鹿島城 (肥前国)
鹿島城(かしまじょう)は、佐賀県鹿島市高津原城内にあった日本の城(平山城)。
鹿島城 (佐賀県) | |
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現存する鹿島城大手門 | |
別名 | 鹿島新城 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 鍋島直彜 |
築城年 | 文化4年(1807年) |
主な城主 | 鍋島氏 |
廃城年 | 1874年(明治7年) |
遺構 | 門、櫓、石垣、堀 |
指定文化財 |
赤門、大手門 (県指定文化財)[1] |
位置 | 北緯33度6分10秒 東経130度5分36秒 / 北緯33.10278度 東経130.09333度 |
地図 |
立地・構造
編集佐賀県鹿島市の多良岳の北東にある山地東端の丘陵上に位置する。高津原と呼ばれる丘陵は鹿島川に相対し標高は10 - 30 m程度ある。外郭は南北650 m・東西370 mで、家臣屋敷地も含まれ、その領域は後に郭内と呼ばれ、現在の自治区である城内区とほぼ同じ。本丸は南側の高所にあり、高津原屋敷や鹿島館と呼ばれた。支藩の政庁のため表向きは屋敷や館(陣屋)と称する一方、城郭の性質を備えていた。後年は「鹿島城」の通称が広まっている[2][3][4][5][6]。
堀および大きな柵のある土塁を巡らせた城構えで、石垣は一部だけに配置されていた。建物は高いものでも2階建てだった。現存する大手門と赤門は佐賀県重要文化財に指定されているが、共に装飾金具の少ない簡素な造りの反面複雑な木組で、小藩としては大きな門構えであった。他に裏手の搦手門、東西の東門・西門があった。大手門と赤門の間は鍵型に曲がる登城路で、これに面して家臣屋敷があった。登城路と部分的に残る土塁は当時の景観を伝えるほか、本丸南には武家屋敷も残っている[2][3][4][7][6][8]。
歴史
編集佐賀藩の支藩である鹿島藩は初代・鍋島忠茂から9代・直彝まで常広城にいたが、鹿島川と塩田川の間の沖積地のため水害を受けることが多かった。このため直彜は文化元年(1804年)に幕府と本藩に移転を願い出て、翌文化2年(1805年)5月に許可を得た。常広城の居館を移転し、文化4年6月(1807年)に鹿島城は完成している。なお、翌文化5年の竣工と判明している赤門の例が示すように、一応の完成を見た後にも工事は行われたと考えられる[2][3][4]。文化6年には歴代鹿島藩主を祀る松蔭神社も常広城内から遷座した[9]。
その後1874年(明治7年)の佐賀の乱の際に鹿島城は焼失した。官軍の侵攻を目前にして藩士が自ら火を放ったと伝えられている。現在、跡地は本丸周辺が佐賀県立鹿島高等学校赤門学舎、武家屋敷地が鹿島高等学校大手門学舎(旧佐賀県立鹿島実業高等学校)、東部が旭ヶ岡公園になっている[2][3][4][6]。
遺構・文化財
編集赤門
編集高津原屋敷の表門で本丸御殿の正門にあたる。切妻造・桟瓦葺の薬医門で、向かって正面右に番所が付属、両側に漆喰塗りの土塀が続く[3][4][7]。
丹塗りのため「赤門」と呼ばれるようになった。現在は鮮やかな朱色で、古い時代にはベンガラ色だったが、丹塗りが建築当初からなのかは判明していない[3][4][7]。
赤門は領主の門であり、藩士はその傍の通用門を使用したとされる[6]。現在は鹿島高等学校の校門として使用されており、1932年(昭和7年)からその名を冠して学校祭は「赤門祭」と称している[3][7]。
修理が行われた際に「文化五戊辰閏六月廿八日」の日付を記した棟札が発見されている。その後「鹿島城赤門及び大手門」として1958年(昭和33年)1月23日に佐賀県重要文化財に指定された。続塀と棟札が附指定されている[7][1]。
大手門
編集正面入口の門。切妻造・本瓦葺の高麗門で、背後に小屋根付きの控え柱が付き、赤門と同様に両側に漆喰塗りの土塀が続く[3][4][7]。
1952年(昭和27年)の塗り替え以降現在まで丹塗りだが、それ以前は黒く塗られていた[4][7]。
赤門とともに1958年佐賀県重要文化財に指定されている[7][1]。
武家屋敷
編集城域内で搦手門に至る坂道は、片側が本丸部の堀と土手、向かいが武家屋敷の塀と門となっており、城下の静かな景観を残す[3][6]。
茅葺きの屋敷は幕末期の家老原忠順の居宅で、鹿島市内で唯一残る家老屋敷。その欅を用いた素木造の門は「武家屋敷棟門」として鹿島市重要文化財に指定されている。門は1985年8月に台風で倒壊した後再建されている[10]。
脚注
編集- ^ a b c “県指定(建造物の部)01”. 佐賀県文化財データベース. 佐賀県 (2021年8月19日). 2023年12月11日閲覧。
- ^ a b c d 『角川日本地名大辞典』、「旭ケ岡公園」頁。(参考:JLogos)
- ^ a b c d e f g h i 『佐賀県の歴史散歩』、144-146頁「鹿島城」
- ^ a b c d e f g h 『鹿島の歴史を歩こう』鹿島市教育委員会 生涯学習課、2018年3月、2-5頁 。
- ^ 「鹿島館跡」『平凡社「日本歴史地名大系」』 。コトバンクより2023年12月11日閲覧。
- ^ a b c d e 『鹿島市史』、44-47頁
- ^ a b c d e f g h 鹿島市の文化財、p.6「鹿島城赤門及び大手門」、2023年12月11日閲覧
- ^ 鹿島市史編纂委員会 編『鹿島市史 中巻』鹿島市、1974年、44-47頁。 NCID BN03959888。
- ^ 「松蔭神社」『平凡社「日本歴史地名大系」』 。コトバンクより2023年12月11日閲覧。
- ^ 鹿島市の文化財、p.20「武家屋敷棟門」、2023年12月11日閲覧
参考文献
編集- 鹿島市史編纂委員会 編『鹿島市史 中巻』鹿島市、1974年。 NCID BN03959888。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 41.佐賀県』角川書店、1982年。ISBN 978-4-04-622957-1。
- 佐賀県の歴史散歩編集委員会 編『佐賀県の歴史散歩』山川出版社、1995年、146-147頁。ISBN 4-634-29410-9。
- 鹿島市の文化財、鹿島市(鹿島市教育委員会・発行『鹿島市の文化財 ふるさと歴史探訪』より抄録)