千坂景長
千坂 景長(ちさか かげなが)は、戦国時代の越後の武将。越後以降の上杉家重臣の千坂氏の祖となった千坂景親の父で、上杉謙信の父の長尾為景に仕えた。
時代 | 戦国時代 |
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死没 | 越後 |
別名 | 藤右衛門 |
戒名 | 閑景宗高居士 |
主君 | 上杉顕定→長尾為景 |
氏族 | 千坂氏 |
子 | 千坂景親 |
景長以前の千坂氏
編集千坂氏は15世紀後半に「上杉方被官、長尾、石川、斎藤、千坂、平子、この五人古臣なり」[1]と伝えられているうえ、「上杉家系図・上杉朝房の項」に「朝房の父(上杉憲藤、1338年に足利尊氏方として北畠顕家と摂津渡辺で戦い討死)打討時、家人石川覚道に上杉朝房(幸松四歳)・弟上杉朝宗(幸若二歳)と共に家人千坂子(二歳)が保護され共に鎌倉で成人となった」[2]と記載されていることから、鎌倉時代から南北朝時代初期には上杉氏と行動を伴にしていた。
その後、犬懸上杉家重臣として上杉朝宗の下で武蔵守護代[3][4]、上総守護代[5][6]を務め、上杉禅秀の乱で上杉氏憲と行動を伴にし[7]、1417年犬懸上杉家滅亡11年後(1428年)から越後守護上杉房定・上杉房能の下での越後統治に関する記録に再び名前が見られるようになる[8]。
千坂景長の出自は上杉家御年譜・千坂景親略系に「父は千坂藤右衛門景長と云い 本国関東にて上杉家代々従属四家老長尾、石川、斎藤等也 千坂景長の一男」と記載されている[9]。
長尾為景との関係
編集永正4年(1507年)、長尾為景が越後守護上杉房能を攻め、房能が兄・上杉顕定を頼って関東に逃亡する途中に自害に追い込んだ(永正の乱)。この報復として、永正6年(1509年)に上杉顕定は長尾為景攻めの大軍を起こし、長尾為景を越中国に追放するが、その翌年永正7年(1510年)には長尾為景の反攻により上杉顕定が自害した(長森原の戦い)。千坂氏は上杉家古臣だったが、上杉顕定自害後は他の上杉家家臣と同様、長尾為景の越後統治に協力するようになった。
永正18年(1521年)には長尾為景の一向宗禁止(禁無碍光衆)重臣連署契状に長尾一族(長尾景慶、長尾房景、長尾憲正)と共に上杉家古臣斎藤昌信、石川景重、在地土豪毛利廣春とともに千坂景長の署名がある[10]。このことは、長尾為景が上杉氏の支配機構をそのままの形態で再編成し、越後の支配者になったことを表している[11]。
脚注
編集- ^ 【蔭涼軒日録 長享二年(1488年)七月十日条】
- ^ 【続群書類聚 第六輯下「上杉系図」上杉朝房 p. 70「父打討時、家人石川覚道抱之、于時幸松四歳、幸若二歳、家人千坂子二歳、和久子四歳相従之、共於鎌倉成人」】
- ^ 武蔵守護代「千坂越前守」宛関東管領上杉朝宗書状(覚園寺文書)応永4(1397).7.10、20及び12.3付文書(黄梅院文書)
- ^ 武蔵守護代「千坂越前入道」宛関東管領上杉朝宗書状(鶴岡神主家伝文書、上杉家文書)応永6(1399).11.12
- ^ 上総守護代「千坂弥三郎」宛 武兵庫正忻奉書案 (鶴岡事情日記)応永4(1397)【戸田市史 資料編1.原始・古代・中世】
- ^ 上総守護代「千坂信高」 上総馬野郡富益郷分の段別銭の請取状。【千葉県の歴史 通史編 中世 県史シリーズ p. 513】 応永13(1406).10
- ^ 千坂駿河守【「関東管領上杉氏」黒田基樹編著-「犬懸上杉氏の政治的位置」山田邦明 pp. 128-130】
- ^ 『新潟県史資料編4中世2(文書編2)』に1428年〜1498年の越後における千坂氏書状(千坂信高 p. 176-7,413、千坂高信 p. 253、千坂定高 p. 282,263-4、千坂実高 p. 181,413-4、千坂能高 p. 304
- ^ 【上杉家御年譜23「御家中諸士略系譜(1)」】
- ^ 『新潟県史資料編4中世2(文書編2)』越後長尾氏被官連署契状 pp. 84-85
- ^ 【中世越後の歴史「武将と古城を探る」花ケ前盛明 新人物往来社 p. 64】
出典
編集- 『上杉家御年譜23「御家中諸士略系譜(1)」』
- 『新潟県史資料編3 中世1(文書編1)別冊』
- 『新潟県史資料編4 中世2(文書編2)』
- 『中世越後の歴史「武将と古城を探る」』花ケ前盛明 新人物往来社