ヤン・メルビー
ヤン・メルビー(Jan Mølby、1954年5月18日 - )は、デンマーク・コリング出身の元サッカー選手、元指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。
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2012年のメルビー | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ビッグ・ヤン[1] | |||||
ラテン文字 | Jan Mølby | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | デンマーク | |||||
生年月日 | 1963年7月4日(61歳) | |||||
出身地 | コリング | |||||
身長 | 188cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / DF | |||||
ユース | ||||||
1969-1981 | コリングIF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1981-1982 | コリングIF | 40 | (0) | |||
1982-1984 | アヤックス | 57 | (11) | |||
1984-1996 | リヴァプールFC | 218 | (44) | |||
1995 | → バーンズリーFC (loan) | 5 | (0) | |||
1995 | → ノリッジ・シティFC (loan) | 3 | (0) | |||
1996-1998 | スウォンジー・シティAFC | 41 | (8) | |||
代表歴 | ||||||
1979 | U-17デンマーク | 6 | (2) | |||
1980-1981 | U-19デンマーク | 9 | (0) | |||
1981-1983 | U-21デンマーク | 7 | (0) | |||
1982-1990 | デンマーク | 33 | (2) | |||
監督歴 | ||||||
1996-1997 | スウォンジー・シティAFC | |||||
1999-2002 | キダーミンスター・ハリアーズFC | |||||
2002 | ハル・シティAFC | |||||
2003-2004 | キダーミンスター・ハリアーズFC | |||||
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選手経歴
編集クラブ
編集6歳の時に地元のコリングIFでサッカーを始めた[2]。17歳の時に2部リーグに所属するトップチームと契約を結び、2シーズンの間にリーグ戦40試合に出場[3]。最後のシーズンにはチームの主将を務めると[4]、西ドイツのハンブルガーSV、イングランドのイプスウィッチ・タウンFCやアーセナルFC、オランダのアヤックスなどが獲得に関心を示した[3]。
1982年7月1日、オランダのアヤックスへ加入[5]。ヨハン・クライフ、フランク・ライカールト、マルコ・ファンバステン、同郷のイェスパー・オルセンやセーレン・レアビーらとチームメイトとなった[4]。アヤックスでは監督のア・デモスの下、1982-83シーズンにエールディヴィジ、KNVBカップの二冠を獲得[5]。翌1983-84シーズンにはフェイエノールトに対し8-2のスコアで勝利した試合にも出場した[5][6]。
1984年8月、グレアム・スーネスの後釜を探していたリヴァプールFCの監督・ジョー・フェイガンが関心を示し、10日間のトライアルに参加[1]。アイルランドのホーム・ファームFCとのテストマッチで結果を残したことから[7]、225,000ポンドの金額での加入が決定[1]。8月25日に行われた1984-85シーズン開幕戦のノリッジ・シティFC戦でリーグデビューをした[1][8]。その後もスタメンに名を連ねたが、シーズン途中から同期入団のケヴィン・マクドナルドにポジションを明け渡す形となった[7]。
1985-86シーズン、フェイガンの後任として選手兼任監督となったケニー・ダルグリッシュはメルビーをそれまでの守備的ミッドフィールダーとは異なる形で起用した[1]。試合開始当初は3人目のセンターバックとして位置するも、試合の進行とともに中盤のスティーブ・マクマホンと並ぶ位置まで進出[1]、時にはイアン・ラッシュの後方でシャドーストライカーの役割も担うなど自由が与えられた[7]。同シーズン、メルビーは公式戦58試合に出場して21得点を記録し、リーグ戦とFAカップの二冠を獲得[7]。1986年5月10日に行われたFAカップ決勝のエヴァートンFC戦では全得点に絡む活躍を見せるなど[1]、自身のキャリアにおいてハイライトとなる試合となった[9]。
その後は度重なる怪我に見舞われ、2年目のシーズンを上回る活躍を見せることはなかった[1]。1987-88シーズン、リヴァプールで2度目のリーグ優勝を経験するも、自身は開幕前の練習中にジョン・ウォークと交錯した際に足を骨折、治療のためシーズンをほぼ棒に振る形となった[7]。さらに1988年2月に自動車の運転中に速度超過を犯したため警察に逮捕され[7]、禁固3か月の刑を受けた[10]。この不祥事により解雇の可能性も浮上したが、ダルグリッシュは理事会の面々に対しメルビーにもう一度チャンスを与えるように説得した[7]。ダルグリッシュは刑を終えたメルビーをすぐにトップチームに合流させたが[1]、ロニー・ウィーランが同じポジションの代役を務めており、この後もレギュラーに復帰することが困難な状況が続いた[11]。
1989-90シーズン、復調を果たすと3度目のリーグ優勝を経験したが、途中交代での起用が多いことに不満を抱いた[1]。1990年秋、FCバルセロナの監督を務めるクライフは、負傷離脱中のロナルド・クーマンの代役としてメルビーの獲得に乗り出した[12][13][14]。バルセロナ側から掲示された金額は160万ポンドとされる[11]。メルビー自身はこの移籍に前向きで、11月10日に行われたルートン・タウンFC戦が最後の試合になると考えていたが[15]、契約条件について両クラブ間の合意に至らず交渉は決裂した[1]。
1990-91シーズン後半、再びレギュラーに復帰[7]。監督がダルグリッシュからスーネスに交代した後、1991-92シーズン序盤にエヴァートンFCへの移籍話が持ち上がったが残留を決意[1]。レギュラーの座を維持し2度目のFAカップ優勝に貢献した[1][7]。
その後は怪我と身体的な衰えもあり出場機会は減少[7]。ロイ・エヴァンスの監督時代にバーンズリーFCやノリッジ・シティFCへレンタル移籍した後、1996年2月にスウォンジー・シティAFCの選手兼任監督となるためリヴァプールを退団した[16]。リヴァプールでは12シーズンを過ごし、通算292試合61ゴールの成績を残した[1][7]。スウォンジーでは1997年10月に監督を解任されるまでの間にリーグ戦41試合に出場した[16]。
代表
編集デンマーク代表としては1982年6月15日に行われたノルウェー代表戦でデビュー[17]。1984年6月にフランスで開催されたUEFA欧州選手権1984では出場機会に恵まれなかった[18][19]。
1986年5月から6月にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップではレギュラーの座を得るまでには至らなかったものの、グループリーグ第3戦の西ドイツ代表戦でフル出場するなど[20]、スタメン1試合、途中交代3試合の計4試合に出場した[21]。
その後、1987年4月29日に行われたフィンランド代表戦で代表初得点を決めたが[22]、怪我の影響により代表からの離脱を余儀なくされた[23]。また、ピオンテックの後任監督のリチャード・メラー・ニールセンとの緊張関係もあり[4][23]、1990年11月14日に行われたユーゴスラビア代表戦が最後の代表戦出場となった[24]。
引退後
編集1996年2月、スウォンジー・シティAFCの選手兼任監督に就任した[16]。スウォンジーでは1996-97シーズンにディビジョン3で5位となり、1997年5月に行われたプレーオフで決勝進出を果たすもノーサンプトン・タウンFCに敗れディビジョン2昇格を逃した[25]。翌1997-98シーズンはリーグ戦で10試合を消化した時点で20位と低迷[26]。1997年10月、成績不振により解任された[26]。
スウォンジーの監督解任後は長期休暇を取り、解説の仕事についていたが、1999年5月にフットボールカンファレンス所属のキダーミンスター・ハリアーズFCの監督に就任[26]。チームを初のディビジョン3昇格に導き2シーズンを過ごし後、クラブを退団した[26]。
2002年4月、ディビジョン3所属のハル・シティAFCの監督に就任[26][27]。契約期間は3年[27]。ハル・シティでは開幕から12試合を消化した時点で2勝をあげたのみで下位に低迷したため、同年10月11日に辞任を申し出た[27]。
ハル・シティを退団後は再び解説者を務め、2003年10月20日にキダーミンスターのフットボールディレクターとして復帰[26]。就任時点で降格ライン間近に低迷していたチームを引き継ぎ、最終的に16位でシーズンを終えた[26]。その後、2004-05シーズンの最中にこの職務を退任した[26]。
その後は、イギリスのBBCラジオ5ライブやLFC TV[1]、デンマークのTV2などの解説者を務めている[15]。
人物・プレースタイル
編集メルビーは正確なパスとシュート力を持ち味とし[28]、機動性の不足を視野の広さと技術の高さで補った[1]。ポジションは主にセンターハーフとしてプレーをしたが、選手時代を過ごしたリヴァプールFCでは時にはセンターバックを務めた[1][7]。PKの名手でもあり、リヴァプールFCの在籍期間中に担った45本のPKのうち42本を成功させた[7]。また、1986年11月26日に行われたリーグカップ4回戦、コヴェントリー・シティFC戦ではPKのみでハットトリックを達成した[1]。
有能なパサーという点と同時に機動性の不足も指摘されるが、20代前半まではそうした能力も兼ね備えていた、との指摘もある[11]。1985年11月26日に行われたリーグカップ4回戦、マンチェスター・ユナイテッドFCでは、自陣でノーマン・ホワイトサイドからボールを奪取した後、ドリブルで相手陣内深くまで攻め上がりミドルシュートを決めている(試合は2-1のスコアでリヴァプールの勝利)[11]。
弟のトールベン・メルビーと従弟のジョニー・メルビーはともに元サッカー選手、指導者[29]。ジョニーは元デンマーク代表で、1999年にトールベンがコリングIFの監督となった際、アシスタントコーチを務めた[29]。
個人成績
編集代表での成績
編集- 出典[18]
デンマーク代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1982 | 3 | 0 |
1983 | 2 | 0 |
1984 | 7 | 0 |
1985 | 5 | 0 |
1986 | 9 | 0 |
1987 | 2 | 2 |
1988 | 2 | 0 |
1989 | 1 | 0 |
1990 | 2 | 0 |
通算 | 33 | 2 |
タイトル
編集クラブ
編集- ファーストディヴィジョン : 1985-86, 1987-88, 1989-90
- FAカップ : 1985-86, 1991-92
- FAチャリティ・シールド : 1986, 1988, 1989
監督
編集- フットボールカンファレンス : 1999–2000
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “Jan Mølby”. Liverpool FC. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “Historie”. Kolding IF Fodbold. 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b “Kolding IF hylder Jan Mølby ved klubbens 125-års jubilæum - spiller i retrotrøje med Mølby på ryggen”. TV3 SPORT (2020年10月21日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b c “Et liv med Liverpool”. Berlingske (2013年7月1日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b c “EEN SUCCESVOLLE COMBINATIE: DENEN EN AJAX, MAAR WIE WAS DE BESTE?”. ELFvoetbal.nl (2017年2月24日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “AFC Ajax - Feyenoord 8:2 (Eredivisie 1983/1984, 7. Ronde)”. VOETBAL.com. 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “Liverpool career stats for Jan Mølby”. LFChistory. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “ARCHIVES MATCH DETAILS 1ST DIVISION - NORWICH CITY 3-3 LIVERPOOL”. LFChistory. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “Fødselaren Jan Mølby beskriver sit mest mindeværdige Liverpool-øjeblik - finalen i 1986”. TV3 SPORT (2019年7月4日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “Football's hall of shame”. BBC SPORT (2001年12月14日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b c d Gregg Bakowski (2015年2月20日). “Golden goal: Jan Molby for Liverpool v Manchester United (1985)”. The Guardian. 2021年6月29日閲覧。
- ^ “Jan Molby: Johan Cruyff is the greatest I ever played with - he was on a different level”. Liverpool Echo (2016年3月24日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “Qué fue de… Jan Molby: el jugador al que Cruyff no pudo fichar para el Barcelona”. 20minutos (2018年8月15日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “La plantilla del Barcelona cree innecesario fichar a un sustituto del lesionado Koeman”. EL PAIS (1990年11月5日). 2021年6月29日閲覧。
- ^ a b “Jan Molby - The midfield maestro”. LFChistory. 2021年6月29日閲覧。
- ^ a b c “Lampard's Swans reunion”. Swansea City (2001年12月14日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “NORGE - DANMARK 2 - 1”. DBU - Dansk Boldspil-Union. 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b “JAN MØLBY”. DBU - Dansk Boldspil-Union. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “European Championship 1984 - Final Tournament - Full Details”. rsssf.com. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “DANMARK - VESTTYSKLAND 2 - 0”. DBU - Dansk Boldspil-Union. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “World Cup Memories – 1986: Jan Molby and Denmark blow huge opportunity”. This Is Anfield (2014年6月10日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “FINLAND - DANMARK 0 - 1”. DBU - Dansk Boldspil-Union. 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b “Hvem var de bedste? - Stem her”. TV 2 - Sport (2008年5月7日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “DANMARK - JUGOSLAVIEN 0 - 2”. DBU - Dansk Boldspil-Union. 2021年6月27日閲覧。
- ^ “MOLBY HITS OUT AFTER SWANSEA DISMISSAL”. 4THEGAME.com (1997年10月8日). 2007年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “JAN MOLBY”. League Managers Association. 2021年6月27日閲覧。
- ^ a b c “Molby quits Hull at second attempt”. The Guardian (2002年10月11日). 2021年6月27日閲覧。
- ^ “Jan Molby”. Liverpool Echo. 2021年6月29日閲覧。
- ^ a b “Læs om Mølby i Koldingbogen: Det bliver i familien”. Ugeavisen.dk (2015年11月24日). 2021年6月27日閲覧。