藤波季忠
日本の公卿、神宮祭主
藤波 季忠(ふじなみ すえただ)は、江戸時代中期から後期にかけての日本の公卿、神宮祭主。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文4年1月26日(1739年3月5日) |
死没 | 文化10年2月15日(1813年3月17日) |
改名 | 久丸(幼名) |
官位 | 正二位、非参議 |
主君 | 桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇 |
氏族 | 冷泉家→藤波家 |
父母 |
父:冷泉宗家、母:清閑寺熈定の娘 養父:藤波和忠、養母:牧野英成の娘 |
兄弟 | 為晴、為栄、藤波季忠 |
妻 | 藤波伊子 |
子 |
実子:若江公義 養子:寛忠 |
生涯
編集下冷泉家12代当主冷泉宗家の次男として、元文4年(1739年)に生まれる。寛延4年9月25日(1751年11月12日)、男児に恵まれなかった藤波和忠の養子となり[1]、同年中に叙爵。翌宝暦2年2月24日(1752年4月8日)に14歳で元服し、昇殿を許された。明和4年(1767年)、従三位となり、公卿に列せられた。
安永7年(1778年)、祭主職を藤波寛忠に譲った。伊子との間には実子義道がいたが、寛政11年(1799年)、菅原氏流地下家若江家の長公の養子となった[2]。養父和忠に大中臣氏二門の男児が生まれた以上、祭主職はその男児すなわち寛忠に継承された。季忠の祭主職就任は特例にして中継ぎであった[3]。
天明7年12月2日(1788年1月9日)、直衣を許される。享和2年3月23日(1802年4月25日)、妻・伊子に先立たれる[4]。文化10年(1813年)、75歳で薨去した。
官歴
編集
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