中谷芙二子
中谷 芙二子(なかや ふじこ、1933年5月15日[1] - )は、日本の芸術家。その作風から「霧の彫刻家」の別名を持ち、人工の霧を使った『霧の彫刻』と呼ばれる作品群や、メディア・アートの活動で知られる。自然環境と人間の関係、メディア環境と人間の関係などをテーマとしている。
霧の彫刻家 中谷 芙二子 (なかや ふじこ) | |
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Nakaya's Fog Sculpture #08025 "F.O.G.," Guggenheim Museum Bilbao, Spain | |
生誕 |
1933年5月15日(91歳) 日本・北海道札幌市 |
国籍 | 日本 |
代表作 | 『霧の彫刻』 |
運動・動向 | Experiments in Art and Technology(E.A.T.) |
親 | 中谷宇吉郎(物理学者) |
受賞 |
吉田五十八賞特別賞(1993年) 文化庁メディア芸術祭功労賞(2008年) 円空大賞(2015年) フランス芸術文化勲章コマンドゥール(2017年) 高松宮殿下記念世界文化賞(2018年) 文化庁長官表彰(2020年) ウルフ賞芸術部門(2023年) |
1970年の日本万国博覧会(ペプシ館[2])での制作をきっかけに、50年以上にわたり世界各地で霧の彫刻を発表して第一人者となった[3][4]。ビデオ・アートの黎明期である1970年代から映像作品を制作し、日本初のビデオ・アート専門ギャラリーを設立してビデオ作家を支援した[3]。芸術家と科学者のコラボレーションをするE.A.T.のメンバーとして関わったイベントは、インターネットに先駆けた試みとして評価されている。
物理学者・随筆家の中谷宇吉郎は父親にあたる[3][5]。2015年5月1日設立の一般財団法人中谷宇吉郎記念財団の代表理事を務める[6]。
略歴
編集北海道札幌市に生まれる。日本女子大学附属高等学校を卒業後は、宇吉郎の仕事の関係でアメリカ合衆国のイリノイ州で暮らした[3][7]。ノースウェスタン大学美術科を1957年に卒業し、パリとマドリッドで絵画を学ぶ[3]。ヨゼフ・アルバースの色彩や構成を学んだり、細胞分裂や植物の構造などの有機体の構造をモデルにして制作を行った[8]。この時期の油絵作品は、1960年のシカゴのシャーマン・アートギャラリーでの二人展や、1962年の東京画廊で展示された[3]。
再び日本で暮らすようになった1964年に、マース・カニンガムバレエ団とともに来日した芸術家のロバート・ラウシェンバーグと音楽家のデイヴィッド・チューダーに出会う。2人の仲介で、中谷はエンジニアのビリー・クルーヴァーのコーディネーター兼通訳となった[注釈 1]。1966年には、ニューヨークで開催された『九つの夕べ - 演劇とエンジニアリング』でパフォーマンスに参加した[注釈 2]。同年には、クルーヴァーやラウシェンバーグらが設立した芸術家と科学者のコラボレーション組織であるExperiments in Art and Technology(E.A.T.)のメンバーとなった[11]。1969年から万国博覧会のペプシ館のデザインチームとなり、『霧の彫刻』を初めて発表した[3]。
1970年代から1980年にかけては、国を越えたメディア・アートのイベント参加やビデオ・アートの制作を始めたほか、芸術家グループや支援団体の設立に関わった。ビデオ・アートのギャラリーや、ビデオ作品の配給などをする法人としてプロセス・アート設立などを行なった[注釈 3]。1990年代には公共空間で『霧の彫刻』の制作を多数行い、他分野の芸術家とのコラボレーションも増加した[3]。
2018年からは、中谷宇吉郎雪の科学館を保有する石川県加賀市と、中谷宇吉郎記念財団との協働プロジェクトとして、「かがく宇かん」を開始した。「科学の心」「環境は知性である。」「学ぶ力を学ぶ」をコンセプトとする研究教育事業で、2017年から岡崎乾二郎をディレクターに準備室を立ち上げ、中谷は名誉フェローを務める[13]。日本初の大規模な個展として、2018年10月27日から2019年1月20日に水戸芸術館現代美術ギャラリーで「霧の抵抗」展が開催された[14][15]。
作品・プロジェクト
編集中谷の作品の特徴として、プロセスへの注目、自然環境や技術と人間の関係、芸術へのインフラストラクチャーの活用などがある[注釈 4][16]。自然環境との関係は、霧の彫刻のシリーズとして表現された。中谷は自然環境の問題と同様に、メディア・エコロジーの問題が重要であると考えており、メディア・アートをはじめとする活動として結実した[注釈 5][17]。
中谷の着想には、父の宇吉郎の研究姿勢も影響を与えている。宇吉郎は、自然を認識する際に重要なのは不完全性や不均一性であり、分類や図式的理解ではないと考えていた[注釈 6][19]。当初、中谷は絵画に用いた物質が変質していく点に注目し、腐敗や物質崩壊のプロセスを作品に取り込む試みをした。コンポジションに対する呼称として、中谷は自らの作品をデコンポジションと名付けた。デコンポージング・シリーズの第1作は『Autumn』(1957年)であり、1950年代から1960年代にかけて制作された[12]。やがて中谷は、常に変化する雲や霧に関心を向けるようになった[8]。
霧の彫刻
編集中谷は人工の霧を芸術作品として発表しており、「霧の彫刻家[20]」とも呼ばれる。霧は環境に敏感な媒体であり、人々が自然に対して敏感になることを中谷は望んでいる[21]。アーティストの考えを反映する形状ではなく、またそれまでの彫刻作品のように固体でもなく、変化を続けるプロセスとしての彫刻を表現している[注釈 7]。素材には純水が使われており、彫刻そのものの中に入って体験することを中谷は意図している[21]。
中谷は、当初はドライアイスやアンモニアガス、塩素ガスなどで雲を作る試行錯誤を行なっていた[23]。E.A.T.のメンバーとして万博のペプシ館のパビリオンに参加した際、噴霧装置の開発者であるトム・ミーの協力を得て、1969年に水を使った噴霧装置を実現した[24]。16ミクロンのノズルから70気圧で水を噴射して針に衝突させ、20から30ミクロンの水の粒を作り出す。微細な水の粒が空気中に浮かび、霧として感知される仕組みになっている[25]。霧の彫刻は1970年の万博で初展示され、ペプシ館のパビリオンを霧で覆った。直径27メートルの建物全体を覆う霧を作る技術は、それまでは確立されておらず[24]、この成功で霧の彫刻は中谷の代表的なシリーズになっていった[注釈 8][20]。
霧の彫刻や、自然と美の関係について、中谷は以下のように書いている。
霧は視覚を通してだけでなく、人びとが全感覚を通して環境を知覚するのを助け、動き方にまでも影響を及ぼす。それは見なれた環境に作用して、可視を不可視に、また風のような不可視のものを知覚可能にしてくれる。自然を美の対象と考えてはいけない。美とは、人それぞれが自分の方法で発見する自然との関係の中に、生まれてくるものなのであろうと思うからである[27]。
霧の彫刻は、美術館や公園などの公共空間を主な展示場所とする。東九条の北河原住宅跡地のように、日本の多文化共生を考える上で重要な地域も選ばれた[注釈 9][29]。常設展示は、キャンベラ、立川市、加賀市、ビルバオ、サンフランシスコ、ボストン、長野市などで体験できる。舞踏や音楽なと他ジャンルの芸術家との共同制作や共演もあり、トリシャ・ブラウン、ビル・ヴィオラ、坂本龍一、田中泯、KTLらと発表している。特に2000年代からは、ダムタイプのメンバーでもある高谷史郎との共作が増えている[注釈 10][3]。
父の宇吉郎と関連づける展示もあり、中谷宇吉郎雪の科学館では、宇吉郎が研究をしたグリーンランドから石を運んで『グリーンランド氷河の原』(1994年)を展示した[30][31]。また、銀座エルメスを会場にした『グリーンランド : 中谷芙二子+宇吉郎』(2017年-2018年)では、宇吉郎の業績を紹介するともに屋内用の霧の彫刻を展示した[32]。
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NGAの『砂漠の霧微気象圏』(1983年)
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昭和記念公園の『霧の森』(1992年)
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エクスプロラトリアムの『フォッグ・ブリッジ』(2013年)
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ZKMの『CLOUD WALK』(2019年)
メディア・アート
編集中谷は環境問題と同様に、メディア・エコロジーの問題に関心を持ち、メディア・アートの活動を行なった。ポータブルなビデオ機器の登場は、それまでの中央集権化されたテレビ放送に対して、個人が情報を発信する可能性を与えた[33]。『ゲリラ・テレビジョン』(後述)の翻訳者あとがきで、中谷は以下のように書いた。
地球の生態系は論じられても、メディアの生態系はまだ野放し状態である。メディア・エコロジーが健全に保たれなければ、われわれの生存は脅かされる。(中略)コミュケーション・テクノロジーは、われわれ個人の生活に、そして知覚の世界にまでも直接影響を及ぼしている。とすれば、われわれは、何らかの直接努力によってこれからのテクノロジーに、ソフトウェアの意思決定レベルでわれわれの価値観を反映させるように事を運んで行かなくてならないのではないか[34]。
『ユートピアQ&A』(1971年)
編集1971年に、パリ・コミューン成立100周年として、ストックホルム近代美術館で「ユートピア&ヴィジョンズ 1871-1981」が開催された。参加を要請されたE.A.T.は、都市を通信でつなぐプロジェクトとして『ユートピアQ&A』を開催し、メンバーとして中谷も参加した。国際通信が高価で一般的ではなかった時代に、国を越えた自由な個人の対話を目的とし、技術にはテレックスを使用した。会場はストックホルム、ニューヨーク、ボンベイ、東京の4都市となり、東京会場は銀座ソニービル4階の富士ゼロックスのショールームとなった[35]。
会話のテーマは「10年後=あなたも生きている未来」で、10年後を考える質問と回答の形式で行われた。テレックスで質問を他の会場に送り、受け取った会場で翻訳され、集めた回答は当日のうちに各地に返送された。この会話は1ヶ月間続いて400以上のQ&Aがやりとりされ、中谷や小林はくどう、森岡侑士らによって東京は最も活発な会場となった。『ユートピアQ&A』は個人と個人をグローバルに結ぶ試みとして、インターネットやソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)の先駆けとも評価されている[注釈 11][3][5]。
ビデオ・アート
編集『ユートピアQ&A』開催後に、ビデオ作家のマイケル・ゴールドバーグがカナダから来日した。ゴールドバーグはビデオを開発した国である日本で、そのメディウムを使った芸術がどのようなものか関心を持っていた[注釈 12]。中谷はE.A.T.を通じてゴールドバーグと会い、山口勝弘らと協働してビデオ・アート作品を制作するために芸術家に呼びかけ、ビデオ撮影のワークショップが行われた[37]。
- 『水俣病を告発する会 - テント村ビデオ日記』(1972年)
中谷はゴールドバーグとの出会いをきっかけにビデオを使うようになった。そしてディスコミュニケーションをテーマとした作品を考え、撮影現場には公害病である水俣病の抗議活動を選んだ[注釈 13]。当時、水俣病患者の支援団体「水俣病を告発する会」は、チッソ本社がある三菱重工のビル前で抗議の座り込みを行なっていた[注釈 14]。中谷は座り込みの参加者を撮影し、撮影した動画を抗議活動の参加者に見せた[40]。抗議活動の参加者は、自分たちが映る姿を見せてもらったのは初めてだったと言い、喜んだ[41]。中谷はビデオのフィードバックの有効性を学び、この作品は2月に開催された「ビデオ・コミュニケーション Do It Yourself Kit」展で展示された[42]。
- 『老人の知恵=文化のDNA』(1973年)
中谷は、ソニービルで開催される「cybernetic ARTRIP ’73」というアート展で作品を依頼された。中谷は、小林はくどうや森岡侑士との活動を通して、知識を資源としてとらえ、文化や知恵の伝達をビデオとコンピュータで行う方法を考えた。そして、文化の継承、知恵の記録・共有というテーマで老人にインタビューをして、その内容をアーカイブにすることを企画した。老人が選ばれたのは、利益や消費の観点からは疎外されがちな人々の知恵を集めるという意図があった[43]。
中谷は、小林や森岡らと老人ホームでインタビューを行い、25時間分の映像を撮影した。1973年当時の技術では、アーカイブへのランダムアクセスは不可能だったため、映像をテーマ別に整理して展示した[43]。
- 『風にのって一本の線を引こう』(1973年)
自然を観察した作品として、クモが巣を作るまでのプロセスを撮影した『風にのって一本の線を引こう』がある。自然をありのままに撮ることを目的とし、巣が完成するまでの全体が収録できるまで何度も撮影した[19]。
- 『卵の静力学』(1973年)、『コーディネーション:右手/左手』(1979年)、『総持寺』(1979年)
身体動作に注目した作品として、中谷自身が2個の卵を同時に立てるまでの11分間の試行錯誤を撮影した『卵の静力学』(1973年)[注釈 15][19]や、鉛筆を削る手の動きを撮影した『コーディネーション:右手/左手』(1979年)[注釈 16][3]、そして禅の経典を読む修行僧の動きを撮影した『総持寺』(1979年)などがある[19]。
『ゲリラ・テレビジョン』翻訳(1974年)
編集メディア・アクティビストのマイケル・シャンバーグとレインダンス・コーポレーションは、1971年に『ゲリラ・テレビジョン』という本を出版した。これは政治における権力や経済における大資本と結びついたマスメディアに対し、草の根活動の多様なビデオ文化の普及を目的とした実践書だった。ビデオの使い方を説明するマニュアルと、メディアのシステムを分析したメタ・マニュアルの部分に分かれており、カウンター・カルチャー、人工知能学、ドラッグ・カルチャーの発想やスタイルで書かれていた[44]。中谷は、日本においても権力、資本、メディアに同様な関係があると考え、1974年に『ゲリラ・テレビジョン』を翻訳した[注釈 17][38]。
芸術家の支援
編集中谷はE.A.T.をはじめとして芸術家と科学者をつなげる活動を行い、株式会社プロセス・アートを設立したほか、芸術家を支援する活動を行なった[注釈 18][47]。
- ビデオひろば(1972年 - 1975年)
マイケル・ゴールドバーグの提唱により、1972年に銀座ソニービルで「ビデオ・コミュニケーション Do It Yourself Kit」展が開催された。これが日本初のビデオ・アート展となった[48]。ビデオ作家の活動が日本でも始まり、アーティスト・グループ「ビデオひろば」が設立された。設立メンバーは中谷の他に山口勝弘、小林はくどう、かわなかのぶひろ、東野芳明らで、山本圭吾、松本俊夫、宮井陸郎らが加わった[49]。
ビデオひろばのオフィスは新橋にあり、ゆるやかなグループとしてプロジェクトを企画した。ビデオ・アート制作のために、小型ビデオ機材であるポータパックなどの貸し出しも可能だった[注釈 19]。メンバーは、マスメディアの映像報道について批判的であり、フィードバックがない一方向のメディア報道を「情報」と呼び、「ビデオ・コミュニケーション」とは区別した。中谷はビデオひろばの活動を通して、日本のビデオアートを国外に紹介した[51]。
- ビデオギャラリーSCAN(1980年 - 1992年)
中谷はビデオひろばの活動で、ビデオ作家のナム・ジュン・パイクや、Electronic Arts Intermix(E.A.I.)のハワード・ワイズらと交流した。中谷はE.A.I.のビデオ作品の日本配給権を得て、日本初のビデオ・アート専門ギャラリーとして1980年に「ビデオギャラリーSCAN」を設立した[52]。
ビデオギャラリーSCANでは、ビデオ・アーティストの個展、ニューヨークのアートやアンダーグラウンドなシーンのビデオレポート上映などが行われた。1981年からは日本の若手作家の公募展が始まり、作家を輩出した[注釈 20][54]。個展シリーズの「SCAN FOCUS」もあり、さまざまなイベントを通してインディペンデントなビデオ・アートの拠点として世界的に知られた。1987年には「JAPAN 87 国際ビデオ・テレビ・フェスティバル」が開催され、芸術関係者のほかにもエンジニア、テレビ関係者、学者などが参加して1992年まで継続し、芸術家が活躍する下地となった[注釈 21][54]。
主な展示
編集受賞・栄典
編集ドキュメンタリー
編集出典・脚注
編集注釈
編集- ^ クルーヴァーはベル研究所のエンジニアであり、芸術家の問題を解決する科学者のグループを作るためにE.A.T.設立の中心人物となった。E.A.T.の会員は異なる組織から集まった個人であり、最盛期には2000人以上がいた[9]。
- ^ 『九つの夕べ』の参加者は、ジョン・ケージ、スティーヴ・パクストン、イヴォンヌ・レイナー、ラウシェンバーグ、チューダーなど[10]。
- ^ 1970年代は、国民国家としての日本が国外と活発に交錯した時期でもあり、外交では1972年5月の沖縄返還、1972年9月の日中国交正常化があった。国境を越えた犯罪も起き、1976年のロッキード事件、日本赤軍による1972年のテルアビブ空港乱射事件、1974年のハーグ事件、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件などがあった[12]。
- ^ 1970年代の芸術では、インフラストラクチャーの変化が多数起きた。1969年の芸術労働連合を先駆として、アラナ・ハイスによるオルタナティブ・スペースの活動、「アンチ・イリュージョン」展、マーシャ・タッカーのニュー・ミュージアム、キナストン・マクシーンがキュレートした「Information」展などがある[16]。
- ^ 1960年代から1970年代にかけて、芸術作品の表現は現実の切り取りであるという認識を持つ作家が増えていった。1969年のアンドリュー・ディクソン・ホワイト・ミュージアムの「Earth Art」展、1970年のニューヨーク近代美術館(MoMA)の「Information」展という対照的なタイトルに参加した作家にも共通していた。こうした作家たちは自然科学やテクノロジー、または政治面で探求しつつ制作をした[12]。
- ^ 宇吉郎は雪の結晶に関する研究において、美しいとされる結晶だけが注目されることを問題視し、著書の『雪』で指摘した[18]。
- ^ 水を使った同時代の芸術家として、クラウス・リンケがいる。リンケは1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」展で、『美術館の中から外へ水を投げる ; 階段の上の歩行と交差』を発表した[22][12]。
- ^ ペプシ館では他にもE.A.T.による30名以上の芸術家の展示が予定され、動く彫刻、太陽光追跡装置、クリプトン・レーザー、ミラー・ドームやサウンド・システムなどが作られた。しかし予算超過を理由として、E.A.T.は1ヶ月半で撤退する結果となった[26]。
- ^ 東九条は戦前から在日朝鮮人が多く生活し、戦後は新幹線の敷設やバブル経済の地上げなどの影響を受けてきた地域でもある[28]。
- ^ 高谷との作品に、『IRIS』(バレンシア・ビエンナーレ、2001年)、『オラス・デル・シエロ』(フォーラム・バルセロナ、2003年)、『CLOUD FOREST』(山口情報芸術センター、2010年)などがある[3]。
- ^ 質問の内容は政治(国家による個人の行動規制)、経済(世界共通の通貨はできているか)、ジェンダー(女性の地位と役割、同性愛など)、社会(人種差別は減少するか)、科学、テクノロジー(誰が公的な情報と私的な情報の区分を決めるのか)、環境(あなたの国の公害は?)、芸術など多岐に渡った[36]。
- ^ 日本は1960年代にテレビの普及と番組の増加、マスメディアの拡大が起きており、1955年に1%だったテレビ所有率は1970年に90%になっていた[37]。
- ^ 1960年代から1970年代にかけて環境問題が関心を呼ぶようになっていた。生物学者のレイチェル・カーソンは著書『沈黙の春』(1962年)で農薬による環境汚染を指摘した[38]。1970年代から1980年代には、エコロジーにもとづく芸術活動としてボニー・シャークの『ザ・ファーム』(1974年)や、ヨーゼフ・ボイスの『7000本のオーク』(1982年)などが行われた[39]。
- ^ 水俣病は第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくとともに四大公害病と呼ばれ、日本政府は1967年に公害対策基本法を制定した[39]。
- ^ 卵の殻の微細な凹凸を使えば、卵はバランスをとって自立できるという宇吉郎の主張を参考にして撮影された。展示会場では、観客も卵を立てる試みに挑戦できるようになっていた[19]。
- ^ 当時、自分で鉛筆を削れない子供が問題とされていた[3]。
- ^ 訳書は美術出版社から出版された[45]。
- ^ 父の宇吉郎は、芸術家も含めたネットワークの組織や、ドキュメンタリー映画「岩波映画」を立ち上げる活動をしていた。宇吉郎は、科学は対象の研究だけでなく観察過程を対象とする研究や記録にもあると考えていた[46]。
- ^ ビデオ・アート初期には、ソニーのポータパックの登場が影響した。ナム・ジュン・パイクはポータパックを作品で使用し、シャンバーグも『ゲリラ・テレビジョン』でポータパックの影響を述べている[50]。
- ^ 公募展の入選者は、原田大三郎、櫻井宏哉、永田修、寺井弘典、川口真央、串山久美子、黒塚直子、島野義孝、斉藤信、土佐尚子、邱世源、黒川芳信、篠原康雄、佐々木成明、中井恒夫らだった[53]。
- ^ 個展シリーズ「SCAN FOCUS」の参加者は、ビル・ヴィオラ、津野敬子、ジョン・アルパート、ピーター・キャンバス、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、今井祝雄、出光真子、キット・フィッツジェラルド、ジョン・サンボーン、ピーター・カラス、松本俊夫、ゲイリー・ヒル、多寡克也、バーバラ・サイクス・ディーツらだった[55]。
出典
編集- ^ 北海道大学理学部物理学教室「中谷宇吉郎教授の逝去を悼む」『北海道大学地球物理学研究報告』第10号、1963年3月、13頁。「昭和8年(1933) 5月15日次女芙二子誕生」、中谷宇吉郎年譜を参照。
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参考文献
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- 中谷芙二子「手法から作法へ:ビデオで見る「禅のかたち」」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- 中谷芙二子「『ゲリラ・テレビジョン』訳者あとがき」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- ニーナ・ホリサキクリステンズ(Nina Horisaki-Christens)「日本のビデオアート黎明期における中谷芙二子の貢献」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- 山峰潤也「【前編】芸術と科学を越境するアーティスト、中谷芙二子。テート・モダンで77番目の霧の新作を発表」(PDF)『Bound Baw』、大阪芸術大学、2017年5月、2021年4月12日閲覧。
- 山峰潤也「【後編】霧の彫刻とビデオ・アートからみる、アーティスト 中谷芙二子に通底する哲学」(PDF)『Bound Baw』、大阪芸術大学、2017年6月、2021年4月12日閲覧。
- 山峰潤也「最初の霧の彫刻 ペプシ館――アートとテクノロジーの越境から」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- 山峰潤也「はじめににかえて 霧の抵抗」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- 山峰潤也「情報彫刻《ユートピアQ&A 1981》――個人と個人を結ぶホットライン」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- 山峰潤也「ビデオギャラリーSCAN」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
- 山本崇記「行政権力による排除の再編成と住民運動の不/可能性―京都市東九条におけるスラム対策を事例に」(PDF)『社会文化研究』、社会文化学会、2009年3月、159-182頁、2021年4月12日閲覧。
- 山本浩貴「エコロジーの美術史」(PDF)、東京藝術大学大学院、2020年12月、2021年4月12日閲覧。
- 「図版」『霧の抵抗 中谷芙二子展』フィルムアート社、2019年。
関連文献
編集- 菊池敏正「現代美術における彫刻の可能性と動向 ―ZKMでの展覧会を通じて―」(PDF)『東京大学総合研究博物館ニュース』第24巻第1号、東京大学総合研究博物館、2019年1月、2021年4月12日閲覧。
- 阪本裕文「初期ビデオアートのメディアに対する批評性」(PDF)『Collaborative Cataloging Japan』2020年、2021年4月12日閲覧。
- 中谷芙二子 著、アンヌ・マリー・デュゲ 編『FOG 霧 BROUILLARD』Anarchive、2012年。
- 平倉圭「霧のかたち」(PDF)『聞こえないを聴く・見えないを視る』、京都市立芸術大学、2021年3月、2021年5月12日閲覧。
- Yuriko Furuhata(古畑百合子)「7. The Fog Medium: Visualizing and Engineering the Atmosphere」(PDF)『Screen Genealogies: From Optical Device to Environmental Medium』、Amsterdam University Press、2019年、187-214頁、2021年5月12日閲覧。