ミカエル・ラウドルップ

デンマークのサッカー選手

ミカエル・ラウドルップ(Michael Laudrup, 1964年6月15日 - )は、デンマークコペンハーゲン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。デンマーク代表だった。現役時代のポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワードセカンドトップ)。デンマークサッカー界を代表する選手であり、1980年代中盤から1990年代のヨーロッパを代表する選手のひとり。同じくサッカー選手であった弟のブライアン・ラウドルップと共に「ラウドルップ兄弟」として知られる。父のフィン・ラウドルップ英語版も元サッカー選手で代表キャプテンを務めた。

ミカエル・ラウドルップ
アル・ラーヤンSC監督時代(2016年)
名前
愛称 ミカ
ラテン文字 Michael LAUDRUP[1]
基本情報
国籍  デンマーク
生年月日 (1964-06-15) 1964年6月15日(60歳)
出身地 コペンハーゲン
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション MF (OH, CH) / FW (ST, CF)
利き足 右足
ユース
1971-1973 デンマークの旗 Vanløse IF
1973-1974 デンマークの旗 ブレンビー
1974-1980 デンマークの旗 ケベンハウンBK
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981 デンマークの旗 ケベンハウンBK 14 (3)
1982-1983 デンマークの旗 ブレンビー 38 (24)
1983-1985 イタリアの旗 ラツィオ 60 (9)
1985-1989 イタリアの旗 ユヴェントス 102 (16)
1989-1994 スペインの旗 バルセロナ 167 (40)
1994-1996 スペインの旗 レアル・マドリード 62 (12)
1996-1997 日本の旗 ヴィッセル神戸 15 (6)
1997-1998 オランダの旗 アヤックス 21 (11)
通算 479 (121)
代表歴
1980  デンマーク U-17 4 (2)
1980-1981  デンマーク U-19 19 (12)
1982  デンマーク U-21 2 (0)
1982-1998 デンマークの旗 デンマーク 104 (37)
監督歴
2000-2002 デンマークの旗 デンマーク (アシスタント)
2002-2006 デンマークの旗 ブレンビー
2007-2008 スペインの旗 ヘタフェ
2008-2009 ロシアの旗 スパルタク・モスクワ
2010-2011 スペインの旗 マヨルカ
2012-2014 ウェールズの旗 スウォンジー
2014-2015 カタールの旗 レフウィヤ
2016-2018 カタールの旗 アル・ラーヤン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

1982年、18歳の誕生日にデンマーク代表デビューし、2度のワールドカップ、3度の欧州選手権を含む104試合に出場して37得点を挙げた。1994年11月からは代表引退するまで28試合に渡って代表キャプテンを務めた[2]。1998年6月フランスワールドカップを最後に現役を引退した。

1999年、過去25年間のリーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手賞を受賞した[3]。2000年4月にはDannebrog勲章を受勲した。 2003年11月、デンマークサッカー協会によってUEFAジュビリーアウォーズのデンマーク代表(過去50年のデンマーク最優秀選手)に選出された[4]。2006年11月には、デンマークサッカー協会によって公式に史上最高のデンマーク人選手に選出された[5]

クラブ経歴

編集

幼少期

編集

コペンハーゲンのFrederiksberg地区に生まれ、父親のフィン・ラウドルップ英語版も幼少時代にプレーしたVanløse IFでサッカーを始めた[6]。1973年にフィンがブレンビーIFの選手兼任監督となると、ラウドルップ家はブロンビーに引っ越し、兄弟のブライアン・ラウドルップもブロンビーの下部組織に移った[6]。1976年、父の後を追ってデンマーク・スーペルリーガ(1部)のケベンハウンBK(現FCコペンハーゲン)の下部組織に移ったが、ブライアンはブロンビーに留まった[6]

初期の経歴

編集

1981年にケベンハウンのトップチームに昇格。ブロンビーでプレーしていた父親のフィンは、1981年シーズン終了後のスーペルリーガ昇格を置き土産に現役引退した。1982年にコペンハーゲン郊外のブロンビーに移籍し、デビュー戦となったBoldklubben 1909戦 (7-1) で2得点を挙げた。1982年シーズンはリーグ3位の15得点を挙げ、デンマーク年間最優秀選手賞を受賞した。1983年シーズンも引き続きブロンビーでプレーし、中盤戦までに9得点を挙げた。

ラツィオ

編集

1983年6月、イタリア・セリエA覇者のユヴェントスFCに移籍。ブロンビーにはデンマーク史上最高の移籍金100万ドルが支払われた。ユヴェントスとの合意前にはリヴァプールFCとの契約間近だったが、リヴァプールが提示内容を3年契約から突然変更、契約年数(4年)を提示してきたことに納得せず、リヴァプールとの交渉が決裂していた[7][8]。また後に移籍することとなるFCバルセロナ、アヤックスなども獲得を試みたが、父親の勧めもあり[9]、ユベントスへ移籍することとなった。当時のセリエAの規定では同時に出場できる外国人選手は2人までだったが、既にユヴェントスには、ズビグニェフ・ボニエクミシェル・プラティニが在籍しており、SSラツィオへレンタル移籍をさせて活躍出来そうなのかを見定めることとした[10]。本人は当初、レンタル移籍をさせられることを受け入れなかったが、最終的には受け入れ、2シーズンの契約でレンタル移籍した[10]。セリエAデビュー戦となった9月12日エラス・ヴェローナFC戦 (2-4) で2得点を挙げた[10]。次節、9月18日のインテル戦でもゴールを決めた[10][11]。しかし、1983-84シーズンのラツィオは、かろうじてセリエB降格を回避した。1984-85シーズンのチームは序盤戦から低迷し、セリエB降格となった[10]。自身は、代表チームでの活躍とは対照的に、チームの戦術も影響して活躍出来なかったが、ユヴェントスの首脳陣がその才能を疑うことはなかった[10]

ユベントス

編集

1985-86シーズン、ボニエクがASローマに移籍したことで、ユヴェントスに正式に加入した[10]。1985年8月25日、コッパ・イタリアカゼルターナFC戦で移籍後初ゴールを決め、9月22日ピサ戦でユベントスの選手としてセリエA初ゴールを決めると、ヴェローナ戦、アタランタ戦と3試合連続ゴールを決めた[11]。また、1986年4月20日のACミラン戦では決勝ゴールを決めて勝利、チームはリーグ優勝を果たした[10]。1985年12月、国立競技場で行われたインターコンチネンタルカップアルヘンティノス・ジュニアーズ戦では、角度のない位置から同点ゴールを決めて試合を振り出しに戻した[10]。PK戦ではPKを失敗したが、ユヴェントスは2-2(PK 4-2)で勝利してタイトルを獲得した[12]。このシーズン、チームは、セリエAとインターコンチネンタルカップの2冠を達成、自身も良いパフォーマンスを見せた[10]。1985年度のデンマーク年間最優秀選手賞を受賞、バロンドール投票では自己最高位の4位に入った[13]

1986-87シーズン、ジョバンニ・トラパットーニ監督が退任し、新たにリノ・マレケージが監督に就任すると、前年の様な活躍を見せられずに終わった[10]チャンピオンズカップヴァルル・レイキャヴィークとの対戦の第1試合ではハットトリックを達成、第2戦でも2得点を決めた[14]。1987年にプラティニが引退すると、新加入のイアン・ラッシュと共にユヴェントスを牽引することを期待されたが、度重なる怪我で大きな活躍が出来ずバルセロナに売却された[7][15]

FCバルセロナ

編集

1989年、少年時代のアイドル的存在であるヨハン・クライフ監督[7] が獲得を熱望し[16]ラ・リーガの強豪FCバルセロナに移籍した。しかしユベントス時代に大きな活躍を見せることが出来なかったこともあり[17]、当初は獲得に疑問の声が挙がったが[16]、高いテクニックはクライフのサッカースタイルに完全にマッチし[16]、ウイングの位置から[18]、チームに不可欠な役割を果たし[19]フリスト・ストイチコフロマーリオらに多くにアシストを供給[16]UEFAチャンピオンズカップ優勝、リーグ4連覇を成し遂げた。バルセロナでは通算296試合に出場、97ゴールを挙げた[17]

1989-90シーズン、第2節ホームデビュー戦となったオサスナ戦で初ゴールを決めた[11]。同シーズンは決勝でライバル、レアル・マドリードを2-0と破り、コパデルレイに優勝した。

1990-91シーズン、1月19日第19節のレアルマドリードとのクラシコではファンやメディアから称賛されるスライディングボレーによる先制点を決めると[20]、2月10日ベティス戦まで4試合連続ゴールを決めるなど[11]、リーガ優勝に貢献した。

1991-92シーズン、12月7日のテネリフェ戦から1992年1月5日のマジョルカ戦まで4試合連続ゴールを決めるなど[11]、リーグ戦で自己最多の13ゴールを決め、1992年にはドン・バロン・アワードの最優秀外国人選手賞を受賞。同シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝でUCサンプドリアを1-0と破り[21]、バルセロナと自身にとって初のチャンピオンズカップを制覇しただけでなく2年連続のリーグ優勝も成し遂げた。1992年のバロンドールでは7位にランクインした[22]

1992-93シーズン、リーグ戦では2シーズン連続で2桁ゴールを決めた。最終節まで首位はレアルマドリード、バルセロナは2位であったが、その最終節でバルセロナがレアル・ソシエダ戦に勝利した一方、レアルマドリードはテネリフェと引き分けたことで、3連覇を果たしたが[23]インターコンチネンタルカップではサンパウロに1-2で敗れた[12]。1993年のバロンドールではの5位に入った[24]

1993-94シーズン、ブラジル代表ロマーリオが加入し、バルセロナの外国人選手は4人となった。チャンピオンズリーグ、ファーストラウンドのディナモ・キエフ戦でシーズン初ゴールを決めるなど[11]、当初はスタメン出場していたが、次第にベンチスタートになることも増えた[25]。レアルマドリ―ドとのクラシコでは途中出場からノールックパスでロマーリオのゴールをアシストするなど、プレー面でロマーリオとの抜群の相性の良さを度々見せた[26]。 また優勝がかかる最終節のセヴィージャFC戦では先発出場し、前半にサイド突破からのクロスでストイチコフの同点ゴールをアシスト、後半にはストイチコフのアシストから得点を決め、勝利を引き寄せ、首位を走っていたラ・コルーニャに逆転での優勝を果たした[27]。クライフ監督とはたびたび衝突したため[28]、1993-94シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝・ACミラン戦ではミラン所属の弟のブライアンと共にベンチ外になった[7]。対戦したミランの監督ファビオ・カペッロはラウドルップを恐れていたが、居なくて良かった、彼をベンチ外にしたのはクライフの判断ミスだと述べた[7]

レアルマドリード

編集

1994-95シーズンから、レアル・マドリードに移籍、移籍の理由はクライフに対してリベンジしたいう理由でも[6]、遺恨などでもなく[7]、プロとしてのものであり、またバルセロナはワールドカップアメリカ大会にかなりの所属選手を出していた為、疲労によりチーム力が落ちると考え[7][29]、また新しい監督の下で新しい選手とプレーしたかったことが理由であるとした[6]グアルディオラは記者からラウドルップの移籍を聞き涙を流し、移籍を止める様に直に説得を試みた[15][29]。バルセロナ最大のライバルに移籍したことで議論を呼んだが[30]、ここは攻撃的MFとしてプレー、サモラーノラウールらに多くにアシストを供給し[31]、サモラーノと共にリーグ優勝に最も大きな役割を果たした[32]。これらの活躍から1995年のバロンドールでは、第10位に入った[33]

9月27日、UEFAカップ、1stラウンドのスポルティングCP戦、2ndレグで移籍後初ゴールを決めると、リーグ開幕戦のセビージャ戦でサモラーノのゴールをアシスト、11月5日のアトレティコ・マドリードとのマドリードダービーではラウールのプロ初ゴールをアシストした[34][35]。12月11日のオビエド戦でレアルマドリー移籍後リーガ初ゴール[11]、1月7日の古巣バルセロナ戦ではサモラーノのゴールをアシストするなど、5-0と勝利(バルセロナ在籍時、前シーズンのエル・クラシコでは、レアル・マドリード相手に5-0と大勝、この時もバルセロナ相手に同じスコアで勝利した[16]。)、2月12日のログロニェス戦では2ゴールを決めるなど[11]、ラ・リーガ制覇に貢献、バルセロナ時代の4連覇を合わせて、個人としてはリーグ5連覇を達成、異なる二つ以上のクラブでラ・リーガ5連覇を達成した初の選手となった。

1995-96シーズン、ラ・リーガでは、9月30日、第5節のFCバルセロナ戦ではラウールのクラシコ初ゴールをアシスト[36]、1月24日のビルバオ戦で2ゴールを決め、3月31日開催アトレチコ・マドリードとのダービーでは決勝ゴールを決めるなど[37]、8ゴールを挙げ、また鋭いスルーパスで多くのチャンスを演出したが[32] 、6位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグでは準々決勝ユベントス戦では、第1戦にラウルのゴールをアシストし1-0で勝利したが、第2戦イエロレドンド、サモラーノを欠き、ベスト8で敗退、スーペルコパでもラ・コルーニャに破れ、ラリーガ移籍後初めてタイトル獲得無しのシーズンとなった。レアル・マドリードでは2シーズンプレーしただけにもかかわらず、2002年にマルカ紙が実施したインターネット調査では、レアル・マドリードの歴代最優秀選手投票で12位にランクインした[38]

ヴィッセル神戸

編集

1995年のインタビューにおいて、既に日本からのオファーを前向きに検討していて、恐らく1995-96シーズン終了後は日本でプレーすることになると話していた[39]。1996年、サンフレッチェ広島の監督を務めていた頃から獲得を熱望していた、スチュワート・バクスター監督のたっての希望により[40]ジャパンフットボールリーグ(2部に相当)のヴィッセル神戸に入団することとなった。ここでは特に永島昭浩といいコンビネーションを見せた[41]。デビュー戦となった8月18日のブランメル仙台戦で初ゴールを含む[42] 2ゴールのデビューを飾る[43]。第21節のコンサドーレ札幌戦では、移籍後初アシストを含め、3アシストを記録するなど、目覚ましい活躍を見せて5-1での勝利に貢献[44]ワールドカップ予選出場のためにチームを離脱することもあったが、昇格を争う中、最終節を前にした福島FC戦では決勝ゴールを含む2ゴールを決めるなど[45]Jリーグ昇格に貢献[42]。同年の天皇杯3回戦、関西ダービーとなった京都サンガ戦では1ゴールを決めたが、試合は3-4で敗れた[46]

1997年、Jリーグカップでは3月29日の柏レイソル戦で1-1の同点とするゴールを決め[47]、チームはJリーグカップ初勝利を挙げた[48]。同年のJリーグ開幕戦、鹿島アントラーズ戦では、永島昭浩のゴールをアシストした[49]。第2節の名古屋グランパスエイト戦でも永島昭浩の先制ゴールをアシスト、チームはJリーグ初勝利を挙げた[48][50]、第3節4月19日の横浜フリューゲルス戦に先発したものの、負傷のため前半16分に交代[51][52]、怪我影響で以降の試合を欠場、そのまま退団することとなった。

アヤックス

編集

1997-98シーズン、同郷のモアテン・オルセン監督が率いるエールディヴィジAFCアヤックスに加入し、3節のユトレヒト戦で移籍後初ゴールを決めると[53]、21節のRKCヴァールヴァイク戦でキャリア2度目のハットトリックを決め[53]、4月11日30節のヘーレンフェーン戦でクラブチームでの現役ラストゴールを決めるなど、僅か21試合の出場ながら、11得点9アシストを記録した[53]。またクラブチームでの現役ラストマッチとなったKNVBカップ決勝のPSV戦では2-0とリードを広げるリトマネンのゴールをアシストするなど、1997-98シーズンにリーグとKNVBカップの2冠達成に貢献、契約延長の話を受けたが、同シーズンを最後に引退した。

代表経歴

編集

1981年2月28日、U-19フランス代表戦でU-19デンマーク代表デビューを飾り、U-19代表では25試合に出場して14得点を記録した[54]。ブロンビーでのデビューシーズンにデンマークA代表に初招集され、18歳の誕生日である1982年6月15日、ノルウェー戦でゴールを決めるデビュー[55]ハラルド・ニールセンに次いで歴代2位の年少出場記録を作った。

1983年10月12日、UEFA欧州選手権1984予選、ルクセンブルク戦ではハットトリックを決めた[56]

1984年、欧州選手権フランス大会には中心選手として全試合に出場し、将来有望な若手選手の一人として注目された。

1986年、ワールドカップメキシコ大会では、「ダニッシュ・ダイナマイト」と賞賛された攻撃的なチームの中でエルケーア・ラルセンと2トップを組み、同大会でデンマーク初の決勝トーナメント進出に貢献した。なお、1次リーグ第2戦のウルグアイ戦(6-1)では、52分に技巧的なドリブル突破からデンマークの3点目の得点を決めている[57]

1988年、欧州選手権西ドイツ大会にも出場。1次リーグのスペイン戦でゴールを決めたが[57]、グループリーグ敗退に終わった。長年代表を率いたドイツ人のゼップ・ピオンテック監督が大会後に退任すると、その後の監督たちとは対立し、代表辞退と復帰を繰り返すようになった[58]1990 FIFAワールドカップ イタリア大会予選では、10月11日、最終節を前に出場権を争っていたルーマニアにホームで3-0と勝利し、勝ち点を8に伸ばし、勝ち点7のルーマニアを抜いて首位に立ち、2大会連続出場に王手をかけたものの[59]、11月15日のアウエーで1-3と敗れ[60]、土壇場で本大会出場を逃した。UEFA EURO '92予選では3試合に出場したが、1990年11月、メラー・ニールセン監督との意見の相違から[61]、弟のブライアンやヤン・メルビーとともに代表からの引退を表明した[62]。ブライアンはピーター・シュマイケルなどとともにUEFA EURO '92本大会に出場し、ニールセン監督のチームは快進撃を続けて初優勝を果たした。

ニールセン監督の守備的サッカースタイルを批判して代表を退いていたが、10時間を超える話し合いの末[63]、1993年8月に代表に復帰した。1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会予選では最終節を前に、アイルランドが勝ち点17、デンマークが勝ち点16、スペインが13であった[64]。しかし最終節でスペインとの直接対決で敗れ、スペインに逆転され[65]、2大会連続で出場を争うライバルに逆転され、ワールドカップ出場を逃した。

1995年、キング・ファハド・カップFIFAコンフェデレーションズカップの前身)に出場し、決勝のアルゼンチン戦では決勝ゴールを決めて優勝に貢献した[66]

UEFA EURO '96予選では10試合に出場して4得点し[57]本大会ではキャプテンを務め[61]、兄弟そろって出場したが、1勝1分1敗でグループリーグ敗退に終わった[61]

1998年、ワールドカップフランス大会にキャプテンとして出場。グループリーグではフランス戦でPKによるゴールを決めた。決勝トーナメント1回戦ではアトランタオリンピック優勝のナイジェリアと対戦し、絶妙なパスでメラーの先制点、そしてエッベ・サンドの追加点をアシスト、4-1の大差で勝利し[67]、チームをベスト8まで牽引した。準々決勝ではブラジルを苦しめたが、2-3で敗れ、代表のみならず現役生活最後の試合となった。またFIFAによるワールドカップフランス大会オールスターメンバーにも選ばれた[7]

指導者経歴

編集

デンマーク代表コーチ

編集

1998年の現役引退後には、空き時間などにリンビーBKのシニアチームでプレーすることもあった[68]。2000年にデンマーク代表のアシスタントコーチに就任し、36歳で指導者の道を歩み始めた。モアテン・オルセン監督のチームは4-2-3-1フォーメーションを採用し、両翼に機動力のあるウイングを配置してショートパスでボールを支配するサッカーを探求。2002 FIFAワールドカップでは決勝トーナメントに進出した。

ブレンビー

編集

2002年、デンマーク・スーペルリーガブレンビーIF監督に就任。代表と似たような戦術の採用を明らかにし、選手時代にデンマーク代表でともにプレーし、監督としてリーグ優勝経験のあるヨン・イェンセンをアシスタントコーチに据えた。ベテラン選手や経験豊富な選手を放出し、下部組織出身の若手有望株や新加入選手を積極的に起用することでチームを刷新。また、守備を安定させるためにデンマーク代表で実績のあるモアテン・ビスガードを獲得した。就任初年度の2002-03シーズンには、ダニッシュ・カップの決勝でFCミッティランを破って優勝した。リーグ戦では2度2位となった後、2004-05シーズンに就任後初優勝。このシーズンにはダニッシュ・カップと合わせて国内2冠を達成し、2005-06シーズンは再びリーグ戦で2位となった。ブレンビーとの契約延長交渉がうまくいかず、2005-06シーズン終了後にコーチのイェンセンとともにブレンビー監督を退任した。古巣のレアル・マドリードや、ラーシュ・ラーゲルベック監督の後任を探していたスウェーデン代表を含め、いくつかのクラブ・代表から関心を示された。2007年、ブレンビーはラウドルップの承諾を得て、スタジアムに「ミカエル・ラウドルップ・ラウンジ」という名称の新しいラウンジをオープンさせた。

ヘタフェ

編集

2007年6月21日、スペインのマルカ紙ヘタフェCFがラウドルップと接触していると報じ、7月9日、レアル・マドリード監督に就任したベルント・シュスターの後任としてヘタフェ監督に就任[69]。2007-08シーズンではコパ・デル・レイで決勝に進出し、バレンシアCFに1-3で敗れたものの準優勝した。UEFAカップではチームを準々決勝進出に導き、ドイツのバイエルン・ミュンヘンと接戦を演じた(ファーストレグが1-1、セカンドレグが3-3、アウェーゴール差で敗退)[70]。ヘタフェでは攻撃的なサッカースタイルで成功を収めたが、2008年5月に監督を辞任した[71]。退任発表後、バレンシア、SLベンフィカ(ポルトガル)、チェルシーFCブラックバーン・ローヴァーズFCウェストハム・ユナイテッドFC(いずれもイングランド)、パナシナイコスFC(ギリシャ)、PFC CSKAモスクワ(ロシア)などからの関心が報じられた。パナシナイコス監督就任が確実視されたが、スペインのクラブから監督就任オファーを受けた際に契約解除できる条項を求めているとデンマークのメディアに報じられた。結局合意に至らず、ヘンク・テン・カテがパナシナイコス監督に就任した[72]

スパルタク・モスクワ

編集
 
ウディネーゼ戦後の記者会見でのラウドルップ (2008年11月)

2008年9月12日、ロシア・プレミアリーグFCスパルタク・モスクワ監督就任が公式に発表された。契約期間は1年半。しかし、2008年シーズンのリーグ戦では8位と低迷。2009年4月15日、ロシア・カップ準々決勝のFCディナモ・モスクワ戦に0-3で敗れると、成績不振を理由に解任された[73]。2009年10月22日、スペインのメディアはラウドルップがアベル・レシーノ監督に代わってアトレティコ・マドリードの新監督に就任する可能性を報じた。しかし、アトレティコとラウドルップは諸条件で合意に至らず、10月23日、キケ・サンチェス・フローレス監督がアトレティコ監督に就任した。

マヨルカ

編集

2010年7月2日、スペインのRCDマヨルカの監督に就任した。契約期間は2年[74]。マヨルカは破産宣告を受けており、2010年夏には満足な補強ができずに苦しんだ。前シーズンにUEFAヨーロッパリーグ出場圏内の5位となったものの、クラブの財政状態が理由で欧州サッカー連盟(UEFA)によって出場権を剥奪された。このような状況にもかかわらず、ラウドルップは攻撃的なスタイルを貫いてプリメーラ・ディビシオン残留を果たした。2011-12シーズン序盤にはアシスタントコーチのエリック・ラルセンが解任され、2011年9月27日、ラウドルップも監督を辞任した[75]。フットボール・ディレクターのロレンソ・セラ・フェレールとの確執を辞任の理由に挙げている[76]

スウォンジー・シティ

編集

2012年6月15日、プレミアリーグスウォンジー・シティAFCの監督に就任[77]。契約期間は2年。公式戦での初采配はロフタス・ロードでのクイーンズ・パーク・レンジャーズFC(QPR)戦であり、この試合には5-0で大勝した[78]。2012-13シーズンはフットボールリーグカップに優勝しクラブに初のビッグタイトルをもたらしたが、翌2013-14シーズンは成績不振に陥り、2014年2月4日に監督を解任された[79][80]

家族

編集

ラウドルップ家は3世代に渡ってサッカー選手を輩出している。父のフィン・ラウドルップ英語版デンマーク代表歴を持っている。叔父のEbbe Skovdahlも元サッカー選手であり、指導者としてはブレンビーIFアバディーンFCSLベンフィカの監督を務めた。ミカエルの弟のブライアン・ラウドルップは1990年代にレンジャーズFCスコティッシュ・プレミアリーグ9連覇を成し遂げ、UEFA EURO '92のデンマーク代表優勝メンバーでもある。なお、ミカエルはこの大会に出場していないが、それはメラー・ニールセン監督との確執や[81]ユーゴスラビアの大会出場に対する抗議行動によるものである[82]。前夫人との間に誕生したミカエルの長男のマッズ・トゥーネ・ラウドルップ英語版は2005年1月以来、各年代の世代別デンマーク代表のキャプテンを務めた。ノルウェー出身の夫人との間に誕生した次男のアンドレアス・レッツ・ラウドルップ英語版は2006年3月にU-16デンマーク代表に選出された[83]。アンドレアスは2007年から2008年までレアル・マドリードの下部組織に所属し、2009年からはFCノアシェランでプレーしている。2004年、ミカエルとブライアンはペレが選出したFIFA 100に兄弟そろって選出された。

評価

編集
  • 同じFCバルセロナとヴィッセル神戸に所属した、アンドレス・イニエスタの憧れた選手で[84]、そのプレーを幼少の頃からプレーを模範とし真似ていたと語り[85]那須大亮のYouTubeの企画にゲストとして出演した際には、自身が認める凄いMFベスト3の1位をラウドルップとした[85]
  • イニエスタと同様にダビド・シルバも子供の頃のアイドルとして名前を挙げている[86]
  • ティエリ・アンリは、「過小評価されているのが理解出来ない、最高の10番、パスの神、動画サイトにある彼のビデオをよく見ている。」と話し[87]、「一緒にプレーがしたかった。彼以上パスが上手い選手を知らない。」と賞賛した[88]
  • ミシェル・プラティニは、ラウドルップを「サッカー史上もっとも才能ある選手のひとり。利己心の欠如が理由であまりにもゴール数が少ないのが残念だ」と表現した[89]
  • ヨハン・クライフは、一緒に仕事をすることが最も難しい選手の一人であったとし、「彼が80パーセントから90パーセントの力でプレーしても、選手として並外れていたが、私は100パーセントの力を出してプレーすることを求めていた、しかし、彼が100パーセントの力を出してプレーしてくれることは稀だった。」と話した[10]
  • ベッケンバウアーは、90年代ではラウドルップが最高の選手であったと評している[7]
  • 2006年4月、レアル・マドリードでチームメイトだったラウル・ゴンサレスはインタビューで「一緒にプレーした選手の中ではラウドルップが最高の選手だ」と述べた[7][90]
  • FCバルセロナでチームメイトだったロマーリオもラウル同様に語り、「パスも出せて得点もできるラウドルップは、ペレディエゴ・マラドーナ、ロマーリオ自身、ジネディーヌ・ジダンに次いでサッカー史上5番目の選手である」と付け加えた[91]
  • 永島昭浩とは同じ年であり[49]、1997年のJリーグで22ゴールを決めることができたのは、ラウドルップからのポジショニングに関する要求[49]、などに関してのやりとりの中で、どう準備し、プレーして点を取るのかがおのずと身に付いたお陰だと後に語った[92]。また、いつもいいパスが供給されるので、子供の様にワクワクしながら共にプレーしていたという[93]
  • 共にプレーした和田昌裕は、「考えられないタイミングでパスが来たり、難しい体勢から簡単にゴールを決めたり、驚くことが多かった。」と話した[94]

プレースタイル

編集
  • 優れたテクニックを持ち[16][19]、1対1のドリブル突破に強く[17][19]、相手DF陣をドリブルで崩し[19]、多くのゴールチャンスを演出[16]、ノールックパスも得意で[17]、パス感覚に優れた[19]、ラストパスの名手であった[87][88]。自身がゴールを決めることを重要視せず[95]、自らゴールを狙えるチャンスにも、より得点しやすいポジションに居ると判断したチームメートへパスを選択することが多かった[95]。またマラドーナらと共に、ジダン以前にマルセイユ・ルーレットを実戦で使っていた選手の一人であった[96]

個人成績

編集
 
デンマーク代表アシスタントコーチ時代のラウドルップ(2000年)

選手時代

編集
クラブでの出場試合数
シーズン クラブ 国内リーグ 国内カップ 国内リーグカップ 欧州カップ 合計
試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点 試合 得点
ケベンハウンBK 1981 14 3 - -
通算 14 3
ブレンビーIF 1982 24 15 - -
1983 14 8 - -
通算 38 23
SSラツィオ 1983-84 30 8 5 0 - -
1984-85 30 1 5 3 - -
通算 60 9
ユヴェントスFC 1985-86 29 7 6 2 1 1
1986-87 20 3 6 1 4 5
1987-88 27 0 7 2 - - 4 2
1988-89 26 6 7 2 - - 8 3
通算 102 16
FCバルセロナ 1989-90 32 3 7 2 - - 3 1
1990-91 30 9 5 2 - - 7 0
1991-92 36 13 2 2 - - 11 3
1992-93 37 10 4 4 - - 4 0
1993-94 31 5 1 0 - - 6 1
通算 166 40
レアル・マドリード 1994-95 33 4 2 1 - - 5 2
1995-96 29 8 - - 7 0
通算 62 12
ヴィッセル神戸 1996 12 5 3 2 - - - - 15 7
1997 3 0 0 0 6 1 - - 9 1
通算 17 5 3 2 6 1 - - 24 8
アヤックス 1997-98 21 11 4 0 - - 52
通算 21 11
合計 478 119
代表での年別成績

[97]


デンマーク代表国際Aマッチ
出場得点
1982 3 2
1983 5 7
1984 13 2
1985 6 6
1986 10 1
1987 4 0
1988 9 1
1989 8 4
1990 6 3
1991 0 0
1992 0 0
1993 4 0
1994 8 3
1995 9 5
1996 8 1
1997 2 1
1998 9 1
通算 104 37

指導者

編集
2014年2月4日現在
チーム 就任 退任 記録
試合 得点 失点 点差 勝率
ブレンビー 2002年7月 2006年6月 132 76 31 25 237 119 +118 057.58
ヘタフェ 2007年7月 2008年6月 59 25 15 19 81 70 +11 042.37
スパルタク・モスクワ 2008年9月12日 2009年4月15日 14 4 4 6 15 17 −2 028.57
マヨルカ 2010年7月1日 2011年9月27日 42 13 9 20 52 67 −15 030.95
スウォンジー・シティ 2012年6月15日 2014年2月4日 84 29 24 31 116 105 +11 034.52
通算 331 147 83 101 499 378 +121 044.41

タイトル

編集

選手時代

編集

クラブ

編集
ユヴェントスFC
FCバルセロナ
レアル・マドリード
AFCアヤックス

代表

編集
デンマーク代表

個人

編集

指導者時代

編集

クラブ

編集
ブレンビーIF
スウォンジー・シティAFC
レフウィヤSC

個人

編集
  • デンマーク年間最優秀監督賞 (2) : 2003, 2005

メディア

編集

書籍

編集
  • ブルーノ・ベルナルディ(Bruno Bernardi), "ミカエル・ラウドルップ(Michael Laudrup)", イタリア, 1986(イタリア語)
  • フレミング・ニールセン、ヴァグン・ニールセン, "Fodboldkunstneren Michael Laudrup : rundt om en stjerne", デンマーク, 1986(デンマーク語)
  • ミカエル・ラウドルップ, "Mod nye mål", デンマーク, 1989, ISBN 87-559-0848-9(デンマーク語)
  • ヤコブ・クヴィスト, "Ambassadøren – en bog om Michael Laudrup", デンマーク, 1996(第4版は2001), ISBN 87-583-1285-4(デンマーク語)
  • バンクス・イェルゲンセン, "Landsholdenes 2198 profiler", デンマーク, 2004, ISBN 87-89564-04-9(デンマーク語)

映像

編集
  • Jørgen Leth, "Michael Laudrup – en fodboldspiller", デンマーク, 1986(デンマーク語)

脚注

編集
  1. ^ Gaarskjær, Jesper (2010). Barça: Historien om FC Barcelona. Sheffield: Gyldendal. p. 135. ISBN 978-87-02-08764-2 
  2. ^ 1994年6月1日のノルウェー戦ではラルス・オルセンが途中交代したため、ラウドルップがキャプテンを務めた。そのほかの試合はすべて1994年11月以降に記録したものである。
  3. ^ The Gala in Barcelona IFHOC、1999年2月1日
  4. ^ Golden Players take center stage UEFA.com、2003年11月29日
  5. ^ Michael Laudrup bedste spiller gennem tiderne DBU.dk、2006年11月13日
  6. ^ a b c d e “Michael Laudrup: The greatest forgotten midfielder of his time!”. www.sports-nova. https://www.sports-nova.com/2017/06/17/michael-laudrup-greatest-forgotten-midfielder-time/ 19 May 2020閲覧。 
  7. ^ a b c d e f g h i j ICONS OF THE 90S Laudrup -footballwhispers 10月14日2016年
  8. ^ Kvist (2001), p. 36
  9. ^ トヨタカップ 1985 公式パンフレット ユベントス VS アルゼンチノス P.26
  10. ^ a b c d e f g h i j k l Michael Laudrup, il ‘Principe di Danimarca’ che giocò con Lazio e Juventus”. GOAL (2023年1月15日). 2023年8月8日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h Michael Laudrup All goals”. www.transfermarkt. 21 April 2020閲覧。
  12. ^ a b FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 21 April 2020閲覧。
  13. ^ European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1985”. RSSSF. 2023年2月10日閲覧。
  14. ^ Michael Laudrup - Matches in European Cups-rsssf.com 2018.2.11
  15. ^ a b Michael Laudrup: a portrait of an icon”. The Guardian (21 November 2017). 17 May 2018閲覧。
  16. ^ a b c d e f g Barça: The Illustrated History of FC Barcelona 104ページ ISBN 978-1780977287 
  17. ^ a b c d “Michael Laudrup”. FC Barcelona. https://www.fcbarcelona.com/en/card/648078/michael-laudrup 1 April 20201閲覧。 
  18. ^ クライフは「偽9番」をどう機能させたのか? バルセロナ、ドリームチームの戦術【ファルソ・ヌエベの系譜(2)】”. www.footballchannel (25 April 2020). 25 April 2020閲覧。
  19. ^ a b c d e “「ラウドルップの真似は誰にもできない」マドリーに“禁断の移籍”をした3人の名手を元バルサMFが回想”. www.soccerdigestweb.com. (5 June 2020). https://www.soccerdigestweb.com/news/detail2/id=74389 2020年5月6日閲覧。 
  20. ^ [1]-El Clásico: 5 classic Barcelona vs. Real Madrid clashes with Johan Cruyff
  21. ^ “1992 European Cup final: Barcelona – Sampdoria 1:0”. spielverlagerung.com/. https://spielverlagerung.com/2016/03/25/retro-analysis-1992-european-cup-final-barcelona-10-sampdoria/ 8 April 2020閲覧。 
  22. ^ European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1992”. rsssf. 25 March2021閲覧。
  23. ^ 『得点王の真実 ストイチコフ自伝』ゼスト、P.61-67 1998年。ISBN 978-4883770373
  24. ^ European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1993”. rsssf. 25 March2021閲覧。
  25. ^ FC Barcelona Legend 1989-94 -Barcelonas.com
  26. ^ “イニエスタに夢を与えたデンマークのレジェンド、ミカエル・ラウドルップ”. FOOTBALL TRIBE 
  27. ^ 週刊サッカーマガジン 1994年6月8日 no.457 p.106-107 ベースボールマガジン社
  28. ^ ヘスス・スアレス、小宮良之『名称への挑戦状』、東邦出版、2011年、117頁
  29. ^ a b フットボール The Greatest ラウドルップ
  30. ^ 元バルサ&レアルのラウドルップが語るエル・クラシコ-sporting,news
  31. ^ Laudrup – Et fodbolddynasti", Christian Mohr Boisen, ISBN 978-87-11-31387-9
  32. ^ a b ワールドサッカーダイジェスト 1996年3月号 日本スポーツ企画出版社 no.17 P.9-10
  33. ^ ワールドサッカーダイジェスト 1996年3月号 no.17 p.58-59 日本スポーツ企画出版社
  34. ^ Historic Goals Raúl”. Real Madrid CF (2018年4月7日). 2020年6月11日閲覧。
  35. ^ 記念すべき325ゴール中の初ゴール!レアルのアイコン、ラウールがダービーマッチで決めたクラブ初ゴール!”. web.ultra-soccer (2020年8月18日). 2020年6月11日閲覧。
  36. ^ 週刊サッカーマガジン 1995年5月27日 no.527 p.108-113 ベースボールマガジン社
  37. ^ Atletico Madrid vs Real Madrid 1995./96 31,3,1996-TM
  38. ^ "Banks" Jørgensen (2004), p. 214
  39. ^ サッカーストライカー 1995.11.2日号 14-16ページ
  40. ^ 広島のドン今西氏のクラブGM サッカー批評vol.33 2006年12月号 ISBN 4575478938
  41. ^ 38歳大久保が復活した2つの理由/永島昭浩”. 日刊スポーツ (2021年4月1日). 2023年12月12日閲覧。
  42. ^ a b イニエスタ!ビジャ!J1神戸の大物外国人の系譜- daily 2019.9.8
  43. ^ 週刊サッカーマガジン 1996年9月11日 no.571号 p.26-28、鮮烈! ラウドルップ デビュー戦で2得点 JFL後半戦再開 ヴィッセル着々と首位固め ベースボールマガジン社
  44. ^ 週刊サッカーマガジン 1996年10月9日 no.575号 p.120-125、 華麗なるゼブラの王様・ラウドルップ鮮やか JFL第20-21節カラーレポート 神戸VS札幌etc ベースボールマガジン社
  45. ^ 週刊サッカーマガジン 1996年11月13日 no.580号 p.118-121、 JFL第29-最終節 ヴィッセルJ昇格、優勝目指して最後の戦い ベースボールマガジン社
  46. ^ 週刊サッカーダイジェスト 1996年12月11日号 no.344 p.124-125 日本スポーツ企画出版社
  47. ^ 1997年3月29日 神戸対柏-J.league data
  48. ^ a b ヴィッセル神戸 1997”. ヴィッセル神戸. 21 January 2021閲覧。
  49. ^ a b c “日本人初ハットの永島昭浩氏が語るストライカー人生”. www.nikkansports.com. https://www.nikkansports.com/soccer/news/202005180000769.html 19 May 2020閲覧。 
  50. ^ 1997Jリーグ 1stステージ 第2節”. data.j-league. 21 January 2021閲覧。
  51. ^ 週刊サッカーマガジン 平成9年5月7日号 p.15
  52. ^ 1997年4月19日 フリューゲルス対ヴィッセル-J.league data
  53. ^ a b c “michael-laudrup”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/michael-laudrup/leistungsdatendetails/spieler/8023/plus/0?saison=1997&verein=&liga=&wettbewerb=&pos=&trainer_id= 17 April 2020閲覧。 
  54. ^ Michael Laudrup - Peders Fodboldstatistik 2009年4月24日閲覧
  55. ^ “Norway-Denmark-Luxembourg Jun 15 1982 Match sheet”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/2518905 17 April 2020閲覧。 
  56. ^ “Denmark-Luxembourg Oct 12 1983 Match sheet”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/2244984 17 April 2020閲覧。 
  57. ^ a b c “Michael Laudrup National team”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/michael-laudrup/nationalmannschaft/spieler/8023 17 April 2020閲覧。 
  58. ^ 『サッカーマルチ大辞典』、ベースボール・マガジン社、2006年、503頁
  59. ^ サッカーマガジン 1990年1月号 no.369 p51 ベースボールマガジン社
  60. ^ “Romania-Denmark Nov15 1989 Match sheet”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/1086939 17 April 2020閲覧。 
  61. ^ a b c “ラウドルップ、ストイコヴィッチ、リュングベリ…ユーロでプレーした歴代外国人Jリーガーを振り返る=”. excite.co.jp. https://www.excite.co.jp/news/article/Soccerking_460658/ 8 April 2020閲覧。 
  62. ^ "Historien om Michael Laudrups farvel" Politiken、1990年11月26日、Section:Sport, p.2
  63. ^ 1995年3月号増刊 スーパースターインタビューズvol.1 ビクターエンターテインメント P.59
  64. ^ 1995年3月号増刊 スーパースターインタビューズvol.1 ビクターエンターテインメント P.58
  65. ^ “Spain-Denmark Nov17 1993 Match sheet”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/2373825 17 April 2020閲覧。 
  66. ^ “Denmark-Argentina Jan 13 1995 Match sheet”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/2319912 17 April 2020閲覧。 
  67. ^ “Nigeria-Denmark Jun 28 1998 Match sheet”. transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/spielbericht/index/spielbericht/936708 17 April 2020閲覧。 
  68. ^ Trupperne til Oldboys Landspokalfinalen”. Lyngby-Boldklub.dk. 2012年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月6日閲覧。
  69. ^ ヘタフェ新監督はラウドルップ氏 - UEFA.com 2009年4月24日閲覧
  70. ^ ラウドルップ監督、落胆を隠せず - UEFA.com 2009年4月24日閲覧
  71. ^ “Laudrup: Jeg stopper i Getafe” (Danish). Politiken. (16 May 2008). http://politiken.dk/fodbold/article509942.ece 17 May 2008閲覧。 
  72. ^ “Grækere afviste Laudrups kattelem” (Danish). Politiken. (6 June 2008). http://politiken.dk/fodbold/article519842.ece 6 June 2008閲覧。 
  73. ^ スパルタク、ラウドルップ監督を解任 UEFA.com
  74. ^ Laudrup named as Mallorca boss FIFA.com
  75. ^ 家長所属のマヨルカ、ラウドルップ監督が辞任 Soccer KING
  76. ^ “Uudholdeligt arbejdsklima” (Danish). Bold.dk. (27 September 2011). http://www.bold.dk/nyt/Laudrup-Uudholdeligt-arbejdsklima 27 September 2011閲覧。 
  77. ^ 英スウォンジー、新監督にラウドルップ氏 - SANSPO.com 2012年6月17日閲覧
  78. ^ “Swansea name Laudrup as manager”. Premierleague.com (Premier League Official Site). (15 June 2012). オリジナルの2012年6月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120616172336/http://www.premierleague.com/en-gb/news/news/swansea-name-laudrup-as-manager.html 
  79. ^ ラウドルップ監督がスウォンジーを退団”. uefa.com (2014年2月4日). 2014年2月6日閲覧。
  80. ^ スウォンジーがラウドルップ監督の解任を発表”. afpbb.com (2014年2月5日). 2014年2月6日閲覧。
  81. ^ Kvist (2001), p. 155
  82. ^ . Post Festum. http://www.arhiva.serbia.gov.rs/news/2000-07/04/19747.html 
  83. ^ Thomas Møller Johansen, "Laudrup d. V", B.T.、2006年3月
  84. ^ “スペイン記者が語るイニエスタ日本行きの理由「彼は以前から日本に憧れていた」”. ゴール. https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%A8%98%E8%80%85%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BD%BC%E3%81%AF%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%86%A7%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F/2tpfsv3niustzxozhboz656c 2018年9月21日閲覧。 
  85. ^ a b “魔術師イニエスタが選ぶ“最高のMFベスト3”…1位は「子どものころから憧れていた選手」”. Gekisaka. (2020年1月5日). https://web.gekisaka.jp/news/detail/?295113-295113-fl 2020年1月6日閲覧。 
  86. ^ 「小さい頃のアイドルだったのは…」マンCの名手シルバ、元Jリーガーの“天才MF”を大絶賛! そのワケは?”. サッカーダイジェストWeb編集部 (2020年4月26日). 2023年2月7日閲覧。
  87. ^ a b アンリ、元Jリーガーラウドルップを「最強10番、モンスター、神」と褒めちぎる!-Qoly 2019年11月9日
  88. ^ a b “アンリが一緒にプレーしたかった元J選手は?”. football-zone. (2020年6月13日). https://www.football-zone.net/archives/266884 2023年12月12日閲覧。 
  89. ^ Frits Ahlstrøm, Laudrup is greatest Dane UEFA.com、2004年3月29日
  90. ^ "Kongesønnens bøn: Kom til Madrid", Ekstra Bladet、2006年4月16日
  91. ^ “Romarios eftermæle”. Jyllands-Posten. (8 March 2008). http://jp.dk/arkiv/?id=379867&eceExpr=Romarios%20efterm%E6le&eceArchive=o 8 March 2008閲覧。 
  92. ^ “Jリーグをなんとか成功させていという思いで”. jleague.jp. https://www.jleague.jp/special/anniversary/25th/interview/nagashima.html 8 April 2020閲覧。 
  93. ^ 週刊誌を騒がせた「釜本邦茂との確執」の真相…永島昭浩が明かす、愛するガンバとの離別と大震災に見舞われた故郷・神戸への電撃加入第4”. NUMBER (2022年10月31日). 2024年10月19日閲覧。
  94. ^ 神戸時代の同僚が見たラウドルップ-Daily 2015年2月19日
  95. ^ a b ワールドサッカーダイジェスト 1996年2月号 日本スポーツ企画出版社 P.10-11
  96. ^ “【いったい誰だ?】マルセイユルーレットが得意なサッカー選手を解説!”. spaia. (12 JULY 2007). https://spaia.jp/column/soccer/4866 2020年4月27日閲覧。 
  97. ^ Michael Laudrup - Century of International Appearances”. 2013年5月7日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集