立憲政友会
立憲政友会(りっけんせいゆうかい、旧字体:立憲󠄁政友會[15])は、明治時代から昭和時代(戦前)にかけての日本の政党。略称は政友会(せいゆうかい)。
立憲󠄁政友會 | |
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立憲政友会本部 | |
成立年月日 | 1900年9月15日[1] |
前身政党 |
憲政党 帝国党(一部) 民党系諸派 |
解散年月日 |
1940年7月16日(正統派)[2][3] 1940年7月30日(革新派)[2][4] |
解散理由 | 大政翼賛会への合流のため解散 |
後継政党 | 同交会(人脈的には日本自由党→民主自由党→自由党→自由民主党) |
政治的思想・立場 |
中道右派[5] - 右派[6] 保守主義[7][8][9] 自由保守主義[8] 憲法遵守[10] 「皇室中心主義」[11] 修正資本主義[12] |
機関紙 |
『政友』[13] 『中央新聞』[14] |
立憲民政党とともに1925年から1931年にかけて衆議院において二大政党制を形成した[16][17]。
当時としては議会制民主主義や地方分権を訴えるなど進歩主義的な側面もあった。
概説
編集1900年(明治33年)、政党内閣制の確立を企図した伊藤博文の議会与党として、結党された。結党直後の第4次伊藤内閣を筆頭に、数代にわたって内閣を組織して政権を担った。1939年(昭和14年)に分裂して革新派(中島派)・正統派(久原派)・中立派(金光派)の鼎立状態となり[注 1]、1940年(昭和15年)7月16日に正統派と統一派(中立派の後身)が解散し、同年7月30日に革新派が解散したことにより解党となった。
政友会の特徴は同党の成立趣意書にもあるように、「余等同志は国家に対する政党の責任を重んじ、専ら公益を目的として行動」するのであって、「国運を進め文明を扶植」するため与論を指導し、地方公共施設の建設にも公益を最優先させる「国家公党」を謳った点である[18]。立憲政友党ではなく「会」を称したのも、国家利益の優先や国家との一体感を強調する初代総裁・伊藤博文の政党観に由来するもので、政党に対する国家の優位性を表している[19][20]。国民の私的な利益を追求する民党を政党と言うならば、政友会はこれらを抑える「反政党」的な政党だった[19][20]。
当時次第に増加していた実業家たちを積極的に取り込むことで商工業ひいては国家の発展を目指した伊藤は、従来は地主だったが寄生地主化して実業家になり都市部に住むようになった市議会議員・商業会議所の会頭・会社社長・弁護士・銀行頭取などに入党を勧誘した[18]。西園寺内閣下では鉄道の国有化や新設、築港、学校建設など積極政策を展開し、その利権投与によって党員や周辺の民衆を惹き付けて党勢拡張に成功[21]。三井財閥、安田財閥、渋沢財閥などの大財閥の支持も得た[22]。その上で、個人の権利自由の保全や友好外交、国防充実、教育振興、産業発展、交通網の充実などを掲げた[18]。特に犬養総裁時代では経済を中心とする平和的な対外政策「産業立国主義」[注 2]が標榜された[23]。他方、政友会の主力な支持基盤に地方の地主がいたこともあり、地方自治の尊重や地方分権も掲げられた[24][25]。
歴史
編集前史
編集大日本帝国憲法施政下の日本においては、明治維新において政府を組織した西南雄藩およびその縁者(いわゆる藩閥)が政権を独占していたが、帝国議会創設以降、衆議院にて多数を確保した自由民権運動勢力(民党)の協賛なしには予算、法律が成立せず、実際に時の藩閥内閣は、民党と個別に連携、妥協を行うか、あるいは政権運営に失敗して退陣を余儀なくされた。
藩閥の首脳陣である元老の中では、伊藤博文筆頭元老が、藩閥と政党の対立を前提とした方向性(超然主義)からの脱却、政党内閣制への移行を模索していた。特に、第2次伊藤内閣で一時的に連立を組んでいた憲政党(旧自由党系)との連携を深め、1900年(明治33年)、時の第2次山縣内閣で憲政党が連立を離脱するのと前後して、憲政党の実務を取り仕切っていた星亨らと連携、「伊藤新党」の結党準備を行っていた。憲政党の他、帝国党・日吉倶楽部などの会派の賛同を得て、また盟友の井上馨元老の伝手で実業界の賛同も得て、その他各界名士への入党勧誘も行われた。伊藤は政府要職を辞し、明治天皇からは勅許とともに、金2万円が下賜されている。
結党
編集1900年(明治33年)9月15日、伊藤を初代総裁として、立憲政友会が結党された(結党時点で衆議院152議席)。この時点の会則では総裁に専制的な権限が与えられており、役員人選も総裁の一任で行う形式であった。
直後の10月19日、第4次伊藤内閣が発足する。これは、政党内閣に良い印象を持っていなかった山縣有朋元老が、伊藤総裁への意趣返しとして、首相の座を辞任、政党の体制が整っていない状態の政友会に政権を押し付けるという算段であった。内閣の陸相・海相・外相以外の閣僚が政友会員で構成されていた。しかし、この政党内閣は貴族院の反発を招き、東京市疑獄事件で星が逓相を辞職するに追い込まれたほか、1901年3月、義和団の乱の軍費捻出のための増税案を一時否決する(最終的に成立)。結局伊藤内閣は、渡辺国武蔵相が閣内不一致を引き起こしたことにより、1年足らずで内閣総辞職した。後任の大命降下を受けた井上馨元老は、引き続き政友会を政権与党とする考えであったが、財界の協力を得られずに断念。藩閥内の山縣直系の桂太郎が組閣(第1次桂内閣)、政友会は野党に転じる。
桂園時代
編集桂内閣の成立後、伊藤総裁は、日露情勢の打開、欧米列強との外交交渉を行うために、外遊の旅に出る。伊藤総裁は筆頭元老という立場もあり、桂内閣を支援する立場にあったが、留守を預かる原敬や松田正久ら政友会幹部は、政府攻撃に回る。11月に外債未達が発生すると、政友会は、隈板内閣の崩壊以来犬猿の仲であった第二党の憲政本党と桂内閣攻撃で提携する。この時点では党内では政府との交渉を続けるべしとの意見も多く、党内は二つに割れた。連絡を受けた伊藤総裁は外遊先より極秘に電報を打ち、倒閣を見合わせるよう訓示を出す。藩閥政権中枢および党幹部らがこれを回覧したのち、党幹部は矛を収めることを決意、藩閥側は政友会内の反対派を切り崩し、対立は一旦解消された[26]。
1902年8月10日、任期満了に伴う第7回衆議院議員総選挙が行われ、政友会は引き続き第一党を維持する。選挙後の議会では、地租増徴の継続を巡り、政友会は再び憲政本党と連携して対立、伊藤総裁もこれを抑えられなくなる。同年末、衆議院解散されるが、桂内閣は打開の術として、桂首相が伊藤総裁を直接一本釣りにして、伊藤総裁は一部予算組み替えを条件に、増徴継続を容認する。1903年3月1日、第8回衆議院議員総選挙にて、政友会は再び第一党を維持するが、ほどなく伊藤の密約が発覚する。政友会は伊藤の地租継続の密約を容認するが、代償として党規約の改正、総裁専制からの脱却を要求。伊藤はこれを受け入れる。更に7月12日、元老兼野党総裁という伊藤の立場の扱いづらさ、伊藤が党内をまとめ切れていないという現状を解消すべく、藩閥首脳、党幹部の総意という形で、伊藤は祭り上げの形で枢密院議長に転出。入れ替わりに西園寺公望枢相が政友会総裁に迎え入れられる[27]。
以降、桂率いる藩閥と、西園寺を総裁に戴く政友会が、妥協しつつ安定的に政権を運営する時代が、約10年間にわたり継続する(桂園時代)。この間、政友会は原の党務の下、衆議院第一党を維持し続ける。
1904年2月、日露戦争勃発。政友会は、桂内閣の戦争遂行に協力したが、同年11月頃より、西園寺・原・松田の幹部3人が桂とひそかに接触、戦後は政友会に政権を譲る方向で話をまとめる。1905年8月28日にポーツマス条約が締結されると、これに反対する民衆の暴動(日比谷焼き討ち事件)が発生したが、政友会は原の引き締めによりこれに加わらなかった。1906年1月7日、第1次西園寺内閣が成立する[28]。
桂園時代の政友会は、西園寺公望、原敬、松田正久の三名による集団指導体制で運営された。堂上公家の生まれである西園寺が山縣や桂ら藩閥との交渉窓口や、自身の組閣などで対外的に党を代表、原は西園寺に代わって党務を統括、松田は党内に声望があり、党内の不満分子の取りまとめを担っていた[29]。
第1次西園寺内閣は、年来の主張であった鉄道国有化などを実現する。1908年5月15日、第10回衆議院議員総選挙において、政友会は過半数を確保する。しかしこの直後、赤旗事件が発生、内閣の社会主義取り締まりの不備が山縣ら藩閥陣営から攻撃を受け、西園寺は総辞職を決意。後継には桂を奏請し、7月12日、第2次桂内閣が発足する。第2次桂内閣では、当初は野党の立ち位置であったが、1906年に憲政本党(衆議院第2党)を中心に非政友会党派の合同の機運が持ち上がると(のちに立憲国民党が結党される)、桂首相の求めによって、政友会は与党復帰する[30]。
以降、再度の政権授受について、桂と原の間で交渉がもたれたが、1910年に大逆事件が明るみに出たことにより、西園寺内閣を攻撃した藩閥はメンツを失い、原は桂の政界引退の言質を取る。1910年8月30日、第2次西園寺内閣が成立する。1912年5月15日、第11回衆議院議員総選挙では、引き続き過半数を維持する。
1912年11月、二個師団増設問題が懸案として持ち上がる。これが、政界復帰を賭けた桂内大臣の陰謀が絡んでこじれ、西園寺内閣は総辞職する。変わって組織された第3次桂内閣は、桂が独自の政党の結成を企図して政友会との連携を解消したため、桂園連携は崩れる。野党に転じた政友会は立憲国民党ら他党とともに倒閣に突っ走り、第3次桂内閣は短期間で崩壊。西園寺も総裁を辞任、前後して松田が急死したため、原が後継の総裁となる(大正政変)。
原総裁の時代
編集次いで成立した第1次山本内閣は、当初は閣外協力の予定であったものを西園寺のすすめにより与党として参画。閣僚全員が政友会員ないし原総裁と近しい人間という、事実上の政友会内閣となった。
その後、第2次大隈内閣では野党に転じるが、大正デモクラシーの波にのって成長し、1918年米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。
大正時代の政友会は、原敬を核として山本達雄、水野錬太郎、高橋是清ら伊藤博文系の政治家や非山縣有朋系官僚等を中心にして当時議会の多数派を占めていた大政党であり、「積極政策」を政策の目玉とし、地方利益の獲得を党勢拡大の梃子にしていた。ただ、原敬の歿後、党内で党人派=総裁派(高橋是清、尾崎行雄、野田卯太郎、横田千之助、小泉策太郎、小川平吉、岡崎邦輔ら)と官僚派=非総裁派(山本達雄、床次竹二郎、中橋徳五郎、元田肇ら)の対立傾向が先鋭化し始めていた。
分裂(第1次)と合同
編集原総裁のもとでは表面化しなかった内部対立が後継の高橋是清総裁の時代になると顕在化していった。対立の構図は、官僚系メンバー(中橋徳五郎・元田肇など)と自由党系メンバー(横田千之助・望月圭介など)の争いであった。また普通選挙を求める立憲労働党や期成同盟会、青年改造連盟、小石川労働会、博文館、大進会の活動も活発であり、1920年2月12日には政友会門前などで5万人を動員した集会が開催されたこともあった[31]。
第45回帝国議会後に内閣改造を企画した高橋首相は、1921年(大正10年)5月2日の閣議で内閣改造を提案するも、元田鉄相・中橋文相の反対にあい、更に翌日の閣議では山本農相も反対に回ったため一度は断念した。続く、6月5日には政友会の議員総会で総裁一任を決議して閣僚に辞表を求めた。山本農相・床次内相・野田逓相は辞表提出に同意したが、元田鉄相・中橋文相は内閣改造にあくまでも反対したため高橋内閣は総辞職することとなった。高橋や横田の内閣改造派は、非改造派の元田・中橋・木下・吉植・田辺・田村の6人を除名した。除名者が復党したのは半年後の12月のことであった。
高橋後に組閣したのは加藤友三郎であった、政友会が衆議院の第一党であるにもかかわらず政権を失ったことについて党を主導した横田への批判が高まり、1922年(大正11年)9月3日付けの『神戸新聞』には「政友本党」の名で新党設立の動きがあることが報道された。加藤内閣の後も第2次山本内閣が続き、政友会には政権が回ってこなかった。このため1923年(大正12年)12月からの第47回帝国議会(臨時会)で政友会内に改革運動として再度紛糾が起き、改革派の山本・元田・中橋が総務委員に加わることで妥協を見た。山本後の内閣についても選挙管理内閣の意味合いもあって枢密院議長の清浦奎吾を首班とする清浦内閣が成立し、政友会は衆議院第一党のまま都合三度の政権を逃した。清浦は1924年(大正13年)1月1日に大命を拝受し、2日から組閣に入り、貴族院最大会派の研究会へ協力を要請した。当初、政友会では衆議院の議席を背景に床次と横田を通じて数名の閣僚を要求することで清浦が組閣を断念することに期待した。清浦内閣の組閣が難航する中、政友会改革派は高橋を引退させ、研究会とともに清浦内閣に協力し、床次を政友会総裁にして副総理格で入閣させることを企画した。折しも当時、高橋は総裁を辞任する決心を一度は漏らしていたが、小泉策太郎の説得で翻意して清浦内閣には野党の立場をとることを決めた。この高橋総裁続投の結果が政友会の分裂をもたらすこととなった。当初、横田や小泉は脱党者を少数と見積もっており、衆議院第一党は確保され、むしろ結束を固める良い機会だと見込みを立てていた。横田の予測では脱党者は20人から30人、多くても50人と推測していた。政友会幹部の中には脱党者を100人前後と予測していた者もおり、例えば松野鶴平は脱党者130人前後、残留組110人、去就不明者37人を予測した。また、小泉は脱党者130人、残留組150人程度であり、原前総裁の後継党であるという正当性もあるため、来たる選挙では160~180議席を獲得して比較第一党を維持可能と考えた。15日には清浦内閣反対を決定し、高橋総裁は爵位を子に譲り平民となって[注 3]総選挙へ出馬することを宣言した。これを受け、政友会改革派は分裂を決心し、政友本党を結成して清浦内閣の与党を構成した。床次は最後まで迷っており、16日午後の岡崎邦輔の説得によって一時は政友会に踏みとどまって高橋と進退を共にすることを誓い、脱党組を説得しようとしたが逆に再度の説得をうけて脱党することとなった。16日夜、改革派の山本・元田・中橋・床次は脱党届を高橋総裁に提出し、結局過半数上の148人が政友会から分裂して政友本党を結成することとなった。29日、帝国ホテルで政友本党の結成式が行われた。第48回帝国議会の開始時に第一党は政友本党(150議席)であり、少数となった第二党の政友会(139議席)は18日に三浦梧楼宅で憲政会(103議席)・革新倶楽部(43議席)と会談し、護憲三派を形成して倒閣運動を開始した。清浦内閣では選挙権の拡大について選挙法改正に取り組んだが、独立生計を持つものについて大正17年(1928年、実際には大正天皇崩御により昭和3年)5月からの施行を目指したものであった。これが野党の攻撃の的となり、1924年(大正13年)1月31日に内閣不信任案が提出され議場に極度の混乱をもたらしたため、政府は衆議院の解散を行った。一般的に護憲三派は普通選挙を推進していたとされるが、個別に見れば政友会では従前の経緯もあり普通選挙は推進していなかったのに対し、与党の政友本党では普通選挙をスローガンとしていた。[32]
関東大震災の影響で選挙人名簿の整備が遅れたため総選挙は解散から100日後の5月10日に投票が行われた。総選挙では与党の政友本党(114議席、第二党)および護憲三派のうち政友会(101議席、第三党)と革新倶楽部(30議席、第四党)がともに議席を減らし、憲政会(153議席、第一党)が躍進した。政友本党では総務の中橋徳五郎が落選をした。政友会では選挙によって第一党となるか、または革新倶楽部と合同することで第一党を狙っていたが当てが外れ、高橋総裁の責任問題であったが後継者難によって総裁は続投された。この間に、政友本党の床次総裁は5月23日に密かに松本剛吉と会談を行い、80人を率いて政友会復帰を果たしたいので横田千之助への交渉を依頼した。松本は西園寺公望と相談のうえ、極秘裏のまま留保することとした。このため床次派の政友会復帰は流れ、逆に反床次派による政友会復帰運動が起こった。5月25日、西園寺公望と会談した清浦首相は総選挙の結果を受けて議会運営が難しくなったため総辞職を申し出たが、西園寺の助言で選挙結果=政権交代が前例となるのを避けるために内閣不信任案が提出されてからの総辞職をすることとなり、辞職は6月7日となった。この間、政友会では小泉策太郎が政友会・革新倶楽部・政友本党を連合させる反憲政会運動を画策し、また清浦内閣側でも大木遠吉が政友会と政友本党の多数派合同による居座り工作がなされたがいずれも成功しなかった。9日、西園寺は衆議院第一党の憲政会党首加藤高明を首相に推奏した。加藤は最終的に護憲三派で内閣を構成したが、組閣時に政友会のポスト要求を拒むために政友本党との連立をほのめかした。政友会では党務を処理していた横田千之助が司法大臣に就いたため、野田卯太郎を新設の副総裁とした。総選挙で敗れた政友本党では、今まで設置していなかった党首ポストを設け、当初山本達雄を推戴しようとしたが山本が固辞したため、床次竹二郎が総裁に収まった。
護憲三派による加藤高明内閣が成立して間もない1924年(大正13年)8月には政友会の岡崎邦輔たちは加藤内閣で根本的な財政整理ができない場合にはより一層強力な内閣が必要であり、政友会と政友本党を合同させて陸軍大将の田中義一を総裁とすることを企画した。この計画は秋にも合同があり得るとの話であったが、高橋総裁の反対にあって頓挫した。1924年(大正14年)、第50回帝国議会では加藤高明内閣により普通選挙案が提出されると、政友会への復帰が図られたが政本合同運動は破綻し、復帰派による五月雨式脱党が起き、12月29日には鳩山一郎や中橋徳五郎など22名が政友会へ合流した。1926年(大正15年)1月20日の政友本党の党大会では顧問の川原茂輔などの引き締めもありなお、80人以上を擁してキャスティング・ボートを握る第三党路線を堅持した。8月、護憲三派の連立が崩れて憲政会単独内閣(いわゆる第2次加藤高明内閣)が成立した後は、政友本党が衆議院におけるキャスティング・ボートを握る展開となる。当初は政友会との合同の機運が高まり(政本合同問題)、田中政友会総裁と床次政友本党総裁の会談により提携の申合せ書が作成されたが、床次は合同には消極的であり、12月の第51帝国議会では衆議院の常任委員長ポストの割り振りをめぐって交渉が決裂した。こうした動きの中で12月29日、中橋徳五郎・鳩山一郎ほか合同促進派22名が脱党し、翌年2月にその多くが政友会に復党した。1927年(昭和2年)2月25日には憲政会と政友本党の連合(いわゆる、憲本提携)が成立し立憲民政党が政権を取ったが、政友会は切り崩しを行い、杉田定一・元田肇・川原茂輔など30名を脱党させ政友会に合流させた。昭和金融恐慌がおき、第1次若槻内閣が総辞職すると、代わって立憲政友会総裁の田中義一が内閣を組閣した。田中総裁の頃から、在郷軍人会が田中の影響で政友会の支持団体に加わるなど「政友会の親軍化」がいわれるようになる。
二大政党の時代
編集昭和に入ってからの政友会は民政党と交替で数年間にわたって政権を担うこととなる。民政党の浜口雄幸首相が1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議に積極的な姿勢をみせたため、民政党追い落としを画策して統帥権干犯問題を提起するが、これが軍部を勢いづけて軍部台頭の一因になる[33]。1932年(昭和7年)に五・一五事件で自党の犬養毅首相を軍人に暗殺された後、「政党内閣で首相の死去による内閣総辞職の場合は後継の与党党首に大命が降下する」という「憲政の常道」が否定され齋藤内閣が成立し政権を逃す。1936年の総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫し、民政党、社会大衆党の躍進を許した。その後親軍的保守的性格から反ファッショ姿勢に一時的には転換し1937年(昭和12年)浜田国松のいわゆる「腹切り問答」に代表されるような事例もあったものの、盧溝橋事件に端を発する日中戦争の拡大以後は戦争に協力する姿勢に戻った。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助と中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。
分裂(第2次)と解党
編集1937年(昭和12年)、鈴木の総裁辞任後、鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄・中島知久平の4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となったが、1939年(昭和14年)4月30日中島は一方的に「政友会革新同盟」を結成してその総裁となった。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島の革新同盟総裁就任2日前に新たに久原房之助・三土忠造・芳澤謙吉の3名を政友会の総裁代行委員に任命した[34]。ここに政友会は、
の2派に分裂した。この分裂を、大正末期の政友本党結党にともなう分裂(第一次分裂)との対比で、第二次分裂と呼ぶこともある。
正統派は5月20日臨時党大会を開き、鈴木前総裁の指名という形式で久原を総裁とすることを決定[34]、一方の革新派は旧昭和会の望月圭介・山崎達之輔ら政友会出身者を合流させた。またこの分裂の際に、正統派・革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫・犬養健・太田正孝らは中立派を結成、翌1940年(昭和15年)には折からの斎藤隆夫除名問題で斎藤除名を支持して正統派内で孤立した議員がこの中立派に合流し、以後は「統一派」を名乗った。
- 中立派 - 金光派とも(金光・犬養・太田らが中心)→ 統一派に発展
第二次分裂時、党機関紙『政友』や党史の編集部門は革新派に握られていた。そのため解党後の1943年(昭和18年)に完成した『立憲政友会史』では、中島を正式な政友会第8代総裁としている。一方正統派は新たに党機関誌『立憲政友』を発行、久原を正統な政友会第8代総裁としてこれに対抗した。
しかし同年7月16日には66名を擁する正統派と10名を擁する統一派が解党、7月30日には97名を擁する革新派も解党して大政翼賛会に合流、ここに伊藤博文の結党から40年の歴史を持つ政友会は名実共に消滅するに至った。
解党後の旧政友会所属議員の行動
編集解党1年前の第2次分裂でほぼ二分された政友会に所属していた議員の行動は解党前に所属していたグループにより各々分かれた。その中でも親軍派である革新派及び人数的には少数派の中立派→統一派に所属していた議員は翼賛議会の下でも主流派である翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会に所属し[35]、戦後は日政会を母体として結党された日本進歩党に参加した[35]。一方翼賛政治に批判的だった鳩山派と親軍派でありながら革新派への対抗意識から鳩山派と行動をともにした久原派からなる正統派の場合はより複雑だった。鳩山派は翼賛議員同盟の結成には参加せず、1941年(昭和16年)8月2日に国勢調査会を結成し[36]、国勢調査会を母体として同年11月10日に同交会を結成した[36]。同交会所属議員で翼賛選挙に出馬した者は全員翼賛政治体制協議会の非推薦候補だったため政府によって徹底的に妨害を受け[37]、当選者はわずか9名に終わり[38]、翼賛選挙後の1942年(昭和17年)5月14日に解散した[38]。同交会は解散後親睦団体の後楽会に衣替えし[38]、さらに思斉会と改名した後[39]、戦後日本自由党結党の母体となった[40][41]。同じく正統派所属者でも久原派の議員は鳩山派の議員が主に参加した同交会を母体とする自由党の結党にも革新派・統一派の議員が主に参加した日政会を母体とする進歩党の結党にも参加せず[42]、敗戦した日本の政治家が自らの政治責任を明らかにしない中で政党の再建に進むことは妥当ではない[43]、寧ろ衆議院議員は敗戦の責任を負って総辞職すべきであるとの考えから護国同志会に所属していた議員や翼壮議員同志会に所属していた議員らとともに院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した[43]。
幹部人事
編集歴代総裁一覧
編集代 | 総裁 | 在任期間 | |
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1 | 伊藤博文 | 1900年(明治33年)9月 - 1903年(明治36年) | |
2 | 西園寺公望 | 1903年(明治36年) - 1913年(大正2年) | |
3 | 原敬 | 1914年(大正3年) - 1921年(大正10年) | |
4 | 高橋是清 | 1921年(大正10年) - 1925年(大正14年) | |
5 | 田中義一 | 1925年(大正14年)4月 - 1929年(昭和4年)9月 | |
6 | 犬養毅 | 1929年(昭和4年)10月 - 1932年(昭和7年)5月 | |
7 | 鈴木喜三郎 | 1932年(昭和7年)5月 - 1937年(昭和12年)2月 |
代 | 総裁代行委員 | 在任期間 | |
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- | 鳩山一郎 | 1937年(昭和12年)2月 - 1939年(昭和14年)4月30日 | |
前田米蔵 | |||
島田俊雄 | |||
中島知久平 |
代 | 総裁 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
1 | 中島知久平 | 1939年(昭和14年)4月30日 - 1940年(昭和15年)7月30日 |
代 | 総裁代行委員 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
- | 久原房之助 | 1939年(昭和14年)4月30日 - 1939年(昭和14年)5月20日 | |
三土忠造 | |||
芳澤謙吉 |
代 | 総裁 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
1 | 久原房之助 | 1939年(昭和14年)5月20日 - 1940年(昭和15年)7月16日 |
副総裁
編集幹事長
編集- 原敬 (1900年(明治33年)12月19日 - 1900年(明治33年)12月22日)[44]
- 末松謙澄 (1903年(明治36年)5月1日 - 1903年(明治36年)12月3日)[44]
- 久我通久 (1903年(明治36年)12月3日 - 1904年(明治37年)3月31日)[44]
- 原敬 (1904年(明治37年)3月31日 - 1905年(明治38年)3月1日)[44]
- 菊亭修季 (1905年(明治38年)3月1日 - 1905年(明治38年)10月8日、在任中死亡)[44]
- 児玉淳一郎 (1906年(明治39年)3月31日 - 1907年(明治40年)3月29日)[44]
- 元田肇 (1907年(明治40年)3月29日 - 1908年(明治41年)3月28日)[44]
- 長谷場純孝 (1908年(明治41年)3月28日 - 1908年(明治41年)12月24日)[44]
- 杉田定一 (1908年(明治41年)12月24日 - 1910年(明治43年)3月15日)[44]
- 伊藤大八 (1910年(明治43年)3月25日 - 1911年(明治44年)3月24日)[44]
- 奥繁三郎 (1911年(明治44年)3月24日 - 1912年(明治45年)3月25日)[44]
- 野田卯太郎 (1912年(明治45年)3月29日 - 1913年(大正2年)3月29日)[44]
- 松田正久 (1913年(大正2年)3月29日 - 1914年(大正3年)3月5日、在任中死亡)[44]
- 村野常右衛門 (1913年(大正2年)3月29日 - 1914年(大正3年)3月27日)[44]
- 永江純一 (1914年(大正3年)3月27日 - 1915年(大正4年)5月15日)[44]
- 小川平吉 (1915年(大正4年)5月15日 - 1916年(大正5年)3月1日)[44]
- 江藤哲蔵 (1916年(大正5年)3月1日 - 1917年(大正6年)6月19日)[44]
- 横田千之助 (1917年(大正6年)6月19日 - 1918年(大正7年)10月1日)[44]
- 望月圭介 (1918年(大正7年)10月1日 - 1920年(大正9年)7月31日)[44]
- 広岡宇一郎 (1920年(大正9年)7月31日 - 1922年(大正11年)3月27日)[44]
- 横田千之助 (1922年(大正11年)3月27日 - 1922年(大正11年)6月15日)[44]
- 望月圭介 (1922年(大正11年)6月15日 - 1924年(大正13年)2月1日)[44]
- 岩崎勲 (1924年(大正13年)2月1日 - 1925年(大正14年)4月1日)[44]
- 前田米蔵 (1925年(大正14年)4月1日 - 1926年(大正15年)3月27日)[44]
- 鳩山一郎 (1926年(大正15年)3月27日 - 1927年(昭和2年)4月16日)[44]
- 山本条太郎 (1927年(昭和2年)4月16日 - 1927年(昭和2年)7月19日)[44]
- 秦豊助 (1927年(昭和2年)7月19日 - 1928年(昭和3年)5月25日)[44]
- 島田俊雄 (1928年(昭和3年)5月25日 - 1929年(昭和4年)4月28日)[44]
- 森恪 (1929年(昭和4年)4月28日 - 1931年(昭和6年)3月29日)[44]
- 久原房之助 (1931年(昭和6年)3月29日 - 1932年(昭和7年)3月27日)[44]
- 山口義一 (1932年(昭和7年)3月27日 - 1934年(昭和9年)3月27日)[44]
- 若宮貞夫 (1934年(昭和9年)3月27日 - 1935年(昭和10年)3月28日)[44]
- 松野鶴平 (1935年(昭和10年)3月28日 - 1936年(昭和11年)5月28日)[44]
- 安藤正純 (1936年(昭和11年)5月28日 - 1937年(昭和12年)5月11日)[44]
- 松野鶴平 (1937年(昭和12年)5月11日 - 1938年(昭和13年)3月28日)[44]
- 砂田重政 (1938年(昭和13年)3月28日 - 1939年(昭和14年)5月1日)[44]
- 政友会革新派 田辺七六 (1939年(昭和14年)5月 - 1940年(昭和15年)3月)[44]
- 政友会革新派 東郷実 (1940年(昭和15年)3月 - 1940年(昭和15年)7月)[44]
- 政友会正統派 岡田忠彦 (1939年(昭和14年)5月 - 1940年(昭和15年)7月)[44]
総務委員
編集- 伊藤総裁期
- 西園寺総裁期
- 原総裁期
- 高橋総裁期
- 田中総裁期
- 総裁空位・森恪幹事長期
- 犬養総裁期
- 鈴木総裁期
- 総裁代行委員期
- 分裂期 革新派
- 分裂期 正統派
- 安藤正純、植原悦二郎、若宮貞夫、松野鶴平など[45]
最高顧問
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 宇野 1991, p. 978
- ^ a b 宇野 1991, p. 1073
- ^ 井上 2012, pp. 223–224
- ^ 井上 2012, pp. 224–225
- ^ Urs Matthias Zachmann, ed (2017). Asia after Versailles: Asian Perspectives on the Paris Peace Conference and the Interwar Order, 1919-33. Edinburgh University Press
- ^ The Linkage Between Domestic and International Conflict: The Case of Japanese Foreign Policy, 1890-1941. University of Michigan. (2004). p. 267
- ^ 大辞林 第三版 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
- ^ a b Rikken Seiyūkai political party, Japan. Britannica.com. 2019年3月18日閲覧。
- ^ 井上 2012, p. 48
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
- ^ 井上 2012, p. ii
- ^ 井上 2012, p. 112
- ^ 井上 2012, pp. 7, 84
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 中央新聞 コトバンク. 2018年10月4日閲覧。
- ^ 青野権右衛門 (1935). 日本政党変遷史. 安久社. p. 148. doi:10.11501/1079277 2020年1月1日閲覧。
- ^ 井上 2012, pp. i, iii
- ^ “せいゆうかい【政友会】”. コトバンク. 平凡社『世界大百科事典 第2版』. 2019年12月11日閲覧。
- ^ a b c 季武嘉也・武田知己編 『日本政党史』 吉川弘文館、2011年、94-95頁。ISBN 978-4-642-08049-1。
- ^ a b 井上 2012, p. i
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- ^ 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年10月4日閲覧。
- ^ a b 井上 2012, pp. 107–108
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- ^ 升味, pp. 456–468.
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- ^ 升味, pp. 34–35.
- ^ 「政友会門前で警官と大衝突 立憲労働党日本労働組合の一団 壮士と門内で争闘す 検挙十九名に上る」。大阪朝日新聞 1920年(大正9年)2月12日。神戸大学新聞記事文庫。
- ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政権再編」2010年(『桃山法学』第15号)
- ^ 近代発 見果てぬ民主Ⅷ <10> 統帥権干犯 軍縮条約反対 倒閣の材料に | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター
- ^ a b 『昭和の政党』、356-357頁。
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- ^ 『占領と民主主義』、99-100頁。
- ^ 第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説 - 歴史学者・古屋哲夫の公式サイト・古屋哲夫の足跡内のページ。
- ^ a b 『戦時議会史』、538-539頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 『日本官僚制総合事典 1868-2000』
- ^ a b c d e f g h i j k l 村川一郎編『日本政党史辞典 下』2000年、国書刊行会
- ^ 總選擧に面して大阪朝日新聞記事 1924年(大正13年)2月2日
- ^ 現内閣を攻める時期は既に過ぎ去った大阪朝日新聞記事 1927年(昭和2年)4月17日
参考文献
編集- 井上寿一『政友会と民政党:戦前の二大政党制に何を学ぶか』中央公論新社〈中公新書〉、2012年。ISBN 978-4-12-102192-2。
- 宇野俊一ほか編『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年。ISBN 4-06-203994-X。
- 奥健太郎 編 『昭和戦前期立憲政友会の研究 党内派閥の分析を中心に』 慶應義塾大学出版会、2004年(平成16年)7月30日、ISBN 978-4-7664-1092-1。
- 粟屋憲太郎 著 『昭和の政党』(文庫版 昭和の歴史 第6巻)小学館、1988年(昭和63年)11月1日、ISBN 4-09-401106-4。
- 神田文人 著 『占領と民主主義』(文庫版 昭和の歴史 第8巻)小学館、1989年(昭和64年)1月1日、ISBN 4-09-401108-0。
- 中谷武世 著 『戦時議会史』民族と政治社、1974年(昭和49年)。
- 秦郁彦 編 『日本官僚制総合事典 1868-2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)11月、ISBN 978-4-13-030121-3。
- 升味準之輔『新装版 日本政党史論 2』東京大学出版会、東京都文京区、2011年12月15日。ISBN 978-4-13-034272-8。
関連文献
編集- 立憲政友会史 第1巻: 伊藤総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1924年)
- 立憲政友会史 第2巻: 西園寺総裁時代:前編 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1924年)
- 立憲政友会史 第3巻: 西園寺総裁時代:後編 - Google ブックス(立憲政友会史出版局、1925年)
- 立憲政友会史 第4巻: 原総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史出版局、1926年)
- 立憲政友会史 第5巻: 高橋總裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1933年)
- 立憲政友会史 第6巻: 田中総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1933年)
- 立憲政友会史 第7巻: 犬養総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1933年)
関連項目
編集- 交友倶楽部 - 原敬らの画策により結成された貴族院の政友会系会派。実質的に貴族院における政友会の別働隊となった。
- 中央新聞 - 政友会系の新聞。政友会によって買い取られ、事実上の政友会機関誌として編集されていた。
- 立憲政友会本部放火事件