松浦誠信

江戸時代中期の大名。平戸藩第8代藩主

松浦 誠信(まつら さねのぶ)は、江戸時代中期の大名肥前国平戸藩の第8代藩主官位従五位下肥前守

 
松浦 誠信
時代 江戸時代中期
生誕 正徳2年3月11日1712年4月16日
死没 安永8年4月29日1779年6月13日
改名 吉松、数馬、誠信
官位 従五位下肥前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
肥前平戸藩
氏族 松浦氏
父母 父:松浦篤信、母:池内氏
養父:松浦有信
兄弟 有信誠信交信雅信義信信桯牧野貞通正室、朝倉豊良室、吉子、松浦斉養女
正室:宮川氏
政信、保、稲垣昭央正室、永井尚俶正室、木下利忠正室、本多忠籌正室、相良頼峯婚約者ら
テンプレートを表示

略歴

編集

第6代藩主・松浦篤信の次男として誕生。幼名は吉松、数馬。

享保13年(1728年)11月7日、第7代藩主で兄の有信の死去に伴い、末期養子として家督を相続した。同年11月15日、第8代将軍・徳川吉宗に謁見する。同年12月21日、従五位下・肥前守に叙任する。享保14年(1729年)2月28日、初めてお国入りする許可を得る。

長男のの死後、後継者は三男の政信と定めていたが、その政信は明和8年(1771年)に自身に先立って死去する。このため、政信の子のを後継者として定めた。安永4年(1775年)2月16日、隠居し、嫡孫のが継いだ。その後、安永8年(1779年)に68歳で病死した。

明治天皇は誠信の来孫に当たる[1]

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ 誠信-政信-清-中山愛子慶子-明治天皇