團伊玖磨
團 伊玖磨(だん いくま、1924年〈大正13年〉4月7日[1][2][3] - 2001年〈平成13年〉5月17日[2])は、日本の作曲家、エッセイスト[4]。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけた。「團伊玖摩」などは誤表記。東京出身[1]。
團 伊玖磨 | |
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『夕鶴』作曲の頃の團伊玖磨(1952年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1924年4月7日 日本 東京府東京市四谷区 (現:東京都新宿区) |
死没 |
2001年5月17日(77歳没) 中国 江蘇省蘇州市 |
学歴 | 東京音楽学校 |
ジャンル |
クラシック音楽 童謡 映画音楽 放送音楽 |
職業 |
作曲家 エッセイスト |
主要な音楽作品については「團伊玖磨の楽曲一覧」を参照。
人物・来歴
編集生い立ち
編集1924年(大正13年)、実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京市四谷の慶應義塾大学病院で生まれ、原宿(現:東京都渋谷区神宮前)で育つ。
7歳となった1931年(昭和6年)、青山師範学校附属小学校に入学し、ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機の一つとなった。当時、團という一字姓のため、しばしば「朝鮮人」「シナ人」と罵られたという[注釈 1][5][注釈 2]。
12歳の時、作曲を志す息子の将来を案じた父伊能が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は、「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励した[6]。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固めた。また、生涯耕筰を師と仰ぐことになった。
1937年(昭和12年)、13歳で青山学院中学部に入学。また、同年には東京市麻布区材木町(現:東京都港区六本木)に転居した。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲部に入学。学校では下総皖一に和声学と対位法[3]、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学んだ。また、学外では山田耕筰に指導を受けた。
20歳になった1944年(昭和19年)、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊した[1][3]。音楽学校からの同期には芥川也寸志、梶原完、斎藤高順ら14人がいる[7]。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川とともに編曲も担当した[3]。
翌1945年(昭和20年)、日本の敗戦を受けて復学して東京音楽学校を卒業し[1][3]、諸井三郎に対位法、楽曲分析を学んだ[3]。歌曲集『六つの子供の歌』、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩『村の歌』『小諸なる古城のほとり』を作曲した[3]。
作曲家およびエッセイストとして
編集- 1946年(昭和21年):近衛秀麿に管弦楽法、指揮法を学ぶ。この年、『二つの抒情詩』(管弦楽付き独唱曲)で日本音楽連盟委嘱コンクールに入選[3]。歌曲集『五つの断章』(北原白秋詩)を作曲。
- 1947年(昭和22年):歌曲『花の街』(江間章子詩)を作曲。東京音楽学校選科教官(1949年まで)。
- 1948年(昭和23年):NHK専属作曲家となる(1953年まで)。フェリス女学院短期大学音楽科助教授(1953年まで)。平和の鐘建立記念コンクールで交響詩『平和来』佳作入選。
- 1949年(昭和24年):木下順二作品の民話劇『夕鶴』の演劇付帯音楽を作曲。
- 1950年(昭和25年):『交響曲第1番イ調』を作曲。NHK創立25年記念管弦楽曲募集コンクールにて特選入賞[8]。歌曲集『美濃びとに』(北原白秋詩)を作曲。
- 1952年(昭和27年):オペラ『夕鶴』大阪で初演[9][3]。同作で毎日音楽賞、伊庭歌劇賞、山田耕筰作曲賞。北海道美幌農業高等学校校歌を作曲。
- 1953年(昭和28年):芥川也寸志、黛敏郎と「3人の会」を結成[1][3]。
- 1954年(昭和29年):東宝映画専属音楽監督。
- 1955年(昭和30年):オペラ『聴耳頭巾』大阪で初演[10]。
- 1957年(昭和31年):オペラ『夕鶴』スイス・チューリッヒ歌劇場でヨーロッパ初演。映画音楽『雪国』『メソポタミヤ』に対し、ブルーリボン賞。
- 1958年(昭和33年):オペラ『楊貴妃』(大佛次郎台本)を、藤原歌劇団創立25周年記念東京公演として初演[11]。また慶應義塾創立百周年記念式典のために混声合唱と管弦楽のための『慶應義塾式典曲』(作詞:堀口大學)を作曲、NHK交響楽団を指揮初演(1968年再演)。
- 1959年(昭和34年):皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して『祝典行進曲』を作曲。
- 1960年(昭和35年):ニューヨーク・ハンター劇場にて歌劇『夕鶴』アメリカ初演・指揮。西ドイツキール歌劇場にて、歌劇『夕鶴』ドイツ初演。
- 1963年(昭和38年):『岬の墓』に対し、芸術祭文部大臣賞。
- 1964年(昭和39年):東京オリンピック開会式にて『オリンピック序曲』『祝典行進曲』、閉会式にて『祝典行進曲』を演奏。エッセイ『パイプのけむり』を雑誌『アサヒグラフ』にて連載開始。
- 1965年(昭和40年):『交響曲第5番』を作曲。
- 1966年(昭和41年):日本芸術院賞を受賞[12]。
- 1968年(昭和43年):『パイプのけむり』『続パイプのけむり』で第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞。『混声合唱組曲「筑後川」』を作曲。10月23日の告示により、鳥取県民歌制定委員会作詞、團伊玖磨作曲の鳥取県民歌『わきあがる力』が制定される。
- 1969年(昭和44年):歌劇『夕鶴』台北、マニラで演奏。
- 1972年(昭和47年):オペラ『ひかりごけ』(武田泰淳原作)初演(第15回大阪国際フェスティバル)[13]。
- 1973年(昭和48年):日本芸術院会員に就任する。
- 1975年(昭和50年):オペラ『ちゃんちき』(水木洋子台本)東京で初演[14]。
- 1976年(昭和51年):ソプラノ・ソロと管弦楽のための『長良川』(江間章子詩)を作曲。
- 1978年(昭和53年):合唱組曲『大阿蘇』(丸山豊詩)を作曲。
- 1982年(昭和57年):神奈川県横須賀市制75周年記念事業の一環として、合唱と管弦楽のための組曲『横須賀』(栗原一登詩)を委嘱され作曲。
- 1983年(昭和58年):ピアノ組曲『3つのノヴェレッテ』、合唱組曲『唐津』、独唱・混声合唱・オーボエ・ピアノのための組曲『木曽路』、子供の歌アルバム『道の子の歌』、ヴァイオリンとピアノのための『幻想曲第2番』等を作曲。
- 1985年(昭和60年):『交響曲第6番「HIROSHIMA」』を広島の平和コンサートで初演。
- 1994年(平成6年):オペラ『素戔嗚』初演(神奈川芸術フェスティバル)[15]。
- 1997年(平成9年)9月3日:急性心筋梗塞を起こし、約1か月間入院[16]。オペラ『建・TAKERU』初演(東京・新国立劇場杮落し公演)[17]。
- 1999年(平成11年):文化功労者に列せられる。
- 2000年(平成12年)4月6日:妻の和子が急性心筋梗塞で急死[18]。「DAN YEAR 2000」開催。
- 2001年(平成13年)5月17日:日本中国文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で死去した。77歳没。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。墓所は東京都文京区にある護国寺。
逸話
編集この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 商業主義に伴う宣伝を激しく嫌っていた。特にダイレクトメールは新字体による「団伊玖磨」の宛名書きで来る場合が多く、この表記による郵便物を(ダイレクトメールに限らず)一切開封せずに捨てていた[19]。また、後年「僕の名前は團であって団ではないのだから、他人宛ての手紙は読んでは悪かろうと遠慮するからである」と捨てる理由を説明している[20]。
- たびたび訪中したが、團という字に中国語で卑猥な意味があるため[要出典]、北京では「檀か段に直してください。團では困る」「あなたの名刺は、女の人には見せられません」と言われた。中国で野間宏の『真空地帯』が上映された際にも、「音楽 段伊玖磨」と直された。
- 先天色覚異常を持っており、小学生の頃に写生の時間に赤い花を緑に描いて教師から激しく叱責されたことがある[21]。また東京音楽学校の入試に際して、担当の校医が美術学校の入試をも受け持っていたため、色覚異常の故に危うく落とされそうになったが、團の懇願で入学が許されたこともある。色覚異常者への差別に憤り、「日本色盲協会」の結成を考えたとも述べている。[要出典]
- 犬嫌いであり、無駄に吠える犬には、それがたとえ友人の飼い犬でも容赦せず体罰を加えた。タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断った旨を『パイプのけむり』で言及している。好きな動物は蛇で、自宅で飼育していた大蛇が息子の喉に咬みついて大怪我をさせたこともある。[要出典]
- 戦後まもなく、太宰治の作品を愛読していたため、友人の北山冬一郎(詩人)の紹介で太宰に会う話が持ち上がった。しかし、ダンという苗字から檀一雄を連想した太宰が「ダンという名前なら大酒飲みだろう」と言ったところ、北山が「いや、実は一滴も飲めないんです」と答えたため、太宰が「酒も飲めない奴なんかに用はない」と断った。そのため、とうとう太宰に会うことができなかった。[要出典]
- エッセイ「パイプのけむり」は1964年に『アサヒグラフ』で連載を始め、2000年に同誌が休刊するまで連載を続けていた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いている。結局、雑誌休刊の翌年に死去する。
- 團は生前九州を愛したが、それは父が福岡県の民放KBCの会長を務め、妹がブリヂストンの創業者一族に嫁いだこととも関係する。実はどちらも久留米市で産声を上げた企業であり、そのことが『筑後川』作曲につながっていったとも考えられる。2007年1月20日、團死亡の地・蘇州で、七回忌記念『筑後川』コンサートが開かれ、日本から参加したアマチュア合唱団員200人が、『筑後川』を歌い上げた。
- 愛煙家で、パイプを好んだ。1950年代、イギリスに留学していた團は、英語の勉強のために、当時ベストセラーだった『野生のエルザ』をはじめ、いくつかの書物の翻訳をしていた。その中には、パイプの修理に立ち寄ったダンヒル本店で見つけた、アルフレッド・H・ダンヒルの“The gentle art of smoking"(日本語タイトル『ダンヒルたばこ紳士』)がある。
- 映画『真空地帯』(1952年)では、日本映画で初めて磁気録音テープを用いた[3]。
- 小説も著したことがある。『日向村物語』は映画『馬鹿が戦車でやって来る』などの「馬鹿シリーズ」の原案となり、この作品では團自身が原作者としてクレジットされる他にも映画音楽を担当している。
- オペラ『聴耳頭巾』の自筆総譜は、いったん紛失したが、1978年2月に発見された。総譜の書かれた五線紙は、山田耕筰のネーム入りで、晩年の山田から團が譲り受けたものであった[22]。
- 北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書『バーンスタイン物語』)が神奈川県鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に『美幌農業高校校歌』作曲を依頼した。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年『美幌町町歌』作曲)に自宅を提供して同県横須賀市に移住した。
- 1963年に八丈島に仕事場を建て[23]、しばしば作曲のために長期滞在したが、そこでの趣味は京野菜の栽培。テレビでのインタビューでは「京野菜が栽培できる南限を探っている」と応えた。滞在すると真っ先に、庭先に自生する明日葉を摘んで、晩飯のお浸しにすることを習慣づけていて、明日葉の香りが来島した実感を湧かせ、仕事のモチベーションに繋がったと述懐している[24]。
- 自身作曲の童謡『ぞうさん』が低俗な歌詞をもって歌わされていたことに腹を立てていた[25]。
家族・親族
編集祖父の團琢磨は三井合名会社理事長、男爵[26]。父の團伊能も男爵であり、東京帝国大学文学部美術史学科助教授、参議院議員、プリンス自動車工業(現:日産自動車)社長、九州朝日放送会長を歴任[26]。母の美智子は宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女[27][28]。妹の朗子はブリヂストンタイヤ(現:ブリヂストン)会長石橋幹一郎に嫁いだ[26][注釈 3]。
最初の妻桑原瑛子(ソプラノ歌手)との間に生まれた長男團名保紀は西洋美術史家で群馬大学教授[26]。2番目の妻である藤枝和子(ピアニスト)との間に生まれた二男團紀彦は建築家[26]。叔父の團勝磨はウニの発生研究を大成した発生学者で、東京都立大学総長を務めた[26]。團紀彦は、亡父が横須賀の書斎に残した楽譜、新しい交響曲の題材しようと書き入れをしていた北原白秋『邪宗門』(後述)文庫本など約2000点の資料を音楽評論家の西耕一らに託し、伊玖磨生誕100年の2024年にデジタルアーカイブとして公開される予定である[29]。
系譜
編集- 團家
作品
編集ここでは主要作品のみにとどめる。括弧内の人物は特に断りのない限り、作詞者を示す。
歌劇
編集- 夕鶴(全幕/作:木下順二)
- 聴耳頭巾(3幕/作:木下順二)
- 楊貴妃(3幕5場/原作:大佛次郎)
- ひかりごけ(2幕/原作:武田泰淳)
- ちゃんちき(2幕4場/脚本:水木洋子) (第16回佐川吉男音楽賞を受賞)
- 素戔嗚(3幕4場/原作は記紀の日本神話、脚本:團伊玖磨)
- 建・TAKERU(3幕/原作は記紀の日本神話、脚本:團伊玖磨・小田健也)
交響曲
編集- 交響曲第1番 イ調
- 交響曲第2番 変ロ調
- 交響曲第3番
- 交響曲第4番
- 交響曲第5番
- 交響曲第6番「HIROSHIMA」(エドマンド・チャールズ・ブランデン)
- 交響曲第7番「邪宗門」(未完)
管弦楽作品
編集- 交響詩『平和来』(後に『挽歌』と改名)
- ブルレスケ風交響曲
- 管弦楽組曲『シルクロード』
- 交響組曲『アラビア紀行』
- 序曲『東京オリンピック』
- 管弦楽のための「祝典序曲』
- 『日本からの手紙第1番』
- 『日本からの手紙第2番』
- 『日本からの手紙第3番』
- 『シンフォニエッタ』(小交響曲)
- ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア第1番
- 管弦楽のための『高梁川』
- 管弦楽のための『夜』
- ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア第2番
- 交響幻想曲『万里長城』
- 管弦楽のための『飛天』
- 管弦楽のための『祝典曲』
- 管弦楽のための『飛天繚乱』
室内楽曲
編集- 弦楽合奏曲「合奏協奏曲」
- ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第1番
- フルート三重奏曲
- ベルリン・シンフォニーの12人のセロのための「夜」
- ピアノ組曲「3つのノヴェレッテ」
- ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第2番
- 12本のフルートのための「夕鶴」幻想曲
- ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第3番
- フルートとピアノのための「ソナタ」
- 2つのソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏のための「古雅なるファンタジア」
- フルート・オーケストラのための「NOCTURNE ET DANCE」
- 4本のファゴットのための「ソナタ」
- ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
- フルートとハープのための「羽衣」
- 篠笛とチェロのための「夜の対話」
- ヴァイオリン・デュエット「Conguratulations for Mr. & Mrs. Toshiya Etoh」
- ヴァイオリンとチェロのための対話
- 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番
- 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番
- トロンボーンとハープのための「Three Letters」
- ソロ・ヴァイオリンとカルテットのための2章「黒」と「黄」(遺作)
歌曲
編集- 六つの子供のうた(北原白秋)
- 五つの断章(北原白秋)
- 花の街(江間章子)
- わがうた(北山冬一郎)
- 萩原朔太郎に依る四つの詩
- 美濃びとに(北原白秋)
- 旅上(萩原朔太郎)
- はる(谷川俊太郎)
- 抒情歌(大木実)
- 三つの小唄(北原白秋)
- ジャン・コクトーに依る八つの詩(堀口大學訳)
- マレー乙女の歌へる(イヴァン・ゴル;堀口大學訳)
合唱曲
編集- 混声合唱曲「二つの碑銘」(1952年 原民喜、西田幾太郎)
- 混声合唱曲「岬の墓」(1963年 堀田善衛)
- 合唱組曲「風に生きる」(1957年/1964年 石浜恒夫)
- 混声合唱組曲「筑後川」(1968年 丸山豊)
- 混声合唱のための「ディヴェルティメント」(1968年 谷川俊太郎)
- 混声合唱「海を探しに行こう」(1969年 辻井喬)
- 混声合唱組曲「海上の道」(1973年 丸山豊)
- 合唱と管弦楽のための「北九州」(1977年 栗原一登、一般的に「合唱組曲『北九州』」と呼ばれることが多い)
- 混声合唱組曲「大阿蘇」(1978年 丸山豊)
- 合唱と管弦楽による交響詩「伊万里」(1978年 片岡繁雄)
- 混声合唱組曲「北の大地」(1979年 小野寺与吉)
- 合唱と管弦楽のための「横須賀」(1982年 栗原一登)
- 合唱と管弦楽のための「唐津」(1982年 栗原一登)
- 独唱、混声合唱、オーボエ、ピアノのための組曲「木曽路」(1983年 辻井喬)
- 混声合唱組曲「玄海」(1984年 丸山豊)
- 独唱・混声合唱・クラリネット・ピアノのための組曲「紀州路」(1984年 辻井喬)
- 女声合唱とピアノのための「燕の歌」(1985年 ガブリエーレ・ダヌンツィオ;上田敏訳)
- 独唱・混声合唱・フルート・ピアノのための組曲「長崎街道」(1986年 辻井喬)
- ソプラノ・ソロ、女声合唱、2台のピアノのための「巴里小曲集」(1987年 作詞:西條八十)
- 混声合唱組曲「筑後風土記」(1989年 栗原一登)
- 混声合唱組曲「川のほとりで」(1990年 江間章子)
吹奏楽
編集- ブリヂストン・マーチ(1955年)
- 祝典行進曲(1959年)
- 行進曲『ビア・フェスティバル』(1962年)
- オリンピック序曲(1964年)
- キスカ・マーチ~東宝映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』より(1965年)
- 行進曲『青年』~東宝映画『戦場にながれる歌』より(1965年)
- JASDF March <航空自衛隊行進曲>(1968年)
- 若楠国体行進曲[序曲付き]~第31回国民体育大会佐賀県実行委員会制定(1974年)
- 行進曲『伸び行く佐賀』(1974年)
- 吹奏楽のための『奏鳴曲(ソナタ)』(1976年)
- 行進曲『べっぷ』~別大毎日マラソン25回記念 <マラソン行進曲>(1976年)
- ブラスオーケストラのための組曲「行列幻想」(1977年)
- 行進曲『海の若者(わこうど)』(1978年)
- 行進曲『京都府の歌』(1984年)
- 行進曲『マツダ』(1984年)
- 行進曲『希望』~全日本吹奏楽連盟創立50周年記念曲(1987年)
- パシフィック・フリート <太平洋艦隊>(1988年)
- 福岡国体行進曲(1990年)
- 新・祝典行進曲(1993年)
- 組曲「わが街に」より“前奏曲”(1994年)
- 機動隊行進曲『希望のあしおと』(1998年)
- March Tanabata(2000年)
- March “YOKOSUKA”
映画音楽・放送音楽
編集- ラジオ体操第2(3代目)(NHK)
- 大佛開眼(衣笠貞之助監督)
- 夫婦善哉(豊田四郎監督)
- 雪国(豊田四郎監督)
- ここに泉あり(今井正監督)
- 潜水艦イ-57降伏せず(松林宗恵監督)
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(松林宗恵監督)
- 太平洋の翼(松林宗恵監督)
- 世界大戦争(松林宗恵監督)[2]
- 戦国群盗伝(1959年)
- その夜は忘れない(1962年)
- 憂愁平野 (1963年)
- 台所太平記(1963年)
- 太平洋奇跡の作戦 キスカ(丸山誠治監督)
- 馬鹿が戦車でやって来る(原作および音楽、山田洋次監督)
童謡
編集校歌・学歌・その他
編集著作
編集- 『現代音楽に関する3人の意見』芥川也寸志, 黛敏郎との共著(中央公論社 1956年)
- 『朝の国 夜の国 世界音楽紀行』(中央公論社 1957年)
- 『エスカルゴの歌』(文化服装学院出版局 1964年)のち朝日文庫
- 『不心得12楽章 ぼくの女性へのアドバイス』(文化服装学院出版局 1964年)
- 『パイプのけむり』(朝日新聞社(1965年 - 2001年、全27巻)のち朝日文庫、小学館文庫
- 『ダンヒルたばこ紳士』(The Gentle Art of Smoking)(翻訳書、アルフレッド・H・ダンヒル著 朝日新聞社 1967年)
- 『かんゔぁせいしょん・たいむ 團伊玖磨音楽的対話集』(音楽之友社 1969年)
- 『九つの空』(朝日新聞社 1971年)のち朝日文庫
- 『毒ヘビは急がない』(対談集 読売新聞社 1973年)のち文春文庫
- 『さしたる用事はなけれども』(対談集 読売新聞社 1973年)
- 『僕のハロー・グッドバイ』(朝日新聞社 1973年)
- 『團さんの談話室 もっと自由でなくちゃ』(集英社 1974年)
- 『日本音楽の再発見』(講談社現代新書 1976年)
- 『舌の上の散歩道』(朝日新聞社 1976年)のち朝日文庫
- 『朝日小事典 オーケストラ』(朝日新聞社 1977年)
- 『好きな歌・嫌いな歌』(読売新聞社 1977年)のち文春文庫
- 『音楽の小径』(読売新聞社 1978年)
- 『八丈多与里』(朝日新聞社 1979年)
- 『宴のおもいで』(対談集 講談社 1983年)
- 『ひととしごととたべものと 團伊玖磨と語る17人』(味の素マイファミリーBooks 1983年)
- 『音楽の旅はるか』(全3巻 日本交通公社 1983年、1984年、1986年)
- 『追跡 ムソルグスキー『展覧会の絵』』(日本放送出版協会 1992年)
- 『NHK人間大学 日本人と西洋音楽-異文化との出会い-』(日本放送出版協会 1997年)
- 『私の日本音楽史』(NHKライブラリー 1999年)
- 講演CD『音楽と生活』(収録1989年 NHK 2000年)
- 『青空の音を聞いた 團伊玖磨自伝』(日本経済新聞社 2002年)
- 『日向村物語』
- 『陸軍軍楽隊始末記』
出演
編集ドキュメンタリー
編集ラジオ番組
編集- 音楽のある風景(FM横浜)
CM
編集- アメリカン・エキスプレス「アメリカン・エキスプレス・カード」(1984年、妻・和子と出演)
演じた俳優
編集- 児玉清:映画「戦場にながれる歌」(『陸軍軍楽隊始末記』が原作)
その他
編集この節に雑多な内容が羅列されています。 |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, p. 541, 「特撮映画スタッフ名鑑」
- ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「4月7日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、101頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ a b c d e f g h i j k 小林淳 2022, pp. 48–53, 「第一章 東宝空想特撮映画の開幕期を飾る楽音 [1954 - 1956] 三『白夫人の妖恋』」
- ^ 『読売新聞』2001年5月18日付け死亡記事
- ^ 團伊玖磨「故郷は東アジアの海と空」(『朝日新聞』1997年1月16日付)
- ^ 文庫版『続パイプのけむり』所収「穴」内pp.115-116
- ^ 芥川也寸志『音楽の旅』(旺文社、1981年)p.24
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、377頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 『朝日新聞』朝刊1966年4月7日(東京本社発行)朝刊14頁
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 『どっこいパイプのけむり』所収「失踪」内pp.252-258
- ^ 昭和音楽大学オペラ情報センター
- ^ 『さよならパイプのけむり』所収「今年の桜」内pp.270-276
- ^ 文庫版『続パイプのけむり』所収「種子」内pp.21-22
- ^ 文庫版『なおなおパイプのけむり』「ダイレクト・メイル」内p.224
- ^ 文庫版『パイプのけむり』所収「色盲」内pp.43-47
- ^ 『重ねて・パイプのけむり』所収「紛失」内pp.235~243
- ^ 團伊玖磨さんが愛した八丈島の海と空を訪ねて 八丈島観光ポータルサイト内
- ^ 野村麻里 編『作家の手料理』平凡社、2021年2月25日、121‐122頁
- ^ 『青空の音を聞いた 團伊玖磨自伝』ISBN 978-4-532-16420-1
- ^ a b c d e f 小谷野『日本の有名一族』45-46頁
- ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』633頁
- ^ 佐藤『門閥』449-451頁
- ^ 「團伊玖磨 幻の交響曲構想/題材文庫本にメモ書き」『読売新聞』朝刊2024年4月21日1面(2024年4月27日閲覧)
- ^ “【来る年・来る娘】團遥香”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2011年1月4日) 2017年3月16日閲覧。
- ^ “麿は磨ちがい団ちがい ~ 團家の人々 ~”. はてなダイアリー. はてな (2001年5月17日). 2017年3月16日閲覧。
- ^ “プレミアムカフェ 世界 わが心の旅 ウィーン(1)尾高忠明(2)團伊玖磨”. NHK (2021年9月8日). 2021年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月10日閲覧。
参考文献
編集- 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。
- 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年10月5日発行、ISBN 4-8205-0693-5
- 佐藤朝泰『門閥 旧華族階層の復権』立風書房、1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2
- 小谷野敦『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎(幻冬舎新書)、2007年9月30日第1刷発行、ISBN 978-4-344-98055-6
- 小林淳『東宝空想特撮映画 轟く 1954-1984』アルファベータブックス〈叢書・20世紀の芸術と文学〉、2022年5月14日。ISBN 978-4-86598-094-3。
関連項目
編集- 日本中国文化交流協会:設立に関わった。
- 團伊玖磨 (小惑星):小惑星番号17509番。1992年に関勉により発見され、團にちなみ命名された。
- パイプのけむり (テレビ番組):エッセイ『パイプのけむり』を元にしたドラマ仕立てのトーク番組。