上杉 房能(うえすぎ ふさよし)は、戦国時代守護大名越後国守護越後上杉家7代当主。

 
上杉房能
時代 戦国時代
生誕 文明6年(1474年[1]
死没 永正4年8月7日1507年9月13日
別名 通称:九郎
墓所 新潟県十日町市の管領塚
官位 民部大輔
幕府 室町幕府 越後守護
氏族 越後上杉家
父母 父:上杉房定
兄弟 定昌顕定房能蘆名盛高正室、
畠山義元室?
養兄弟:積翠院伊達尚宗正室)
上杉定実正室
養子:龍松八条房孝子)、
定実上杉房実子)
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略歴

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文明6年(1474年)、上杉房定の子として誕生。元服の際、守護代長尾能景が烏帽子親となり、能の一字を取り、房能と名乗る。

長兄・定昌は早世し、次兄・顕定山内上杉家の養子となり関東管領に就任したため、明応3年(1494年)に病没した父の跡をついで越後守護となる[2]。守護代の長尾能景の補佐を受けるが[2]、越後上杉家の戦国大名化を目指して明応7年(1498年)に守護不入特権の停止を命じるなど[2]、在地領主の特権の制約を図ったために能景らと対立する。

また、文亀2年(1502年)には幕臣の伊勢盛種の所領である松山保(現在の新潟県十日町市)に房能の命を受けた長尾輔景が入部を強行する事件を起こしている。これも守護による介入を図ると共に、当時上杉氏と対立関係が生じつつあった伊勢宗瑞(北条早雲)に対する牽制であった可能性もある(盛種は宗瑞の同族)[3]

永正3年(1506年)9月、それでもなお守護代としては忠実であった能景が、越中国において神保慶宗の裏切りのため一向一揆に敗死させられると、能景の子・為景がその跡を継いだ[4]

永正4年(1507年)、為景は房能の養子・定実を擁し房能に公然と反旗を翻す[5][注釈 1][注釈 2]8月2日に定実・為景の軍勢に拠点を急襲され、顕定を頼り関東へ向かった[5]。しかし、逃れる途上に直峰城に立ち寄ったが為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ、8月7日午後2時頃に天水越で自刃した(永正の乱[5]

十日町市松之山天水越に房能を弔った管領塚が存在する[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 越中において包囲された能景を房能が見捨て、その事を恨んでいたという説もある[要出典]
  2. ^ 森田真一は、為景の挙兵は房能が八条上杉家から養嗣子を迎えたことで、八条家ら一門の発言力が強まることに反発したもので、本来は八条家の排除が目的であったと推測している(森田真一「上杉房能の政治」、2018年、P268)。

出典

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  1. ^ 山本 2004, § 82号.
  2. ^ a b c 池 & 矢田 2007, p. 16.
  3. ^ 森田真一「上杉房能の政治」(『上越市史通史編2』第3部第1章第4節(上越市、2004年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻 関東上杉氏一族』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-269-8
  4. ^ 池 & 矢田 2007, p. 18.
  5. ^ a b c 池 & 矢田 2007, p. 19.
  6. ^ 管領塚 - 十日町市観光協会

出典

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  • 池亨; 矢田俊文 編『上杉氏年表 : 為景・謙信・景勝』長谷川伸・福原圭一・片桐昭彦・木村康裕・水澤幸一・市村清貴・黒田基樹・栗原修・広井造・竹田和夫・西澤睦郎執筆(増補改訂)、高志書院、2007年3月。ISBN 9784862150196NCID BA81497747OCLC 675847679全国書誌番号:21185666 
  • 管領塚 | 十日町市観光協会 どきどき十日町 | 棚田・美人林・清津峡”. 一般社団法人 十日町市観光協会. 2017年4月1日閲覧。
  • 山本信吉「82号 延徳三年長尾能景、上杉房定父子等年齢書出」『正智院文書』吉川弘文館〈高野山正智院經藏史料集成, 1〉、2004年9月。ISBN 4642014047NCID BA68559329OCLC 674921268全国書誌番号:20668531