1950年の日本競馬
1950年の日本競馬(1950ねんのにほんけいば)では、1950年(昭和25年)の日本競馬界についてまとめる。 馬齢は旧表記で統一する。
1949年の日本競馬 - 1950年の日本競馬 - 1951年の日本競馬
概要
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できごと
編集1月 - 3月
編集- 1月3日 - 東京競馬場で15日まで、阪神競馬場では4日から22日までの日程で、正月競馬が開催される。金杯、銀杯[注 1]もこのとき編成された[1]。
- 1月25日 - 川崎競馬場が竣工。2月には平塚市営競馬、3月には横浜市営競馬が開催され、好成績を上げた[1]。
4月 - 6月
編集- 4月1日 - 中央競馬第1回中山・第1回京都開催より、フォトチャートカメラが使用される[2]。
- 4月25日 - 大井競馬場が竣工。5月12日に初開催が行われ、同年中に指定市町村の委託競馬を10回開催、約8億7000万円の売得金を示した[1]。
- 5月20日 - 第2回京都開催より、馬の減少対策のひとつとして速歩競走が毎日1鞍ずつ、最終第10競走として施行されるようになる[3]。
- 5月30日 - 6月13日まで、第17回東京優駿をひかえ、新宿二幸でダービー展が開催される[2]。
- 6月8日 - NHKにおいて、尾形藤吉調教師を招いて「ダービー候補馬を語る夕」が放送される[2]。
- 6月11日 - 第17回東京優駿が空前の出走頭数26頭で争われ、橋本輝雄騎乗のクモノハナが優勝した[2]。
7月 - 9月
編集- 7月3日 - 国営競馬実施規則が改正され、地方競馬に移籍するために馬名登録を抹消された3歳馬でも、国営競馬に復帰できるようになった[4]。
- 8月24日 - 船橋競馬場が初の開催を迎える[1]。
- 9月23日 - 国営競馬が連勝複式の発売を中止。しかし客足の激減を招いたことにより、10月14日より発売を再開している[4]。
10月 - 12月
編集- 10月6日 - 東京都の23区が独自で競馬を開催するための、特別区競馬組合が設立される[4]。
- 11月26日 - 阪神競馬場で第1回チャレンジカップが開催される[3]。
- 12月5日 - 競馬の控除率を37%から25%へ引き下げる競馬法の一部改正案が国会に提出される。12日に可決され、22日より施行された[4]。
- 12月21日 - 中京地区に国営競馬場を1か所新設するという競馬法改正案が提出されて通過。中京競馬場建設が本格的に進められる[4]。
その他
編集競走成績
編集公認競馬の主な競走
編集- 第10回桜花賞(阪神競馬場・5月3日)優勝 : トサミツル(騎手 : 境勝太郎)
- 第10回皐月賞(中山競馬場・5月5日)優勝 : クモノハナ(騎手 : 橋本輝雄)
- 第21回天皇賞(春)(京都競馬場・6月4日) 優勝 : オーエンス(騎手 : 土門健司)
- 第17回東京優駿競走(日本ダービー)(東京競馬場・6月11日) 優勝 : クモノハナ(騎手 : 橋本輝雄)
- 第11回菊花賞(京都競馬場・10月29日) 優勝 : ハイレコード(騎手 : 浅見国一)
- 第22回天皇賞(秋)(東京競馬場・11月3日) 優勝 : ヤシマドオター(騎手 : 保田隆芳)
- 第11回優駿牝馬(オークス)(東京競馬場・11月19日) 優勝 : コマミノル(騎手 : 渡辺正人)
障害競走
編集リーディング
編集誕生
編集この年に生まれた競走馬は1953年のクラシック世代となる。
競走馬
編集人物
編集- 1月7日 - 岡崎伸吉騎手
- 1月8日 - 河野通文調教師(JRA)
- 2月7日 - 上野清章騎手(JRA)
- 2月15日 - 松田幸春騎手(JRA)
- 3月18日 - 西橋豊治騎手、調教師(JRA)
- 4月10日 - 佐々木修一調教師(水沢)
- 7月29日 - 中島敏文騎手、調教師(JRA)
- 8月21日 - 佐藤賢二騎手、調教師(船橋)
- 9月15日 - 高橋優子騎手(水沢)
- 9月25日 - 蓑田早人騎手(JRA)
- 9月28日
- 9月29日 - 押田年郎騎手(JRA)
- 10月31日 - 田所秀孝騎手、調教師(JRA)
- 11月9日 - 湯窪幸雄騎手、調教師(JRA)
- 11月25日 - 橋本壽正調教師(JRA)
- 12月14日 - 崎山博樹騎手、調教師(JRA)
- 12月24日 - 石坂正調教師(JRA)
- 12月29日 - 星野忍騎手、調教師(JRA)
死去
編集競走馬
編集人物
編集脚注
編集参考文献
編集- 一般社団法人 中央競馬振興会『日本近代競馬総合年表』中央競馬ピーアール・センター、2018年。
注釈
編集- ^ サラブレッド系の金杯に相当する、アラブ系の競走。1993年廃止。