持田 若佐(もちた[1] / もちだ[2] わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日[3][4])- 1931年昭和6年)2月28日[2][注釈 1])は、明治から昭和初期の神職政治家実業家衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した[1]

持田若佐

経歴

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下野国都賀郡高椅村[1]栃木県[2]下都賀郡絹村[4][5]字高椅[4]、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる[1]。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め[4][6]、栃木県中教院を終えて[1]上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ[1][2][4][5]

1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任[4][6]。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任[1]。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し[1]、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた[2][4][5][6]

1897年(明治30年)野州日報社を設立して社長に就任[2][4][5]。1901年(明治34年)野州石材の設立に参画し監査役に就任した[2][4][5]。その他、阪東鉄道重役、中原鉄道会社重役なども務めた[1]

自由民権運動に加わり、東京倶楽部及関東会評議員に就任[4][6]憲政党支部幹事、立憲政友会支部創立委員、同支部幹事などを務めた[6]。1901年(明治34年)8月、星亨の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙栃木県第1区補欠選挙に出馬して初当選[6][7]。その後、第9回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した[1][2][5]

国政選挙歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』451頁では昭和6年6月28日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『栃木県歴史人物事典』590頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』645頁。
  3. ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十七回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1902年、10頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 初版』1117頁。
  5. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』451頁。
  6. ^ a b c d e f 『新撰衆議院議員列伝』349頁。
  7. ^ a b 『総選挙衆議院議員当選回数調 - 第1回乃至第19回』238頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』22頁。
  9. ^ 『官報』第5484号、明治34年10月11日。
  10. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』13頁。

参考文献

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  • 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『総選挙衆議院議員当選回数調 - 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。