松浦篤信

江戸時代中期の大名。平戸藩第6代藩主

松浦 篤信(まつら あつのぶ)は、江戸時代中期の大名肥前平戸藩の第6代藩主。官位従五位下肥前守

 
松浦 篤信
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年7月16日1684年8月26日
死没 宝暦6年12月3日1757年1月22日
改名 数馬(幼名)、篤信
戒名 松英院殿
墓所 長崎県平戸市雄香寺
官位 従五位下肥前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
肥前平戸藩
氏族 松浦氏
父母 父:松浦鎮信、母:岡氏
養父:松浦棟
兄弟 松平乗政継室、松浦信知室、牧野忠貴正室、南部政信正室、松浦信方養女、板倉重冬正室、頼母、熊沢正令室、篤信、半之丞、仙菊、豊三郎
正室:稲葉正則の娘
側室:池内氏、松村氏、小宮氏、伊藤氏
有信誠信交信雅信義信信桯牧野貞通正室、朝倉豊良室、吉子、松浦斉養女ら11男8女
養子:松平乗薀正室
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略歴

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第4代藩主・松浦鎮信(天祥)の四男。母は岡氏。正室は稲葉正則の娘。側室は池内氏、松村氏、小宮氏、伊藤氏。子に松浦有信(長男)、松浦誠信(次男)、松浦交信(五男)、松浦到(六男)、松浦雅信(九男)、松浦義信(十男)、松浦信桯(十一男)、娘(牧野貞通正室)、娘(朝倉豊良室)、娘(本多忠如正室)、娘(篤信の弟・松浦斉の養女)。

江戸浅草に生まれる。幼名は数馬。元禄9年(1696年)4月6日、兄で5代藩主であった松浦棟の長男・が早くに死去したため、棟の養嗣子となった。同年5月21日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁した。元禄11年8月22日、江戸城の菊間詰めとなる。同年12月15日、従五位下・肥前守に叙任する。宝永元年(1704年)5月28日、養父・棟と共に初めてお国入りする許可を得る。宝永6年4月28日、養父・棟と共に江戸城の柳間詰めに戻される。

正徳3年(1713年)2月11日、養父・棟の隠居により、家督を相続する。藩政においては「田畑割御定法」を制定して農村再編を図り、さらに向後崎番所を設置するなどして藩政改革を図ったが、あまり効果はなかった。棟と違って11男8女という子女に恵まれている。享保12年(1727年)閏1月2日、病気を理由に家督を長男の有信に譲って隠居した。宝暦6年(1756年12月3日に74歳で死去した。法号は松英院殿。墓所は墨田区天祥寺。後に平戸市雄香寺に改葬された。

明治天皇は7世孫である[1]

系譜

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子女は11男8女

脚注

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  1. ^ 篤信-誠信-政信--中山愛子-慶子-明治天皇