原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日天保5年8月21日[1][2]) - 1894年明治27年)10月28日[1][3][2])は、幕末から明治時代の政治家武士貴族院多額納税者議員。通称は弥太右衛門[1]

原忠順

経歴

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肥前鹿島藩士[1]。藩命で江戸昌平黌に学ぶ[1][2]。藩主鍋島直彬の側近を務め藩論を尊王に纏めた[1]。鹿島藩大参事を経て、東京府に出仕する[3]1872年(明治5年)には直彬と共にアメリカに留学し『米政撮要』を著した[1][2]1874年(明治7年)内務省補となり、1879年(明治12年)直彬が沖縄県令に就任した際に沖縄県少書記官、同大書記官を歴任した[2][3]

1890年(明治23年)佐賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[4]から務めたが、在任中に死去した[3]

その他

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原忠順翁頌徳碑
 
原忠順屋敷の棟門

鹿島市の旭ヶ岡公園には、原を顕彰する石碑「原忠順翁頌徳碑」が建立されている[5]

鹿島城(鹿島藩陣屋)域内には、原忠順の居宅だった茅葺きの屋敷が保存されている。その門は「武家屋敷棟門」として鹿島市の重要文化財(指定文化財)に指定されている[6]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 上田ほか 2001, 1537頁.
  2. ^ a b c d e 『明治維新人名辞典』802頁。
  3. ^ a b c d 衆議院、参議院 編 1960, 210頁.
  4. ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
  5. ^ 佐賀県の歴史散歩編集委員会 1995, pp. 146–147.
  6. ^ 武家屋敷棟門」『鹿島市の文化財』鹿島市、20頁https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/298.html2023年12月11日閲覧 (鹿島市教育委員会・発行『鹿島市の文化財 ふるさと歴史探訪』より抄録)
  7. ^ 井上洋子. “地域を育てる~中野万亀「夜学校」が遺したもの~”. 佐賀県鹿島市生涯学習センターエイブル. 2023年11月4日閲覧。

参考文献

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  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034963 
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 佐賀県の歴史散歩編集委員会 編『佐賀県の歴史散歩』山川出版社、1995年4月。ISBN 4-634-29410-9 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496