リバウド

ブラジルのサッカー選手 (1972-)

リバウド・ヴィトール・ボルバ・フェレイラRivaldo Vítor Borba Ferreira, 1972年4月19日 - )は、ブラジルレシフェ出身の元サッカー選手。元ブラジル代表

リバウド
2014年のリバウド
名前
本名 リバウド・ヴィトール・ボルバ・フェレイラ
Rivaldo Vítor Borba Ferreira
ラテン文字 RIVALDO
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1972-04-19) 1972年4月19日(52歳)
出身地 レシフェ
身長 185cm[1]
体重 75kg[1]
選手情報
ポジション FWMF[1]
利き足 左足
ユース
1989-1990 ブラジルの旗 パウリスターノ
1991 ブラジルの旗 サンタクルス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1992 ブラジルの旗 サンタクルス 4 (6)
1992-1994 ブラジルの旗 モジミリン 0 (0)
1993-1994 ブラジルの旗 コリンチャンス (loan) 19 (11)
1994-1996 ブラジルの旗 パルメイラス 45 (21)
1996-1997 スペインの旗 デポルティーボ・ラ・コルーニャ 41 (21)
1997-2002 スペインの旗 バルセロナ 157 (86)
2002-2004 イタリアの旗 ミラン 22 (5)
2004 ブラジルの旗 クルゼイロ (loan) 11 (0)
2004-2007 ギリシャの旗 オリンピアコス 70 (34)
2007-2008 ギリシャの旗 AEKアテネ 35 (12)
2008-2010 ウズベキスタンの旗 ブニョドコル 53 (33)
2010-2011 ブラジルの旗 モジミリン 0 (0)
2011 ブラジルの旗 サンパウロ (loan) 30 (5)
2012 アンゴラの旗 カブスコルプ 21 (11)
2013 ブラジルの旗 サンカエターノ 7 (0)
2014 ブラジルの旗 モジミリン 1 (0)
代表歴2
1992-1993  ブラジル U-20 9 (1)
1996  ブラジル U-23 5 (0)
1993-2003 ブラジルの旗 ブラジル [2] 74 (35)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1996 アトランタ サッカー
FIFAワールドカップ
1998 フランス
2002 日本・韓国
FIFAコンフェデレーションズカップ
1997 サウジアラビア
コパ・アメリカ
1999 パラグアイ
1. 国内リーグ戦に限る。2014年10月23日現在。
2. 2014年10月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

1999年には世界最優秀選手と欧州最優秀選手(バロンドール)に選ばれた。

2002年日韓W杯ではロナウドロナウジーニョらと共に3Rと呼ばれる攻撃陣を結成し、ブラジルの5回目の優勝に貢献した。

他の表記としては、リバルド、リヴァウド、リヴァルド、ヒバウド、ヒバルド、ヒヴァウド、ヒヴァルドなどがある。

経歴

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クラブ

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SEパルメイラスでの活躍を経て1996年、当時ヴェルディ川崎から500万ドルのオファーがきていたが、スペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャに移籍。初年度にも関わらず46試合で21得点という好成績を残し、移籍したロナウドの後釜としてFCバルセロナへと移籍した。

バルセロナでは1997-98、1998-99シーズンでのリーグ連覇に貢献し、1998-99シーズンにはバロンドールFIFA最優秀選手賞を受賞。2000-2001シーズンから背番号が「11」から「10」になり、スター選手であるルイス・フィーゴがライバル関係にあるレアル・マドリードへ移籍したため、リバウドがエースとなった。また2001-02シーズンでは、パトリック・クライファートハビエル・サビオラと共にトリデンテ三叉の矛)とよばれるトリオの中心として、強烈な攻撃を披露していた、しかし、このシーズンのリバウドは怪我が多く、試合数得点数ともに加入以来最低の成績であった。

ルイ・ファン・ハール監督との折り合いが悪く、2002-03シーズンからファン・ハールがバルセロナの監督を再び就任することになると、2002年にACミランへ移籍した。だが、イタリアのプレースタイルに馴染めず、更に自身の離婚問題でコンディションを崩し出場機会に恵まれず、2003年に退団した。

その後ギリシャのオリンピアコスFCに移籍。リーグの得点王になるなど中心選手としてリーグ3連覇に貢献したが、2006-07シーズンオフに契約交渉が決裂し退団。ブラジルに帰国する予定であったが、家族がギリシャに残ることを希望したため、退団して2週間後にオリンピアコスのライバルであるAEKアテネFCと2年契約を結ぶ。しかし、またもチームと軋轢が生じ、2008年8月29日、ウズベキスタンリーグ1部のFCブニョドコルと2年契約を結んだことがAEKアテネより発表された。その後、クラブでは2連覇に貢献し、特に2009年シーズンにはリーグ得点王にも輝いた。

2010年8月にブニョドコルとの契約を解除して退団した。その後、自身のツィッター上において、2011年にリバウド自身が会長を務めるモジミリンECで現役生活を再開することを発表した。しかし、2011年1月23日にサンパウロFCへのレンタル移籍が発表された。それからカブスコルプSCド・パランカポルトガル語版と契約を結んだ。そして2012-13シーズンからは、ADサンカエターノと1年契約で移籍し、2013年2月9日、移籍後初ゴールをあげた。

2014年3月15日、自身のインスタグラム内で現役引退を発表したが[3]、2015年6月ブラジル2部で最下位に低迷するモジミリンECを救うために現役復帰を表明、7月7日ナウチコ戦で現役復帰後7月14日のマカエ戦では息子のリバウドJr (ヒバウド・ジュニオール、リバウジーニョとも) と親子揃って先発出場し、ともに得点をあげた。翌8月に再び現役引退を発表。

バレンシア戦でのハットトリック

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バルセロナ所属時の2000-01シーズンリーガ最終節、勝利した方が翌シーズンのチャンピオンズリーグ出場(4位)となるバレンシアCF戦で、リバウドはチームの全得点となるハットトリックを記録し勝利に導いた。1点目は前半3分、バレンシアの壁を僅かに掠めてネットに突き刺さったフリーキック。2点目は前半ロスタイムに、得意の強烈な低い弾道のミドルシュートゴールを奪った。

そして3点目は、2対2の同点のまま、後半43分と残り時間はわずかとなり、引き分けならバレンシアがチャンピオンズリーグに出場するという状況であった。ペナルティエリア外にいたリバウドは、後方からのフランク・デ・ブールの浮き球のパスを「ゴールを背にしたまま胸でトラップすると、左足のオーバーヘッドキックを放ち」それを一挙動で行った。ゴールキーパーサンティアゴ・カニサレスは、アウトカーブがかかったこのシュートを止められず、ゴール右下隅に突き刺さった。

スタンドで観戦していた当時のジョアン・ガスパール会長が珍しく狂喜乱舞し、試合が終了するとカンプ・ノウの観客は興奮のあまりピッチに崩れ込んだ。ルイス・エンリケに「あれはキャプテン翼でしか表現できないプレーだよ」、メディアからも「キャプテン翼は実在した」と評された。2001年から『キャプテン翼 ROAD TO 2002』が連載されるとリバウドをモデルにしたFCバルセロナとブラジル代表の10番・リバウールが登場し、上記のゴールシーンもリバウールの必殺技「ハイジャンピングボレー」として誌上で再現されている[4]

ブラジル代表

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ブラジル代表としては1993年12月16日メキシコ戦で代表デビューを飾る。1996年アトランタオリンピックのブラジル五輪代表にオーバーエイジとして出場するが、自身のミスもあり準決勝で敗戦した。この時のブラジル代表はフル代表と五輪代表の両方をザガロが兼務しており、アトランタ五輪での敗退の戦犯とされたリバウドは、五輪後しばらくフル代表に召集されなくなった時期があった。しかしその後すぐに代表復帰を果たし、FIFAワールドカップではブラジルの栄光のNo.10を1998年2002年の二大会にわたって背負った。1998 FIFAワールドカップ大会では、準々決勝のデンマーク戦で当時世界最高のゴールキーパーと言われていたピーター・シュマイケルから2得点を奪うなど計3得点をあげたものの、優勝を逃した事もありブラジル国民を納得させることが出来なかった。

1999年のコパ・アメリカではロナウドとともに得点王になりMVPにも輝くと、2001年に行われた2002 FIFAワールドカップ南米予選では同国は苦戦を続けたが、10月7日のチリ戦で1得点を上げ本大会出場に貢献した。 2002年の本大会では5得点を決め決勝でも2得点に絡む活躍を見せ、代表で活躍出来ないと言われていた批判を一蹴し、ロナウドロナウジーニョカフーロベルト・カルロスらとともに5度目の優勝に大きく貢献した。 ペレ以外で、背番号10番を付けワールドカップにて中心選手として優勝したことがある選手は、現在までリバウドただ一人である。

人物

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  • 実家の家計が苦しく、ユース時代にはバス代を節約するために、19kmも離れた練習場まで歩いて通った。また、プロになって初めてステーキを食べた時に、それまで栄養失調だったことから歯が抜け落ち、入れ歯になってしまった。
  • 息子のリバウジーニョもプロのサッカー選手であり、2015年には自身が会長を務めるモジミリンECで親子競演を果たした。2024年9月現在、FCファルル・コンスタンツァに在籍。

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1991 サンタクルス 18 8
1992 モジミリン 27 9
1993 コリンチャンス 1部 19 11
1994 22 6
パルメイラス 29 13
1995 45 17
1996 30 23
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
1996-97 デポルティーボ 11 プリメーラ 41 21
1997-98 FCバルセロナ 34 19
1998-99 37 24
1999-00 31 12
2000-01 10 35 23
2001-02 20 8
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2002-03 ACミラン 11 セリエA 22 5
2003-04 0 0
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2004 クルゼイロ 11 1部 11 2
ギリシャ リーグ戦 リーグ杯エラーダス杯 期間通算
2004-05 オリンピアコス 5 スーパー 23 12
2005-06 10 23 7
2006-07 27 17
2007-08 AEKアテネ 29 8
ウズベキスタン リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2008-09 FCブニョドコル 6 オリーリーグ 12 7
2009-10 10 30 20
通算 ブラジル 1部 156 72
ブラジル 45 17
スペイン プリメーラ 198 107
イタリア セリエA 22 5
ギリシャ スーパー 73 43
総通算 494 244
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
UEFAUEFA CL
1998-99 FCバルセロナ 6 3
1999-00 14 10
2000-01 13 11
2001-02 12 6
2002-03 ACミラン 13 2
2004-05 オリンピアコス 6 1
2005-06 5 2
2006-07 6 0
2007-08 6 3
通算 UEFA 81 38

代表歴

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試合数

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出典4[2]


ブラジル代表国際Aマッチ
出場得点
1993 1 1
1994 1 0
1995 5 1
1996 2 2
1997 4 1
1998 12 5
1999 13 8
2000 11 8
2001 8 3
2002 10 5
2003 7 1
通算 74 35

タイトル

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クラブ

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パルメイラス
バルセロナ
ミラン
クルゼイロ
オリンピアコス
ブニョドコル

代表

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ブラジル代表

個人

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出典

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関連項目

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外部リンク

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