矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年11月20日)は、愛媛県出身のプロ野球選手外野手)。

矢野 清
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県
生年月日 (1940-07-03) 1940年7月3日
没年月日 (2014-11-20) 2014年11月20日(74歳没)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1959年
初出場 1961年
最終出場 1970年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

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選手時代

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愛媛・八幡浜高校では1958年夏の甲子園中堅手として出場。1回戦で清水東高に敗退。

1959年阪急ブレーブスに入団。長距離打者として期待され、1962年には外野手として18試合に先発出場。7月1日には四番打者としても起用された。翌1963年も28試合に先発するが、打撃面で低迷が続き出場機会が減少。1967年オフには自由契約選手の候補となる。しかし1968年は6月から先発として起用され、右翼手、四番打者に定着。規定打席には達しなかったが打率.301、本塁打27本の好成績をあげ、「10年目の新人」と呼ばれた[1]1969年も25本の本塁打を放ち、オールスターゲームにも初出場を果たすが、他チームからの研究が進むにつれて不振に陥り、8月中旬には四番打者を外れる。同年は打率.194に終わった。翌1970年は5月に腱鞘炎を発症、その後も打撃低迷から抜け出せず同年限りで引退。

最終戦でサヨナラ本塁打

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1968年10月11日阪急西宮球場で行われた対東京オリオンズ最終戦(この年の阪急の公式戦最終試合)では、1-2で1点リードされた9回裏無死一塁の場面で成田文男から同点適時打を放ち、2-2の延長11回裏には成田から左翼席最前列にサヨナラ本塁打を放った[1]。阪急はこの試合開始前の時点で南海ホークスと同率首位(79勝50敗、勝率.612)で並んでいた。南海も同日の日生球場での対近鉄バファローズ最終戦が公式戦最終試合であり、阪急・南海両チームの結果が同じだった場合プレーオフが行われる可能性があったが、西宮の試合終了から8分後に南海が敗れたため阪急がパ・リーグ2連覇を達成した[2]。翌12日から始まった巨人との日本シリーズ第1戦は阪急が勝ち、3回に金田正一から逆転本塁打を放った矢野が賞金10万円を獲得した[1]。シリーズ全6試合のうち5試合に四番打者として起用されるが、通算21打数2安打に終わりチーム日本一はならなかった。

引退後

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引退後は阪急・オリックスでスカウトを務め、2000年10月にオリックス・ブルーウェーブ(当時)の球団本部長に就任[3]同年のドラフトで、オリックスは巨人入りを熱望していた敦賀気比高内海哲也を1位で強行指名したが、内海は入団を拒否。交渉にあたった矢野は「意志は固かった。交渉にならなかった。巨人に行きたいばっかりで…。社会人入りを止める方法はない。1位という評価をもう少し真剣に考えてほしかった」と獲得断念を表明した[4]

2014年11月20日死去[5]。74歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1961 阪急 21 21 20 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 8 0 .100 .143 .100 .243
1962 66 113 101 8 15 2 1 2 25 8 0 0 0 1 9 0 2 32 2 .149 .232 .248 .480
1963 78 127 120 10 23 4 0 2 33 10 0 0 0 1 6 0 0 36 4 .192 .230 .275 .505
1964 6 9 8 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .250 .333 .250 .583
1965 40 62 58 4 20 2 0 3 31 10 1 2 0 0 4 0 0 13 1 .345 .387 .534 .922
1966 9 10 9 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 1 0 4 0 .111 .200 .111 .311
1967 3 9 8 1 2 0 1 1 7 3 0 0 0 1 0 0 0 4 0 .250 .250 .875 1.125
1968 94 346 296 51 89 13 1 27 185 66 1 1 1 3 43 0 3 61 7 .301 .395 .625 1.020
1969 112 374 330 47 64 8 2 25 151 57 1 0 0 1 42 2 1 106 6 .194 .287 .458 .744
1970 64 136 127 12 26 4 0 4 42 5 1 0 1 0 7 0 1 41 3 .205 .252 .331 .583
通算:10年 493 1207 1077 134 244 33 5 64 479 159 4 3 2 7 114 3 7 307 23 .227 .305 .445 .749

記録

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背番号

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  • 52 (1959年 - 1962年)
  • 23 (1963年 - 1970年)

脚注

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  1. ^ a b c 【10月11日】1968年(昭43) “10年目の新人”矢野が決めた阪急V2 その足で東京へスポニチアネックス
  2. ^ 南海の鶴岡一人監督は試合終了後に辞意を伝え、23年間の監督生活を終えた。
  3. ^ 球団情報オリックス・バファローズオフィシャルサイト
  4. ^ 【12月3日】2000年(平12) 破格の提示にもやっぱり…内海哲也、オリックス入り拒否スポニチアネックス
  5. ^ 元阪急の4番・矢野清さんが死去 デイリースポーツ 2014年12月2日

関連項目

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