千坂氏(ちさかし、ちざかし)は、上杉氏の重臣で四家老家の一つ。江戸時代家格は侍組分領家。

発祥

編集

上杉家の伝承では千坂氏を同族と見ていた[1] 

一方、千坂家では「千坂ありて、上杉あり、上杉ありて、千坂あり。」という家伝が伝承されていた[2]ので、両家には上杉氏発祥まで遡る古い由緒があるのかもしれない。

上杉家系図に千坂氏が記載されている箇所がある。 『上杉家系図・上杉朝房の項に「家人千坂子(二歳)」の名が記載。』[3]

上杉朝房の父上杉憲藤の討死(1338年、足利尊氏方として北畠顕家と摂津渡辺の戦いで討死)の時に、家人石川覚道が、憲藤の息子2人【幸松四歳(上杉朝房)、幸若二歳(上杉朝宗)】と共に家人千坂の子二歳と和久の子四歳を一緒に保護し、ともに鎌倉で成人したという記載。』

家人千坂上杉憲藤と共に討死したのか、1338年の時点で千坂氏が存在していたことになる。 千坂氏が上杉氏に仕えた由緒は不詳だが、鎌倉時代後半ごろには上杉氏と行動を共にしていた。

系譜

編集

千坂氏の系譜については、上杉謙信の父長尾為景に仕えた千坂景長から後は明確だが[4]、景長以前については、「藤嗣流」(藤原房前藤原魚名藤原鷲取藤原藤嗣の流れで平安時代末期ごろの藤原親光が千坂始号となり、そこから千坂景長につながる系譜)と「上杉流」(前記上杉朝宗に庶子がいて、その子を千坂始号とし、そこから千坂景長につながる系譜)の二説が伝えられている。[5]

ただし、「上杉流」は上杉朝宗の庶子(上杉系図には名前がない)を千坂始号とするが、前述の通り上杉朝宗の父上杉憲藤の代に既に千坂氏がいることを記している上杉系図と矛盾がある。

歴史

編集

14世紀末から、千坂氏は犬懸上杉家重臣として、上杉朝宗の下で武蔵守護代 [6][7][8]上総守護代[9][10]を務めた後、上杉禅秀の乱上杉氏憲と行動を伴にした。[11]

1417年上杉禅秀の乱による犬懸上杉家滅亡後の動向は不詳だが[12]、11年後(1428年)から越後守護上杉房定上杉房能の下での越後統治に関する記録に千坂氏の名前が見えるようになる。[13] [14]

15世紀後半には「上杉方被官、長尾、石川、斎藤、千坂、平子、この五人古臣なり」[15]と伝えられ、関東・越後を統治する上杉氏古臣という評価を得ていた。 

16世紀に入ると、越後守護代 長尾為景越後守護 上杉氏に代わって越後を統治するようになるが、永正18年( 1521年) 長尾為景一向宗禁止令(禁無碍光衆)重臣連署契状に長尾一族と共に千坂景長が署名しており[16]、このころには長尾為景の越後統治に協力していた。 ただし、千坂景長は上杉家御年譜の系譜に「本国関東ニテ」[17]と記載されているので、越後で上杉家に仕えていた千坂氏直系かどうかはわからない。

16世紀半ばに、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ後は、千坂景親(対馬守)が謙信の重臣となった。

謙信の没後は、上杉景勝に仕える。主家の会津移封後は陸奥国大沼郡に5500石を受領。関ヶ原の戦いの戦後処理で徳川氏との折衝役を務め、その後米沢藩の初代江戸家老となった。

江戸時代は米沢藩の侍組分領家に列して藩重職を務め、赤穂事件忠臣蔵)の話題で有名になった江戸家老・高房(経緯の詳細は「千坂高房」と「千坂高雅」を参照)や七家騒動上杉治憲竹俣当綱莅戸善政らの免職を要求して隠居閉門に追いこまれた千坂高敦戊辰戦争の際の米沢藩司令官であり明治時代の貴族院議員の高雅らが著名である。江戸時代の系図は「米沢藩#分領家(14戸)」を参照。

供養塔

編集

千坂氏には那須氏と縁続きという伝承があったようで、江戸時代(享保4年(1719年)に千坂家が建立した那須与一千坂景親の供養塔が米沢に存在する。[18]

一族

編集

脚注

編集
  1. ^ 「上杉家御年譜22」(上杉温故会 1986.1 )P140-141に明治36年4月5日付上杉茂憲千坂高雅宛の保証書冒頭文に「右(千坂高雅)祖先ハ同族ニシテ其中祖景長(千坂景長)ハ越後村松国ノ城主ニ有之」との記載あり。
  2. ^ 「明治の同郷人」P47-48 松野良寅 米沢・遠藤書店 1986.2『千坂高雅は・・、「千坂有りて上杉有り、上杉有りて千坂有り。千坂は唯是社稷を重んず。」という家電之葴法(しんぽう)を忠実に守る律儀さもあった。』
  3. ^ 【続群書類聚 第六輯下「上杉系図」上杉朝房 p. 70「父(上杉憲藤)打討時、家人石川覚道抱之、于時幸松(上杉朝房)四歳、幸若(上杉朝宗)二歳、家人千坂子二歳、和久子四歳相従之、共於鎌倉成人」】
  4. ^ 「上杉家御年譜23(御家中諸士略系譜)」に景長から高雅までの系図あり
  5. ^ 「千坂一族」P7-20日本家系家紋研究所 1986
  6. ^ 武蔵守護代「千坂越前守」宛関東管領上杉朝宗書状(覚園寺文書)応永4(1397).7.10、20及び12.3付文書(黄梅院文書)
  7. ^ 武蔵守護代「千坂越前入道」宛関東管領上杉朝宗書状(鶴岡神主家伝文書、上杉家文書)応永6(1399).11.12
  8. ^ 「千葉県の歴史通史編 中世(県史シリーズ3)」上総守護犬懸上杉氏P511(上杉憲藤が戦死したとき、幼い兄弟が石川覚道に抱えられて養育したことが上杉系図に記載されているが、千坂の子息は朝宗ともに二歳だったことになる。 確証はないが、朝宗の管領就任と同時に武蔵守護代に任命された千坂越前守こそ、この時の少年かもしれない。)
  9. ^ 上総守護代「千坂弥三郎」宛 武兵庫正忻奉書案 (鶴岡事情日記)応永4(1397)【戸田市史 資料編1.原始・古代・中世】
  10. ^ 上総守護代「千坂信高」 上総馬野郡富益郷分の段別銭の請取状。【千葉県の歴史 通史編 中世 県史シリーズ p. 513】 応永13(1406).10
  11. ^ 千坂駿河守【「関東管領上杉氏」黒田基樹編著-「犬懸上杉氏の政治的位置」山田邦明 p. 128-130】
  12. ^ 「(乱後の動向について)犬懸上杉氏被官については、関係文書の残存量が希少でその詳細をつかみことがきわめて困難である。」【栃木県立文書館「研究紀要」第19号「上杉禅秀の乱後の犬懸上杉氏被官と禅秀与党」杉山一弥 H27.3.27】
  13. ^ 『新潟県史資料編4中世2(文書編2)』に1428年〜1498年の越後における千坂氏書状(千坂信高 p. 176-7,413、千坂高信 p. 253、千坂定高 p. 282,263-4、千坂実高 p. 181,413-4、千坂能高 p. 304
  14. ^ 「千坂氏が越後の上杉氏家臣として現れることは、あるいは示唆的かもしれない。実証は難しいが、四散した犬懸家の家臣のある部分は上杉一門の被官として抱えられたのではあるまいか。」【「関東管領上杉氏」黒田基樹編著-「犬懸上杉氏の政治的位置」山田邦明 p.150】
  15. ^ 【蔭涼軒日録 長享二年(1488年)七月十日条】
  16. ^ 『新潟県史資料編4中世2(文書編2)』越後長尾氏被官連署契状 pp. 84-85
  17. ^ 千坂景親の項に「父ハ千坂藤右衛門景長ト伝本国関東ニテ 上杉家代々従属四家老長尾石川千坂斎藤等也・・」
  18. ^ http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1806.html 「米沢市HP」城下町ぶらり歴史探訪・那須与一供養塔

出典

編集
  • 「上杉家御年譜22(茂憲公4)」米沢温故会 1985.6
  • 「上杉家御年譜23」米沢温故会 1986.1
  • 「明治の同郷人」松野良寅 米沢・遠藤書店 1986.2
  • 「続群書類聚 第六輯下」塙保己一編 1923-1943「上杉系図」
  • 「千坂一族」日本家系家紋研究所 1986
  • 「千葉県の歴史」通史編 中世(県史シリーズ3)千葉県史料研究財団編 2007.3「上総守護犬懸上杉氏」
  • 「戸田市史 資料編1.原始・古代・中世」1981.5
  • 「関東管領上杉氏」シリーズ・中世武士の研究第11巻 黒田基樹編著 戒光祥出版 2013.6「犬懸上杉氏の政治的位置」山田邦明
  • 「新潟県史資料編4中世2(文書編2)」1983.3

参考文献

編集
  • 山田邦明(著)、千葉県編(編)「犬懸上杉氏の政治的位置」『千葉県史研究』第11号別冊 中世特集号『中世の房総、そして関東』、千葉県文書館、2003年3月、NCID AN10441316 

関連項目

編集