小田切磐太郎
小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1869年11月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月22日)は、明治後期から大正初期にかけての日本の内務官僚・官選県知事、昭和戦前期にかけての弁護士・政治家・実業家である。
小田切 磐太郎 おたぎり いわたろう | |
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小田切磐太郎の肖像写真 | |
生年月日 | 1869年11月6日 |
出生地 |
日本 信濃国須坂藩高井郡須坂村 (現・長野県須坂市) |
没年月日 | 1945年9月22日(75歳没) |
前職 | 弁護士・官選県知事 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 | 従四位勲三等 |
選挙区 | 長野県郡部選挙区・第4区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1917年4月20日 - 1924年1月31日 |
経歴
編集内務官僚時代
編集小田切磐太郎は、明治2年10月3日(新暦:1869年11月6日)、小田切豊太郎の長男として生まれた[1]。父・豊太郎は長野県上高井郡須坂町、現在の須坂市の豪商小田切家(屋号は「東糀屋」)の一族で、3代目小田切新蔵の弟にあたる[2]。1875年(明治8年)より須坂の地場産業である製糸業(山ヨ製糸所)を経営していた[2]。
小田切は長野県尋常中学校を卒業したのち[3]、1892年(明治25年)7月東京の第一高等中学校を卒業し[4]、1895年(明治28年)7月には帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した[5]。大学卒業後はまず衆議院属となった[1]。同年11月、文官高等試験に合格した[1]。
翌1896年(明治29年)10月、衆議院属から転じ福島県参事官(高等官)に任ぜられた[6]。直後の職員録には福島県内務部第一課長・第三課長を兼務するとある[7]。1897年(明治30年)4月、山形県参事官へ異動[8]。1901年(明治34年)4月山形県書記官へ昇格し[9]、同県内務部長となる[10]。続いて1903年(明治36年)3月、山形県書記官から栃木県書記官へ転じ[11]、1905年(明治38年)4月に栃木県事務官へ昇格[12]。翌1906年(明治39年)8月に茨城県事務官に転じ[13]、さらに1908年(明治41年)3月には山口県事務官へと転じた[14]。1912年(明治45年)の職員録には山口県事務官で内務部長を務めるとある[15]。
1912年6月29日、山形県知事(高等官二等)に任ぜられた[16] 。馬淵鋭太郎が山口県知事へと転出したことに伴う後任で、第12代の山形県知事である[17]。在任中は内務省の方針に従い緊縮財政政策を継続した[17]。就任後の1912年(大正元年)12月に、大正政変に繋がる国政での政党連携が波及して山形県会でも立憲政友会と非政友会の連合会派「羽陽同志会」が発足したことから、政友会が与党とならなかった小田切の県政運営は議会に圧迫されがちであったという[17]。
1916年(大正5年)4月28日、山形県知事から転出し、沖縄県知事(高等官二等)に任命された[18]。沖縄県知事転任は大味久五郎の休職に伴うものであるが、大味は沖縄県知事着任前は山形県内務部長すなわち小田切の部下であったことから、小田切は部下の後任を務めるという形となる[19]。そのため小田切はこの人事を「左遷」であると憤り、沖縄県に赴任することなく辞職した[19]。免官は任官6日後の同年5月4日付であった[20]。
政界進出
編集退官後の小田切は郷里の長野に帰り一旦閑地に就いた[21]。1916年11月に長野地方裁判所において弁護士登録をなしている[22]。
1917年(大正6年)3月、小田切は立憲政友会から勧誘され第13回衆議院議員総選挙(投票日は4月20日)への出馬を決めた[21]。出馬にあたっては従兄・越寿三郎(伯父・小田切新蔵の三男で製糸業「山丸組」を経営[2])からの財政支援を受けている[23]。選挙区は長野県郡部選挙区(定員9人)で、投票の結果第3位の得票数で当選を果たし、衆議院議員となった[24]。
1920年(大正9年)5月10日実施の第14回総選挙(小選挙区制実施)にも立憲政友会から出馬し、長野県第4区にて栗岩英治を破って当選した[25]。衆議院では同年7月の第43回帝国議会において決算委員長に選ばれている[26]。
1924年(大正13年)5月10日実施の第15回総選挙も引き続き長野県第4区から立憲政友会公認で出馬したが[27]、憲政会系の中立候補蟻川五郎作に敗れて落選[23]。この落選を機に小田切は政界から引退した[23]。
実業界での活動
編集衆議院議員在任中にあたる1919年(大正8年)10月末、信濃電気株式会社の取締役に就任した[28]。同社は1903年に設立された北信・東信地方へ供給する電力会社(本社は上高井郡須坂町)である[29]。従兄の越寿三郎が社長を務めており[29]、取締役就任直後の役員録によると小田切は越の下で副社長を務めるとある[30]。続いて1924年(大正13年)12月、梓川電力の設立とともに同社の取締役副社長に選ばれた(社長は小坂順造)[31]。同社は梓川上流部での電源開発を目的に信濃電気と長野電灯(長野市)が共同で設立した発電会社で、4年後の1928年(昭和3年)に開業した[32]。
また信濃電気が自社電力の活用による石灰窒素製造を図るべく設立した化学メーカー信越窒素肥料(現・信越化学工業)にも関わり、1926年(大正15年)9月の会社設立とともに取締役に就いた[33][34]。さらに1929年(昭和4年)3月から1931年(昭和6年)6月にかけて、長野市内の商工会議所である長野商工会議所の第7代会頭を務めた[35]。
1930年(昭和5年)、越寿三郎が本業である製糸業の不振と病気を理由に信濃電気・信越窒素肥料の経営から退き、両社を長野電灯の小坂順造に託した[36]。そのうち信濃電気では1930年4月30日の取締役改選で越が取締役社長から退き名取和作が新社長(小坂が拓務政務次官在任中のため代理就任[36])となった[37]。小田切はこのときは取締役に留任し副社長にも再任されたが[37]、半年後の12月30日付で取締役を辞任した[38]。信越窒素肥料の取締役についても翌1931年1月に辞任している[39]。
1931年4月、信濃電気で監査役に選ばれた[40]。同年5月には梓川電力でも小坂順造の社長復帰とともに取締役副社長から退き監査役へと回った[41]。1937年(昭和12年)3月に信濃電気と長野電灯が合併して発足した長野電気では取締役や監査役に就いておらず[42]、1941年版の興信録には梓川電力監査役・長野電気顧問に在任中とある[43]。その後長野電気は梓川電力を合併の上で1942年(昭和17年)5月に解散した[44]。
栄典
編集脚注
編集- ^ a b c d 『人事興信録』第4版を10-11頁。NDLJP:1703995/231
- ^ a b c 『須坂に電燈が灯されて一世紀』11-15頁
- ^ 『長野県歴史人物大事典』164頁
- ^ 「学事 第一高等中学校卒業証書授与式」『官報』第2701号、1892年7月11日付
- ^ 「学事 帝国大学各分科大学卒業証書授与式」『官報』第3611号、1895年7月13日付
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第3981号、1896年10月3日付
- ^ 『職員録』明治29年(乙)175頁。NDLJP:779773/125
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第4142号、1897年4月27日付
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第5334号、1901年4月18日付
- ^ 『職員録』明治34年(乙)275頁。NDLJP:779781/152
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第5903号、1903年3月11日付
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第6538号、1905年4月20日付
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第6940号、1906年8月16日付
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第7425号、1908年3月31日付
- ^ 『職員録』明治45年(乙)575頁。NDLJP:779803/306
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第8709号、1912年7月1日付
- ^ a b c 『山形県議会八十年史』2 大正篇35-38頁
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第1121号、1916年4月29日付
- ^ a b 『沖縄県史』第17巻資料編7 731-732・734-736頁
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第1126号、1916年5月5日付
- ^ a b 『長野県政党史』下巻238-241頁
- ^ 「彙報 弁護士名簿登録」『官報』第1283号、1916年11月10日付
- ^ a b c 『長野県近代民衆史の諸問題』142-144頁
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧』自第7回至第13回91頁。NDLJP:1337792/52
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧』第14回16頁。NDLJP:1337792/103
- ^ 「第43回帝国議会 衆議院 決算委員会 第1号 大正9年7月2日」(帝国議会会議録検索システム)
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧』第15回18頁。NDLJP:1337792/137
- ^ 「商業登記」『官報』第2231号附録、1920年1月14日付
- ^ a b 『須坂に電燈が灯されて一世紀』30-42頁
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第28回下編330頁。NDLJP:936472/747
- ^ 「梓川電力株式会社第1期決算報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 『経済雑誌ダイヤモンド』第17巻第12号
- ^ 『信越化学工業社史』9-11頁
- ^ 「商業登記 株式会社設立」『官報』第15号、1927年1月18日付
- ^ 『長野商工会議所六十年史』525頁
- ^ a b 『信越化学工業社史』16-18頁
- ^ a b 「信濃電気株式会社第56期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「商業登記 信濃電気株式会社変更」『官報』第1273号、1931年3月31日付
- ^ 「商業登記 信越窒素肥料株式会社変更」『官報』第1276号、1931年4月4日付
- ^ 「信濃電気株式会社第58期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「梓川電力株式会社第14回決算報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「長野電気株式会社第1期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 『人事興信録』第13版オ31頁。NDLJP:1070509/338
- ^ 『株式年鑑』昭和17年度634頁。NDLJP:1069958/325
- ^ 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』112頁
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第4046号、1896年12月22日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第4646号、1898年12月23日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第5337号、1901年4月22日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第5920号、1903年3月31日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第6490号、1905年2月21日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第7246号、1907年8月23日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第8321号、1911年3月21日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第273号、1913年6月27日
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第1105号、1916年4月11日
参考文献
編集- 赤羽篤 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1997年。
- 伊東淑太 編『長野商工会議所六十年史』長野商工会議所、1962年。NDLJP:2497422。
- 大阪屋商店調査部 編『株式年鑑』 昭和17年度、大同書院、1942年。NDLJP:1069958。
- 衆議院・参議院 編『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。NDLJP:9673686。
- 衆議院事務局『衆議院議員総選挙一覧』
- 『衆議院議員総選挙一覧』 自第7回至第13回、衆議院事務局、1918年。NDLJP:1337792/4。
- 『衆議院議員総選挙一覧』 第14回、衆議院事務局、1924年。NDLJP:1337792/93。
- 『衆議院議員総選挙一覧』 第15回、衆議院事務局、1926年。NDLJP:1337792/125。
- 商業興信所『日本全国諸会社役員録』 第28回、商業興信所、1920年。NDLJP:936472。
- 信越化学工業社史編纂室 編『信越化学工業社史』信越化学工業、1992年。
- 人事興信所 編『人事興信録』
- 田子昭治 編『須坂に電燈が灯されて一世紀 信濃電気(株)創立百周年記念誌』信濃電気(株)創立百周年記念事業実行委員会、2003年。
- 長野県近代史研究会 編『長野県近代民衆史の諸問題』龍鳳書房、2008年。
- 丸山福松『長野県政党史』下巻、信濃毎日新聞、1928年。NDLJP:1269273。
- 山形県議会 編『山形県議会八十年史』2 大正篇、山形県議会、1964年。NDLJP:3025552。
- 琉球政府 編『沖縄県史』第17巻資料編7 新聞集成(政治経済2)、琉球政府、1968年。NDLJP:3026362。
- 内閣官報局・印刷局発行『職員録』
- 「会社の実質 梓川電力会社」『経済雑誌ダイヤモンド』第17巻第12号、ダイヤモンド社、1929年4月15日、124頁。
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