈む位置に、地雷と鋸歯を備えた鉄骨を何十万と設置した。これは材料をチェコスロバキアから持ってきたので「チェコのハリネズミ」と呼ばれた。また、針金をめぐらせたに地雷や砲弾を取り付けて、上陸用舟艇が接触すると爆発する「ロルボック」も大量に打ち立てられた。そして、後方の開けた土地には、敵の空挺部隊に対抗するため自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを大量に設置した[40]。特にロンメルが拘ったのが地雷であり、各種の仕掛け以外にも合計5,000万個という大量の地雷の埋設を命じた[41]。しかし、これらの仕掛けは連合軍に見抜かれており、ロンメルの裏をかいて干潮時に上陸したこともあって、多くが無駄になっている[24]

鋭意要塞構築を進めたロンメルであったが物資の不足は深刻で、特に要塞を構築するセメントがまったく不足していた。ノルマンディだけでも1日トラック240台分のセメントが必要であったが、実際に補給されたのは1日平均で47台分に過ぎなかった[41]。ロンメルはヒトラーや軍需省に繰り返し援助を要請したが、十分な補給は受けられなかった。そこでやむなくロンメルは人力に頼ることとし、部隊の訓練の時間を切り詰めて陣地構築にあたらせた。不足するセメントの代わりに木材が多用され、兵士たちは海岸から19㎞の距離にあってセリジーの森から木材を伐採して陣地構築に利用した。それでも焼石に水であり、陣地の多くは丸裸で、比較的に陣地構築が進んでいた第352歩兵師団の担当地区でも、防空設備のある陣地は全体の15%にしか過ぎず、空襲にはお手上げの状態であった[41]。ロンメルが拘った地雷も、実際に準備できたのは計画の10%にしか過ぎない600万個であり[42]、ロンメルを満足させるためやむなくダミーの地雷が埋設された。ロンメルを誤魔化す目的で作られたダミー地雷原は、後日、皮肉にも上陸してきた連合軍を混乱させるという予想外の効果もあげることとなった[43]。このように、軍司令官自らの現場への過剰な口出しは却って部隊の混乱を招き、軍の実情を考慮しない命令によって、ドイツ軍将兵は防備を固めることに多くの時間を取られることとなり、不十分な訓練のままで連合軍を迎え撃つことになってしまった[42]

上陸地点の予測

編集
 
ドイツ軍砲台に設置された、フランス軍からの鹵獲砲であるGPF 155mmカノン砲

OKW(国防軍最高司令部)は英米側が上陸を仕掛ける地域を、カレー、ノルマンディー、ブルターニュのいずれかであると推定していたが、イギリス本土から最短距離となるパ・ド・カレーが最も有力と考えていた[44]。ロンメルはドイツ軍の殆どの予想とは異なって、上陸地点はノルマンディになると唯一正しい予想をしていたという意見もあるが[45]、ロンメルは1943年12月23日付で「敵はまず第一にパ・ド・カレーを目指す」と報告していたり、連合軍上陸直前の1944年5月半ばには、指揮下の機甲師団の2個師団をパ・ド・カレーにより近いセーヌ川の北部に配置するなど、他のドイツ軍司令官らと同様に、連合軍の上陸地点をパ・ド・カレーと予想して作戦準備を進めていた[46]。そのため、カレーには20個師団を擁する第15軍が配置されたが、ル・アーヴルからシェルブール間の3,000㎞の防衛線には7個師団を擁する第7軍が配置された[47]

距離ばかりに目を奪われていたルントシュテットやロンメルに対して、ドイツ軍内では、上陸に適した海岸線が1㎞続くなどノルマンディの方が大規模な上陸作戦に適しているという意見や、連合軍が強力に武装されているカレーをわざわざ選ぶはずがないという意見もあり、ヒトラーもノルマンディーが危険と考えていた[47]。1944年2月には、第84軍団司令官エーリッヒ・マルクス英語版大将が、ルントシュテットとロンメルも参加した図上演習で、連合軍をノルマンディーに上陸させてみせて、その危険性に警鐘を鳴らしたが、両名のノルマンディーへの配慮不足には何の変化もなかった。ノルマンディーの危険性を懸念してきたヒトラーも、1944年5月に両司令官に兵力増強を打診した際に、ロンメルが「決戦場である海峡海岸から、ノルマンディーに兵力を回すことはできません」と強く拒否し、ルントシュテットもこれに同意したこともあって、両司令官の自信に対して自分の考えが揺らいでいた[48]。それでもヒトラーは懸念をぬぐい切れず、ロンメルの反対を押し切って第91歩兵師団英語版をノルマンディーに移動させている[48]

カレーへの連合軍上陸を確信していたロンメルであったが、準備を進めていく中で次第にノルマンディーに上陸する可能性も高いと考えるようになった。そのため、ノルマンディーへの視察の頻度を上げたロンメルは、のちに「オマハ・ビーチ」と呼ばれる海岸の防備の強化を命じ、海中や海岸には各種障害物を濃密に設置し、多くの火砲も配置するなど強化を図った。オマハ・ビーチ一帯の海岸線は、ロンメルが北アフリカで苦戦させられたイギリス軍の要塞に因んで「トブルク」と名付けられた[49]

「トブルク」には、他に75㎜から170㎜の各種火砲が約110門配置されたが、特に大口径砲はチェコ製leFH 14/19(t)100ミリメートル(3.93インチ)山砲英語版など第一次世界大戦のころの旧式火砲も多かった。セーヌ湾の海岸線の途中から突き出したポワント・デュ・オック英語版には、フランス軍から鹵獲したGPF 155mmカノン砲も据えられる予定であったが、これも配備は前大戦時の旧式砲であった。このようにノルマンディーの海岸線は最も防備が固いはずのオマハ・ビーチですら、旧式砲が中心の心もとないものであったが、連合軍はその威力を過大評価しており、輸送艦隊を必要以上に沖合にとどめたり、砲台撃破のための特殊部隊を投入したりしため、上陸後に拍子抜けすることとなった[50]

兵士

編集

この時点でフランスに配備されたドイツ軍兵士の実に6人に1人がOst Battalion(直訳すれば「東方大隊」)に所属していたと言う事実がある。これらの将兵は部隊名が表すように主にドイツより東方に位置する国からの出身者で構成された部隊のことである(ただしフランス人やイタリア人の部隊なども存在した)。当初は文字通り「義勇兵」が多かったのだが、戦局が悪化するにつれ占領区域からの強制徴募や捕虜収容所から志願者を募るという方法で部隊が編成され、お世辞にもその戦闘力は高いと言い難かった。また、東部戦線でドイツが守勢に転じた後は戦力として当てにならないどころか集団脱走や組織的造反の可能性すら出てきたため順次西方に送られた。Dデイ当時のフランスには約200個大隊もの東方大隊が存在しており、この約半分はフランスに駐屯していたドイツ国防軍の師団に配属されていた。普通の師団は1個大隊、多い場合は2個大隊もの東方大隊がそれぞれの師団に配属されていた。残りの半分は軍集団司令部や軍団司令部に配属されており、状況に応じて戦線に投入された。

下士官将校はドイツ人だったが大半の兵はドイツ語を喋る事が出来ず、訓練の水準も低く、武器も古いものしか支給されなかった。一部の部隊を除いて士気は総じて低く、連合軍の部隊が近付いただけですぐに降伏してしまう者が多かった。スティーヴン・アンブロースが書いた『Dデイ』の中にはドイツ人の下士官を射殺したあと嬉々としてアメリカ軍に降伏したポーランド人部隊の話が紹介されている。わずか3人で40人もの捕虜に投降されたアメリカ兵達は非常に面食らったという(後にポーランド系将兵の通訳で事態を把握したらしい)。

無論、ドイツ国防軍も別にこの東方大隊がドイツ兵と同じように戦うと思っていた訳ではなく、彼ら東方大隊を使って後方地域を押さえておくことで、その分ドイツ人の兵士を前線に派遣できると考えていた。

また、この「フランスは後方地域である」という認識・扱いは東方大隊に関してだけではなかった。当時のドイツ軍では東部戦線で戦った師団は戦線から抽出し、フランス(もしくは本国)に送って再建していたため、連合軍が上陸した時点でフランスに駐屯していたドイツ軍の多くは良く言えば東部戦線帰りのベテラン、悪く言えば東部戦線で磨り減るまで戦った師団の残余だった。ロンメルがB軍集団司令官に着任してから一部精強な部隊が配属されるようになったが、それらの部隊は主にパ・ド・カレー方面に配属され、その他の戦域では二線級の部隊が主に沿岸部を防衛していた。

東部戦線に主力を傾注していたドイツは、大西洋沿岸防衛のために今まで軍役を免除されていた者まで徴集して部隊を編成していた。その中には消化器の問題を抱えている者をまとめた部隊や、第一次世界大戦で戦ったことのある老人、もしくはドイツに送り返された傷病兵などが含まれていた。また、連合軍による昼夜の爆撃により、フランス国内の輸送路は分断され、ドイツ本国からの補充兵や物資はなかなか前線に届かなかった。

現地司令官の対立

編集
 
ルントシュテットとロンメル

1943年3月に西方総軍司令官に任命されたルントシュテットは、「大西洋の壁」などと喧伝されている陣地の構築状況が遅々として進んでいないことに頭を悩ませていた。上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、ノルマンディー地方に至っては20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難く、これに頼らない作戦を検討する必要に迫られた。そこで機甲部隊の運用の専門家でもあったルントシュテットは陣地に頼るのではなく、装甲部隊に重点を置くこととした[51]。しかし、最前線地区に配備してしまえば、上陸前の連合軍の圧倒的な航空攻撃と艦砲射撃で連合軍部隊が上陸前に大損害を被る懸念が大きかったため、ルントシュテットは装甲部隊をその射程の外に配置し、海岸陣地の歩兵が上陸部隊が押しとどめている間に、装甲部隊が海岸付近に駆けつけて、艦砲の射程外でまだ体制が整わない上陸部隊を一気に叩く作戦を考えた[52]。これは、ルントシュテットがハスキー作戦アヴァランチ作戦で、連合軍の圧倒的な艦砲射撃に大損害を被った戦訓に基づくものであり、ドイツ国防軍きってのアメリカ・イギリス通と言われたシュヴェッペンブルクも賛同した[52]

一方でロンメルも「太平洋の壁」の看板倒れは認識しつつも、北アフリカでの経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」「上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう、この日のいかんによってドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても『いちばん長い日』になるだろう[52]、として「水際配置・水際撃滅」を主張した。これはロンメルが連合軍の圧倒的な航空戦力で叩かれた苦い経験に基づくもので、連合軍空軍の制空権下では、装甲部隊が戦線にたどり着くためには小部隊に分散し、また時間をかける必要があって反撃の機を逸してしまうため、海岸付近に歩兵、砲兵、装甲部隊全ての兵力を配置すべきと考えたからである[53]。そして戦力の配置も縦深防御配置ではなく、波打ち際すれすれに薄く伸びるように配置し、装甲師団もずっと前面に配置して水際の防衛戦に投入することを考えていた[54]

ロンメルの水際配置・水際撃滅は積極的な防衛戦術であるが、連合軍の圧倒的な艦砲射撃の威力を全く考慮しておらず、後の軍事学上の議論においては、ロンメルの作戦通りに海岸地域に装甲師団を配置していれば、激しい艦砲射撃で連合軍の上陸前に壊滅状態となり、史実以上の破局的な戦況になっていたとの指摘がある。一方で、戦車をよく偽装したうえ、散開して陣地に入れることによって、個々の戦車に命中弾を与えて戦闘不能にするためには、地表を覆い尽くすような殲滅的な砲撃が必要となるが、いくら物量を誇る連合軍といえどもそれは不可能であったという反論もある[55]

ロンメルとルントシュテットの意見の相違は、やがてドイツ軍を二分するような「装甲部隊論争」に拡大した。ヒトラーはドイツ軍の大方の見方とは異なって、自分の“カン”を頼りにノルマンディに連合軍が上陸してくる可能性が高いと考えるようになっており、ロンメルの意見に近づくようになっていた。そこで、陸軍参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将は、ロンメル案の危険さを説明するため3回もヒトラーに面会した。ヒトラーもノルマンディへの上陸の可能性が高いと思いながらも、第二弾に本番の上陸作戦があるのではないかと考えるようになり、結果的に破滅的な妥協案を採用することとなってしまった[56]。その妥協案とは、フランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与えるが、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来ないとする事で、戦術の方向性を両者の折衷案のような形となった。結局のところ、ロンメルとルントシュテットは自分たちの対立によって余計な手枷足枷を付けることとなってしまった[56]

空軍

編集

ドイツ空軍の時フランス北部沿岸全体に183機しか戦闘機を保有(そのうち使用可能機は160機)していなかったが、国防軍最高司令部(OKW)は、このうちの160機を、フランス北部沿岸地帯から移動させる決定を下す。それはドイツ本土への空爆に対応させるためと、残り少ない戦闘機を、とりわけ爆撃の激しいフランス北部沿岸で損耗させることを避けるためだったが、国防軍最高司令部が海の荒れる6月には連合軍は上陸しないと見ていたのも大きな要因である。

このおかげで、6月6日当日の上陸作戦に対し、リールにあったJG26(第26戦闘航空団)からヨーゼフ・プリラー大佐とハインツ・ヴォダルチック軍曹の駆る2機のFw 190戦闘機が出撃し、上陸中の連合軍に一回の機銃掃射を加えたのが、ドイツ空軍戦闘機が唯一行った上陸作戦に対する攻撃となった。

しかし、その状態は当日のみで、ドイツ空軍の立ち上がりは早く、Dデイ翌日には15個以上の飛行隊が可及的速やかに異動され、その結果約300機ほどの戦闘機が西部戦線に配備されたが、連合軍空軍に比べると明らかに劣勢であった。連合軍側はこの作戦のために戦闘機約5,000機と爆撃機約5,000機の合計約10,000機を投入しており、物量の点でドイツ側を完全に圧倒していた。ドイツ空軍は7月に入る頃には170機ほど失い、壊滅的状態に陥った。このため、制空権は上陸当初から連合国軍が握り続けた。ノルマンディー上空では常に連合国軍の戦闘爆撃機が滞空し、ドイツ側の戦闘車輌は発見次第、地上の対地攻撃管制官の連絡によって速やかに攻撃が行われ、徹底的に破壊された。

このようにドイツの航空勢力はほぼ壊滅していたが、残された空軍地上要員はまだ多く、ゲーリング空軍総司令官は彼らを集めて空軍地上部隊を編成することを決める。しかし、まともな訓練も受けずに歩兵として戦闘に投入されたこれらの部隊は、ほとんどがまともに抵抗できず、大きな損害を受けた。

海軍

編集

ドイツ海軍総司令官のカール・デーニッツ元帥は大西洋の防壁を支援するためUボートを敵上陸に備え配備した。内訳はノルウェーのベルゲンスタヴァンゲル、クリスチアンサンドに中央グループの36隻が、ラントビルトグループは15隻がフランスのブレストに、ロリアンサン・ナゼール、ラ・パリスに計21隻が、いずれ行われる敵上陸の警戒潜水艦部隊として各地に温存された。但し、その内シュノーケルを装備した改良艦は8隻しかなかった。また、ドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも1942年にフランスにおいて激しい英軍の空襲からの損耗を避けるため北海へと移動(ケルベルス作戦、英名チャンネル・ダッシュ)し、1944年にはフランスには小艦艇のみが残存するだけであった。

上陸前夜

編集

ドイツ軍の誤断

編集
 
アメリカ軍兵士とフランスのレジスタンスメンバー

連合軍が徹底的にオーバーロード作戦を秘匿したにもかかわらず、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が指揮するアプヴェーア(国防軍情報部)は、オーバーロード作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの『秋の歌』第一節の前半分を暗号として放送するという情報を掴んでいた[57]

Les sanglots longs des violons de l'automne
(秋の日の ヴィオロンの ためいきの)

これは「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」という、イギリス軍特殊作戦執行部(SOE)発でヨーロッパ大陸の対ドイツレジスタンス全グループに宛てられた合図の暗号放送であった。放送予定は当月の1日または15日[58]。そして、暗号の第2部は同じ詩の第1節の続きであり、カナリスはこの詩が放送されれば、その深夜から数えて48時間後に連合軍の侵攻が開始されることも掴んでいた[59]

一方で、ドイツ軍の気象班は6月上旬は天候が悪化するため、6月10日までは連合軍の侵攻はないと判断していた[60]。しかしドイツの気象予測はお粗末なもので、肝心の観測所を西大西洋地域に設置しておらず、詳細なデータもなしに気象予測を行っていた[60]。気象班の報告を信じたドイツ空軍は、6月に入ってから1回も空中哨戒を行っておらず、盲目も同然であった[61]

アプヴェーアが見込んでいた通り、6月1日、午後9時のBBC放送ニュースの中のコーナー「個人的なおたより」で「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」の暗号は放送され、これを受信したマイヤーは第15軍司令部参謀長ルドルフ・ホフマン少将に「暗号の第一部が発せられました。どうやら何かが始まりそうです」と報告した。さらにアプヴェーアは国防軍最高司令部(OKW)とカレー方面を防衛する、西方軍集団総司令部、B軍集団司令部に警告を発する。第15軍は警戒態勢に入ったが、B軍集団麾下でノルマンディー方面を守備する第7軍は何の連絡も受けなかった。OKWで連絡を受けた作戦部長アルフレート・ヨードル大将は陸軍参謀本部の第三課長レンネ大佐に警告の件を伝えたが、レンネ大佐は格別な措置をとらなかった。

6月2日、OKWから暗号傍受の連絡を受けた西方軍集団総司令部のフォン・ルントシュテットはB軍集団のロンメルがこの事を承知済みと思い込んでいたため、何の指示も行わなかった。ロンメルもこの報告を受けていたが、連合軍の侵攻は当面ないとの自分の判断に自信を持っていたため、何らかの対応をとることはなかった[59]。ロンメルは、連合軍の侵攻が迫っているという判断はしつつも、その時期がいつであるかは全く予測できていなかった。なかなか侵攻してこない連合軍に対して、次第にその予測も希望的なものとなっていき、妻にあてた手紙にその思惑の推移が記されている[62]

  • 3月30日「3月も終わろうとするのに、連合軍は攻撃を始めない…自信をなくしたのではないかと思いたくなる」
  • 4月26日「イギリスの士気は阻喪している。ストライキが相次ぎ、『チャーチル退陣、ユダヤ人反対』の声とともに、人々はしだいに講和を望むようになっている。こちらは攻撃をしかけるにはふさわしくない情勢だ」
  • 4月27日「連合軍はどうやら近いうちにはやってきてくれないらしい」
  • 5月6日「依然として連合軍のやってくる気配はない。1日後と、1週間ごとにこちらは強力になる。私は自信をもって戦いを待ち望んでいる」
  • 5月15日「近ごろでは重要な視察旅行もできなくなった。いつ侵入があるか誰にもわからないからだ。おそらく数週間もたたぬうちに、この西部戦線で事が始まるにちがいない」
  • 5月19日「休暇を少し早めることができればと思っている。しかし、6月中に何日かさくことができるかどうかはわからない。差し当たりそれは問題にはならないだろう」

ロンメルは6月初旬の状況判断として、「連合軍は極めて高度の準備」を終えており「フランスのレジスタンス組織へあてた通信の明らかな増加」は認められるが「これまでの私の経験によれば、それは上陸作戦が直ちに行われることを示すとは思われない」という報告書を西方軍集団総司令部に送っていた。ロンメルはこの自分の判断に自信を持っており[63]、他のドイツ軍司令官らと同様に気象班の報告を信じて、当面連合軍の上陸はないものと考えた。 そこで6月3日には、妻マリアへのプレゼント(サイズ5半、手作りでグレーのスウェード革の靴)を買うためパリに出かけ、翌6月4日には、妻の誕生日を祝うためと、B軍集団に少なくとも5個師団の指揮権を委譲するようヒトラーと直接交渉するため、副官のフォン・テンペルホーフ大佐とヘルムート・ラング大尉を連れ、午前7時、ラ・ロシュ=ギヨン英語版のB軍集団司令部を発った。

ドイツ軍は当面は連合軍の上陸はないとの予測によって、幹部の休暇申請を承認している。前述のロンメルのほか、海軍総司令官カール・デーニッツをはじめ、西方軍集団情報主任参謀マイヤデトリング大佐、諜報を担当する国家保安本部軍事部長ハンセン大佐も休暇をとっていた。

6月5日の朝、ノルマンディの風と波の高さがドイツ軍の想定する上陸に適した状況ではなかったため、各司令部では本日の連合軍の侵攻はないと胸をなでおろした。しかし、ドイツ海軍は今までの経験から、潮目、月齢、天候全てにおいて6月初旬がこの地方で最も上陸に適した時期と判断しており、ノルマンディの水域司令官へネケ少将はシェルブールにあった気象観測所に火急の質問を発したが、気象観測班長の答えは今まで通り「海は荒れ、視界は悪く、風力は5ないし6、雨は今後強まる見込み」との答えがあった。実際にこの気象観測に基づいてドイツ軍はブレスト行きの輸送船団は出港を中止していた。へネケはさらに「で、明日は?」と尋ねたが、気象観測班長は「ここ数日間、しばらくでも天候のかわる可能性はまずなし」と断言している、その回答を聞いたへネケは「次に潮、月齢、気圧配置の要素が北フランスで上陸に適するようになるのは、6月下旬ということか」と安心している[64]

悪天候はドイツ軍全体に根拠のない安心感をもたらしていた。朝寝をする習慣があったルントシュテットは5日も午前10時まで寝ており、起きると参謀長と簡単な協議をしたのち息子と昼食を食べるためにレストランに向かっている。B軍集団参謀長ハンス・シュパイデル中将はロンメル不在の軍司令部で開催する晩餐会を楽しみにしており、フランス文学の討論を予定していた。翌6月6日にはシュパイデルはノルマンディー地区の指揮官たちがレンヌに集まって行われる予定の机上演習に参加する予定であり、朝早くにはレンヌに向かうようしていた[65]

翌6月6日は、ロンメルにノルマンディーの危険性を指摘した第84軍団司令官エーリッヒ・マルクス英語版将軍の誕生日であった。人望が厚かったマルクスに対して、部下の将校たちは内密に誕生日会を企画しており、上等なワインを準備していた。将校たちはそのワインを持って、日が改まった頃にマルクスの部屋に押しかけてやろうと打ち合わせしていた[66]。マルクスもノルマンディー地区の机上演習に参加する予定であり、連合軍がノルマンディに上陸してくるという想定で、降下猟兵の経験を活かして背後に降下してくる空挺部隊を担当する予定であった[66]

第7軍参謀長マックス=ヨーゼフ・ペムゼル少将は、揃って休暇を取得するノルマンディー地区の指揮官たちに懸念を感じており、意を決して指揮官たちに「6月6日未明までにレンヌに向かうことがないよう」という指示を出したが、既に手遅れであった。なかには参謀長がフランス人の情婦と狩りにでかけており、連絡すら取れない師団もあった[67]

22時15分(ドイツ時間21時15分)、ドイツ軍は第二次世界大戦中で最も重大な暗号を受信した[17]

blessent mon cœur d'une langueur monotone
(身にしみて ひたぶるに うら悲し)

この『秋の歌』第一節の後半は、既に「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」という暗号であると判明していたことから、ただちに第15軍司令部は隷下の全師団に警報を発信した[17]

すでに通報されしはずのBBC放送の暗号は、当方の情報によれば「6月6日午前0時より24時間以内に上陸作戦が行われること」を意味するものなり

報告は、西方軍集団司令部を通じて、国防軍最高司令部 (OKW)と他の地域の部隊にも送られた。しかし、なぜか西方軍集団司令部は隷下の全部隊に警報を発することはなかった。西方軍集団司令部の参謀のなかには「連合軍が侵攻を事前にBBCで放送するようなバカげたことをやるはずがない」と思い込み、警告を無視したものもいた。またB軍集団司令部の参謀たちも、過去の経験と照らし合わせても、傍受した暗号が侵攻の切迫していることを示していることはありそうもないと判断しており[68]、肝心のノルマンディに駐屯する第7軍はこの警報を受け取らず、何の対応も行わなかった[69]

ノルマンディーへの侵攻を予見していたマルクスにも警報は届かず、サン=ローの第84軍団司令部では予定通り誕生日会が開催された。将校たちはよく冷えたワインを準備し、サン=ローの大寺院が深夜の鐘を打つ瞬間を待ち構えていた。鐘が鳴る時刻の直前、突然近くの対空砲が激しい防空戦闘を開始したが、鐘の音を聞いた将校たちはワインボトルやグラスを持ってマルクスの部屋に乱入した。冷静で厳粛なマルクスは将校たちの期待通りに驚くことも取り乱すこともなく、一同を見ると手を上げて落ち着かせた。将校たちはマルクスの目の前に整列して姿勢を正し、ワインの栓を開けて厳粛に乾杯した。ちょうどその頃には、サン=ローから60km離れた場所にイギリス軍空挺部隊4,255人が降下しつつあったが、幸か不幸かそのことをマルクスたちが知ることはなかった[70]

史上最大の決断

編集
 
D-デイの前日に第101空挺師団を視察するアイゼンハワー

連合軍はロンメルの裏をかくため、干潮時の上陸を計画していた。同時に空挺部隊が先にノルマンディーに降下する予定であり、月の出が早いと月の明かりによって空挺部隊がドイツ軍に発見される可能性が高まるため、作戦は干潮且つ月の出が遅い日に決行されることとなった。連合軍の緻密な観測によれば、6月の初旬でその条件を満たすのは6月5日からの3日間で、この3日を逃すと、次に潮が上陸に適するようになるのは6月19日とかなり先となってしまい、理想的な2条件を完備させるにはさらに7月まで待たなければならなかった[71]。精度の低いドイツ軍の気象予測体制では沖合の天候や嵐の切れ目までは予測できず、5月末からの悪天候で連合軍の上陸作戦はないと判断していたのに対して、連合軍は充実した気象観測体制で6月5日前後には天候は回復すると予測していた[72]。それでも回復するのがいつになるのかまでは予測できておらず、アイゼンハワーはひとまず6月5日を予定日とし、毎日の天気予報を直前まで待ったところで、作戦決行を判断することとした[73]

各部隊は5月26日の金曜日に、ノルマンディーに向かうとの命令を受けた。兵士たちは海軍と空軍が十分な砲爆撃によって、抵抗力を粉砕した海岸に進撃するといった楽観的な作戦展望を聞かされたが、アメリカ国内で猛訓練を受け、イギリスに移動してからは上陸戦闘の特訓を受けてきた精鋭たちは、戦闘が生易しいものになるとは思っていなかった。それでも特別任務に従事できるという満足感もあって、将兵の顔には緊張というよりは笑みが浮かび「これでおれたちも、家に帰れる目途がついたぜ」などと冗談を言い合って、部隊は熱狂に包まれたという。各部隊は6月2日までに輸送艦に乗り込むため、集合地点に移動したが[74]、その途中に散在していた民家の住民たちは、移動する大部隊を怪訝そうな顔で見ていた。しかし、中にはわざわざ自分の幼い子供を家の中から連れ出して、兵士を見送りさせる住民もいた[75]

集合地まで移動した各部隊はそれぞれ、港湾で輸送船に乗り込んだが、大小あらゆる船がかき集められたため、乗り込んだ船によって兵士の明暗が分かれることとなった。艦船や大きな輸送艦に乗り込んだ兵士は、過密状態ながら船内は乾いていて暖かく、上等な食事も与えられていた。しかし、小型船や舟艇に押し込まれた兵士たちは、船が安定しないため出発前から吐き気と船酔いに悩まされることとなった。兵士たちは到着順に輸送船に乗り込んでいたため、そのような厳しい状況で1週間以上も船内で暮らしている兵士もいた[76]。さらに天候が悪化して、大波が船体を洗い流していくこともあって、湿って冷たくなった食事が提供されることもあった[77]

6月4日の夜に行われた最高司令部会議では、翌日の天候回復は見込めなかったため、作戦の延期が決定された。既に一部の輸送船団は荒れた英仏海峡を荒波に翻弄されてつつ航行していたが、作戦の延期により港へ帰還した。港に戻った船員たちは、ずぶ濡れの身体に疲労困憊した表情であった[77]。連合軍の軍人・軍属300万人を率いる連合国遠征軍最高司令部総司令官アイゼンハワーは、サウスウィック英語版にあった司令部を出て、部隊が乗船する港に近い場所に軍用車と何個かのテントを設営して、前線司令部を設置した。使用された軍用車はアイゼンハワーの狭い自室と事務室の他に、小さな台所と粗末なトイレを備えた簡素なものであったが、アイゼンハワーは主にこの軍用車に座乗して作戦指揮を司ることとした[78]

アイゼンハワーはこの軍用車のなかで悪天候に気を揉んでいた。作戦の延期が続き、6月5日からの3日間を逃すと、少なくとも半月以上は20万人もの人員が船や宿舎に押し込まれたままで次の機会を待たねばならなかったが、アイゼンハワーはそれが可能とは考えておらず、またドイツ軍に作戦が露見する可能性も高いことから、否応なくこの3日間以内に作戦を決行する必要性に迫られていた[79]

翌6月5日の午後9時にも、気象班員3人がアイゼンハワーを始めとした最高司令部に出頭し、最新の気象状況について説明した。責任者のイギリス空軍J・N・スタッグ大尉は緻密な気象観測により、新しい前線が英仏海峡に向かっており「数時間後に上陸地点一帯の天候は一時的に好転する」「この良好な状態は明日1日、そして6日の朝まで続く」「その後天候は再び悪化するが、この短い回復の期間には、風はかなりおさまり、空も晴れて爆撃機の行動も可能になる」という詳細な予報を報告した。要約すると「必要とされていた最低限の条件よりは悪いが、比較的よい天候が24時間とちょっとの間だけ続く」というものであった。参加者たちからは「予報は確実か?」「絶対に誤りはないか?」などの質問が矢継ぎ早に飛んだが、スタッグたちは、情報を綿密に分析し、計算も何度もやり直した結果で出した予報とは言え、当然ながら天気予報を確実に行うのは不可能な話であり、質問には答えられなかった[80]

アイゼンハワーは司令部の面々一人一人に意見を求めた。決行や延期などそれぞれの意見が述べられたが、モントゴメリーは昨日と同様に「私は行く方に賛成です」と述べた。最後はアイゼンハワーの決断に委ねられることとなったが、アイゼンハワーは手を机の上で組んで、頭を下げて数分の間考え込んだ。司令部にはたくさんの人間がいたが、結局はアイゼンハワーは孤独に決断を下さなければならなかった。モントゴメリーら連合軍司令官たちが見守る中、アイゼンハワーはついに憔悴した顔を上げてゆっくりと呟きだした。「とにかく決定を下さねばならない。私はそれを好まない。しかしそうなのだ。だとすれば、私に選択の余地はないと思われる」[81]そして、その後に極めて簡単な言葉で作戦決行を告げた[61]

Will go(いこう)[82]

上陸

編集

空挺作戦

編集

イギリス軍

編集
 
ペガサス橋

上陸開始に先立って、海岸付近のドイツ軍の攪乱と反撃行動の妨害により、上陸部隊の内陸進攻を容易にするためトンガ作戦を開始。イギリス第6空挺師団、アメリカ第82第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始した。

イギリス第6空挺師団は午前0時10分過ぎ、最初に活動を始めた。彼らの主任務はソード・ビーチからやや南東にある、内陸進攻に必要なペガサス橋とホルサ橋の2つの橋の占領確保、そして作戦の最も困難な部分は4門の大口径砲を備えたメルヴィル砲台陣地の無力化であった。これらの砲は上陸艦隊に対する脅威と見なされており、遅くても午前5時30分までに無力化せよと命令されていた(トンガ作戦を参照)。4,255名の英第6空挺師団は橋と砲台の周辺に第1波はパラシュート、第2波はグライダーで強行降下・着陸を試み、作戦を開始する。着陸時に多くの資材を失いながらもイギリス第6空挺師団は速やかにカーン運河とオルヌ川にかかる橋梁を確保していった[83]

イギリス第6空挺師団の降下地点にはドイツ軍第716歩兵師団が配備されており戦闘となった。第716歩兵師団師団長ヴィルヘルム・リヒター英語版少将は迅速に対応し、連合軍空挺部隊が降下し始めて間もなくの午前1時20分には、第21装甲師団英語版に支援を要請した。しかし師団長のエドガー・フォイヒティンガー少将は前日の6月5日にパリで愛人との情事を終えて帰ってきたばかりであり、司令部へは出勤していなかった。そのため、リヒターの要請は午前6時30分まで放置された形となり、英第6空挺師団に組織だった反撃ができず、作戦遂行を容易にしてしまった。そもそも砲兵出身のフォイヒティンガーにとって戦車隊の運用経験は皆無なうえ、師団長という地位も単にナチ党のコネを使って得ていたことから、その能力は疑問符がつくものであった[84]

それでもごく一部の装甲部隊が空挺部隊に立ちはだかり、重装備が不十分な空挺部隊にとって難敵となった。第5パラシュート旅団の2個大隊はドイツ軍の守りが固い地域に降下してしまい、近くにいた第125装甲擲弾兵連隊の攻撃を受けることとなった[85]。イギリス空挺部隊は対戦車砲PIATも持たなかったが、迫撃砲でドイツ軍戦車3輌を撃破して撃退している。英空挺部隊はそのままランビルに突入、守っていた第716歩兵師団の1個中隊を撃破して街を確保した[86]。午前8時、ようやく第21装甲師団司令部から、第22戦車連隊の連隊長ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー大佐に出撃命令が出された。その頃、連合軍の大部隊が上陸を開始しており、本来であれば当初のロンメルの計画通り、上陸する部隊を海に追い落とすべく海岸に向かうはずで、アメリカ軍が苦戦中のオマハ・ビーチに投入しておけば決定的な役割を果たすことも可能であったが[87]、まずは空挺部隊を叩くため、オルヌ川東岸への進撃が命じられた[85]

オマハ・ビーチのアメリカ軍は知らぬ間にイギリス空挺部隊に救われたが、一方で重装備を持たないイギリス空挺部隊はドイツ軍戦車部隊の大反撃に慄くこととなった。しかし、午前9時30分にブロニコフスキーに対して、上陸に成功して内陸に進撃しつつあるイギリス軍を叩くため海岸方面に向かえとの命令の変更があり、第22戦車連隊は見晴らしのいい公道上での方向転換を余儀なくされた。ドイツ軍にとって不幸なことにノルマンディーの天候が回復しており、ヤーボ(Jabo)が多数飛来して、移動中の第22戦車連隊に猛攻撃を加えた。そのため104輌もあったIV号戦車のうち40輌が撃破されてしまい、集合地のぺリエール尾根に到着したのはわずか60輌程度に過ぎなかった。ドイツ軍は拙い戦闘で一方的に戦力を失い、戦車の反撃を警戒していた英空挺部隊も胸をなでおろすこととなった[88]

 
メルヴィル砲台跡は現在、観光地となっている。

このように橋の確保はドイツ軍の自滅的な作戦の失敗もあって順調であったが、もう一つの任務であったメルヴィル砲台の撃破は簡単にはいかなかった。チェコ製leFH 14/19(t)100ミリメートル(3.93インチ)山砲英語版が備え付けられた砲台は、厚さ2mのコンクリート製で固められたうえに、さらに4mもの土塁で補強されており、約400㎡の砲台地域は、高さ1.7mの鉄条網がめぐらされ、その中には20ミリメートル対空砲と、15か所の銃座に置かれた機関銃と約200人の兵士で守られていた[89]。 襲撃に先立ち0時30分から行われた砲台陣地への予備爆撃は、アブロ ランカスター100機が1,800㎏の大型爆弾の雨を降らせたが、砲台には命中せずに近くの農場に着弾して家畜を多数殺して、空挺兵が身を隠すのに利用できそうな大穴を開けただけに終わった[90]

イギリス空挺部隊はこの作戦のために入念な訓練を繰り返していたが、作戦はまったく訓練通りにはいかなかった。予備爆撃のさなかに着陸するはずだった空挺師団に火力を増強するための装備を満載したグライダー隊は1機も到着できず、砲台陣地を攻撃する予定の部隊700名は広い地域に散らばってしまったため、指揮官テレンス・オットウェイ中佐の元に集合できたのはわずか160名であった。オットウェイはこの少数の兵士で作戦を決行することを決意すると、部下に説明した。そのなかで元ボクサーの兵士が携帯用の酒瓶を取り出すと「中佐どの、いまのうちにこのブランデーを飲んでおいた方がいいですかね」と心配そうに聞いてきた。この兵士の心配通り、本来なら砲台のうえにグライダーを着地させ、空挺隊員がそのまま砲台に突入して速やかに爆破する計画であったが、グライダーの着地に失敗した為、当初の計画を全く放棄し、ドイツ軍の地雷原を機関銃座からの射撃を浴びながら突破するといった自殺的な作戦を取らざるを得なかった[91]

作戦は午前4時30分から開始され、3つの奇襲部隊を編成し、地雷原に標識をつけながら前進し、ランカスターの大型爆弾で開けた弾痕を辿りながら砲台に近づいて、鉄条網を切断して一気に砲台を占拠するといった粗っぽい作戦が決行された[92]。この不利な状況にもかかわらず部隊は勇敢に攻撃を開始し、160人もの空挺隊員はドイツ軍との激しい近接戦闘を繰り返して66人が戦死し、30人が負傷した。戦闘中に設置されていた山砲のうち1門が撃破され、30分もの戦闘ののち、残る3門も確保された。砲台ドイツ軍守備兵200名のうち、生存者は22名だけだった。確保してみると、備え付けられていた山砲は第一次世界大戦時の骨董品で、口径も100㎜とさほど脅威ではなかったことが判明した。オットウェイ隊は十分な量の爆薬を持たなかったので、携行していたプラスチック爆弾で砲尾だけ爆破すると、あとは海上からイギリス軍の巡洋艦「アリシューザ」が艦砲射撃で撃破することとしたが[93]、結局撃破することができなかったうえ、砲台は英空挺部隊が撤収したあとで、後日ドイツ軍に再占領されている。

アメリカ軍

編集

ノルマンディー地方の西方、ユタ・ビーチのあるコタンタン半島には、米第82および第101空挺師団が降下していたが、彼らの任務もまた困難に遭遇していた。一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため、部隊は広い範囲に散らばって降下した。ドイツ軍は空挺部隊の行動を阻むためにこの地方の川をせき止めて沼を作り出しており、少なくない数の兵士たちがこれらの沼に降下して溺死し、輸送機から飛び出すのが遅すぎた者たちは海に降下して溺死した[94]。24時間後、第101空挺師団6,600人のうち、すぐに集結できたのは1,100人に過ぎず、夕方になっても2,500人がやっとで、第82空挺師団も同様であった[95]。第101空挺師団のマクスウェル・D・テイラー師団長も降下直後は30人の将兵としか合流できなかったが、その30人のうち5人が大佐で他も多くが将校で、肝心の兵卒が殆どいなかったことから、テイラーは、チャーチルがバトルオブブリテンの後に語った名言「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない。」をもじって「人類の歴史の中で、かくも少ない兵士が、かくも多数の人に率いられたことはない」と冗談を言って、敵中に孤立して不安であった一隊を和ませている[84]

アメリカ軍空挺両師団は混乱していたが、それ以上に混乱していたドイツ軍は、連合軍による激しい砲爆撃で連絡手段が限られていただけでなく、少数の兵士で構成されたグループ多数がばらけて降下したため、どれだけの人数がどの方向から攻撃しているということを全く判断することができず、アメリカ軍にとっての失敗は却って奇跡的な成功を導くこととなった[96]。ドイツ軍第91歩兵師団英語版師団長ヴィルヘルム・ファリー中将の一行は演習の帰りに、第82空挺師団第508パラシュート連隊の一隊と不意に遭遇し、戦闘によって全滅している。ファリー中将は乗っていた軍用車から投げ出され、負傷しながらも応戦するため拳銃に向かって這っているところをアメリカ軍中尉に見つかって射殺された[97][98]。第91歩兵師団はコタンタン半島海岸防衛のための唯一の予備部隊であったが、開戦早々に指揮官を失ったことで今後の作戦に大きな支障をきたすこととなった[99]

 
サント=メール=エグリーズの教会にある、82空挺師団ジョン・スティール二等兵の人形。ドイツ軍がいる町の真ん中に降下してしまったスティール二等兵のパラシュートは教会の塔に引っかかり、彼は捕虜になるまで死んだふりをしていた。

アメリカ軍の空挺部隊のうち最も活躍したのは第82空挺師団第3連隊となった。計画では第82空挺師団はメルデル川両岸に降下したのち、コタンタン半島の要衝サント=メール=エグリーズの街を確保することとなっていた。サント=メール=エグリーズを抑えればシェルブールに向かう道路や鉄道を寸断し、ドイツ軍守備隊を孤立させることもできた。また、メルデル川にかかる橋梁も確保し、上陸した各部隊の進撃の手助けをするという任務も帯びていた[97]

しかし、実際にサント=メール=エグリーズ付近に降下できた空挺部隊は第3連隊のなかの小部隊となり、そのなかの数個小隊は街中に降下することとなってしまった。街中には、オーストリア出身兵で構成された対空部隊が陣取っていたが、午後11時に発生した火事の消火にあたる住民を監視するためドイツ兵50人ほどが建物外に出ていた。そこに第82空挺師団が降下してきたため、ドイツ兵は空に向かって射撃を開始した。そのうち、街中に空挺兵が着地し始めたが、建物にパラシュートが引っかかってぶら下がった状態となった空挺兵が続出し、ドイツ兵に次々と射殺された。そのなかの1人、ジョン・スティール二等兵は教会の尖塔にパラシュートが引っかかってしまったが、撃たれないようにするため、耳を聾するような大きな音で鳴り響く教会の鐘の音に耐えながら死んだふりをするしかなかった[100]

夜明け前には第3連隊の大隊の1/4ぐらいの兵力が集結してサント=メール=エグリーズに到達した。その1隊の指揮官は大損害がでる可能性の高い、建物1個1個を奪い合うといった市街戦を避けて、ドイツ軍の意表をついて街中に突入すると、強固な陣地を構築し始めた。街に陣取っていたドイツ軍の対空部隊と1時間程度の戦闘となったが、ドイツ軍部隊は撤退したので、6月6日の午前中にはサント=メール=エグリーズは確保され、同地は侵攻によって解放された最初の街となった[101]

上陸作戦

編集

上陸準備

編集
 
ノルマンディーに向かって航行する連合軍船団

6月5日の夜9時少し前に、ノルマンディーの沖合に10隻あまりの船影が現れた。船の乗組員からははっきりとノルマンディーの街の明かりが見えるほどの距離であったが、ドイツ軍は全く気が付かなかった。これは先行してドイツ軍の機雷を除去していた連合軍の掃海艇であったが、掃海艇が任務を果たしている頃には、大小約5,000隻の大艦隊が英仏海峡を渡ってノルマンディを目指していた[102]。この大艦隊は見渡す限り水平線のかなたまでびっしりと艦影で埋め尽くしており[19]、夜陰に紛れてその全体像を見ることはできなかったが、目の届く限りでは、至るところに大小の船が並んでいて、多くの水兵や兵士たちにとって一生忘れることのできない光景となった[103]

これほどの大艦隊であれば、ドイツ軍に事前に発見される可能性は高かったが、連合軍は水を漏らさぬ体制でそれを防ごうとした。上陸までの数週間に渡ってオランダからフランス一帯の、英仏海峡に面したすべての地域に存在したドイツ軍のレーダー基地を戦闘爆撃機が徹底的に叩き、まずはドイツ軍の目を奪っていた。さらにイギリス軍が誇る高性能夜間戦闘機デ・ハビランド モスキートの飛行中隊を、フランス沿岸で夜通しの哨戒任務にあたらせ、離陸してくるドイツ機を漏らさず撃墜できる体制を整えた。同様にイギリス国内の飛行場にも多数のアメリカ、イギリス軍の夜間戦闘機を待機させた。さらに無線妨害装置を装備した航空機も洋上で飛行させ、ドイツ軍夜間戦闘機が使用する周波数にジャミングをかけた[104]

同じころ、イギリスの100か所を超える飛行場では、英米とイギリス連邦ニュージーランドオーストラリアに加えて、ナチス・ドイツからの祖国解放をめざす自由フランスポーランド亡命政府チェコスロバキア亡命政府オランダベルギーノルウェーといった国々の空軍に所属するか出身兵士が乗り組む爆撃機や戦闘爆撃機が出撃準備をしていた。これまで連日にわたって連合国軍爆撃機はフランス国内を爆撃しており、パイロットたちは薄々ながら軍の意図に気が付いてはいたが、出撃前のブリーフィングで「諸君、連合軍は本日、ヨーロッパ大陸に向け侵攻を開始する」という発表があると、たちまちブリーフィング、ルームは歓声でわきたった[105]。連合軍はこの夜、持てる航空戦力の全てを投入する計画で、イギリス軍は延べ1,333機もの爆撃機が海岸の10か所の砲台に5,000トンの爆弾を叩きこむべく出撃した[106]

 
ポワント・デュ・オックのドイツ軍砲台を爆撃する連合国軍爆撃機

アメリカ軍も第8空軍の全力を投入しており[107]、6月5日の夜からD-デイにかけてイギリスから出撃した連合軍航空機は実に延べ9,210機以上にもなり、イギリス首都ロンドンには一晩中爆音が鳴り響いた[108]。そして投下された爆弾は11,912トンにも及んだ。爆撃は絶大な効力があり、カーンやサン=ローは建物多数が倒壊し、ドイツ兵に多数の死傷者が生じたと共に、街内は瓦礫の山で軍の移動に大きな支障をきたすこととなった。海岸の陣地でも被害が続出し、コタンタン半島の海岸線を守っていた第709歩兵師団の陣地には早期爆発用の信管を装着した対人爆弾が絶大な威力を発揮し、多数のドイツ軍兵士が死傷した。ユタ・ビーチにあったW5陣地では、爆撃機の対人爆弾に加え、ヤーボ(Jabo)が低空飛行で、海岸のトーチカをロケット弾などで精密攻撃したことから、多数の死傷者に加えて、配置されてあった対空砲が撃破され、また弾薬庫も誘爆したことから兵士は怯えてしまい、指揮官に対して「全滅です、倉庫も燃えています」「すぐに降伏しましょう」と泣きついてきたほどであった[109]

一方で、オマハ・ビーチに飛来したB-24リベレーター爆撃機329機が投下した約13,000発の爆弾は、ただの1発もオマハ・ビーチどころか高台に構えるドイツ軍陣地にも命中せず、ドイツ軍陣地奥の何もない尾根に着弾した。上陸直前にも爆撃機が飛来して援護のための爆撃を行ったが、海上を進行中の上陸用舟艇に誤爆しないよう投下のタイミングを遅らせたところ、またしても爆弾はあらぬ方向に着弾した。その様子を見ていたある指揮官は「連中はきっと、ベッドで寝ていても、あの集中爆撃と同じぐらいの戦果を挙げたに違いない」と嘆いた[110]

連合軍は海からの脅威にも完全に対応していた。ドイツ軍はビスケー湾の各基地に合計約100隻のUボートを配備していたが、英仏海峡には1隻も進入することができていなかった。ドイツ軍内でもUボートが上陸作戦に対抗することができないということは公然の秘密となっていた[111]。それでも連合国軍は完全を期して対潜哨戒機を夜通しで運用した。Uボート狩りに多大な成果を挙げていたB-24リベレーターやショート サンダーランド飛行艇は昼夜問わず長時間飛行し、レーダーも活用してドーバー海峡の海域に目を光らせ続けた。D-デイ当日はUボートを近づけることはなく見事に任務を果たし、翌6月7日に反撃のためドーバー海峡に接近してきたUボートを事前に発見、中でも第224飛行中隊のB-24リベレーターは22分の間に2隻のUボートを撃沈し、Uボート隊を撃退している[112]

機雷により掃海艇に多少の損害はあったが、ドイツ軍にはまったく気づかれることなく大船団は午前1時40分から午前3時にかけて所定の海域に達した。そこで多少の混乱はありながらも、輸送艦隊は整然と指定海域に移動して錨を下ろし「投錨完了」の報告を行った[113]。指定海域に向かう輸送艦内では上陸部隊の兵士にかなり早い豪華な朝食が振舞われれていた。アメリカ軍攻撃輸送艦サミュエル・チェーイス英語版」の艦内ではありったけのステーキポークチキン、アイスクリーム、キャンディが供され、他の艦艇でも、ソーセージ、豆料理、コーヒー、ドーナツが食べ放題だった。一方でイギリス軍艦艇では普段と変わらないコンビーフサンドウィッチが出されたが、それにごく少量のラム酒が“まるでネルソン提督の時代”のように追加されただけであった。そんな陸軍の将兵たちを不憫に思ったイギリス海軍の水兵たちは、自分たちの食料を融通することを申し出て、ある艦ではゆで卵2つとチーズサンドウィッチがメニューに追加されたという[114]

ドイツ軍が最初にこの大船団を発見したのは、午前3時9分で既に輸送艦隊の投錨が進んでいる最中であった。ドイツ海軍のレーダーが大艦隊の一部を捕えたため攻撃が命じられたが、夜明け前までは大きな戦闘はなかった[115]。連合軍はポワント・デュ・オックなどのドイツ軍大口径砲を実情以上に過大評価しており、砲の射程外と判断した11マイルも沖合に艦隊を停泊させていた。連合軍海軍は、海岸の火砲を事前に沈黙させることが必要と考えて、上陸前2時間の艦砲射撃を提案したが、陸軍側は2時間もかけたのでは奇襲的要素が薄れて敵の増援が到着するから40分で構わないとした。協議の結果、陸軍側の意見が通って上陸前40分の艦砲射撃となったが、40分でも2時間でも時間としては不十分であり、多くの海岸陣地は健在で、一部海岸での苦戦要因となってしまった[116]。これは、太平洋の上陸作戦でサイパンの戦いでは丸2日[117]硫黄島の戦いでは丸3日であったことを見ると明らかに短すぎた[118]

上陸開始

編集
 
アメリカ軍戦艦「ネバダ」からの艦砲射撃

イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、西から順にブラッドレー将軍指揮のアメリカ軍担当の「ユタ」(第4歩兵師団コリンズ将軍指揮)、「オマハ」(第1歩兵師団ゲロウ将軍指揮)、デンプシー将軍指揮のイギリス軍担当の「ゴールド」(第50歩兵師団ブックノール将軍指揮)、「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団)、「ソード」(第3歩兵師団)の5つの管区に分けられた。各管区はAから始まる通しのコードネームが付けられた3つから4つのブロックに分けられ、更に各ブロックは「レッド」「グリーン」「ホワイト」の3セクタ―に分けられた。

豪華な朝食を食べたのち、各輸送艦上で士官は上陸する兵士たちに訓示をしていた。訓示内容は統一されておらず、お国柄が出ていた。アメリカ軍のある部隊では「地獄でも高潮でもやってこい。障害物の畜生なんぞ取っ払え」と士気を煽る激しいものであったのに対し、イギリス軍のある部隊ではウィリアム・シェイクスピアの史劇『ヘンリー五世』の一節を引用して「今日死なないで帰国する者は、こののちこの日がきたときには、我知らず足をつまだてるであろう」と静かに訓示した[119]

一方で、ドイツ軍は連合軍大船団をレーダーでとらえていたものの、前線までにはその情報は伝わっていなかった。そのため、夜明け前に視界が開けてくるにしたがって、海岸のドイツ軍監視所からもこの異様な大船団が見えるようになっていた。オマハ・ビーチを見下ろす監視所で夜通し海上を監視していたヴェンナー・ブルースカット少佐は、散りかけているの間で、水平線いっぱいにあらゆる大きさの船が静かに進行しているのを発見した。ブルースカットは信じられないものを見ている感覚に襲われるとともに、ドイツの終わりがきたことを理解した。それからブルースカットは第352師団のブロック少佐を電話で呼び出すと「ブロック、上陸だよ。少なくとも1万隻の船がいる」と報告した。報告を受けたブロックは信じられず「しっかりしろ、ブルースカット、落ち着き給え」「イギリスとアメリカをあわせたって、そんなに船はありはしない。どこの国にそれだけの船があるものか」と否定した[120]

「嘘じゃない!」と彼は叫んだ。「信用しないのなら、ここへ来て、自分の目で見たまえ!途方もない船団だ!信じられない眺めだ!」ちょっと間があいて、再びブロックの声がもどった。「その船団はどちらへ向かっているのかね?」受話器を握りしめたまま、プルースカットは銃眼に目をやって答えた。「まっすぐ私の方へだ!」 — 『史上最大の作戦』pp.247

午前4時58分、上陸前の爆撃が続く中、「全舟艇おろせ」の命令が出され[121]、兵士たちは輸送艦上から上陸用舟艇にを伝って乗り込んだ。しかし、兵士たちは通常の作戦より遥かに重装備であり、なかには自分の体重に装備を合わせて150㎏の重量に達するような兵士もいた。そのため、舟艇に乗り移るのも一苦労で、なかには網から舟艇に落下して重傷を負うものもいた。また、舟艇に乗り込んでも、クレーンで海面に下ろそうとしたとき滑車が故障して、舟艇が空中にぶら下がってしまうという事故も起きた[122]

海岸への侵攻準備が進む中、援護の軍艦は艦砲射撃の開始に備えていた。計画では上陸前40分からの砲撃開始であり、先行するイギリス軍の担当ビーチでは5時30分、アメリカ軍の担当ビーチでは5時50分開始予定であった[123]。しかし、砲撃を先に開始したのはドイツ軍であった。4時15分、ユタ・ビーチにアメリカ軍駆逐艦「コリー」が接近してきたが、ドイツ軍砲兵が指揮官に7.7cm FK 16での反撃を申し出た。これまで散々空襲で痛めつけられてきたのもあって指揮官は砲撃を許可し、「コリー」に向けて砲撃したが命中しなかった。逆に砲兵陣地が暴露されてしまったので「コリー」の反撃に遭い、3斉射目で砲兵陣地ごと7.7cm FK 16は撃破されてしまった[124]

さらに5時20分ごろには、掃海作業を行っていた掃海艇に対してドイツ軍から砲撃があったので、イギリス軍軽巡洋艦「ブラック・プリンス」が反撃を行った[123]。ドイツ軍砲台は連合軍の大艦隊に対して果敢にも反撃を行ったが、ドイツ軍の火砲は旧式なものが多く、また同じ砲台なのに、海上の艦艇を砲撃するときはドイツ海軍の指揮下となるのに対して、上陸部隊に対する砲撃はドイツ陸軍の指揮下になるなど複雑な指揮系統もあって[125]、反撃も組織立ってはおらず、海上の艦艇に対して全く命中しなかった[126]

連合軍艦隊はドイツ軍の反撃を見て、作戦計画前ではあったが艦砲射撃開始を命じた。アメリカ軍駆逐艦「カーミック英語版」では艦長が「全員に告ぐ。これから今まで見たことないようなパーティが始まるのだ!今こそ、出て踊れ」と激しい言葉で砲撃開始を命じた[127]。戦艦や巡洋艦といった大型艦は特定する海岸砲を叩き潰すという任務が与えられ、海岸砲の射程外の沖合に投錨して巨砲をドイツ軍砲台に浴びせ、駆逐艦などの小型艦などは海岸付近のドイツ軍陣地を砲撃し、上陸部隊の援護を行った[128]

ユタ・ビーチとオマハ・ビーチを見下ろす位置にあり、アメリカ軍が最も警戒していたポワント・デュ・オックのドイツ軍砲台に対しては、アメリカ軍戦艦「ネバダ」「アーカンソー」が600発もの砲撃を行い、無力化に成功した[129]。先走って反撃したユタ・ビーチでは、偵察機によって砲台や陣地の位置が暴露されてしまっており、連合軍艦砲射撃が開始されると間もなく大口径の砲弾が次々と着弾し、その正確な砲撃で塹壕はならされ、鉄条網は吹き飛び、対空砲台は破壊されて夥しい死傷者が生じた[130]。しかしオマハ・ビーチについては、大型艦の艦砲射撃が砲台破壊を重視したこともあって、大きな損害はなかった。爆撃による被害もほとんどなかったこともあって、オマハ・ビーチのドイツ兵は「連中、我々には手を出さんつもりですかね」と嘯くほど余裕があった[131]

ゴールドビーチ、ジュノービーチ、ソードビーチではイギリス軍戦艦「ウォースパイト」「ラミリーズ」を主力とするイギリス軍戦艦と巡洋艦が巨砲を浴びせて、次々と砲台を沈黙させていた。なかでもラプラタ沖海戦の殊勲艦軽巡洋艦「エイジャックス」は15cm砲を装備した砲台を含む4個の砲台を破壊するという戦果を挙げた。大艦隊による激しい艦砲射撃は、あたかも沿岸要塞網全体を一面の砲火で覆ったように見えて、その光景を見ていた水兵たちは、友軍の巨艦の雄姿を誇りに感じ、「こうした光景が見られるのもこれ1回限りではないか」「こんなすごい砲弾の洪水の下で、いったい耐えられる軍隊があるはずがない」「2時間か3時間で、きっと艦隊は必要な仕事を終えてしまうだろう」などと各々で思いを抱いた。また、頭上を巨弾が飛び交っている中で上陸用舟艇に乗って海岸に向かっている兵士たちも、ずぶ濡れになりながら頭をあげて万歳の声をあげた[129]。しかし、短時間の艦砲射撃ではドイツ軍の海岸陣地を無力化することはできておらず、特にオマハ・ビーチでは殆どの拠点が健在で上陸部隊を待ち構えていた[132]

航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日午前6時30分、5つの管区で一斉に上陸を開始した。

アメリカ軍担当ビーチ

編集
オマハ・ビーチ
編集
 
上陸用舟艇内の兵士達

オマハ・ビーチは他のビーチと比較すると波が高かったが、それでもビーチと同様に11マイル(18㎞)の沖合で輸送艦から上陸用舟艇への移乗が行われた。オマハ・ビーチに上陸し、その後はイギリス軍とサン=ローを目指す予定であったアメリカ軍第1歩兵師団(ビッグ・レッド・ワン)の歩兵たちは高い波浪の中で苦労して上陸用舟艇への乗り換えを進めていた。その歩兵に先行して上陸し、歩兵のための血路を切り開く予定のDD戦車と装甲ブルドーザーを乗せたLCTはさらに海岸に接近して、5,500ヤード(5,000m)で戦車やブルドーザーを海上に下ろす計画であった。これは陸上砲台からの砲撃を警戒して、十分な距離をとったものであるが、これが全くの裏目に出てしまった[133]

オマハ・ビーチには64輌のDD戦車が投入され、そのうち32輌が第1歩兵師団、残る32両が第29歩兵師団の担当戦域に上陸する計画であった[134]。しかし第1歩兵師団の担当戦域に投入される32輌がLCTから順次海上に進行を始めると、荒波がDD戦車隊を襲い、浮力の源泉であるキャンバスを次々と切り裂いていった。その時点で海上に進行していた29輌のDD戦車のうち27輌があっという間に海中に没してしまい、残る2輌がどうにか沈没を免れると海岸に向かって進行した。その様子を見ていたLCTの艦長は残り3輌は直接海岸に揚陸しようと決めて、艦を海岸に乗り上げさせて無事にDD戦車は上陸に成功した。しかし、第1歩兵師団担当戦域にはたった5輌の戦車しか上陸できなかったため、後の大苦戦に繋がることとなった。一方で、第29歩兵師団の担当戦域の32輌は無事に海上を進行しての上陸に成功している[135]

しかも連合軍にとって悪いことに、当初海岸に配備されていたドイツ側の守備隊は二線級の第716歩兵師団と予測されていたが、実際は東部戦線における激戦の戦闘経験を持つ第352歩兵師団であった[注釈 1]。第352歩兵師団は連合軍の知らぬ間にオマハ正面へ布陣しており、その火点の多くが事前の航空爆撃や艦砲射撃にも生き残り、上陸部隊を待ち構えていた。荒れた海で上陸に苦戦し、なかには途中で舟艇を降りて200mも海中を徒歩で進んでくるアメリカ兵を見て「連中、頭にきたんですかな?泳ぐつもりか??我々の目の前で?」などと嘲笑うぐらいの余裕もあった[132]。海岸戦区を任されていた第726擲弾兵連隊と第916擲弾兵連隊の両連隊長は、海岸に接近してくる上陸用舟艇を見てはやる兵士たちに対し「敵を波打ち際まで引き寄せて撃て」と厳命し、歴戦の兵士たちも激しい砲爆撃に動揺することなくじっと待った[136]

そうとは知らない上陸部隊は、荒れた海面のため、戦わずして多数の水陸両用戦車を失いながらも、残った200隻余りの上陸用舟艇は海岸に向けて殺到した。やがて海岸から700mまで接近したときに上陸用舟艇に向けてドイツ軍の砲撃が開始された。上陸用舟艇に乗っていた兵士たちはその激しい砲撃で大きくどよめいたが、上陸用舟艇を支援していた各種戦闘艦の激しい砲声でそのどよめきはたちまちかき消された。ドイツ軍の砲弾は次々に上陸用舟艇に命中し木っ端みじんに打ち砕いた[137]。どうにか上陸用舟艇が海岸に到着し、上陸はしごが下ろされると、待ち構えていた機関銃座から猛射が浴びせられ、ある舟艇では搭乗者が悉くなぎ倒されて、生存者がたった1人だったということもあった[138]。そのときの状況を公式記録はこう記述している。

「上陸10分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能力を失った。指揮をとる全ての士官および下士官は戦死または負傷した。……それは生存と救助のための闘争となった」

舟艇から叩き落された兵士は、膝や腰あるいは首まで海水に浸かっていたが、海岸や海中にはドイツ軍が設置した多数の障害物があって、兵士の上陸を困難にしていた。そこで、ジョゼフ・ギボンズ海軍少佐率いる水中破壊班192人が、海中障害物を破壊して進路を切り開こうとしたが、ドイツ軍の激しい攻撃によって1/3の兵士が死に、過半数は負傷した。しかし、破壊班は大損害を被りながらも着実に任務をこなしていった[139]

 
オマハビーチで戦死したアメリカ兵

戦車の支援がなくなった第1歩兵師団の上陸地は悲惨な状態となり、第116歩兵連隊英語版チャールズD.W.キャナム英語版大佐がビーチに上陸すると、第116連隊の兵士たちはあたかも“人間の絨毯”のように地面に張り付けられ、特にE中隊は約200人の定員中、中隊長を含む104人が死傷していた。キャナムはドイツ軍のネーベルヴェルファー臼砲によって、海岸にうずくまっている兵士が次々と吹き飛ばされるなかでも、全く臆せずに戦闘指揮所を設置した。その後、自身の手首を銃弾が貫通しながらも後退を拒否し、引き続き最前線で戦闘指揮を継続した[140]

第16歩兵連隊英語版も同様な状況であり、兵士たちは護岸にへばりつき小さくなっていたので、将校や下士官たちは兵士を勇気づけようと必死であった。上陸時に足を捻挫したF中隊長のジョセフ・フィンケ大尉はをついていたが、その杖を振り回しながら隠れている兵士を追い出して前進させた。兵士が負傷するとそれを助けようとして戦友が駆け寄ったが、それをフィンケは追い散らした。一見非情には見えたが、激しい砲火の下では、負傷者を助けようとした兵士3人が巻き添えになって必ず死ぬと判断し、身を切られる思いで負傷者を見捨てるよう命じたものであった[139]。しかし、F中隊は大損害を被り、上陸した200人のうち無事であった兵士は95人、将校に至っては7人のうちで戦えるものはフィンケただ一人となっていたが、そのフィンケも内陸に1,000ヤード進んだところで、臼砲弾で肘と膝を砕く重症を負っている[141]。苦戦を続ける16歩兵連隊を指揮するため、連隊長のジョージ・A・テイラー英語版大佐も上陸したが、テイラーはのちに有名となる言葉をかけ、兵士に海岸からの前進を促した。

「この海岸には、2種類の人間がいるのだ。すでに死んだものと、これから死ぬものだ。戦おう、生きるために」

戦況は午前9時30分まで殆ど改善されなかったが、第16連隊と第116連隊と水中破壊班は大損害を被りながらも、着実に海中や海岸の障害物を除去し進路を切り開きつつあった。そのような戦況には構わず、後方からは絶え間なく第2波以降の上陸用舟艇の大群が押し寄せており、海岸は大混乱状態に陥っていた。立往生した車両が狙い撃たれて、その残骸がまた海岸の混乱を増長させたため、上陸統制官は車両の揚陸を禁止したほどであった[141]。上陸した部隊間で混とん状態を少しでも改善しようという動きも始まり、頑強に抵抗するドイツ軍陣地への精密な艦砲射撃が要請された[142]

上陸部隊から要請を受けた、アメリカ軍8隻、イギリス軍3隻の駆逐艦が海岸900mの至近距離まで接近し、ドイツ軍の陣地に正確な艦砲射撃を浴びせた。遥か沖合から撃ち込まれてくる戦艦の巨砲よりも駆逐艦の艦砲射撃の方が遥かに効果が高く、オマハ・ビーチに上陸した兵士の多くが「この前衛駆逐艦が勝負を決めた」と振り返っている[143]。駆逐艦はさらに海岸の砂浜に座礁するぐらいの勢いで近づくと、陸上の目標に砲身をほぼ水平にして向けて正確な砲撃を浴びせ、次々と砲座や陣地を沈黙させた。その正確無比な砲撃に、陸上で苦戦している兵士は「次はなんだろう、ジープまで狙い撃ってやがる」と感嘆して士気が上がった[144]

ようやく揚陸に成功したM4中戦車も活躍し、ドイツ軍の掩蔽豪を蹂躙して沈黙させた。海岸線のドイツ軍はM4中戦車になすすべなく次々と撃破され、「さらば同志よ」と最後の言葉を発したのちに蹂躙されたドイツ兵もいた。苦戦させられた上陸部隊のドイツ兵に対する憎しみは深く、中には投降したのに射殺される場合もあったという。海岸線を守っていた第726擲弾兵連隊第2大隊はわずか66人の捕虜以外全員戦死しているが、捕虜となったドイツ兵は「生存者たちは、野蛮にも処刑されたのだ、ジュネーブ条約の明らかな違反だ」と主張している[145]

 
ポワント・デュ・オックの戦いで、第2レンジャー大隊が崖上に登頂するため使用した梯子。

オマハ・ビーチを見下ろすポワント・デュ・オック英語版には、ドイツ軍の巨砲が配置され上陸作戦の大きな障害になるとアメリカ軍は考えており、艦砲射撃の優先目標をなっていたが、さらに第2レンジャー大隊が、ドイツ軍の砲台にとどめを刺すための特殊作戦を敢行した。作戦計画としては、ジェームズ・E・ラダー中佐率いるレンジャー3個中隊225人の兵士がポワント・デュ・オック下の砂利浜に上陸し、を踏破して周囲の安全を確保したのち、発煙筒で合図を上げて沖に待機している後続部隊が続いて進攻するというものであった[146]

作戦開始直後にラダー隊の舟艇は航路を誤って、目的地から5㎞も離れた場所に行ってしまい、誤りに気が付いたラダーが慌てて引き返したこともあって作戦開始は大幅に遅れてしまった。この遅れがラダー隊にとって致命的となった。レンジャー兵士はロケット中型揚陸艦に装備されていたロケット砲からを取り付けたロープと縄梯子を発射し、鉤を崖に引っかけて縄梯子を登っていったり、ロンドンの消防署から拝借してきた消防用の収縮自在の梯子を使用して10階建てのビル相当の高さである36mの崖に挑んでいったが、砲台の守備兵が頭上から射撃を浴びせてきたり、縄梯子のロープを切ってきたため、叫び声を上げながら落下していくレンジャー兵士も多数にのぼった[147]。砲台にはアメリカ軍とイギリス軍の駆逐艦1隻ずつが艦砲射撃を浴びせていたが、その砲火の中でもドイツ軍の守備兵は果敢に抵抗した。レンジャー兵士はどうにか梯子やロープを登りきると、砲台内にわずかに残っていたドイツ兵を掃討して砲台を占拠したが、作戦目的でもあった重砲は影も形もなく、あったのは潰れかけた掩体壕とドイツ兵の死体だけであった[148]。ポワント・デュ・オックにはまだ重砲は設置されていなかったのにもかかわらず、アメリカ軍は最大の警戒をして、大量の艦砲を撃ち込んで、レンジャー隊まで送り込んだが、全くの徒労に終わった。さらに運が悪いことに、作戦が遅れたため、後続部隊はラダー隊の連絡を待たずにオマハ・ビーチに上陸しており、孤立したラダー隊はドイツ軍の3度にもわたってドイツ軍の反撃を受けて、一旦前進はしたものの、再びポワント・デュ・オックまで押し込まれて日暮れまでにおよそ1/3の兵力を失った[149]

海岸を見下ろす崖上には、大量の艦砲射撃を受けたのにもかかわらず多くのドイツ軍陣地が健在で、海岸にくぎ付けとなっている兵士に猛射を浴びせていた。従って崖上の健在なドイツ軍陣地の撃破が急務であった。ラダー隊がポワント・デュ・オックで苦戦しているとき、後続のレンジャー隊はオマハ・ビーチに上陸し、機関銃座破壊のために崖下に取り付くとカギのついたロープと梯子を使って崖を登って行った。レンジャー兵士が警戒しながらどうにか崖上に達すると、ドイツ兵は逃げてしまい陣地はもぬけの殻になっていた[150]。レンジャー隊の活躍もあって兵士は海岸から次第に前進し、海岸を見下ろす高台地まで進撃した。しかし、高台地のさらに奥には機関銃座が縦深的に配置されており、再び兵士は釘付けとなった。ある工兵部隊はドイツ軍の機関銃座を破壊するため、爆薬を搭載したトラックで機関銃座近くまで乗り付けると、導火線に火をつけて退避し、ほどなくそのトラックは大爆発し、機関銃座は沈黙した。工兵隊は確認すると、機関銃座は破壊されていなかったが、ドイツ兵は爆発の衝撃で鼻や口から血を吹き出しながら衝撃で息絶えていたという[145]

第29歩兵師団副師団長ノーマン・コータ英語版准将は、くぎ付けとなっている兵士を鼓舞するため、コルト・ガバメントを片手に最前線まで出ると「よーし。では、諸君がどこまでやれるか見てやろうじゃないか」と言って、少数の兵士を率いて突撃を敢行した。やがてドイツ兵5人を捕虜にとったが、ドイツ軍の機関銃座は構わずにコータらに銃撃を浴びせ、たちまち捕虜2人をなぎ倒した。残ったドイツ兵捕虜は友軍機関銃座に跪いて「撃たないでくれ」と命乞いした。ドイツ軍機関銃座は構わず銃撃を続け、4人の友軍捕虜を殺害したがコータらに撃破された[141][151]

やがてコータの一隊は崖上の陣地破壊に活躍した第2レンジャー大隊や、負傷しながらも指揮を続ける第116歩兵連隊長キャナムの一隊と合流してヴェルビルを目指すこととしたが[150]、この混成部隊はコータの「ろくでなし旅団」と呼ばれることとなった[151]。バスタード旅団は正午までにはかなりの内陸まで前進し、途中で戦意を喪失した大量のドイツ兵を捕虜とした。捕虜となったドイツ兵の俸給手帳より、オマハ・ビーチを守っていたのが歴戦の第352歩兵師団であったことを知って、コータらは衝撃を受けている[152]

旅団がヴェルビル村に到達すると、コータは少数の斥候を連れて村内を偵察したが、ドイツ兵は既にいなかった。住人に聞き込みすると、村落に配置されていた400人のドイツ軍は艦砲射撃が開始されると、村落を放棄して逃げてしまったという[153]。村落周辺にもロンメルの命令で大量の地雷が埋められていたが、コータはドイツ兵の捕虜を先頭にして道案内させ地雷原をかわしながら前進を続けた[154]。コータは東進して、第1歩兵師団の上陸地域に達した。そこで第1歩兵師団副師団長ウェイマン准将を探したが、戦場を駆け抜けてきたコータと違い、ウェイマンは海水でずぶ濡れになっていたので毛布にくるまって暖をとっている最中であった[155]

この頃には、多くのドイツ軍のトーチカや機関銃座を破壊されており、ドイツ軍の抵抗は次第に弱くなって、上陸部隊は遥かによい状態で上陸することができていた[156]。結局、アメリカ軍はオマハ・ビーチで2,000人の死傷者を被ったが[157]、それにもかかわらず生存者達は午後1時頃に防衛線を突破、夕刻までには1.5 kmほど内陸へ進出した。オマハ・ビーチは、上陸作戦で最も死傷率が高かったので「ブラッディ(血まみれの)・オマハ」と呼ばれることとなった。午後2時過ぎには海岸付近の火災も大方鎮火しており、撃破された車両や舟艇の残骸も片付けられて、車両や物資の揚陸も加速した。海岸付近にはロンメルが命じて埋められた大量の地雷が残っており、その爆破処理の爆発音が鳴り響き続けたが、ドイツ軍の反撃は殆どなく、地雷の爆破処理音にかき消される程度であった。上陸日以降の予想外の出来事としては、大量の肉塊を目撃し、遺体が燃える匂いを嗅ぎ続けたせいで、兵士の一部が一時的に肉料理を食べられなくなったことと、海中に落ちた兵士が多かったことから、各部隊で風邪が流行したことであった[152]

ユタ・ビーチ
編集
 
ユタ・ビーチでも投入されたドイツ軍兵器ゴリアテ。連合軍に鹵獲されて机代わりに使用されている。

ユタ・ビーチには「稲妻(ライトニング)ジョー」の異名を持つジョーゼフ・ロートン・コリンズ中将率いる第7軍団が上陸したが、その第1波となる第4歩兵師団第8歩兵連隊の兵員を乗せた上陸用舟艇が、潮流に流されてヴィール川河口部に辿り着いた。これは計画より2,000ヤードも南方となったが、本来の上陸地点よりドイツ軍の防備が弱かった。また、オマハ・ビーチでは荒波のためにDD戦車が次々と海没してしまったが、こちらの波は比較的穏やかでありDD戦車も殆ど無事に上陸に成功している[158]

オマハ・ビーチとは違ってユタ・ビーチは上陸前の砲爆撃でかなり叩かれていたうえ、上陸直前にはロケット中型揚陸艦に、大量のロケット弾を撃ち込まれてさらに損害が増大した。激しい砲爆撃にも生き残ったドイツ兵たちは、アメリカ軍の上陸用舟艇やDD戦車が海岸に向かってくるのを見て、完全に裏をかかれて干潮時に侵攻してきたことを知り「ロンメルの計算が外れた」と考えた[130]。ドイツ兵たちは東部戦線での経験通り、敵を確実に仕留められる100mの位置まで引き付けろと命じられていたが、続々と上陸してくるアメリカ兵を見て、たまらず500mの距離で射撃を開始した。ルノー FT-17 軽戦車を地面に埋め込んで作れられた即席トーチカの機関銃が上陸してきたアメリカ兵をなぎ倒したが、やがて上陸してきたDD戦車が姿を現した。大きなゴム製の気嚢を付けた姿は味方の重戦車を見慣れているドイツ兵の目にも怪物のようにうつったという。わずかに生き残っていた8.8 cm砲(アハト・アハト)がその怪物に向けて砲撃を開始し、命中はしなかったものの、至近弾で吹き飛ばされて停止した為、それを見ていたドイツ兵は歓声を上げたが、ドイツ軍の善戦は長続きすることはなく、今までの砲爆撃で破損していたアハト・アハトは1発の砲撃で完全に壊れてしまい、ルノー戦車のトーチカも後続のDD戦車の砲撃を受けて撃破されてしまった[130]。追い込まれたドイツ軍は最後の手段として、新兵器ゴリアテを投入したが、絶え間ない砲爆撃の振動で誘導装置が故障しており、うまく誘導することができず1発も命中することはなかった[159]

ユタ・ビーチに真っ先に上陸した将官は、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトの息子セオドア・ルーズベルトJr英語版准将であった。ルーズベルトJrは体調を崩して杖をついていたが、大胆不敵にも銃弾の飛び交うなかを、絶えず冗談をかわしながら悠然と歩きまわっていた。精鋭が配置されていたオマハ・ビーチとは全く異なり、ユタ・ビーチのドイツ兵はじっくりと狙いを定めて正確な射撃をしようとする意図は感じられず、アメリカ兵から見ると「ビーチの方向に向け、ただ銃口を左右に振っている」ようにしか見えなかったという。ユタ・ビーチにおける上陸部隊の任務は、ドイツ兵が小銃や機関銃を構えて立て籠もる孤立した陣地を一つ一つ虱潰しにしていくこととなり、その様は正規軍同士の戦闘というよりはむしろ対ゲリラ戦のようなものとなった。上陸部隊の兵士には敵が武装親衛隊の兵士であれば、爆弾や手榴弾を隠し持っている危険性が高いため皆殺しにするようにと指示されていたこともあり、1時間足らずでユタ・ビーチを守るドイツ兵は一掃されてしまった。一方で上陸部隊の損害は軽微で、死傷者数は197名と全上陸管区中最少であった[160]

 
ユタ・ビーチ沖で沈没するアメリカ軍駆逐艦「コリー」

ユタ・ビーチでの最大の損害は艦砲射撃のために海岸に接近していたアメリカ軍「コリー」の損失となった。「コリー」は海岸に接近すると、浅瀬に投錨して沿岸のドイツ軍砲台を砲撃戦を演じたが、あまりに激しい速射で「コリー」の艦砲の砲身が灼熱したため、水兵が消火用ホースで水をかけて冷却しなければいけないほどであった。やがて110発の砲弾を浴びせて砲台を撃破すると、他のドイツ軍砲台が目の敵にして「コリー」に砲撃を集中した。「コリー」は錨を上げると、ドイツ軍の砲撃を巧みな操艦でかわし続け、逆にドイツ軍の砲台に有効な砲撃を浴びせたが、その様子はあたかも「コリー」がバレエをしているように見えたという[161]

ドイツ軍の砲弾を避け続けた「コリー」であったが、ドイツ軍が設置していた機雷に触雷し、激しい衝撃で艦は海上から一旦持ち上がって海面に叩きつけられると、艦体がほとんど真っ二つとなってしまった。「コリー」はあたかも屑鉄の山のようになってそのまま慣性で1㎞ほど進んだが、動きの止まった「コリー」にドイツ軍砲台が集中砲撃を加えてそのまま撃沈した。激しい戦闘により沈没した「コリー」であったが、人的損失は思いのほか少なく、全乗組員284人中、戦死・行方不明13人、負傷者33人に収まった。しかし、この「コリー」の沈没は、D-デイにおける“史上最大”の大艦隊の最大の損失且つアメリカ海軍唯一の損失となった[162]

イギリス軍担当ビーチ

編集
ゴールド・ビーチ
編集
 
ゴールド・ビーチに上陸するイギリス兵

アメリカ軍の上陸開始時刻は、ドイツ軍が海中に設置した障害物を干潮でむき出しとなる午前6:30であったが、イギリス軍を率いるモントゴメリーは、アメリカ軍より入念に艦砲射撃を浴びせることと、多少障害物が邪魔になっても、上陸用舟艇が上げ潮に乗って進めるように、アメリカ軍より1時間遅い午前7:30とした。さらに上陸用舟艇がドイツ軍の砲火に晒される時間を少しでも短縮するため、輸送船団をアメリカ軍より5~6kmも海岸寄りに停泊させた。モントゴメリーには、要衝カーンを攻略と連合軍上陸拠点東面の確保という任務が課されていたが、その実現のためには、マイルズ・デンプシー英語版中将率いるイギリス第2軍英語版75,000人が、上陸後速やかに内陸奥深くまで進撃し、日没までには30km内陸部まで確保して橋頭堡を構築する必要があると考えられた[163]

イギリス軍第2軍主力の上陸地点はゴールド・ビーチであった[164]。ゴールドビーチに向かう第50(ノーサンブリア)歩兵師団英語版は、ダンケルク撤退戦、北アフリカ戦線、シチリア島上陸など常にイギリス軍の最前線で戦ってきた精鋭師団であった[165]。特にダンケルクの屈辱を晴らすべく復讐心に燃えており、上陸用舟艇が海岸から数百mまで達すると、艦砲射撃から生き残ったドイツ兵が弾雨を浴びせてきたが、イギリス兵は身じろぎもせずに舟艇内で落ち着いて上陸を待っていた。やがて7:30少し前に、上陸用舟艇は砂浜に乗り上げ、イギリス兵は開放された艇主扉から砂浜に向けて飛び出して行った[166]

ゴールド・ビーチの西にはル・アメル村、東にはラ・リヴィエール村があり、ドイツ軍はそれぞれその村落を要塞化し、コンクリート製のトーチカの中に88mm高射砲などの火砲を据えてイギリス軍を待ち構えていた。第50(ノーサンブリア)歩兵師団の第231旅団はル・アメル村を攻略後に、西進してポール・アン・ベッサン英語版でオマハ・ビーチから上陸してきたアメリカ軍と合流する計画であったが、ル・アメル要塞を守っていたのは、オマハ・ビーチでアメリカ軍を苦戦させた精鋭第352歩兵師団の部隊であり、海岸に向かってくるイギリス軍を待ち構えていた[167]。ル・アメル防衛線正面に上陸したのはハンプシャー第1連隊英語版であったが、同連隊の兵士を運んできた上陸用舟艇の一部は海岸まで接近することができず海中で兵士を降ろした。水深は兵士の足が届く深さではあったが、中には2mを超える深い場所もあり、陸上に達するまでにドイツ軍の機関銃に掃射されて、第一波は1割にも及ぶ損失を出してしまった[168]。しかし上陸できても熟練の352歩兵師団のドイツ兵は機関銃から臼砲まであらゆる武器を駆使してハンプシャー第1連隊に前進を許さず、8時間もの間ル・アメル村前面で釘付けとなり200人が死傷した[168]

しかし、苦戦したのはハンプシャー第1連隊だけで、その両脇で上陸したイギリス軍部隊は殆どドイツ軍の抵抗を受けることはなかった。また、隣のオマハ・ビーチでは多くが海中に没してしまったDD戦車が、イギリス軍上陸ビーチでは、殆ど損失なく上陸できて貴重な戦力となった[169]ドーセット第1連隊英語版グリーンハワード連隊英語版は殆ど損失もなく海岸に上陸を果たすと、わずか40分後には態勢を整えて内陸に向けて進撃を開始した。特にグリーンハワード連隊のスタンリー・ホメス特務曹長は獅子奮迅の活躍を見せ、海岸付近で90人ものドイツ兵を片付けると、さらにステン短機関銃と手榴弾だけで、内陸部にあったコンクリート製のトーチカをたった1人で攻略し12人のドイツ兵を殺害して20人もの捕虜を獲得するという大戦果を挙げている[170]。上陸に成功したDD戦車のM4中戦車とクロムウェル巡航戦車もドイツ軍のトーチカや機関銃座を戦車砲で次々と撃破して1時間の間に1.6kmも内陸に前進し、海岸付近のドイツ軍防衛線を完全に突破してしまった[165]

ゴールド・ビーチ東のラ・リヴィエール村には第69歩兵旅団英語版が突入した。ラ・リヴィエールも東端のル・アメルと同様にコンクリート製のトーチカなどが設置されて強固に守られていたが、配置されていたのが、高齢のドイツ兵とロシアやポーランドの志願兵で編成された第716歩兵師団であり、精強なイギリス兵に対抗することはできず[170]、第69歩兵旅団は市街戦の末、早々にラ・リヴィエールを制圧して、上陸後わずか2時間の間に内陸に1.6km入った高地を制圧、12:30までには第50師団の殆どの部隊が上陸して、幅5km、奥行き4kmの橋頭保を確立した[167]。その様子は、戦闘というよりは演習のようだとイギリス兵は感じ、夜にはバイユー市街近くまで達し[171]、さらにはバイユーとカーンの間の道路を遮断して、バイユーを孤立化させた[167]

D-デイの正午になってイギリス首相のチャーチルはイギリス国会庶民院で演説した[172]

「私はまた、昨夜から本日早朝にかけ、ヨーロッパ大陸に対する最初の上陸作戦が決行されたことを発表せねばならない。これまでのところ、作戦参加の司令官たちの報告によれば、すべては計画通りに進捗しているのである。だが、これは何という計画であろう!」

一方、唯一苦戦していたハンプシャー第1連隊であったが、運が悪いことに他の上陸点では無事に上陸できた戦車隊が荒波によって上陸が遅れており、また上陸後も泥沼にはまるなどなかなか前進できなかった。要塞化されたル・アメル村を攻めあぐねていたハンプシャー第1連隊にようやく15:00になってウェストミンスター竜騎兵戦車連隊英語版AVRE戦車が支援に到着した。AVRE戦車はドイツ兵が籠る家屋やトーチカを次々に破壊し、最後まで激しく抵抗していた75㎜砲を格納していたトーチカを撃破してル・アメル要塞の攻略に成功した[165]。終日激しい抵抗を見せた第352歩兵師団の精兵は、全員が戦死するか捕虜となるまで戦い、退却した兵士はいなかった[173]

 
ゴールド・ビーチで撃破されたドイツ軍トーチカ

ル・アメル要塞で激戦が繰り広げられている間、イギリス海兵隊第47コマンド英語版が14隻の上陸用舟艇に分乗しゴールド・ビーチ目指して海上を進んでいた。このコマンド部隊は、D-デイ当日に様々な特殊任務に投入されたイギリス軍コマンド部隊の一つであり[174]、この部隊の任務は内陸に進撃し、西方に向かい敵領内へ10マイル進軍しポール・アン・ベッサンの港を背後から攻撃することだった。この石灰岩の断崖で守られた小さな港はイギリス軍にとって、沖合のタンカーから海底パイプを通じて燃料供給を行うために初期の最重要目標となっていた。また、上述の通りこのポール・アン・ベッサンで隣のオマハ・ビーチから上陸してくるアメリカ軍と合流する計画であった[167]。しかし、海岸に近づいたときに、健在であったル・アメル要塞からの砲撃で14隻の上陸用舟艇のなかで4隻が撃沈されるという大損害を被ってしまった。それでもめげることなく、各コマンド兵は50㎏もの重装備を背負って上陸すると、戦闘しながらうまくル・アメル要塞の脇をすり抜けてポール・アン・ベッサンに向けて進撃して行った。ポール・アン・ベッサンも第352歩兵師団の精兵300人が、2門の高射砲と守りを固めており、ほぼ同数の兵力しかいなかった第47コマンドは苦戦を強いられたが、2日間の激戦の末、6月8日になってようやくその攻略に成功した[175]

ゴールド・ビーチにおける成果は成否両様となった。カーンとバイユー間の連絡路を断ち切ったことで、オマハ・ビーチで苦戦していたアメリカ軍に対するドイツ軍装甲部隊の攻撃を封じた半面、ポール・アン・ベッサンの攻略に手間取り、D-デイ当日のアメリカ軍との合流には失敗した。また、当初計画が過大であったとはいえ、D-デイ当日の内陸部への進攻は5kmに留まり、モントゴメリーの目論見には到底及ばなかった[167]

ソード・ビーチ
編集
 
ソード・ビーチで撃破された地雷処理型M4中戦車

ソード・ビーチには、イギリス軍第3師団と特殊任務を帯びた第1特別任務旅団英語版第4特別任務旅団英語版の2個のコマンド部隊を主力とする部隊が上陸を予定していた。連合軍上陸地点の最東端となるこのソード・ビーチが、イギリス軍の中で最も重要な役割を与えられており、カーンへの至近距離であるため、速やかにカーン市街に突入して、その周囲を制圧することを求められていた。そうすればパリまで一気に戦車隊を走らせる道路が開通した[176]。やがて、上陸開始時間となったが、ソード・ビーチ沖合は逆流する潮流などに悩まされて上陸準備に手間取ってしまい、陸上のドイツ軍に防備を固める時間を与えてしまった[176]

やがて第3師団の兵士は上陸用舟艇に乗って、西と東の2手に分かれて海岸を目指した。歩兵を乗せた舟艇が輸送艦を離れる5分前には、第13/18王立軽騎兵隊英語版のDD戦車40輌が海岸を目指して発進していた。しかし波高が1.3mもあり、高波にもまれた上、近くを航行していたLSTの波に巻き込まれて2輌のDD戦車が海中に没してしまった。その後はどうにかDD戦車隊は海上を進んで40輌のうち33輌が無事に海岸に上陸した。他にもLCTで揚陸された架橋戦車やAVRE装備のチャーチル歩兵戦車も続いた。AVRE装備のチャーチル歩兵戦車は対戦車地雷を処理していったが、それでも1輌のDDM4中戦車が対戦車地雷で走行不能となり、88㎜砲に狙い撃たれた。88㎜はさらに猛威を振るい、架橋戦車の架橋部分を吹き飛ばし、さらにDDM4中戦車を黒焦げの残骸にして海中に叩き落した[177]

上陸前にイギリス軍はソード・ビーチの防備が最も強固と考えており、兵士たちは「上陸第一波は間違いなく根こそぎやられるだろう」とか「どうやら海岸についても60%の損害は覚悟した方がよい」「損失はきっと84%にのぼるだろう」と考えて血も凍るような恐怖感を覚えていた[178]東ヨークシャー連隊英語版も戦車隊と同様に、上陸地点でドイツ軍の激しい抵抗にあい、激しい砲撃と機関銃掃射で将校5人、兵士60人が戦死し、140人以上が負傷して、ソード・ビーチの水際から浜までイギリス兵の死傷者が横たわる惨状となった[179]。その状況を見て後続のイギリス兵は予想が的中したと恐怖に震え上がったが[180]、ドイツ軍の抵抗は思いのほか短時間で制圧されてしまい、上陸開始2時間後の9:30には混乱が収拾し、ソード・ビーチのあちこちに楽しい休暇のような雰囲気がみなぎっていた[181]。地元のフランス人が次々と現れて、熱狂的に「イギリス万歳」と叫び、イギリス兵に抱き着いてきた。やがて、態勢を整えると第3師団と戦車隊は内陸に向かって前進を開始した[182]

特殊任務のコマンド部隊のうち、第1特務旅団は、2つのフランス兵部隊を伴ったイギリス海兵隊第4コマンドに率いられて第2波として上陸した。彼らはウイストラムに個別の目標を持っていた。フランス兵部隊の目標は要塞化されたカジノであり、第4海兵隊の目標は海岸を見下ろした2つの砲台であった。要塞化されたカジノはコマンドのPIAT(Projector Infantry Anti Tank、対戦車グレネードランチャー)では破壊が困難であったが、DD戦車の支援によって攻略に成功した。イギリス海兵隊第4コマンドは、目標の2つの砲台がすでに砲の外された砲架だけだったことを確認した。歩兵部隊に仕上げの手続きを任せて、第1特務旅団の残り(イギリス海兵隊第3、第6および第45コマンド)と合流するために彼らはウイストラムから内陸へ移動し、続いて第6空挺師団との合流を目指した。

 
ソード・ビーチに上陸する第1特務旅団。バクパイプを吹奏しているのは「パイパービル」ことビル・ミリン。

第1特務旅団は、第6空挺団との合流地点であるオルヌ川の橋を目指して猛進を続けた。第6空挺団はドイツ軍中に孤立しており、塹壕を掘って第1特務旅団を待っていたが、ドイツ軍の激しい砲撃で死傷者が続出していた。橋が近づくと第1特務旅団長のサイモン・フレイザー(第15代ロバット卿)英語版は、苦戦する空挺隊員を力づけるため、危険を顧みずに軍楽兵「パイパービル」ことビル・ミリン英語版バグパイプを吹くように命じた。この吹奏音は遠く離れた空挺隊員の耳にまで届き、ロバット卿の考え通り友軍が近づいていると知った空挺隊員は狂喜して士気が高まった。やがて午後13:00に楽曲『All the Blue Bonnets are Over the Border』(全てのブルー・ボネットは国境を超える)を吹奏音と共に到着した第1特務旅団に対し、空挺隊員は歓声を上げながら塹壕から飛び出すと、両部隊の兵士はしばしの間抱き合い、その後すぐに態勢を整えて、共同でドイツ軍と戦闘を開始した。ロバット卿は空挺部隊の指揮官の傍に歩みよると、腕時計をちらりと見てから以下の様に謝罪した[183]

すまなかったな。われわれは2分ほど遅刻したようだ。
ジュノー・ビーチ
編集
 
ジュノービーチに上陸したカナダ軍

ジュノー・ビーチにはカナダ第3師団英語版を主力とする部隊が上陸を予定しており、その任務はソード・ビーチより上陸する第3師団のカーン攻略の援護と、18km内陸にあるカルピケ飛行場英語版の攻略であった。ジュノー・ビーチの西端には漁港クルル・シュル・メール英語版、東端には海岸保養地サン・オーバン・シュル・メール英語版があり、そのどちらもドイツ軍によって陣地化されていた。上陸するカナダ第3師団は、海が荒れていて上陸開始時刻が30分遅れたことと、工兵隊による海中障害物と機雷除去ができなかったことで、イギリス軍が上陸した3つのビーチのなかで最大の損害を被ることになってしまい、海岸に近づこうとする上陸用舟艇は機雷とドイツ軍の砲撃で次々と粉砕され、第一波の306隻のうち90隻が撃沈・撃破されてしまった[167]

ベルニエール・シュル・メール英語版の前面には第8カナダ歩兵旅団英語版とイギリス海兵隊第48コマンド英語版が、激烈な砲火のなかを上陸した。サン・オーバン・シュル・メールの砲台からの砲撃も凄まじく、海岸には多数のカナダ兵やイギリス兵の死傷者が転がっていた。DD戦車も上陸するなり激しい集中砲火を浴びてそれを避けるために狂ったように砂浜を走り回ったが、味方の負傷者が砂浜に多数横たわっていることをまったく認識しておらず、次々と轢き殺してしまっていた。第48コマンドの将校ダニエル・フランダース大尉はその光景を見て驚き、危険を顧みることなく「私の部下だ!私の部下だぞ!」と叫びながらDD戦車に走り寄って行って戦車の側面を叩いたが、全く停止する様子もなかったので、怒り狂ったフランダースは手榴弾のピンを抜くと、DD戦車の片方のキャタピラを破壊してようやく停車させた[184]

第8カナダ歩兵旅団と第48コマンドが上陸した海岸は、かなり開けた場所であったのにもかかわらず、このようにまともに味方戦車の支援を受けることができず、ドイツ軍の激しい斉射の前に第一波の50%程度の兵士が死傷するという大損害を被った。やがてイギリス海軍の砲艦が座礁を恐れずに海岸まで最接近し、ゼロ距離砲撃でドイツ軍のトーチカや機関銃座を撃破したため、ようやく第8カナダ歩兵旅団と第48コマンドは前進することができたが、その後も弱兵ばかりであったはずの第716歩兵師団が奮戦し、実に3個大隊の兵力を相手に午後15:00まで戦い続けて足止めに成功した[167]。第48コマンドはそのまま、ジュノー・ビーチとソード・ビーチの間に空いている間隙を埋めるため、海岸沿いを東進してソード・ビーチの方に東進した。第48コマンドはソード・ビーチに上陸した第41コマンド英語版とサン・オーバン・シュル・メールの東方で合流する計画であり、計画通りにサン・オーバン・シュル・メールは突破したものの[184]、2km東進したところで、全ての家屋を陣地化し、鉄条網や地雷で要塞化された村落にぶつかって進撃を止められた。さらに1個大隊規模のドイツ軍の増援も到着し、第48コマンドは翌日にM4中戦車が到着して要塞を破壊するまでその場に足止めされ、計画通りD-デイ当日に、ジュノー・ビーチとソード・ビーチの橋頭保の連結には失敗した[174]

西端のクルル・シュル・メール前面には第7カナダ歩兵旅団英語版が上陸した。ロイヤル ウィニペグ ライフル連隊英語版ロイヤル レジーナ ライフル連隊英語版を先頭にスール川西の右岸に上陸すると、カナダ第1軽騎兵連隊英語版のDD戦車10輌の支援を受けてクルル・シュル・メール市街地に突入した[185]。DD戦車の支援でドイツ軍の陣地は脆くも次々と撃破され、カナダ兵はドイツ軍が市街地に設置したトーチカや塹壕を突破して行った。ベルニエール・シュル・メールでは敢闘した第716歩兵師団の兵士であったが、こちらでは十分に戦闘もせずに進んで降参し、ド・レイジー軍曹はたった1人でまとめて12人ものドイツ兵を捕虜にしたが、そのドイツ兵たちはレイジーを見るなり自分から手を挙げて降伏してきた。レイジーは北アフリカ戦線で弟を失っており、復讐心に燃えてこの作戦に参加していたが、あっさり降参したドイツ兵を見るとはらわたが煮えくりかえり、駆け付けた部下の兵士に「おい、この馬鹿どもをちょっと見てみろ!ゆけ、連れて行け、もう見たくもない奴らだ」と後方に連行するよう指示した[186]

 
クルル・シュル・メールのドイツ軍戦闘指揮所を占領したカナダ軍

クルル・シュル・メールの戦いは2時間ほど続いたが、その間も次々と後続部隊や資材や補給物資が送り込まれてきた。目の前で戦闘が続いている中での揚陸作業は大混乱に陥ってもおかしくなかったが、揚陸司令官コーリン・モード海軍少将の的確な監督・指揮で全く混乱することなく揚陸作業は粛々と行われていった。モードは長身ながら顔は一面の髭で覆われており、また片手にはこん棒、もう一方の手にはどこから連れてきたのか、恐ろしく大きなジャーマン・シェパード犬をつかまえていた。このかなりのインパクトに兵士たちは脅かされている。モードは海岸でグズグズしていることを一切許さず、怠惰な行動をしている将兵がたとえ将校であろうが怒鳴りつけた。戦場でグズグズしていることは自分を危険に晒している以外の何ものでもないことを、本日の戦闘で兵士たちは身に染みて理解しており、誰もモードに反論するものはいなかった[187]

前述の通り、JG26(第26戦闘航空団)の2機のフォッケウルフ Fw190戦闘機が午前9:30にジュノー・ビーチに現れて、D-デイ唯一のドイツ軍による航空支援を行った。たった1回きりの機銃掃射で損害もなかったが、無敵を誇ったドイツ空軍の落ちぶれっぷりにイギリス兵やカナダ兵は「尻尾を捲いて逃げて行った。みよ、かの強者は敗れたり!」と逆に意気が上がった。このたった2機のフォッケウルフ Fw190はソード・ビーチとオマハ・ビーチにも攻撃している[188]。ジュノー・ビーチでイギリス軍は、D-デイでオマハ・ビーチに次ぐ損失を被った。カナダ軍で戦死340人、戦傷574人、捕虜47人の人的損失合計961人、イギリス軍も死傷者243人を出している[189]

上陸後

編集

ドイツ軍の防衛対応

編集
 
ベルクホーフでのヒトラー

連合軍侵攻の司令部への第一報は、午前2時11分に第716師団から第84軍団司令部への「パラシュート部隊がオルヌ川東岸に降下した」というものであった。この一報があったときには、司令官であるマルクスの誕生日会の後で、マルクスと参謀らは本日の図上演習の準備中であった。この一報はまるで「雷の一撃」のようで、報告を聞いたマルクスは身体を固くしたが[190]、マルクスは速やかに第7軍のベムゼル参謀長に報告した。ベムゼルはこの空挺作戦は上陸作戦の前哨戦だと判断すると、すぐにB軍集団参謀長ハンス・シュパイデル中将を電話で叩き起こし、「パラシュート降下は、重大な攻撃作戦の先駆をなすものだ。そのうえ、海上には船の機関の音が聞こえる」と報告した。しかし、ノルマンディーから遥か遠くにあるラ・ロシュ=ギヨン英語版のB軍集団司令部には戦闘の切迫感を感じ取ることができず、シュパイデルは「敵の行動はまったく局地的なものである」と判断し、ドイツの自宅で就寝中の司令官のロンメルにも報告しなかった[191]

同じころに前線から西方総軍司令部へ、空挺部隊と戦闘中で10人あまりの捕虜もとったという報告が上がっていたが、同時に連合軍が欺瞞作戦で多数の空挺兵に偽装した藁人形が大量に投下されているという報告もあっており、西方総軍のボド・ツィメルマン作戦部長は、捕虜になったのは撃墜された爆撃機の搭乗員であり、「敵の行動は大規模な空挺作戦とは思えない。ドーバー海峡にいる海軍司令官によれば、敵は藁人形を投下しているだけに」と連合軍側の欺瞞作戦にひっかかって、誤った判断を下して就寝中の司令官のルントシュテットには報告しなかった[192]。他にも、様々な報告が各ドイツ軍司令部に寄せられたが、規模の報告は錯綜しており、また、これまでの連合軍による欺瞞作戦が功を奏して、他のドイツ軍司令官や幕僚たちもパ・ド・カレーへの本格的上陸作戦に対する陽動作戦に過ぎないという見方をする者も多く、夜が明けるまでは積極的な対応を控えてしまい、貴重な時間を浪費することとなった[113]

連合軍上陸前夜にベルヒテスガーデンベルクホーフに滞在していたヒトラーは、エヴァ・ブラウンヨーゼフ・ゲッベルスと映画のことなどで歓談して夜更かししており、就寝したのは午前3時であった[193]。午前5時半ごろにヒトラーの副官カール=イェスコ・フォン・プットカマー准将に「フランスに上陸らしきものが行われた」という曖昧な報告がよせられたが、不眠症を抱えていたヒトラーは専属医から処方された強力な睡眠薬を服用して寝ており、プットカマーと専属医は協議のうえ「こんな時間に起こしたら、いつも決まってきちがいじみた決定を下すことになる。あの神経の発作がまた始まらないともかぎらないからね」として、ヒトラーを起こさないこととしている[194]

ヒトラーが起床してこの報告を受けた時刻については諸説あり、ヒトラーの個人副官オットー・ギュンシェ親衛隊大尉によれば、午前8時にはベルクホーフの大広間に現れていたとされる。そこでヒトラーは幕僚らと面会する前には既に報告をうけていたようで、そこでヒトラーは一同を目の前にすると「紳士諸君、これは侵攻である。あそこを攻めるとは余がかねがね申しておった通りではないか」と自分がかねてからノルマンディーへの連合軍上陸を予測していたと自信満々に語っている[193]。しかし、アルベルト・シュペーアなどヒトラーの起床は遅かったという証言をする関係者もおり、真相は不明である。いずれにしてもヒトラーは自分の予想通りノルマンディーに連合軍が上陸してきたので、海際で粉砕できると自信満々に長広舌を振るったという[84]

しかし、肝心の反撃戦力として内陸に拘置されている装甲師団の投入は許可されなかった。前線では、日の出の後になってこれを本格上陸と断定し、OKWにノルマンディ担当の第7軍をはじめ、B軍集団や西方総軍などからも、装甲師団投入について矢のような催促があったが、全て却下された。OKWの担当者は却下の理由として「敵上陸部隊の主力はまったく違う場所に襲来することになっている」などと言ったため、激怒した西方総軍の幕僚が「ひとまず当面の敵を粉砕すべき」「この上陸を許せば、敵は間違いなくここに戦力を集中してくる」と議論を試みたが、OKWの担当者は本当の却下理由を「(装甲師団投入の)決断をできるのは総統閣下おひとりである」とまだヒトラーが承認していないためと明かしている[88]

正午にベルクホーフの大広間にて作戦会議が開催された。ヒトラーは上機嫌でヴィルヘルム・カイテル元帥やヘルマン・ゲーリング元帥などを前にして「これ以上の好ニュースは、いままで聞いたことがない。奴らがイギリスにいる間は何もできなかったが、いまや、奴らを撃破できる」「敵は私の腹中に入った。進んで敗北への途を選んだのだ」と口舌を振るうと[195]、15時になってようやく拘置していた3個装甲師団の戦場投入を許可した。このヒトラーの判断の遅れはドイツ軍にとって非常に痛かった。上陸当日の午前中は天候が悪く視界も不十分で、装甲師団が空襲を受けずに移動できた可能性が大きく、特に精鋭の第12SS装甲師団が幅広い戦場に展開が可能で連合軍の進撃を遅らせることができたはずであった。しかし、出撃命令があったときには天候が回復し、航空攻撃も激化しており、第12SS装甲師団は日没まで全く動くことができなかった[196]

ドイツ本土ヘルリンゲンの自宅にいたロンメルが、連合軍上陸開始の連絡を受けたのは午前10時15分に至ってのことであり、参謀長のシュパイデルから電話で報告を受けたロンメルは、唖然として色を失ってただ黙って聞いていた[197]。ロンメルはシュパイデルの報告に質問を返すこともなくただ黙って聞いていたが、シュパイデルの報告が終わると「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と嘆いたという[198]。電話の様子を見ていたロンメルの妻女は、この電話のあとロンメルが「すっかり変わってしまい、おそろしく緊張している」ように見えたという。ロンメルはラ・ロシュ=ギヨン英語版にある司令部に帰るため、一緒にドイツに帰っていた副官のラングに電話したが、出発の時間をなかなか決めることができないロンメルを見て「いつもの果断な元帥らしくなく迷いがある」と感じた。また、電話での口調もひどく落胆していたため、「もういつもの元帥ではない」と思ったという[199]

ロンメルはヒトラーとの会見を中止して司令部に向かった。前線ではロンメルの指揮下であった第21装甲師団英語版が反撃のために集結し増援を待っていたが、午後5時前にロンメルからシュパイデルに連絡が入った。そこで、シュパイデルが連合軍の主作戦地がノルマンディとはまだ確定できないこと、第21装甲師団は増援を待って反撃に転じるとの報告を行うと、ロンメルはそれを一喝し、直ちに第21装甲師団単独で反撃を行うよう命じた[200]。ロンメルの命令に従って、連合軍の空襲で大損害を被っていた第22戦車連隊は、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊と協同で連合軍が上陸した海岸に向け突進したが、途中でイギリス軍第27機甲旅団と激突し、一方的にIV号戦車19輌を撃破されて撃退された[201]

司令部に到着したロンメルは、すぐに作戦室に入り状況の説明を受けたが、攻撃を命じた指揮下の第21装甲師団は不明との報告であった。また、第12SS装甲師団と装甲教導師団が動いていないことについても、ヒトラーの決断が遅れたことの説明を受けると、「狂気の沙汰だな」と呟き「もはや手遅れとなった頃合いに、ようやく到着するのだろう」と皮肉を交えて嘆いた[202]。遅ればせながらも装甲師団の投入を決断したヒトラーはさらに強気になり、OKWからは浮世離れした命令が次々と西方総軍に下された。前線の第7軍はヒトラーのお望みの伝達に過ぎない「6月6日夕刻までに敵を撃滅せよ」「全部隊はカルヴァドス県の侵入点に向け方向転換をせねばならず、敵の海岸堡は今夕、より遅くない時刻までに一掃されなければならない」という命令を受け取っているが、参謀長は拒否している。ヒトラーとOKWは明らかに連合軍の空の脅威を軽視しており、ヒトラーは、第12SS装甲師団と装甲教導師団の投入で連合軍を海に叩き落せると目論んでいたが、実際には前述の通り第12SS装甲師団は日没まで動くこともできず、装甲教導師団に至ってはOKWの命令を守り、日中に戦力を集中させたため、連合軍の激しい空襲を浴びて、装甲車輌85輌、戦車5輌、トラック123台(うち燃料車80台)が撃破される大損害を被ってしまった[203]。ドイツ軍は連合軍の攻撃機をヤーボ(Jabo)と呼んで恐れたが、ロンメルも幾度となくヤーボに襲われ、6月10日に西部方面戦車軍司令部に車で向かったロンメルは到着までに30回もヤーボに襲われ、そのたびに車を捨てて腹ばいになってヤーボをやり過ごしたので、司令部に到着したときには泥まみれであった[204]

ドイツ海軍の防衛対応

編集
 
連合軍に航空攻撃されるドイツ軍水雷艇

ドイツ海軍総司令官のデーニッツはUボートを敵上陸に備え配備した。また、ドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも英軍の空襲からの損耗を避けるため北海やノルウェー沿岸、バルト海へと移動し、1944年にはフランスには、掃海部隊、哨戒・港湾防衛のための小艦艇が残存するだけであった。

6月6日01時00分にドイツ側司令部に最初の警報が入った。侵攻艦隊は航行中であったが、パリのクランケ提督は降下作戦の段階で主上陸作戦の開始と判断した。03時15分、デーニッツは海軍軍令部第1課よりフランスへの空挺部隊降下の報告を受けた。03時20分、ノルウェーの中央Uボートグループに警報が発令され、待機。03時45分にはフランス西部にあるビスケー湾のラントヴィルトUボートグループにも警報が発令され35隻のUボートは「最後の出撃である。浮上して全速航行。攻撃する敵機は撃退せよ」との命令に従い行動した。さらに、05時には大西洋のスノーケル付きの改良Uボート5隻に全速でフランス西部へ向かえと指令が出された。 しかし、1時45分にラントヴィルトのU256が哨戒機の攻撃を受けたのを皮切りに、6月7日までの24時間に4機の英軍機撃墜と引き換えに、6隻のUボートが重大な損傷を受けてブレストに帰還を余儀なくされた。また、ラ・パリスを出撃したケーテル大尉指揮のU970と、大西洋から向かったバーデン中尉指揮のU955は失われた。

水上艦隊は、ハインリッヒ・ホフマン少佐の第5水雷艇隊の水雷艇T28メーヴェヤグアーが第一陣として6月6日未明にル・アーブルから出撃した。3隻の水雷艇はソード・ビーチ沖の艦隊に対して雷撃を行い、自由ノルウェー海軍の駆逐艦スヴェンナーHNoMS Svenner)を撃沈、攻撃後、敵弾を回避し帰還に成功した。シェルブールからも2個戦隊の水雷艇が出撃したが、こちらは連合軍艦隊と接触することができずに引き上げている[205]。しかし、これらのドイツ海軍の抵抗は所詮“ノミを噛んだような”ものであり、クランケはこの日の日記に「このような優勢な敵に対しては、なに一つ効果的な打撃を与ええないことは明白である」と書いている[115]

ドイツ海軍は、6月8日から9日にかけてシェルブールの強化のためにビスケー湾を根拠地とする駆逐艦隊をブレストに移動させた。そして6月9日には、ドイツ軍駆逐艦隊は連合軍艦隊を叩くためにブレストを出港した。しかし、連合軍は事前にドイツ軍駆逐艦隊の動向を掴んでおり、3隻のドイツ軍駆逐艦に対して、8隻のイギリス、カナダ、ポーランド3か国海軍の駆逐艦が出撃、連合軍艦隊はブルターニュ半島沖でドイツ軍駆逐艦隊を捕捉し、ブルターニュ沖海戦によってドイツ軍は「Z32」と「ZH1」2隻の駆逐艦を失って壊滅状態となり、僅かに生き残った「Z24」も後に空襲で撃沈された[205]。その後もル・アーブルのドイツ軍水雷艇部隊は損害を出しながらも、出撃を繰り返し戦車揚陸艦を撃沈するなどの戦果を挙げていたが、6月14日に325機のランカスターがル・アーブルを爆撃、13隻の水雷艇と多数の哨戒艇、掃海艇などが撃沈破されて、ル・アーブルで動ける艦艇は水雷艇1隻になってしまうなど壊滅状態に陥った。また、ドイツ海軍基地のあったブローニュ=シュル=メールも同様な爆撃によって、湾内にいた艦船の殆どが撃沈破されてしまい、早くも連合軍に対抗する海上戦力は壊滅状態となってしまった[206]

連合軍の進撃

編集
 
連合軍の揚陸風景
 
オマハ・ビーチに上陸するアメリカ第2歩兵師団
  • 6月5日 - 6日:デトロイト作戦(米第82空挺師団)、シカゴ作戦(米第101空挺師団)、トンガ作戦(英第6空挺師団)
  • 6月6日:ネプチューン作戦
  • 6月25日 - 29日:エプソム作戦
  • 6月27日:シェルブール陥落
  • 7月7日:カーン陥落
  • 7月17日:王立カナダ空軍スピットファイアの機銃掃射でエルヴィン・ロンメル元帥が負傷。
  • 7月18日 - 20日:グッドウッド作戦
  • 8月3日 - 9日:トータライズ作戦
  • 8月16日:ドラグーン作戦

上陸拠点がいったん確保されると、2基の「マルベリー」(人造埠頭)が分割されて英仏海峡を渡った。一基はアロマンシュで構築され、もう一基はオマハ・ビーチに設置された。しかしながらオマハのマルベリーは6月20日の暴風で破壊された。このため連合軍の物資の揚陸が3日間ほど停止した。アロマンシュ港では9,000トンに及ぶ物資が毎日陸揚げされ、1944年8月末にアントウェルペンとシェルブール港が確保、運用されるようになるまで続けられた。

海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は弱体化していった。唯一の例外がロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられた第352歩兵師団であった。同師団の強固な防御陣と、連合軍諜報部が考慮したドイツ軍第716歩兵師団の二大隊が投入された可能性が同管区の死傷者の激増の原因となった。また、多くの上級指揮官が演習を行うため前線を離れていたことが状況をより悪化させた。また、アメリカ軍空挺部隊が北部ノルマンディーに分散して降下したことも混乱を増す原因となった。

アメリカ軍空挺部隊は予想を上回る対空砲火のせいで輸送機が分散してしまい、その結果広範囲にわたって降下する羽目になった。しかし、そのせいでドイツ軍は降下してきたアメリカ軍空挺部隊の実数が掴めず対応に苦慮した。また、上陸が始まった後も連合軍の仕掛けたフォーティテュード作戦は機能し続け、ドイツ軍上層部はかなり長い事ノルマンディーへの上陸はカレー上陸を容易にするための陽動作戦ではないかと疑い、カレー方面の兵力を動かすタイミングを逃した。ノルマンディーへの上陸作戦を主攻撃だと断定してカレー方面の部隊に移動命令が下った頃にはすでに状況は手遅れだった。

こういった悪条件にもかかわらず、第21装甲師団はソードとジュノーの間で反撃を行い海岸への到達に成功した。しかし対戦車砲による強固な抵抗と、彼らが遮断されてしまうという恐れから6月6日の終わりまでに撤退することとなる。いくつかの報告書によれば、上空を飛ぶ航空機の観測が退却決定に影響した。

連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 - 16 km進出することであったが、実際にはどれも達成できなかった。作戦全体の死傷者は予想より少なく(1万人前後が予想され、チャーチルは2万名に及ぶことを心配した)、橋頭堡は予想されたほどの反撃は受けなかった。上陸に続く優先事項は、橋頭堡の連携、カーンの奪取、シェルブール港の確保と安全な補給の確立、であった。

ドイツ第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えたが、前進することはできなかった。その間に各管区の海岸は全て制圧され統一された拠点となった(ソード:6月7日、オマハ:6月10日、ユタ:6月13日)。連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化していった。彼らは海岸に全てを上陸させなければならなかったが、連合軍の制空権およびフランスの鉄道網の破壊は、ドイツ軍の移送を停滞させ危険なものとしていた。

ユタとオマハ後方の地域はボカージュ生垣)によって特徴づけられた。高さ3 m近い古くからの土手と生け垣は、それぞれが100 - 200 mにも及び、戦車、砲撃、視界を妨げ理想的な防御陣地を形成した。米兵の展開は遅れ、シェルブールへの進撃は多数の死傷者で苦しめられた。空挺部隊は停滞する進撃を再開するよう再三要求された。ヒトラーはシェルブールの防衛部隊が連合軍に橋頭堡を与えないことを期待したが、指揮官は6月26日に降伏した。これにヒトラーは激怒し、軍法会議を恐れた第7軍司令官フリードリヒ・ドルマン上級大将は心労から心臓発作を起こして[注釈 2]死去した。

ノルマンディー地方のカーン(6月25日-7月20日のエプソム・グッドウッド作戦)、サン・ロー(7月25日-8月2日のサン・ローの戦い)、ファレーズ(8月10日-19日のファレーズ包囲戦)では激戦となったが、8月25日にパリを解放した

連合軍の上陸を許すという失態を演じたうえ、ヒトラーの意向に反した対米英和平に傾いたルントシュテット元帥は7月2日に更迭され、西部方面軍司令官にはギュンター・フォン・クルーゲが就任した。またロンメルも、7月17日にノルマンディーの前線近くを乗用車で移動中に、カナダ空軍第602飛行隊のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院し、戦線離脱となった[207]

またソ連軍はノルマンディー上陸作戦に呼応した作戦として東部戦線において、6月初めにヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢を、6月末に全面的な攻勢作戦であるバグラチオン作戦を実行した。

損害

編集
 
アメリカ合衆国バージニア州ベッドフォードにある「D dayメモリアル」。同市出身の兵士19人がオマハ・ビーチで戦死したことに因んで建てられた。

いわゆる「ブラッディ・オマハ」での激戦で、アメリカ軍兵士らは友軍が大損害を被ったと感じていた。しかし、戦闘後に明らかになった2,000人の死傷者と行方不明者の人的損失は、最高司令部が想定していた犠牲者を遥かに下回っていた。なぜこのような誤認が起こったのか、アメリカ陸軍の公式戦記筆者フォレスト・C・ボーグ博士が兵士らに聞き取りを行ったところ、兵士らは一様に「自分以外のものはみんな殺されるか、捕虜になった」と思い込んでいたとのことで、ボーグはこの兵士らからの聞き取りによって「戦争につきものの“フォグ・オブ・ウォー(不確定要素)”が犠牲者の推計値をこうも大仰なものにした要因となった」と結論づけた[157]

また、第1波で上陸した第29歩兵師団第116歩兵連隊A中隊が230人中212人が死傷し、死傷率90%に達するなど、上陸第1波の損害が大きかったことも、損害の誤認に拍車をかけた。特に中隊に所属していたバージニア州ベッドフォード出身の兵士35人のうち19人が戦死(4人が後日戦死)し、アメリカ合衆国全市のなかで、もっとも全市民に対する戦死者の比率が高くなったことから、戦死した兵士たちは「ベッドフォード・ボーイズ」と呼ばれ、その活躍談や被害が強調されたこともその一因となった[208]。海岸近くに接近して正確な艦砲射撃を浴びせた駆逐艦や[145]、上陸に成功した第2レンジャー大隊などの活躍もあって、洋上でアメリカ兵多数を殺傷したドイツ軍砲台や海岸線のトーチカは早い段階で撃破されて、第2波以降の死傷者は激減することとなって、比較的良好な状態で上陸することができている[209]

 
オマハ・ビーチでの負傷兵

しかし、ブラッディ・オマハでこの上陸作戦最悪の損害を被ったことには変わりはなかった。D-デイにオマハ・ビーチに上陸したアメリカ軍は34,250人であったが、そのなかで死傷率は5.8%に達し[210]、連合軍が上陸した全ビーチの中で最悪なものとなった。苦戦の要因は様々指摘されているが、そのなかで大きなものの一つが、太平洋戦域のアメリカ軍が日本軍に対して、タラワの戦いマキンの戦いなどで大苦戦したことを反省し、上陸戦術の改善を進めていたのにもかかわらず[211]、ヨーロッパ戦線の連合軍首脳らは「太平洋戦線に学ぶことは何もない」との傲慢さで、太平洋戦線での上陸作戦の進化を全く参考にすることがなかったことも指摘されている[212]。特にタラワの戦いでは、日本軍の激烈な抵抗によって上陸におけるアメリカ軍兵士の死傷率は30%にも達して[213]「恐怖のタラワ」などと恐れられ、太平洋戦域のアメリカ軍は膨大な数のアムトラック水陸両用車)を準備するなどの、上陸戦術の飛躍的な改善を急がなければならなかった[23]

日本軍相手の太平洋戦線から異動してきてこの上陸作戦の策定にも携わったチャールズ・コーレット英語版少将は、太平洋戦域での経験も踏まえて、上陸作戦準備の際に最高司令部に対して、アムトラックの活用など太平洋戦域の上陸作戦に基づく進言を行ったが、司令部はDD戦車の使用に拘り、コーレットの進言は無視された[212]。しかし、DD戦車の使用はうまくいかず、特にオマハ・ビーチでは高い波にのまれて沈没するDD戦車が続出して苦戦の原因ともなった。装甲は薄いとはいえ、海に対する適正はアムトラックやアムトラックの戦車型であるアムタンクがDD戦車とは比較にならないほど優れており、司令部の判断は完全に裏目に出ている[214]

連合国軍最高司令部は、第1軍司令官のブラッドレーがタラワの戦いを参考にして50,000人の死傷者を被ると想定していたように、多大な損害を被ると懸念していたが[33]、ドイツ軍の抵抗は思いのほか弱いものとなった。これは、ドイツ軍の大方の予想に反して、連合軍がパ・ド・カレーではなくノルマンディに上陸したこと[46]、D-デイの前から天気が崩れたため、ドイツ軍司令部は当面連合軍の侵攻はないと判断し、ロンメルはドイツ本国に帰国しているなど、ドイツ軍側に緊張感が欠落しており[215]、完全な奇襲になってしまったことによって、連合軍に易々と上陸を許すこととなった[216]。奇襲されたドイツ軍は大混乱し、非常に脆く敗退したためその様子を見た連合軍は、堅牢を誇りながらイスラエルの民角笛を吹いただけで崩壊したと言われるエリコの壁を彷彿したという[217]

また、上陸してきた連合国軍に対しても、ロンメルが主張していた「水際配置・水際撃滅」に対して、ルントシュテットが主張していた、主力を後方に置いて連合国軍をいったん上陸させた後に機動力を駆使してこれを海に追い落す「防衛第2線構想」が真っ向から対立していたことによって、政治的決着としてヒトラーによる妥協案が採用されることとなったが、結果的にどっちつかずとなり、一部を除いて満足な抗戦すらできなかったこと[218]、また、数少なかったドイツ軍機甲部隊による反撃のチャンスも、ヒトラーの投入承認が遅れたことや、連合軍空挺部隊による欺瞞作戦にはまってその機会を失ってしまったため、満足な反撃ができなかったことなどが挙げられる[219]

D-デイのアメリカ軍全体の戦死者は戦死1,465人[2]~2,501人[220]となったが、この損害も作戦立案者が推計した値を遥かに下回るものであり[157]、連合軍最高司令部の懸念は全くの杞憂に終わった[32]。ユタ・ビーチに上陸したアメリカ軍第4歩兵師団の先頭となった第8戦闘団と第22戦闘団の戦死者はたった12人で、殆どの兵士が戦闘どころかドイツ兵の姿すら見なかった。この日のために猛訓練を積み、生死は「神のみぞ知る」と覚悟していた多くの兵士にとっては、D-デイの勝利がなんとなく、呆気ないものに感じられたという[221]

 
連行されるドイツ兵捕虜、十分な抵抗もせず大量のドイツ兵が投降した

一方でドイツ軍の死傷者は約9,000人であったが[222]、他に約200,000人が捕虜となっており、連合軍上陸初日で大損害を被ることとなった[223]。結局、ドイツが国力を集中して構築した「大西洋の壁」は、若干の陣地での頑強な抵抗を除けば、連合軍にとって何の支障にもならなかった[188]。アイゼンハワーは、大きな損害を受けることなく上陸作戦が成功したことについて以下のように分析した[224]

オマハを除くノルマンディの全海岸で、我々が比較的軽い損害しかうけなかったのは、主として機動力をつかった新機軸が成功したのと、奇襲の第一波として大量の機甲部隊を上陸させたのが、上陸部隊の兵士に物心両面にわたって、驚くような効果をあたえたからだ。機甲部隊の援助がなかったら、奇襲部隊が上陸地点を強固に確保できたかどうか疑わしい

しかし、この上陸作戦で最も損害を被ったのはドイツ軍でも連合軍でもなく、戦場となったノルマンディの住民たちであった。上陸前空襲によって、24時間以内に死んだノルマンディの住民は、D-デイにおけるアメリカ軍の死者の2倍以上の3,000人にも達した[157]。そして、“ノルマンディ解放”までにドイツ軍に殺害されたり、戦闘に巻き込まれたりして死亡した市民は19,890人にも及び、他にも大量の負傷者が生じた。これとは別に、上陸前の連合軍による準備爆撃でD-デイまでにノルマンディを中心として15,000人の住民が死亡し、負傷者は19,000人にも達した[225]。これはノルマンディ解放までにアメリカ軍が被った戦死者数を遥かに超える人数であり[226]、連合軍の空爆で死亡したフランス国民の総数は70,000人にも達し、ドイツ軍の空襲によって死亡したイギリス国民の人数を大きく上回っている[227]

歴史的意味および余波

編集

戦略的視点では、この作戦は成功であった。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した。その結果ドイツ軍は、陸上でも二正面作戦を展開することを余儀なくされ、イタリア戦線でも兵力を割かなければならなかった。程なく東部戦線でソ連赤軍が開始したバグラチオン作戦に満足に対応することができず、ドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受けて占領地域を大きく失い、挟み撃ちになったドイツは継戦能力を大きく削がれることとなった。

しかし、戦術的にはいくつかの問題点が指摘されている。まず、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取った。作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブールは6月26日まで抵抗を続け、占領時点で港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていた。この港湾は8月末まで機能しなかった。同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったカーンも占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからであった。作戦開始から40日間内に達成するはずだった目標(カーン及びシェルブールの占領)をどちらも達成できなかった。

港湾施設の占領の遅れに起因した悪影響として、重装備の揚陸が大幅に遅延し、通常補給にも多少の遅延があった。ただし、Dプラス10日にはノルマンディー海岸で人工港のマルベリーが稼働を始め[228]、上陸部隊の物資不足は引き起こさなかった。

上記の通り、容易く上陸を許したドイツ軍であったが、その後は体勢を立て直して頑強に抵抗し、連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れた。1944年8月、南フランス上陸作戦(ドラグーン作戦)が行われたが、ドイツの抵抗で、プロヴァンス地方が解放されただけであり、フランス全土の解放は、イタリア半島を北上した連合軍が1945年1月にゴシック線を突破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなった。しかし、多少の進撃遅延があったところで、この上陸作戦が、ナチス・ドイツ崩壊を加速させたことに疑問の余地はなかった。1944年夏以降のドイツ軍の損失は破滅的な水準に達しており、ドイツ兵の犠牲者は1944年7月には215,000人、8月には350,000人にも上り、もはや毎月、スターリングラード攻防戦規模の惨敗を被っているような惨状であった[229]。それでもドイツの戦争指導部は、数十万人の兵士を憑りつかれたかのように悉く死に向かわせており、1944年9月には国民突撃隊を編成してなりふり構わない兵士増員策を講じているが、この編成の基本的な考え方は「若者たちの命を助けて8,000~9,000万人の国民が全滅するよりは、若者たちが戦死して国民が助かる方がいい」というものであった[229]

史上最大の作戦とも評されたが、この作戦が後年の大規模水陸両用作戦に与えた影響は限定的で、6年後に勃発した朝鮮戦争において国連軍を指揮したダグラス・マッカーサー元帥は、このノルマンディー上陸作戦やアンツィオ上陸作戦などのアメリカ陸軍が主導したヨーロッパ戦線の上陸作戦を全く評価しておらず[230]仁川上陸作戦においては、自らが所属するアメリカ陸軍ではなく、太平洋戦線でガダルカナルの戦いペリリューの戦いなどで、日本軍を相手にした幾多の上陸作戦を成功させた第1海兵師団を上陸部隊とし[231]、上陸作戦の作戦立案はアメリカ海軍のジェームズ・ドイル英語版提督が行うといったように[231]、マッカーサーが連合国南西太平洋軍英語版(SWPA)司令官として行ってきた太平洋戦線型の上陸作戦となった[230]。仁川上陸作戦はマッカーサーの目論見通りとなり、朝鮮人民軍の抵抗が予想以上に少なく、わずか3日で韓国の首都ソウル奪還した[232]

戦後の記念式典

編集

フランス政府は5年ごとに戦地に旧交戦国の首脳を招き記念式典を開いている。ロシア連邦はソ連の継承国として参加してきたが、2022年ロシアのウクライナ侵攻を受けて、2024年の式典は、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは招かれなかった[233]

ノルマンディー上陸作戦を主題とした作品

編集

研究書

編集

映画

編集

テレビ番組

編集

シミュレーション・架空戦記

編集
  • ピーター・ツォウラス『Dデイの惨劇 1944年6月、連合軍敗退』大日本絵画、1995年

漫画

編集

ゲーム

編集
  • メダル・オブ・オナー
    第二次世界大戦時のヨーロッパ戦線及び太平洋戦線を描いたアクションシューティングゲーム。PC版で登場した『メダル・オブ・オナー アライドアサルト』、PS2版の『メダル・オブ・オナー 史上最大の作戦』は、映画『プライベート・ライアン』のゲーム版とも言われ、序章のオマハ・ビーチでの上陸作戦は激しいミッションで、当時を忠実に再現している。『メダル・オブ・オナー ヴァンガード』では、第82空挺師団によるノルマンディー半島への空挺降下作戦が描写されている。
  • コール オブ デューティシリーズ
    上記『メダル・オブ・オナー』としばしば比較されるタイトル。このタイトルを立ち上げたInfinity Ward社は、元々『メダル・オブ・オナー』を制作していた2015の一部のスタッフによって設立された(制作方針を巡って社と対立、“自分達が作りたいゲーム”を制作するために独立した)。コール オブ デューティ(CoD)シリーズの『CoD4』などModern Warfareシリーズ以前は第二次世界大戦(WW2)を舞台とした内容である。『CoD1』に上陸前夜の空挺降下、『CoD2』にオック岬上陸作戦が登場する。
  • ブラザー イン アームズ ロード トゥ ヒル サーティー』&『ブラザー イン アームズ 名誉の代償
    ノルマンディー上陸作戦の前日からストーリーが始まる第101空挺師団を描いたゲーム。ステージには空挺降下からのノルマンディー上陸が再現されており、落下傘降下からの様々な任務を遊べるというゲームである。このシリーズは一人一人の実在する兵士を忠実に再現し描かれているため『バンド・オブ・ブラザーズ』に似た内容に仕上がっている。
  • カンパニー・オブ・ヒーローズ
    THQ社製のRTS(リアルタイム・ストラテジー)ゲーム。キャンペーン・ゲームでは、オマハ海岸に上陸したアメリカ陸軍の一士官と彼が指揮する中隊の転戦と苦闘を描く内容が主となっており、ヴィエルヴィル、カランタン、シェルブールの解放からファレーズ・ポケットのドイツ軍包囲までを遊ぶことができる。101空挺師団を主に操作するミッションや、V2ロケット発射基地を破壊するミッションも存在する。続編のカンパニー・オブ・ヒーローズ オポ-ジング・フロントでは、英軍を主人公にした「カーンの解放」キャンペーンをプレイすることができる。
  • D-Day ノルマンディ上陸作戦
    Digital Reality開発のRTS。日本では株式会社ズーが販売。キャンペーン・ゲームでは、ベガサス橋からファレーズ包囲までの全12ミッションを戦う。作中では60種に及ぶ兵器や装備が再現され、家屋への伏兵配備やオープントップ車両への狙撃、部位ダメージや遺棄車両の奪取等のルールを実装。製作に当たって仏Normandie Memoire協会の協力を得ており、付録として当時の生存者や従軍兵士の貴重なインタビューが収められている。
  • Hell Let Loose
    Black Matter Pty Ltd開発のFPS。マルチプレイにてノルマンディーが登場。
  • Enlisted
    「ノルマンディー侵攻」として収録されている。

ボードゲーム

編集
  • 『The Longest Day』(Avalon Hill)1979年
  • 『Breakout:Normandy』(Avalon Hill、L2 Design Games)1992年
  • 『JUNE - AUGUST '44: The Struggle for Normandy』(DDH Games、国際通信社『コマンドマガジン日本版』第95号)2008年
  • 『Destination: Normandy』(DDH Games、国際通信社「ウォーゲームハンドブック2010」)
  • 『Cobra:The Normandy Campaign』(Decision Games、国際通信社『コマンドマガジン日本版』第106号)2008年
  • 『The Normandy Campaign』(GDW)1983年
  • 『June 6』(GMT Games)1999年
  • 『The Battle for Normandy』(GMT Games)2009年
  • 『Normandy '44』(GMT Games)2010年
  • 『D-DAY:The Great Crusade』(Moments in History)2004年
  • 『Atlantic Wall(大西洋の壁)』(SPIホビージャパン)1978年
  • 『Victory in Normandy』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第5号」)1992年
  • 『史上最大の作戦』(エポック社サンセットゲームズ)1981年
  • 『D-DAY』(翔企画SSシリーズ、国際通信社『コマンドマガジン日本版』第46号)1989年

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 師団自体は1943年11月に編成され、初陣であったが、将校、下士官の多くが東部戦線で壊滅した部隊から集めたベテランだった。兵士は30代の実戦未経験の老兵がほとんどであったが、ドイツ人のみで編成されていた
  2. ^ 第7軍の参謀長であったマックス=ヨーゼフ・ペムゼルは、ドルマンが青酸カリを服用して自殺したとしている。
  3. ^ 正確にはノルマンディー上陸作戦後の内陸での戦闘が舞台となっている。

出典

編集
  1. ^ Tamelander, M, Zetterling, N (2004), Avgörandes Ögonblick: Invasionen i Normandie. Norstedts Förlag, p. 295
  2. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 214
  3. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  4. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  5. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  6. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  7. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  8. ^ Normandy Invasion:World War II ブリタニカ百科事典公式サイト(2024年6月29日閲覧)。日本でも「ノルマンディー侵攻」という表記例が少数ある(カウル・パレル『彼らは来た』1984年版の副題など)。
  9. ^ D-Day and the Normandy Campaign The National WWII Museum(2024年6月29日閲覧)
  10. ^ 数字で見るノルマンディー上陸作戦 ── 数々の映画に描かれた「史上最大の作戦」とは”. BUSINESS INSIDER. 2024年6月7日閲覧。
  11. ^ D-Day:史上最大の作戦”. ナショナル ジオグラフィック. 2024年6月7日閲覧。
  12. ^ 史上最大の作戦 ノルマンディー上陸”. NHK. 2024年6月7日閲覧。
  13. ^ ノルマンディー上陸作戦 写真特集”. 時事通信(JIJI.COM). 2024年6月7日閲覧。
  14. ^ ボールドウィン 1967, p. 323
  15. ^ メッセンジャー 2005, p. 162
  16. ^ ボールドウィン 1967, p. 326
  17. ^ a b c ライアン 1967, p. 89
  18. ^ a b ライアン 1967, p. 84
  19. ^ a b c ビーヴァー 2011a, p. 142
  20. ^ ニミッツ 1962, p. 259
  21. ^ Operation Forager and the Battle of the Philippine Sea”. Naval History and Heritage Command. 2022年6月2日閲覧。
  22. ^ シャーロッド 1966, p. 335
  23. ^ a b シャーロッド 1966, p. 9
  24. ^ a b カレル 1999, p. 147
  25. ^ ライアン 1967, p. 50
  26. ^ ライアン 1967, p. 51
  27. ^ ライフ ヨーロッパ第2戦線 P.108
  28. ^ a b ライアン 1967, p. 52
  29. ^ タイムライフブックス 1979, p. 117
  30. ^ メッセンジャー 2005, p. 38
  31. ^ ライアン 1967, p. 62
  32. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 326
  33. ^ a b アイゼンハワー財団 1972, p. 65
  34. ^ a b メッセンジャー 2005, p. 44
  35. ^ a b トンプソン 1971, p. 64
  36. ^ メッセンジャー 2005, p. 46
  37. ^ トンプソン 1971, p. 66
  38. ^ 大木毅 2019, kindle版, 位置No.238.
  39. ^ ビーヴァー 2011a, p. 75
  40. ^ カレル 1999, p. 40
  41. ^ a b c トンプソン 1971, p. 80
  42. ^ a b トンプソン 1971, p. 79
  43. ^ ビーヴァー 2011a, p. 77
  44. ^ 大木毅 2019, kindle版, 位置No.244.
  45. ^ トンプソン 1971, p. 67
  46. ^ a b 大木毅 2019, kindle版, 位置No.245.
  47. ^ a b カレル 1999, p. 27
  48. ^ a b カレル 1999, p. 28
  49. ^ ビーヴァー 2011a, p. 76
  50. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 238
  51. ^ 大木毅 2019, kindle版, 位置No.239.
  52. ^ a b c 大木毅 2019, kindle版, 位置No.241.
  53. ^ ボールドウィン 1967, p. 302
  54. ^ カレル 1999, p. 38
  55. ^ カレル 1999, p. 42
  56. ^ a b トンプソン 1971, p. 73
  57. ^ ライアン 1967, p. 29
  58. ^ ライアン 1967, p. 30
  59. ^ a b ライアン 1967, p. 31
  60. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 85
  61. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 305
  62. ^ ライアン 1967, pp. 13–14
  63. ^ ライアン 1967, p. 14
  64. ^ カレル 1999, p. 35
  65. ^ ライアン 1967, p. 73
  66. ^ a b ライアン 1967, p. 74
  67. ^ ライアン 1967, p. 75
  68. ^ ボールドウィン 1967, p. 306
  69. ^ ライアン 1967, p. 90
  70. ^ ライアン 1967, p. 110
  71. ^ ライアン 1967, p. 53
  72. ^ メッセンジャー 2005, p. 51
  73. ^ ライアン 1967, p. 54
  74. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 63
  75. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 64
  76. ^ ライアン 1967, p. 64
  77. ^ a b ライアン 1967, p. 65
  78. ^ ライアン 1967, p. 48
  79. ^ ライアン 1967, p. 63
  80. ^ ライアン 1967, p. 57
  81. ^ ライアン 1967, p. 67
  82. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 67
  83. ^ トンプソン 1971, p. 159
  84. ^ a b c ビーヴァー 2011a, p. 261
  85. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 262
  86. ^ トンプソン 1971, p. 161
  87. ^ トンプソン 1971, p. 160
  88. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 263
  89. ^ トンプソン 1971, p. 166
  90. ^ トンプソン 1971, p. 167
  91. ^ ビーヴァー 2011a, p. 112
  92. ^ トンプソン 1971, p. 168
  93. ^ ビーヴァー 2011a, p. 113
  94. ^ ライアン 1995, pp. 199–200
  95. ^ トンプソン 1971, p. 104
  96. ^ トンプソン 1971, p. 105
  97. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 126
  98. ^ トンプソン 1971, p. 107
  99. ^ トンプソン 1971, p. 108
  100. ^ ビーヴァー 2011a, p. 128
  101. ^ トンプソン 1971, p. 121
  102. ^ ライアン 1967, p. 83
  103. ^ ライアン 1967, p. 85
  104. ^ ビーヴァー 2011a, p. 145
  105. ^ ビーヴァー 2011a, p. 151
  106. ^ ボールドウィン 1967, p. 308
  107. ^ ビーヴァー 2011a, p. 150
  108. ^ カレル 1999, p. 77
  109. ^ カレル 1999, p. 76
  110. ^ ボールドウィン 1967, p. 175
  111. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 207
  112. ^ ビーヴァー 2011a, p. 146
  113. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 310
  114. ^ ビーヴァー 2011a, p. 152
  115. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 312
  116. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 239
  117. ^ Saipan: The Beginning of the End”. U.S. Marine Corps. 2022年6月3日閲覧。
  118. ^ ニューカム 1966, p. 23
  119. ^ ライアン 1967, p. 164
  120. ^ ライアン 1967, p. 160
  121. ^ ボールドウィン 1967, p. 311
  122. ^ ライアン 1967, p. 167
  123. ^ a b メッセンジャー 2005, p. 67
  124. ^ カレル 1999, p. 102
  125. ^ メッセンジャー 2005, p. 50
  126. ^ カレル 1999, p. 50
  127. ^ ライアン 1967, p. 170
  128. ^ メッセンジャー 2005, p. 69
  129. ^ a b ライアン 1967, p. 171
  130. ^ a b c カレル 1999, p. 103
  131. ^ カレル 1999, p. 132
  132. ^ a b カレル 1999, p. 133
  133. ^ メッセンジャー 2005, p. 74
  134. ^ メッセンジャー 2005, p. 75
  135. ^ ライアン 1967, p. 179
  136. ^ カレル 1999, p. 134
  137. ^ トンプソン 1971, p. 150
  138. ^ ボールドウィン 1967, p. 316
  139. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 317
  140. ^ ボールドウィン 1967, p. 318
  141. ^ a b c ボールドウィン 1967, p. 320
  142. ^ トンプソン 1971, p. 153
  143. ^ ビーヴァー 2011a, p. 196
  144. ^ ボールドウィン 1967, p. 322
  145. ^ a b c ビーヴァー 2011a, p. 197
  146. ^ メッセンジャー 2005, p. 77
  147. ^ ライアン 1967, p. 195
  148. ^ ライアン 1967, p. 197
  149. ^ メッセンジャー 2005, p. 78
  150. ^ a b トンプソン 1971, p. 155
  151. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 200
  152. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 204
  153. ^ トンプソン 1971, p. 201
  154. ^ ビーヴァー 2011a, p. 201
  155. ^ ビーヴァー 2011a, p. 202
  156. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. 2022年5月7日閲覧。
  157. ^ a b c d ビーヴァー 2011a, p. 207
  158. ^ ビーヴァー 2011a, p. 221
  159. ^ カレル 1999, p. 106
  160. ^ ビーヴァー 2011a, p. 223
  161. ^ ライアン 1967, p. 192
  162. ^ ライアン 1967, p. 194
  163. ^ タイムライフブックス 1979, p. 152
  164. ^ トンプソン 1971, p. 179
  165. ^ a b c トンプソン 1971, p. 180
  166. ^ タイムライフブックス 1979, p. 153
  167. ^ a b c d e f g タイムライフブックス 1979, p. 157
  168. ^ a b ライアン 1967, p. 204
  169. ^ マクセイ・米英機甲師団 1973, p. 192
  170. ^ a b ライアン 1967, p. 205
  171. ^ ビーヴァー㊦ 2015, p. 112
  172. ^ ボールドウィン 1967, p. 317
  173. ^ ボールドウィン 1967, p. 314
  174. ^ a b タイムライフブックス 1979, p. 164
  175. ^ トンプソン 1971, p. 182
  176. ^ a b タイムライフブックス 1979, p. 158
  177. ^ トンプソン 1971, p. 173
  178. ^ ライアン 1967, p. 209
  179. ^ トンプソン 1971, p. 178
  180. ^ ライアン 1967, p. 210
  181. ^ ライアン 1967, p. 211
  182. ^ トンプソン 1971, p. 177
  183. ^ タイムライフブックス 1979, p. 170
  184. ^ a b ライアン 1967, p. 208
  185. ^ トンプソン 1971, p. 185
  186. ^ ライアン 1967, p. 206
  187. ^ ライアン 1967, p. 207
  188. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 315
  189. ^ Canada on D-Day by the Numbers”. Juno Beach Centre (2019年4月30日). 2025年4月6日閲覧。
  190. ^ ライアン 1967, p. 135
  191. ^ ライアン 1967, p. 139
  192. ^ ライアン 1967, p. 138
  193. ^ a b ビーヴァー 2011a, p. 260
  194. ^ ライアン 1967, p. 159
  195. ^ 児島譲⑥ 1992, p. 388
  196. ^ ビーヴァー 2011a, p. 264
  197. ^ ライアン 1967, p. 244
  198. ^ 大木毅 2019, kindle版, 位置No.249.
  199. ^ ライアン 1967, p. 245
  200. ^ 児島譲⑥ 1992, p. 393
  201. ^ ノルマンディーの地で反撃に出るも、やむを得ず後退させられたドイツ装甲師団”. KK Bestsellers (2017年7月26日). 2022年5月17日閲覧。
  202. ^ ビーヴァー 2011a, p. 278
  203. ^ 児島譲⑥ 1992, p. 412
  204. ^ 児島譲⑥ 1992, p. 425
  205. ^ a b アイゼンハワー財団 1972, p. 215
  206. ^ アイゼンハワー財団 1972, p. 216
  207. ^ トンプソン 1971, p. 203.
  208. ^ THE BEDFORD BOYS”. Schatz Strategy Group (2019年6月7日). 2022年5月6日閲覧。
  209. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  210. ^ 児島譲⑥ 1992, p. 397
  211. ^ シャーロッド 1966, p. 338
  212. ^ a b ボールドウィン 1967, p. 328
  213. ^ Photo Finish: The Battle of Tarawa”. THE NATIONAL WWII MUSEUM. 2022年5月11日閲覧。
  214. ^ ボールドウィン 1967, p. 330
  215. ^ トンプソン 1971, p. 86
  216. ^ 大木毅 2019, kindle版, 位置No.247.
  217. ^ トンプソン 1971, p. 123
  218. ^ トンプソン 1971, p. 203
  219. ^ 児島譲⑥ 1992, p. 402
  220. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  221. ^ トンプソン 1971, p. 195
  222. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  223. ^ How Many Were Killed on D-Day?”. A&E Television Networks. 2022年5月6日閲覧。
  224. ^ トンプソン 1971, p. 199
  225. ^ ビーヴァー 2011a, p. 450
  226. ^ Army Battle Casualties and Non-Battle Deaths in World War II,: Final Report, 7 December 1941 to 31 December 1946. Washington, DC: Statistical and Accounting Branch, Office of the Adjutant General, Department of the Army. (1 June 1953). OCLC 220594130. http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/ref/Casualties/Casualties-1.html 
  227. ^ ビーヴァー 2011a, p. 451
  228. ^ ライフ ヨーロッパ第2戦線 p.200
  229. ^ a b ベッセル 2015, p. 195.
  230. ^ a b ハルバースタム 2012a, kindle版, 上巻, 位置No.6711.
  231. ^ a b ハルバースタム 2012a, kindle版, 上巻, 位置No.6731.
  232. ^ メイヤー 1973, p. 118.
  233. ^ ノルマンディー 対露象徴に/上陸80年式典 欧米首脳ら参加/ゼレンスキー氏 招待結束訴え」『産経新聞』朝刊2024年6月7日5面(2024年6月29日閲覧)
  234. ^ 史上最大の決断 「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリーダーシップ ダイヤモンド社(2024年6月8日閲覧)
  235. ^ 日本放送協会『史上最大の作戦 ノルマンディー上陸 - 映像の世紀バタフライエフェクトhttps://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/9QK1MQ43Y3/2024年5月21日閲覧 

参考文献

編集
  • バーナード・モントゴメリー 著、高橋光夫 訳『モントゴメリー』読売新聞社、1971年。ASIN B000J9GDYO 
  • アイゼンハワー財団; 向後英一 訳『Dデイ―ノルマンディー上陸作戦の回顧』早川書房、1972年。ASIN B000J9GOTI 
  • ケネス・マクセイ(Kenneth Macksey)『戦闘 (原題:Battle, 1974)』芳地昌三訳、白金書房、1976年
    • ケネス・マクセイ『ノルマンディーの激闘』朝日ソノラマ文庫、1988年(上記『戦闘』の改題復刻版)
  • ケネス・マクセイ(著)『ドイツ機甲師団 電撃戦の立役者』〈第二次世界大戦ブックス15〉、加登川幸太郎(訳)、サンケイ新聞社出版局、1971年。ASIN B000J9GU4W
  • ケネス・マクセイ(著)『米英機甲部隊―全戦車,発進せよ!』〈第二次世界大戦ブックス50〉、菊地晟(訳)、サンケイ新聞社出版局、1973年。ASIN B000J9GKSS
  • 大木毅『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』KADOKAWA、2019年。ASIN B07PHNFGTC 
  • フリードリッヒ・ルーゲ(Friedrich Ruge)『ノルマンディーのロンメル』加登川幸太郎 訳、朝日ソノラマ文庫、1985年、ISBN 4-257-17064-6(ロンメルの部下の回想録。日本軍が第二次上海事変で杭州湾上陸作戦に使用した上陸用舟艇「大発」に関する記述がある)
  • コーネリアス・ライアン史上最大の作戦(原題:The longest day)』広瀬順弘 訳、早川書房、1995年。ISBN 978-4-15-050187-7 
  • Micheal Reynolds(著)、Steel Inferno, I SS Panzer Corps in Normandy, Sarpedon, 1997, ISBN 1-885119-44-5(武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と「ヒトラーユーゲント」装甲師団のノルマンディーにおける戦闘記録)
  • パウル・カレル『彼らは来た(原題:Sie kommen)』松谷健二 訳、中央公論社、1999年。ISBN 978-4120028632 親衛隊中佐であった戦記作家のドイツ軍側からのノンフィクション)
  • スティーヴン・アンブローズ『D-デイ (原題:D-Day June 6, 1944, The Climactic Battle of World War II)』
  • Stuart Hills(著)、By Tank into Normandy, A Memoir of the Campaign in North-west Europe from D-Day to Ve Day, Cassel, 2002, ISBN 0-304-36216-6(ノルマンディ上陸作戦に参加した英軍戦車兵の回顧録)
  • ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦 4』佐藤亮一訳、河出文庫 全4巻、改版2001年
  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈6〉』文藝春秋、1992年。ISBN 978-4167141417 
  • タイムライフブックス 編『ライフ第二次世界大戦史 ヨーロッパ第2戦線』タイムライフブックス、1979年。ASIN B000J7UJFU 
  • Die Woelfe und der Adniral /Wolfgang Frank /1953
  • Antony Beevor D-Day: The Battle for Normandy, Viking Adult, 2009, ISBN 0-670-02119-9
  • アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373 
  • シドニー・メイヤー; 芳地昌三 訳『マッカーサー : 東京への長いながい道』サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年。ISBN 4383011381 
  • シドニー・メイヤー; 新庄哲夫 訳『日本占領』サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス〉、1973年。ISBN 4383012981 
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年。ASIN B000JAJ39A 
  • チャールズ・メッセンジャー; 鈴木主税訳『ノルマンディー上陸作戦 (地図で読む世界の歴史)』河出書房新社〈地図で読む世界の歴史〉、2005年。ISBN 978-4309611877 
  • デイヴィッド・ハルバースタム; 山田耕介・山田侑平 訳『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 上(Kindle)、文藝春秋〈文春文庫〉、2012年。 ASIN B01C6ZB0V4
  • デイヴィッド・ハルバースタム; 山田耕介・山田侑平 訳『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 下(Kindle)、文藝春秋〈文春文庫〉、2012年。 ASIN B01C6ZB0UU
  • R・W・トンプソン『Dデイ―ノルマンジー上陸作戦』宮本倫好(訳)、サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス 25〉、1971年。ASIN B000J9GE66 
  • ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次世界大戦の記録』木村忠雄(訳)、朝日新聞社、1967年。ASIN B000JA83Y6 
  • リチャード・F.ニューカム『硫黄島』田中至 訳、弘文堂、1966年。ASIN B000JAB852 
  • リチャード, ベッセル『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』大山晶 訳、中央公論新社、2015年。ISBN 978-4121023292 
  • ロバート・シャーロッド『現代世界ノンフィクション全集 12 サイパン日記』中野五郎訳、筑摩書房、1966年。ASIN B000JBC6CU 他は「真珠湾攻撃」「ミッドウェイ海戦」

関連項目

編集

関連項目の脚注

編集
  1. ^ 『マンガ 本当にあった! 世界の珍兵器コレクション』(宝島社)のパンジャンドラムの項参照。

外部リンク

編集