柳家小さん (5代目)

日本の落語家

五代目 柳家 小さん(やなぎや こさん、1915年1月2日 - 2002年5月16日)は、長野県長野市出身[1]落語家であった。剣道家俳優としても知られた。本名:小林 盛夫。出囃子は「序の舞」。1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。位階は従五位剣道の段位範士七段。

五代目 柳家やなぎや さん
五代目 柳家(やなぎや) 小(こ)さん
1954年
本名 小林 盛夫
生年月日 1915年1月2日
没年月日 (2002-05-16) 2002年5月16日(87歳没)
出身地 日本の旗 日本長野県長野市
死没地 日本の旗 日本東京都豊島区
師匠
弟子
名跡
出囃子 序の舞
活動期間 1933年 - 2002年
活動内容 古典落語
家族
所属 落語協会
受賞歴
備考
  • 落語協会会長
    (1972年 - 1996年)
  • 落語協会最高顧問
    (1996年 - 2002年)

家族

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来歴・人物

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落語

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滑稽噺こっけいばなしをもっぱら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で、1960年代には落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸は有名であり、日本一であるとの声が多い。本人も蕎麦を実際に食する際は、職業柄周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたらしく、最晩年になってから、「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。

性格は非常に穏やかで、真打昇進の制度を作ったのは「落語家の生活がよくなるように」 という願いからであった。そのため真打制度への見解の相違から6代目三遊亭圓生らが落語協会を脱退した時は「話し合いにも来ないで」と感じていたという。弟子が居ない時は一人で掃除や洗濯をするなど苦労を惜しまない性格で、大御所でありながら情にもろく、周囲の意見をよく聞くという面があった。一方でそれらが災いし、協会分裂騒動や真打昇進試験の是非を巡る混乱につながったという指摘がある[要出典]

永谷園即席みそ汁「あさげ」のテレビ広告で発売当初から人気を博した。また、墓所・墓石業の須藤石材のテレビ広告と広告で長らく活躍した。永谷園と須藤石材のテレビ広告は死後、孫の花緑が跡を継いでいる。

墓の案内看板に「これより二つ目 柳家小さん」と書かれていた。墓の位置を示したものが、落語用語の二つ目を連想させたため、これをネタにした落語家もいた。現在は「二基目」と書き直されている。息子の6代目小さんは、「初々しくて良いのではないか」というニュアンスの発言を著書でしている。

剣道家として

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13歳の頃から剣道を学んだ。麹町高等小学校では剣道部副将として東京市剣道大会で優勝[2]。職業剣道家を目指すが中耳炎で断念した。生涯を通じて剣道を続け、範士七段まで昇段した。剣道専門誌の『剣道日本』の記事にたびたびなっており、「落語と剣道、どっちが好きかって聞かれたら、剣道って言いますよ」と語ったことがある[要文献特定詳細情報]

財団法人東京都剣道連盟の顧問を務め、自宅を改装して道場を作り、弟子たちに剣道を教えた。弟子の一人、柳家小団治は現在剣道七段である。

剣道の他に居合道二天流剣術を学んでおり、広く剣術に造詣が深かったといえる。

逸話

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本名が同じ「こばやし もりお」である縁で、八代目三升家小勝(表記は小林守巨)によく稽古をつけていた。

弟子である四代目桂三木助の本名は小さんと完全に同姓同名の「小林盛夫」であるが、これは四代目三木助の父である三代目桂三木助(本名:小林七郎)と小さんが義兄弟の杯を交わすほどの大親友であり、三代目三木助が息子に「小さんのようになって欲しい」との願いを込めて同じ名前を付けたためである。なお、四代目三木助の入門後は全くの同姓同名であるために郵便物の取り違えが多発したという。

小三治時代、落語芸術協会から移籍をもちかけられたが、それを阻止するために落語協会香盤を引き上げた。八代目桂文楽は、自身の総領弟子の六代目三升家小勝の一つ上でもよいといったが、さすがにそれでは小勝が可愛そうだという六代目三遊亭圓生の意見で、小勝の一つ下という位置になった。

同じく人間国宝である三代目米朝と「落語国宝二人会」を開催したり、息子の柳家三語楼(現:六代目柳家小さん)・孫の柳家花緑と親子三人会をやったことがある。

米朝が人間国宝に認定されたとき、記念番組で「落語界の今後のために、互いに精進していこう」と祝いのコメントを出した。その後、前述の落語会やいくつかの番組で共演をしている。

小さんが人間国宝に認定された際、日本テレビ系番組『進め!電波少年』において「人間国宝を磨きたい!」(1995年4月30日放送分)という企画で松村邦洋がアポなしで自宅を訪問して来たが、小さん自らこれに対応したところ突如として松村により頭を手拭いで磨かれた。

東京都豊島区目白に在住していたことから「目白の師匠」という通名があった[3]

宗旨は本門佛立宗で、弟子が掃除などのために家に来たとき、仏壇の前でお題目を唱えていたという。五代目小さんの墓所は東京都世田谷区の乗泉寺世田谷別院にある[4]

1991年9月、幸福の科学が代表・大川隆法に関する雑誌『FRIDAY』の記事の内容に抗議して講談社前でのデモや訴訟などを起こした際(講談社フライデー事件)、家にフライデー編集部と誤認した(電話番号が似ていたためと思われる)会員からの抗議電話がひっきりなしにかかってきて対応に苦慮したことをフジテレビTHE WEEK』のカメラに語った。この時、番組にスタジオ生出演していた会員の景山民夫はカメラに向かって平謝りしていた[要出典]

1996年、高座の合間に上野広小路でマッサージを受けている最中に脳梗塞を発症した。この時、たまたま同室の客が東京大学の医師で迅速な対処を受けることができたため、後遺症が比較的軽く済んで高座に復帰することができた。弟子の鈴々舎馬風は新作落語『会長への道』でこの一件に触れ、「ツイてる男は違う」と評している。現在も同作に限らず、マクラでこのエピソードを語ることが多い。救急車の中で「高速は使うな、No高速(のうこうそく)」と言った、とネタにしているが真偽は不明である。

最晩年まで入れ歯を用いず、自分の歯であることが自慢のひとつであった[5]

死去前夜「ちらし寿司が食べたい」と言い、寿司屋から取り寄せて夕食に食べ、「明日は、いなり寿司が食べたい」と言って寝室に行った。翌朝長女が起こしに行って異変に気がつく[6]。夜中に心臓発作を起こして亡くなっていたという大往生だった[7]

得意ネタ

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余芸で百面相も披露していた。

経歴

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柳家小きん時代。生代子夫人と
 
5代目柳家小さん一門定紋
剣片喰けんかたばみ

実父は、東京都五日市町(現在のあきる野市)出身で養蚕家であったが、長男ではなかったため家を出る。長野市で紡績業、次いで金融業を営むも破産し、東京府浅草に戻った。関東大震災の被災を免れた一家は丸の内に転居[2]。日比谷尋常小学校から麹町高等小学校に入学(いずれも現在の千代田区立麹町小学校[2]。ここでは剣道部の副将として東京市剣道大会で優勝している[2]。卒業後は夜間学校の東京市立商業学校に入るが後に中退し[2]、法律事務所の事務員として働きながら落語家を目指した。

1933年6月、四代目柳家小さんに入門する。四代目は人のあだ名を考えるのが巧かったのであるが、五代目小さんには、「おまえは栗ににているから」と、「柳家栗之助」と名付けた。

前座時代の1936年歩兵第3連隊に徴兵され、二等兵となる。同年2月26日に起こった二・二六事件では、決起部隊である野中四郎隊の重機関銃兵として警視庁占拠に出動した。小さんや同僚兵士は事前にまったくクーデター計画を知らされず、当日出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃねえんだな」と思った。反乱部隊の屯所に畑和(後の埼玉県知事)らとともに詰めていたが、むしろ「騒ぎを起こす者がいるので、自分たちは警備のため出動した」と聞かされていた。しかしおいおい事情が伝わり、知らぬうちに自分たちが反乱軍になっていると知って意気阻喪気味の兵士を見た指揮官に「士気高揚に一席やれ」と命令された。持ちネタの『子ほめ』を演じたが、「えらいことしちゃった」と気落ちしている兵士たちは笑うわけがない。「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから」と返した、という(本人の回顧談[要文献特定詳細情報]より)。

1939年3月、除隊され、二ツ目に昇進。柳家小きんに改名。この頃、三代目三遊亭歌笑四代目柳亭痴楽と共に「若手三羽烏」と呼ばれる。1942年に生代子夫人と結婚。1943年に長女の喜美子が誕生するも再徴兵される。翌年5月に復員。

1947年真打昇進、九代目柳家小三治を襲名。真打昇進興行中に、師匠・四代目小さんが急死したため八代目桂文楽の預かり弟子になる。1950年9月、五代目柳家小さんを襲名。

1962年芸術祭賞奨励賞を、1967年に芸術祭賞奨励賞を受賞。1972年六代目三遊亭圓生の後任で落語協会七代目会長に就任。1977年12月にはそれまで任意団体であった落語協会を社団法人化し、正式名称を社団法人落語協会とする。

1978年12月、生代子夫人が死去。1980年紫綬褒章を受章。1983年に第12回日本放送演芸大賞功労賞を受賞。真打昇進試験制度の結果を引き金に落語協会を脱退した七代目立川談志を破門する。

1984年都民文化栄誉章を、1985年勲四等旭日小綬章を受章。1986年日本酒大賞を、1987年に第38回NHK放送文化賞を、1989年浅草芸能大賞を、1993年に第13回伝統文化ポーラ賞大賞を受賞。

1995年5月31日、落語家初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。同年豊島区名誉区民賞を受賞。また、胆のう炎で入院するが克服する。

1996年2月、脳梗塞のため入院。療養ののち高座に復帰するが、以後入浴などに介助が必要な障害が残った。障害を克服するため、剣道や居合の稽古をより行うようになったという。8月1日にほぼ四半世紀務めた落語協会会長を退任し、落語協会最高顧問に就任する。1999年10月1日、東京都名誉都民となる。2002年2月2日、鎌倉芸術館での「親子三人会」にて『強情灸』を演じ、これが生前最後の高座となった。

2002年5月16日午前5時ごろ、心不全のため87歳で死去。死没日をもって従五位に叙される。戒名本行院殿法勲語咄日盛居士ほんぎょういんでんほうくんごとつにちじょうこじ。「落語という話芸で人々に大きな喜びを与えた大きな存在」という意味がある。墓所は世田谷区乗泉寺世田谷別院[4]

2008年には、かつて出演していた永谷園のテレビCMで、生前の映像を使用し孫の花緑と共演した。2009年には、生前の高座写真が大きく使われたサントリーの新聞広告(撮影:横井洋司)が準朝日広告賞を受賞している[8]

芸歴

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役職

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  • 1972年 - 落語協会会長となる。
  • 1996年 - 会長職を勇退、落語協会最高顧問となる。

出演作品

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テレビドラマ

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映画

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著書

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  • 『柳家小さん集』上下 東京大学落語研究会OB会編 青蛙房 1966-67
  • 『小さん落語集』旺文社文庫 1987
  • 『古典落語 小さん集』(1990年、ちくま文庫) ※編集:飯島友治ISBN 978-4924725218
  • 『咄も剣も自然体』(1994年、東京新聞出版局) ISBN 978-4808304782
  • 『五代目柳家小さん落語全集』小学館 CDブック 2000

共著

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  • 『柳家小さん 芸談・食談・粋談』興津要編(大和書房、1975年)
    • 興津との共著として中公文庫、2013
  • 『抱腹絶倒 五代目小さんの昔ばなし』川戸貞吉共著 冬青社 1988
  • 『五代目柳家小さん 芸談』(2003年、冬青社) ※川戸貞吉との共著。 ISBN 978-4887730137

一門弟子

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大らかな性格から多数の門下を抱えた。直弟子、孫弟子、曾孫弟子まで合わせると現在の落語協会では最大の人数を誇り、また東西落語界を合わせても、平成期まで存命であった者の一門としては最多である。現役の者は太字で表記

直弟子数は30名を越え、一門全体では協会加盟の者だけで総勢100名近く、離脱した立川談志一門を含めると140名弱という、極めて巨大な一門といえる。そのためか、近年の落語協会の会長・幹部は小さん一門の弟子が多い(特に会長は9代目以降4人続けて小さんの直弟子が就任した)。

直弟子

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他門下から移籍

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何度かの分裂・離脱騒動や、その逆の落語芸術協会からの流入において、小さん自身がその受け皿となることも多かった。

五代目柳家つばめ門下から

早逝したため孫弟子を門下に受け入れた。

三代目桂三木助門下から
八代目桂文楽門下から
三代目三遊亭金馬門下から
六代目三遊亭圓生門下から
  • 川柳川柳 - 落語協会分裂騒動の際に、圓生に付き従わず破門されたため門下に受け入れた。
落語芸術協会から移籍

鈴本演芸場落語芸術協会の確執から芸術協会が鈴本に出演しなくなり、出番の減少を危惧し移籍した。

二代目桂小南門下から
二代目桂枝太郎門下から

色物

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一門を離れた者

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廃業

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5代目 柳家小さんを演じた俳優

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 対談「映画の制作と裁判」 最高裁判所
  2. ^ a b c d e 柳家小さん「小さん年譜」『CDブック 五代目柳家小さん落語全集』小学館、2000年。ISBN 4-09-480122-7 
  3. ^ 小さん師匠急死で談志、花緑の想い」『ZAKZAK』2002年5月17日。オリジナルの2002年6月5日時点におけるアーカイブ。
  4. ^ a b 小さんさん十三回忌 六代目、小三治、馬風ら墓参り」『スポーツニッポン』2014年5月17日。2014年5月17日閲覧。
  5. ^ 柳家小袁治. “平成14年5月16日未明・柳家小さんは永眠致しました”. http://www.yanagiyakoenji.com/kosanfile.htm. 2022年9月11日閲覧。 “ニコッと笑って見えている歯は自前の歯です。入れ歯が無いのが自慢。”
  6. ^ スポニチアネックス 芸能 記事”. web.archive.org (2002年12月16日). 2022年6月11日閲覧。
  7. ^ 心臓発作のときに出血したらしく枕が血で染まっていた。
  8. ^ 第58回 朝日広告賞(第2部 広告主参加の部)”. 朝日広告賞. 朝日新聞社 (2010年4月7日). 2023年10月28日閲覧。

外部リンク

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