フェルナンド・バレンズエラ
フェルナンド・バレンズエラ・アングアメア(Fernando Valenzuela Anguamea、1960年11月1日 - 2024年10月22日)は、メキシコ合衆国ソノラ州ナボホア出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。
ロサンゼルス・ドジャースでのバレンズエラ(1981年) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | メキシコ |
出身地 | ソノラ州エッチョワキーラ |
生年月日 | 1960年11月1日 |
没年月日 | 2024年10月22日(63歳没) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 195 lb =約88.5 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
初出場 | MLB / 1980年9月15日 |
最終出場 | MLB / 1997年7月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
1980年代(1980年 - 1989年)の10年間で128勝をあげた。この記録はMLB全体でジャック・モリス(当時タイガース)の162勝、デーブ・スティーブ(当時ブルージェイズ)の140勝に次ぎ第3位だが、左腕投手としては第1位である。
経歴
編集現役時代
編集メキシコの農場を経営する一家の12人兄弟の末子として生まれる。生年月日は公式には1960年11月1日とされているが、1955年生まれともいわれる。リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルで投げている時にメジャーのスカウトから注目され、1979年にロサンゼルス・ドジャースと契約。しばらくマイナーリーグで過ごし、1980年9月15日にメジャーデビュー。1年目はリリーフで10試合に投げ2勝1セーブを挙げる。メジャーデビュー当時は「Food」、「Drink」、「Beer」しか英単語を知らない状態であった。
翌1981年、4月9日の開幕戦で登板予定だったジェリー・ロイスが怪我で回避となり、急遽開幕投手を務めるとヒューストン・アストロズ相手に5安打完封勝利を収め、そのまま先発ローテーション入りし、スクリューボールを武器に新人としてはMLB最長となる開幕8連勝を記録。オールスターにも出場し、新人ながらナショナルリーグの先発を務めた。その年は13勝7敗、防御率2.48で、新人王とサイ・ヤング賞を史上初めてダブル受賞した。チームもワールドシリーズに進出し、ニューヨーク・ヤンキースを破りワールドシリーズ優勝を果たした。彼も第3戦で完投勝利を挙げ、勝利に貢献した。以降はオーレル・ハーシュハイザーとWエースを形成することになる。
1986年には21勝11敗で最多勝のタイトルを獲得。同年のオールスターでは、1934年のカール・ハッベル(ニューヨーク・ジャイアンツ)以来の5者連続奪三振を記録した。1983年には史上初の100万ドルプレーヤーとなった。1990年6月29日のセントルイス・カージナルス戦でノーヒットノーランを達成。彼の熱狂的なファンは『フェルナンド・マニア』と呼ばれた。
チームが7年ぶりにワールドシリーズを制した1988年以後は故障がちとなり、1991年のスプリング・トレーニング中にドジャースを解雇され、以降はジャーニーマンに落ち着く。カリフォルニア・エンゼルスに移籍するが、ここでも結果を残せず、シーズン途中に解雇され、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルに復帰。投手の他、登板しない試合では一塁を守り、1993年にボルチモア・オリオールズでメジャーに復帰。その後、フィラデルフィア・フィリーズを経て、サンディエゴ・パドレス在籍時の1996年には13勝を挙げ、ドジャースを追われて以降初の二桁勝利を挙げた。翌1997年途中にセントルイス・カージナルスに移籍し、メジャーでは同年が最後となった。その後もメキシコウィンターリーグ(リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ)で投げ、正式に野球選手としての現役引退を表明したのは2006年12月だった。
現役引退後
編集2003年より古巣・ドジャースのスペイン語中継の解説者の一人として活動している[1]。
2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックのメキシコ代表のコーチを務めた。
2017年にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのキンタナロー・タイガースを他の投資家とともに買収した[2]。
人物
編集ドジャース在籍時につけていた自身の背番号「34」は、野茂英雄が入団した1995年当時より誰もつけてプレーした者はなく、野茂自身も入団後に背番号を選ぶ際「(バレンズエラの34を見て)ちょっとこの番号は控えてくれ」と言われたことがある。その後2023年2月4日、古巣ドジャースはバレンズエラの在籍時の背番号「34」を永久欠番に指定することを発表[4]、同年8月11日に永久欠番表彰式が行われた。なお、ドジャースの永久欠番指定条件は『アメリカ野球殿堂入り』だが、バレンズエラは2023年現在アメリカ野球殿堂入りを果たしておらず、ドジャースの永久欠番指定選手ではジム・ギリアム以来2人目の、殿堂未選出の永久欠番選手となっている。
2019年7月6日、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルの全ての球団において背番号「34」が永久欠番となった[5]。
息子のフェルナンドJrもサンディエゴ・パドレスのマイナーやメキシコでプレーしていた元プロ野球選手であり、2006年にはメキシコウィンターリーグのアギラス・デ・メヒカリで息子と共にプレーした。
前述の通り、スクリューボールの使い手として知られる。1988年、プロ野球・中日ドラゴンズとの交換留学によって当時のドジャースのキャンプに参加していた山本昌にこのスクリューを直に指導したこともあった(結局山本はこのときは習得できなかったが、別の機会にマスターすることとなった)[6][7]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | LAD | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 66 | 17.2 | 8 | 0 | 5 | 0 | 0 | 16 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0.00 | 0.74 |
1981 | 25 | 25 | 11 | 8 | 1 | 13 | 7 | 0 | -- | .650 | 758 | 192.1 | 140 | 11 | 61 | 4 | 1 | 180 | 4 | 0 | 55 | 53 | 2.48 | 1.05 | |
1982 | 37 | 37 | 18 | 4 | 4 | 19 | 13 | 0 | -- | .594 | 1156 | 285.0 | 247 | 13 | 83 | 12 | 2 | 199 | 4 | 0 | 105 | 91 | 2.87 | 1.16 | |
1983 | 35 | 35 | 9 | 4 | 1 | 15 | 10 | 0 | -- | .600 | 1094 | 257.0 | 245 | 16 | 99 | 10 | 3 | 189 | 12 | 1 | 122 | 107 | 3.75 | 1.34 | |
1984 | 34 | 34 | 12 | 2 | 0 | 12 | 17 | 0 | -- | .414 | 1078 | 261.0 | 218 | 14 | 106 | 4 | 2 | 240 | 11 | 1 | 109 | 88 | 3.03 | 1.24 | |
1985 | 35 | 35 | 14 | 5 | 0 | 17 | 10 | 0 | -- | .630 | 1109 | 272.1 | 211 | 14 | 101 | 5 | 1 | 208 | 10 | 1 | 92 | 74 | 2.45 | 1.15 | |
1986 | 34 | 34 | 20 | 3 | 0 | 21 | 11 | 0 | -- | .656 | 1102 | 269.1 | 226 | 18 | 85 | 5 | 1 | 242 | 13 | 0 | 104 | 94 | 3.14 | 1.15 | |
1987 | 34 | 34 | 12 | 1 | 0 | 14 | 14 | 0 | -- | .500 | 1116 | 251.0 | 254 | 25 | 124 | 4 | 4 | 190 | 14 | 1 | 120 | 111 | 3.98 | 1.51 | |
1988 | 23 | 22 | 3 | 0 | 0 | 5 | 8 | 1 | -- | .385 | 626 | 142.1 | 142 | 11 | 76 | 4 | 0 | 64 | 7 | 1 | 71 | 67 | 4.24 | 1.53 | |
1989 | 31 | 31 | 3 | 0 | 0 | 10 | 13 | 0 | -- | .435 | 852 | 196.2 | 185 | 11 | 98 | 6 | 2 | 116 | 6 | 4 | 89 | 75 | 3.43 | 1.44 | |
1990 | 33 | 33 | 5 | 2 | 1 | 13 | 13 | 0 | -- | .500 | 900 | 204.0 | 223 | 19 | 77 | 4 | 0 | 115 | 13 | 1 | 112 | 104 | 4.59 | 1.47 | |
1991 | CAL | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 36 | 6.2 | 14 | 3 | 3 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 10 | 9 | 12.15 | 2.55 |
1993 | BAL | 32 | 31 | 5 | 2 | 1 | 8 | 10 | 0 | -- | .444 | 768 | 178.2 | 179 | 18 | 79 | 2 | 4 | 78 | 8 | 0 | 104 | 98 | 4.94 | 1.44 |
1994 | PHI | 8 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 182 | 45.0 | 42 | 8 | 7 | 1 | 0 | 19 | 1 | 0 | 16 | 15 | 3.00 | 1.09 |
1995 | SD | 29 | 15 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 395 | 90.1 | 101 | 16 | 34 | 2 | 0 | 57 | 4 | 0 | 53 | 50 | 4.98 | 1.49 |
1996 | 33 | 31 | 0 | 0 | 0 | 13 | 8 | 0 | -- | .619 | 741 | 171.2 | 177 | 17 | 67 | 2 | 0 | 95 | 7 | 0 | 78 | 69 | 3.62 | 1.42 | |
1997 | 13 | 13 | 1 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | -- | .200 | 313 | 66.1 | 84 | 10 | 32 | 0 | 4 | 51 | 2 | 0 | 42 | 35 | 4.75 | 1.75 | |
STL | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 106 | 22.2 | 22 | 2 | 14 | 0 | 1 | 10 | 2 | 0 | 19 | 14 | 5.56 | 1.59 | |
'97計 | 18 | 18 | 1 | 0 | 0 | 2 | 12 | 0 | -- | .143 | 419 | 89.0 | 106 | 12 | 46 | 0 | 5 | 61 | 4 | 0 | 61 | 49 | 4.96 | 1.71 | |
MLB:17年 | 453 | 424 | 113 | 31 | 8 | 173 | 153 | 2 | -- | .531 | 12398 | 2930.0 | 2718 | 226 | 1151 | 65 | 25 | 2074 | 119 | 11 | 1303 | 1154 | 3.54 | 1.32 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
編集- 最多勝利:1回(1986年)
- 最多奪三振:1回(1981年)
表彰
編集- サイ・ヤング賞:1回(1981年)
- 新人王(1981年)
- シルバースラッガー賞:2回(1981年、1983年)
- ゴールドグラブ賞:1回(1986年)
記録
編集- オールスター出場:6回(1981年 - 1986年)
- 173勝はメキシコ出身投手の中で最多勝
脚注
編集- ^ “Dodgers Broadcasters”. MLB.com. 2021年5月16日閲覧。
- ^ “Compra Fernando Valenzuela a los Tigres de Quintana Roo (Video)” (スペイン語). Aristegui Noticias Network (2017年2月20日). 2021年5月16日閲覧。
- ^ “Dodgers star Fernando Valenzuela, who changed MLB by sparking Fernandomania, dies at 63” (英語). Los Angeles Times (2024年10月23日). 2024年10月23日閲覧。
- ^ “Dodgers to retire Valenzuela's No. 34” (英語). MLB.com. 2023年2月5日閲覧。
- ^ “La LMB retirará el número 34 de Fernando Valenzuela” (スペイン語). MiLB.com. Mexican League (2019年4月30日). 2023年6月25日閲覧。
- ^ 山口真司 (2023年2月23日). “恩人は消息不明「探してもらったけど…」 米で習得…内野手が教えてくれた最強の武器”. Full-Count. 2024年5月19日閲覧。
- ^ “バレンズエラさん死去、山本昌さん追悼メッセージ「スクリューボールを教えて頂きました」「私の人生を変えてくれた方」”. 中日スポーツ (2024年10月23日). 2024年10月24日閲覧。