遼
- 遼
- 契丹國
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←916年 - 1125年 →
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遼の最大版図(1000年頃)-
公用語 契丹語、中古漢語 宗教 仏教、道教、アニミズム 首都 上京臨潢府(現バイリン左旗) 通貨 銅銭、紙幣 現在 中華人民共和国
モンゴル
ロシア
朝鮮民主主義人民共和国
遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。
遼 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 遼 |
簡体字: | 辽 |
拼音: | Liáo |
先史時代 中石器時代 新石器時代 | |||||||||||
三皇五帝 (古国時代) |
(黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明) | ||||||||||
夏 | |||||||||||
殷 | |||||||||||
周(西周) | |||||||||||
周 (東周) |
春秋時代 | ||||||||||
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秦 | |||||||||||
漢(前漢) | |||||||||||
新 | |||||||||||
漢(後漢) | |||||||||||
呉 (孫呉) |
漢 (蜀漢) |
魏 (曹魏) | |||||||||
晋(西晋) | |||||||||||
晋(東晋) | 十六国 | ||||||||||
宋(劉宋) | 魏(北魏) | ||||||||||
斉(南斉) | |||||||||||
梁 | 魏 (西魏) |
魏 (東魏) | |||||||||
陳 | 梁 (後梁) |
周 (北周) |
斉 (北斉) | ||||||||
隋 | |||||||||||
唐 | |||||||||||
周(武周) | |||||||||||
五代十国 | 契丹 | ||||||||||
宋 (北宋) |
夏 (西夏) |
遼 | |||||||||
宋 (南宋) |
金 | ||||||||||
元 | |||||||||||
明 | 元 (北元) | ||||||||||
明 (南明) |
順 | 後金 | |||||||||
清 | |||||||||||
中華民国 | 満洲国 | ||||||||||
中華 民国 (台湾) |
中華人民共和国
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中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。
名称
編集建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。
歴史
編集現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。
太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
さらに2代耶律徳光は五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。
宋の太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。
6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り「澶淵の盟」を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。
女真は次第に強大になり、1115年には自らの金王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。
この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。
政治
編集遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。
北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。
南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。
この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。
遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。
満洲の歴史 | |||||||||||||
箕子朝鮮 | 東胡 | 濊貊 沃沮 |
粛慎 | ||||||||||
燕 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
秦 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
前漢 | 遼西郡 | 遼東郡 | 衛氏朝鮮 | 匈奴 | |||||||||
漢四郡 | 夫余 | ||||||||||||
後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | |||||||||
遼東郡 | 高句麗 | ||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
魏 | 昌黎郡 | 公孫度 | |||||||||||
遼東郡 | |||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
西晋 | 平州 | ||||||||||||
慕容部 | 宇文部 | ||||||||||||
前燕 | 平州 | ||||||||||||
前秦 | 平州 | ||||||||||||
後燕 | 平州 | ||||||||||||
北燕 | |||||||||||||
北魏 | 営州 | 契丹 | 庫莫奚 | 室韋 | |||||||||
東魏 | 営州 | 勿吉 | |||||||||||
北斉 | 営州 | ||||||||||||
北周 | 営州 | ||||||||||||
隋 | 柳城郡 | 靺鞨 | |||||||||||
燕郡 | |||||||||||||
遼西郡 | |||||||||||||
唐 | 営州 | 松漠都督府 | 饒楽都督府 | 室韋都督府 | 安東都護府 | 渤海国 | 黒水都督府 | 靺鞨 | |||||
五代十国 | 営州 | 契丹 | 渤海国 | 靺鞨 | |||||||||
遼 | 上京道 | 東丹 | 女真 | ||||||||||
中京道 | 定安 | ||||||||||||
東京道 | |||||||||||||
金 | 東京路 | ||||||||||||
上京路 | |||||||||||||
東遼 | 大真国 | ||||||||||||
元 | 遼陽行省 | ||||||||||||
明 | 遼東都司 | 奴児干都指揮使司 | |||||||||||
建州女真 | 海西女真 | 野人女真 | |||||||||||
清 | 満洲 | ||||||||||||
東三省 |
ロマノフ朝 (沿海州/緑ウクライナ/江東六十四屯) | ||||||||||||
中華民国 (東三省) |
極東共和国 ソ連 (極東) | ||||||||||||
満洲国 | |||||||||||||
ソ連占領下の満洲 | |||||||||||||
中華人民共和国 (中国東北部) |
ロシア連邦 (極東連邦管区/極東ロシア) |
北朝鮮 (薪島郡) | |||||||||||
中国朝鮮関係史 | |||||||||||||
Portal:中国 |
地方行政
編集遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(→複都制)[1]。
- 上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗南波羅城)…キタイ人の本拠
- 東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)…渤海人の中心地
- 中京大定府(現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県)…奚人の中心地
- 西京大同府(現在の大同市)…沙陀チュルク人の中心地
- 南京析津府(燕京:現在の北京市)
首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の大興安嶺山脈の麓)の南に置かれた[1]。遼の五京制は、女真(ジュシェン)国家の金朝にも引き継がれた[1]。
日本との関係
編集中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある[2]。
また日本側の『中右記』によれば寛治6年(1092年)9月13日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で検非違使から取り調べを受けている[3]。
続いて、嘉保2年(1094年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された[4]。
なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。
『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には
「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」
との一文がある[5]。
高麗との関係
編集993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するためにはじめて高麗に進攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。
その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に、高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった[6]。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している[6]。
高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道郭山郡)を攻陥した[6]。
遼の皇帝
編集契丹と遼 907年 - 1125年 | ||||||
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廟号 | 諡号 | 漢名 | 契丹名 | 常用名称 | 在位時間 | 年号 |
太祖 | 大聖大明神烈天皇帝 | 億 | 阿保機 | 耶律阿保機 | 907年 - 926年7月 | |
─ | 淳欽皇后 | 平 | 月里朶 | 述律平 | 926年7月 - 927年11月 | 天顕 926年 - 927年 |
太宗 | 孝武恵文皇帝 | 徳光 | 堯骨 | 耶律徳光 | 926年11月 - 947年4月 | |
世宗 | 孝和荘憲皇帝 | 阮 | 兀欲 | 耶律阮 | 947年4月 - 951年9月 | 天禄 947年9月 - 951年9月 |
穆宗 | 孝安敬正皇帝 | 璟/明 | 述律 | 耶律璟 | 951年9月 - 969年2月 | 応暦 951年9月 - 969年2月 |
景宗 | 孝成康靖皇帝 | 賢 | 明扆 | 耶律賢 | 969年2月 - 982年9月 | |
聖宗 | 文武大孝宣皇帝 | 隆緒 | 文殊奴 | 耶律隆緒 | 982年9月 - 1031年6月 | |
興宗 | 神聖孝章皇帝 | 宗真 | 只骨 | 耶律宗真 | 1031年6月 - 1055年8月 | |
道宗 | 孝文皇帝 | 洪基 | 査剌 | 耶律洪基 | 1055年8月 - 1101年1月 | |
─ | ─ | 延禧 | 阿果 | 耶律延禧 | 1101年2月 - 1125年2月 | |
南遼 1122年 | ||||||
廟号 | 諡号 | 漢名 | 契丹名 | 常用名称 | 在位時間 | 年号 |
宣宗 | 淳 | 涅里 | 耶律淳 | 1122年3月 - 6月 | 建福 1122年3月 - 6月 | |
─ | ─ | 定 | ─ | 耶律定(摂政:蕭普賢女) | 1122年6月 - 12月 | 徳興 1122年6月 - 12月 |
北遼 1123年 | ||||||
─ | ─ | ─ | 雅里 | 耶律雅里 | 1123年5月 - 10月 | 神暦 1123年5月 - 10月 |
─ | ─ | ─ | 朮烈 | 耶律朮烈 | 1123年10月 - 11月 | 神暦 1123年10月 - 11月 |
西遼 1132年 - 1218年 | ||||||
廟号 | 諡号 | 漢名 | 契丹名 | 常用名称 | 在位時間 | 年号 |
徳宗 | ─ | 大石 | 耶律大石 | 1124年7月 - 1143年 | ||
仁宗 | ─ | 夷列 | 耶律夷列 | 1151年 - 1163年 | 紹興 1151年 - 1163年 | |
─ | ─ | 直魯古 | 耶律直魯古 | 1179年 - 1211年 | 天禧 1179年 - 1211年 | |
─ | ─ | 屈出律 | 屈出律 | 1212年 - 1218年 | 天禧 1212年 - 1218年 |
系図
編集- 遼史より
(1)太祖 耶律阿保機 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)義宗 耶律突欲 | (2)太宗 耶律堯骨 | (追)章肅帝 耶律李胡 | 耶律牙里果 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)世宗 耶律兀欲 | (4)穆宗 耶律述律 | 宋王 耶律喜隠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)景宗 耶律明扆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)聖宗 耶律文殊奴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(7)興宗 耶律只骨 | 秦王 耶律重元 | 燕王 耶律呉哥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(8)道宗 耶律査剌 | 宋魏王 耶律和魯斡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)順宗 耶律濬 | (北1)宣宗 耶律淳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)天祚帝 耶律阿果 | (西1)徳宗 耶律大石 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北3)梁王 耶律雅里 | (北2)秦王 耶律定 | (北4)耶律朮烈 | (西2)仁宗 耶律夷列 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(西3)耶律直魯古 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(女) | (西4)クチュルク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 朝鮮の旧石器時代 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
古朝鮮 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 |
沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 |
百済 |
高句麗 | |||||||
新羅 | ||||||||||
南北国 | 唐熊津都督府・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 |
安東都護府 668-756 |
渤海 698-926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 |
後 百済 892 -936 |
後高句麗 901-918 |
遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 |
高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 朝鮮人民共和国 1945 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- |
朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
脚注
編集- ^ a b c 宮脇(2018)pp.60-62
- ^ 杉山正明 編『中国の歴史8 疾走する草原の征服者』講談社、2021年2月9日、91頁。ISBN 978-4062060165。
- ^ 野口実『東国武士と京都』同成社〈同成社 中世史選書〉、2015年10月9日、93頁。ISBN 4886217117。
- ^ 池上, 裕子、小和田, 哲男、小林, 清治 ほか 編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月1日、201頁。ISBN 978-4065223109。
- ^ 杉山正明 編『中国の歴史8 疾走する草原の征服者』講談社、2021年2月9日、83-84頁。ISBN 978-4062060165。
- ^ a b c 吉本智慧子 (2008年12月). “Original meaning of Dan gur in Khitai scripts: with a discussion of state name of the Dong Dan Guo” (PDF). 立命館文學 (609) (立命館大学人文学会): p. 9. オリジナルの2016年10月19日時点におけるアーカイブ。